DNA

@kirikizu0

第1話

アニムス——そう呼ばれる者たちがこの世には存在する。

誕生は人間と同時期といわれており、現在全人口の三割を占める彼らは、人間と同じ姿をしているが、人間が決して持ちえない動物の一部分を持ち、長い間人間に虐げられ、差別と偏見の対象となっていた。彼らが差別の対象となったのは何も見た目だけの話ではない。彼らしか持ちえない特異性が差別意識を助長したのだ。上手く人間に紛れ込み、正体を隠し暮らしていた者も中にはいたが、大抵の者たちは迫害や不当な扱いに苦しみ、また奴隷として売られる恐怖に日々怯えながらアニムスとして暮らしていた。きっと全ての人間が差別をし、迫害する悪い人間ではないはずだと信じて。……けれど、人間のアニムスに対する認識が変わることはついぞなかった。

しかし、二十年前に起きたとある事件をきっかけに、彼らにもようやく人権と権利が与えられ、人間と同等でいて彼らに合った法整備がなされ、人間と同じように生きていくことができるようになった。権利を得るために半ば強要されるものもあったが、それを不服に思いつつも人権には代えがたく不承不承に受け入れた。今となっては、それは当たり前のことであり、受け入れるアニムスも増えたが、それでもそれこそがアニムスの人権侵害と訴える者たちも絶えず、デモや政府との衝突も毎日どこかで起こっていた。

アニムスに人権が与えられたからといって、差別や偏見がなくなったわけではない。人間は変わらず彼らを差別し続け、虐げ、迫害し、同じ人間として扱うことはなく奴隷として扱う人間も少なくはなかった。


*

大陸の中央に位置する大都市「ノットフォールシティ」。世界一大きな都市に認定され、数多の企業ビルが乱立し、様々な店が軒を連ね、多種多様な人種が集うこの街は良くも悪くも寛容で寛大な街であり、底の知れない大穴のような全てを飲み込んでしまう街と言われている。街全体が常に活気に溢れ、来る者を拒まず去る者は追わない街は、人の出入りが激しく、常に人で溢れ返っていた。その一方で大都市ゆえ抜け穴も多く、犯罪者や違法就労者、移民、戸籍や身元のはっきりしない人々の巣窟にもなっており、犯罪の絶えない危険な街としても知られていた。毎日のようにサイレンが鳴り響き異常を知らせるが、異常に慣れてしまった人々はああ、またか、と思うだけで怯えることもなければ逃げ惑うこともない。仮にそれで死んでしまったとしても、人々は簡単に死を受け入れることができるだろう。それほどこの街では普通ではあり得ないことが日々起こり、異常が日常として受け入れられていたのだった。

ノットフォールシティの北側に位置するとあるビルの前に一人の青年が立っていた。

見るからに上級階級らしい青年は美しい金色の髪を三つ編みで纏め、動くたび長い三つ編みが尻尾のように右に左にと揺れる。シンプルだが決して庶民感覚とは合わないデザインと素材の服は、青年のスタイルにも嗜好にも合っており、青年をより気高く上品に見せていた。

青年は僅かに緊張を滲ませた面持ちで、周囲とは異なるクラッシックなレンガ造りの低いビルの、正面入口上部の看板——「ローズ事務所」という黒の印字を睨みつけていた。しかし、不意に視線を入口に向けた青年は、ビル内へと一歩踏み出す。

なかは驚くほど静かで人の話し声はおろか気配さえせず、冷房が利いているわけでもないのに外と比べると随分冷え込んでいる。それでも大理石の床に汚れは一つも見当たらず、天井の隅に蜘蛛の巣が張っていたり、埃が溜まっていることはなく、人の手で手入れされているのは明白だった。それもかなり丁寧に注意深く。やはり客商売と言うこともあり、顔である玄関は、清潔に綺麗にするよう心掛けているのだろう。

観葉植物の置かれた廊下を進み、ビルの正面同様「ローズ事務所」の文字が記されたガラス扉を開いた。

そこはやたらと広い板張りの部屋だった。入口の正面には受付か、デスクが置かれているが人はおらず、左手は仕切りで遮られていた。青年は臆することなくデスクに向かい、中央にちょこんと置かれた呼び鈴をならそうとした。

「依頼の方ですか?」

呼び鈴を押すより先に声をかけられ、青年は呼び鈴に手を伸ばしたままの姿勢でそちらに顔を向けると、アニムスの女性が青年を見つめていた。

ミディアムロングのブルーの髪に丸眼鏡をかけたつなぎ姿の女性の頭には、ウサギの耳が生えており、ぴょこぴょこと彼女の意思とは関係なく動いていた。

ノットフォールシティには、その寛大さそして自由さゆえに人間だけでなくアニムスも多く暮らしている。人間と同じように、もしくは人間より冷遇され悪い扱いを受けながら暮らしているため、別段珍しい存在ではなく、青年にとってもアニムスは特別驚くような存在ではなかった。にも関わらず反応が遅れてしまったのは、青年が思っていた人物とは異なる人物が現れたからだ。

問いかけに何の返事も返さない青年を不思議に思い、小首を傾げた女性が同じ言葉を青年に投げかけるよりも早く、青年はにこやかに答えた。

「いえ、先日こちらに履歴書を送らせていただいたリオ・ワイスと申しますが、ユーリケ・グレンさんはいらっしゃいますか?」

「履歴書?」

「はい。確かにこちらにお送りしたのですが」

全く心当たりがないのか、女性は怪訝そうに聞き返した。しかし、リオには間違いなくここに送った確信があり、届いていることも確認済みだったため、焦ることなく穏やかに言葉を返す。女性がただの従業員であることを知っていたリオは、きっと従業員には話が通っていないのだろうと察し、手短に説明すべきかそれとも目的の人物であるユーリケ・グレンの登場を待つべきかと考えていると、後方から人の気配がした。

「メル」

「なんだ、客か?」

「ユーリケさん」

メルと呼ばれた女性は、現れた二人のもとに小走りで近づくと、スーツ姿の男性にリオのことを手短に話す。パーマをあてたように四方八方に飛び跳ねるシルバーの髪にどこか愁いを帯びた瞳、快活とは程遠く覇気のないどこか気だるげな雰囲気を纏うその男性こそ、リオが待っていたユーリケという人物だった。リオは、現れたユーリケを観察するように確認するようにじっと見つめていたが、ユーリケがその視線に気づくことはなく、代わりに隣に立っていた青年のみがリオの様子を不審げに見ていた。

話を聞き終えたユーリケはどこか驚いたようにリオに視線を向けては、本当に来たの?と感嘆とも戸惑いとも取れるような言葉と共に苦笑を落とす。そして僅かに逡巡した末、とりあえず話を聞こうか、とリオに言った。



「改めてだが、ええっと……」

「リオ・ワイスです」

案内されたのは応接室——といっても、部屋として孤立しているわけではなく、事務所左手の仕切りの奥に配置されたソファーにユーリケと向かい合って座っているだけなので、当然他の二人も同じ空間にいるため話は丸聞こえである。特別秘匿にされなければいけない話をするわけでも、依頼人というわけでもないため、ユーリケ以外に話を聞かれても何の問題もなく、それどころか、今後共に働く同僚として自分のことは少しでも知っておいてもらった方がいいだろうとさえリオは思っていた。リオの中では、既に自分の採用は決まったことであり、断られる可能性など万が一にも考えてはいなかった。それほどリオには、採用される確固たる確信と自信があった。

向かいに座ったユーリケは、数日前事務所に届いたが未開封のままだった履歴書にざっと目を通す。二人の前に置かれたカップからは白い湯気が立ち上るが、どちらも手をつける気配はない。

読み終えたユーリケは、履歴書はそのままに視線だけをリオに向ける。

「リオ君。君はうちがどんな事務所か知って、履歴書を送ったのかな」

「はい。ローズ事務所——通称なんでも屋。報酬さえ支払えばどんな依頼も引き受ける、プロフェッショナル集団と聞いています」

「うん、どこで聞いたのかは知らないけど、ちょっと違うかな。まず、報酬さえ支払えばどんな依頼でも引き受けるわけではない。大前提として、一般企業だから犯罪やテロには加担しないし暴力沙汰もご法度だ。そして私たちはプロフェッショナル集団でもない。なんでもできるわけではないし、特別な技術を持っているわけでもないからね」

「なるほど、そうでしたか」

「履歴書を見せてもらったけど、はっきり言って君のような人材が働く場所ではないと私は思う」

「それは私が、ワイスカンパニーの子息だからですか?それとも名門大学出身だから?私のような人間を採用してはいけない決まりでも?」

「ワイスカンパニー!?ワイスカンパニーって、あの!?」

「しっ!静かにして、シロウ」

自身のデスクで聞き耳を立てていた青年——シロウは、驚いたように声を上げ、思わず立ち上がる。同じようにシロウの隣でウサギの耳をピンっと立て、話を聞いていたメルが、咎めるようにシロウの裾を引っ張るが、シロウはお構いなしだ。

ワイスカンパニー……その名に聞き覚えのある人は多いだろう。実際、たまらず声を上げたシロウ以外の二人もその名に聞き覚えがあり、あまりの知名度の高さに嘘や冗談と受け取ることができないほどだった。とはいえ、リオがこんなところで嘘をつく必要もなければ、冗談を言う必要もなく、また隠すようなことでも隠し通せることでもなかった。リオがワイスカンパニー社長の子息であることなどすぐにわかることであり、隠すことにメリットはないとリオは考えたのだ。むしろその方が採用に有利とさえ思っていた……もちろんそれは、大手企業や一般的な会社が相手であった場合の話だが。

ワイスカンパニーはノットフォールシティに本社を構える、大手グループ企業だ。元々は小さな商会だったが、軍需産業に参戦したことで政府に見初められ、政府お抱え企業となったことで一気に事業拡大。軍需産業から貿易、自動車、電機、重工業などワイスカンパニーのグループ会社は多岐に渡り、今や国のトップ企業といっても過言ではない。

そんなワイスカンパニー現社長の子息であるリオは、ローズ事務所のような一介の事務所に採用されずとも引く手あまたであり、それ以前に父親の会社に就職することは容易だった——いや、それこそが順当だったはずだ。本来であればリオはどこの企業にも就職せず、家業とも呼べるワイスカンパニーのグループ会社に就職し、それなりの地位で知見を広め、最終的には父親のもとで働くはずだった。なのに、リオはそんな好条件を蹴り、親の期待を裏切った上でローズ事務所にやってきた。家柄だけでなく、学歴も申し分ないリオはどこのどんな企業でもやっていけるほど、目に見えて優秀な人材だ。ローズ事務所でも滞りなく仕事をこなすだろうが、ユーリケが言った通りローズ事務所はリオのような人間が働く場所ではなかった。

真っ直ぐユーリケを見つめるリオの瞳が揺らぐことはなく、一心に真摯にユーリケに向き合っていた。しかし、そんなリオと同じくらいユーリケもリオに真摯に向き合っており、いつの間にか持っていた履歴書は力なく折れ曲がり、テーブルに垂れかかっている。

「いや、家柄も学歴も関係ない。そもそもの話、今は従業員を募集していないんだ。ご覧の通り小さな事務所だからね、流石に三人目を雇う余裕がないんだよ。固定給じゃなくて出来高制……というか、依頼費を折半しているから依頼がないと給料も出ない。だから二人もアルバイト掛け持ちしてるし……」

「でしたら無給で構いません」

「えっ……?い、いやいやそれは流石に!」

「幸いにも恵まれた家庭環境下にありますから、給料が支払われなくとも生活には困りませんのでご心配なさらず。ボランティアでもいいんですが、従業員として雇用していただきたいので」

「そう言われてもなあ」

うーん、と唸るようにユーリケは言葉を濁す。無給でも構わないから雇ってほしいと平気で言えるリオの思考がわからず、戸惑い迷っている反面、中々引き下がりそうにない頑固なリオの対応にも困っていて、どうしたものかとユーリケは半ば頭を抱える。

ユーリケはローズ事務所の全てを一任されており、何をどうしようとユーリケの自由だ。事務所の所長であるユーリケの決定に異論を唱える者はどこにもいない。だからこそ、ユーリケは悩んでいた。仮に、この場に事務所に名を冠したビルの所有者がいたとしても、ユーリケが一人で悩み、決めることに変わりはなかっただろう。無論相談相手がいないわけではない。部下であり従業員であるメルとシロウの意見を聞いた上で決断してもよかったが、聞いたところで二人は各々の感想を述べるに留まり、採用しようともやめておこうともはっきりとは言わないだろう。ひどく遠回しになら言うかもしれないが、二人にとってリオの印象が良いのか悪いのか、現段階ではユーリケにもわからない。加え、ユーリケ自身もこういった形での採用は初めてだった。メルもシロウも、ユーリケがスカウトし従業員になったため、このような、正式な形式に則った採用も、自ら従業員になりたいと志願されたのも初めてで、どうすればいいかわからないというのが正直なところだ。そんなユーリケに気づいているのかいないのか、リオは採用を熱望し、ここぞとばかりに自身を売り込んでくる。

如何に自分が有能な存在か、如何に自分には知恵とコネがあるのか、如何に給料が支払われなくても困らないか、如何に自分が採用されたら力を発揮し協力できるかを確信と自信に満ち溢れた声と言葉で熱弁する。それでも中々頷かないユーリケに痺れを切らしたリオは、ダメ押しとばかりに断言した。

「私を採用しなければ、絶対に後悔しますよ」

屈託もなければ迷いもない、目の前の事実をただ述べているだけのようなリオの様子に、ユーリケだけでなく話を聞いていた二人も思わず目を瞠り、顔を見合わせた。リオが虚勢を張っているわけでも、嘘をついているわけでもないことがわかったからこそ驚き、呆気に取られたのだ。

しかし、呆気に取られたのもつかの間。我慢しきれず笑い声を溢したのは、顔を見合わせていたメルとシロウだった。

「なんだよそれ、どこからそんな自信湧いてくんの?まじで意味わかんねえけど、面白いなアンタ」

「そこまでしてウチに入りたいなんておかしいけど、お金持ちのお坊ちゃまにしてはいい性格してるね。態度はでかいけど、真面目で真摯だし、私、嫌いじゃないよ」

シロウは豪快な笑みを浮かべながら言い、メルはうふふといまだ小さく笑みながらリオに言った。二人に気に入られたのは明白だったが、リオの眼中に二人の姿はなく変わらずユーリケを見つめるばかり。流石にそれにはユーリケも気づいていたが、だからといって本人に直接聞くのは憚られ、リオの言葉と部下二人の様子にうむ、と小さく頷く。

「そこまで言われると断り切れないな……しかし、念を押すようだけど、本当にウチに就職していいのかい。給与や待遇の問題じゃない、君の将来のためにも言っているんだ。そこまでしてウチで働きたいかい」

「ええ、こちらで働きたいです」

変わらない返答、揺るがない意志、迷いのない瞳を見てユーリケはわかりましたと力強く頷いては、リオの採用を決定した。採用の事実に僅かに安堵の色を見せたリオだが、表情を変えることはなく採用されて当たり前のような様子で、よろしくお願いしますと頭を下げた。

その後、諸々の手続きを済ませ簡単な説明を受けたリオは事務所を後にした。特殊な職場なので、毎日事務所に出勤する必要はなく、その時々手が空いている者が仕事を担当することになってはいるが、他の二人のように仕事を掛け持ちするつもりのないリオは、毎日事務所に顔を出すつもりだった。面接の時に言っていたように、幸いにも働かなくてもリオが困ることはない。そもそも事務所に在籍したのは何も仕事がほしいわけでもお金のためでもなく、それ以外の明確な理由がリオには存在した。その理由を話すつもりはないが隠すつもりもなく、時がくればもしくは気づかれた時話すつもりだがどちらでもない今は話すべきではない。第一、そんなことを突然話されて困るのは相手側だ。戸惑い混乱するだけならまだしも、妙な人間と思われ嫌煙されては元も子もない。それにあの場には他の人間もいた、聞かれて困る話ではないがあまり聞かれたいものでもない上、相手も同じかどうかはわからない。慌てずとも話せるタイミングがいつか必ずやってくる、リオはそのときをただ待っていればいい。なので今のところは現状に満足すべきだと、沈む夕日を背に浴びながらリオは帰路についた。

一方リオが帰った後、仕事が舞い込んでこなさそうということでメルとシロウの二人も事務所を後にした。一人、残ったユーリケは改めてリオの履歴書を眺める。怪しい個所や不審な点はどこにも見つからず、間違いなく嘘偽りのない履歴書にはこれまでリオが辿ってきた来歴が書き記されていた。生まれながらにして安寧と何不自由ない日々が約束され、恵まれた環境で育ったリオは事務所にいる誰よりも学歴がよく、育ちもいい。一般的な企業であればそれらは有利に働くが、あいにくローズ事務所は一般的な企業ではない。あくまでも個人事務所であり、普通の会社のような雇用形態でもなければ仕事も全く違う。名門大学を卒業したからといって事務所で働けるかというとそうではないし、必ずしも採用されるわけではない。それに加え、基本的に従業員は募集していなかった。今が特別というわけではなく、事務所開設以降一度たりともだ。理由は特殊な事務所であることはもちろん、依頼がこなければ無給状態が続くことや依頼内容が誰にでも務まることとは限らないからだ。何らかのスキルを持っていなければ、事務所では役に立たない。実際、ユーリケがスカウトした二人は、二人にしかできないスキルを持っており、所長であるユーリケもまた然り。学歴がいいだけでは何の役にも立たず、デスクワークしかできないのであれば事務所には不必要な人材だ。事務作業もあるにはあるが専用の人間を雇うほどの余裕はない。リオが事務所でやっていけるようなスキルを持っているのかは定かではないが、長続きしないだろうとユーリケは考えていた。だからこそ、採用したといってもいい。

リオがあそこまで採用を望んだ理由はわからない。ローズ事務所はそれほど有名な事務所ではなく、ノットフォールシティにはこのような事務所はいくらでもある。メディアに取り上げられるほど有名な事務所から、見るからに怪しげな事務所まであり、それぞれの事務所が特色や得意分野を持ち、一つの依頼に特化した事務所も少なくはない。そんな数多ある事務所の中からローズ事務所を探し出し、ピンポイントに採用を望むというのはユーリケにとって気がかり以外の何物でもなかった。過去に依頼人として関わりを持ったかもしれない可能性を考え、一通りの資料やこれまでの報告書を読み返したが、リオでもワイス名義でも依頼は請け負っておらず、依頼を介し事務所の存在を知った可能性はなさそうだ。

ユーリケには大きな気がかりがあった。気がかりというべきか懸念というべきか不安というべきかはわからないが、とにかくそういったものをユーリケは抱いていた。仮にその気がかりが理由でリオが採用を望んだとしたら、早々に事務所から追い出さなければならない……事務所から追い出す程度で済めばいいが、最悪の場合も念頭に置いておかねばならないだろう。誰に対してもここまで用心深くなるわけではないが、リオには用心深くならざるおえない懸念材料があった。

ユーリケはリオの履歴書を封筒に戻し、デスクの引き出しに仕舞い一つため息を落とす。

悪手であったとしても、最終的に採用を決めたのはユーリケ自身だ。いくらメルとシロウがリオのことを気に入ろうと、採用すべき優秀な人材だったとしても、決定権を持っているのはユーリケである。採用を断る理由は山ほどあり、適当な理由をつけて追い返すのは簡単だったが、自分の素性を堂々と明かした上で面接にきたリオの表情、そして言葉に思うところもあり、完全に断りきることができなかった。リオを採用したことで身を滅ぼすことになったとしても、自業自得と割り切れる程度には覚悟しており、ユーリケもまたリオに興味がないわけではなかった。むしろない方がおかしい、どこにでもあるような事務所の中からなぜローズ事務所を選び、就職を願ったのか。実家以外の一流企業でもやっていけるほどの学歴を持ち、キャリアを積み重ね高みを目指せるはずなのに、それを捨ててまで依頼が入らなければ給料が支払われないような限界ギリギリで活動している事務所を選んだ理由とは果たして何なのか……。メルとシロウのように気に入ったわけではないが、ユーリケの興味を引くには十分な存在だった。


「おはようございます。ユーリケさんは上階にお住まいなのですね」

事務所の営業時間は午前九時から午後七時まで。依頼が入り、人が出払っているときなどは営業時間内でも開いていないことが多い。少人数で事務所を回しているため仕方のないことだが、依頼内容によっては掛け持ちできない場合もあって、ユーリケも無理に開ける時間を増やそうとは考えていなかった。集客を狙ったことで、一つ一つの依頼が疎かになってしまうのは、不本意だ。人数が少ないからこそ、丁寧に実直に依頼と向き合うのがローズ事務所のやり方であり、ポリシーだった。

事務所の上階に住居を構えるユーリケは、営業時間三十分前には階下へ下り、事務所内の掃除をするのが日課だった。そのため今日も三十分前には支度を済ませ事務所に向かうと、既にリオの姿があり、ユーリケを見つけるや挨拶を述べる。明確な出勤時間を定めていないにも関わらず、こんなにも早い時間にきているとは想像すらしていなかったユーリケは僅かに反応が遅れてしまう。依頼がなければ仕事もない小さな事務所のため、メルとシロウは事務所とバイトを掛け持ちしており、バイトのない日や空いている時間帯にしか顔を見せず、時給制ではなく出来高制ゆえ事務所にいる必要がないのだ。依頼が入った時はユーリケが二人に連絡し、身が空き次第合流し尽力するといった形態を取っているので、リオのように営業時間前にくることはまずなかった。ユーリケとしても、各々の生活を重視した働き方を尊重しているので無理は言わず、手が空いていたら手伝ってほしい、給料は出すからといった感覚で二人を雇っていた。雇っていたと表現すべきか曖昧だが。

「あー……説明してなかったかな。うちの事務所は時給制でも日給制でもないから、依頼がない限り事務所にはこなくていいんだよ?」

「ええ、知っています」

「だったら……」

「こなくてもいいだけで、きてはいけない理由はありませんよね?」

「いや、うん、まあそうだけどね」

「そんなことより、事務所に入ってはいかがです?」

それもそうだと扉を開く。完全にリオのペースに飲まれている、あまりよくはないなと思うが新人に強く言えるほどユーリケは厳しい人間ではなく、それ以前にリオの言葉に間違いはないので、落ち度があるとすればユーリケの方だ。

明りをつけ、いつもの流れでデスクに荷物を置く。時間外でも依頼を受け付けられるよう、オンラインに窓口をおいておりPCを立ち上げ確認するが、これといって依頼は届いていなかった。いつも通りである。閉めていたブラインドを開くと室内に一気に光が差し込み、空気中を漂う埃がきらきらと輝く。収納から掃除道具を取り出し掃除に取り掛かろうとしたユーリケの手からリオは道具を奪い、掃除は自分がと言った。そんなことしなくてもいいと言いかけたユーリケの言葉に重ねるよう、新人なのでこれくらいさせてくださいとリオはにこやかに言いさっさと掃除を始める。

とてもリオから道具を奪い返す気にはなれず、手持ち無沙汰になったユーリケは郵便物を取りに行こうとしたが、それも既にリオによって回収されおりデスクの片隅に置かれていた。自分の行動を先読みされているような居心地の悪さを感じ、郵便物を必要なものと不必要なものに分け、チラシ類はゴミ箱に捨てる。日課を取られてしまい、後は依頼人を待つだけだが、くるかはわからず、また二人の従業員も今日はバイト日でくることはないだろう。そう考えるとユーリケはため息を落とさずにはいられなかった。リオがいつまで事務所にいるつもりなのかはわからないが、もし営業時間いっぱいいるつもりだとしたら……そこまで思い、考えるのをやめた。リオがやってきてまだ初日のため、決めつけたりはしないがなんとなく、リオは自分の苦手なタイプかもしれないとユーリケは思い始めていた。苦手と言えるほどリオのことを知らず、嫌いと断言できるほど関わっていないがそんな気がするのだ。

メルとシロウは最初からフレンドリーで気さくだった。事務所に籍を置くことになった経緯や状況は異なり、リオのように雇われたくて自分を事務所に売り込みにきたのではなく、ユーリケが見初めたことで、事務所で働くことになった。それまではユーリケが一人で事務所を回し依頼をこなしており、人を雇うことなど考えたこともなかった。今も変わらないが依頼が不定のため給与が支払えるかわからないこと、依頼によっては素人では全く力にならないことなど懸念材料が多く、ユーリケ一人であればなんとかなるかもしれないが、従業員を抱えるとなるとそうはいかなくなってくる。それでも二人を雇ったのは、二人のためでありユーリケのためだった。あるいは利害の一致というべきかもしれない。

そのため二人は、ユーリケを上司と仰ぎ親しんでいるわけではなく、年上の友人程度にしか思っていない。尊敬や敬意は持ち合わせているものの、ユーリケがそんなものを必要としていないことを理解しているからこそ、無駄な上下関係を築くことはなかった。お互いに満足しており、不足はないと感じている。

しかし、リオはそうではなかった。

「コーヒーをお持ちしました」

「廊下の電球がいくつか切れていたので交換しておきました」

「お口に合うかわかりませんが、よければどうぞ。……お昼を食べていないようなので」

「ネット周りの環境が随分古かったので、新しくしておきましたよ。——ご心配なく、私が勝手にやったことですから」

必要以上のことはしなくていいと言っても聞く耳を持たず、断ったところで自分がやりたいからやっているだけど言い返されてしまえば押し黙る他ない。加え、リオがやっていることは決して無駄なことではなかった。全てが事務所のため、ひいてはユーリケのためのことであり、ユーリケがずっと先延ばしにしていたことや忘れていたことだった。資金が足りず先延ばしにしていた、というべきかもしれない。共に働いている二人も気づかず、相談したこともないことに、リオは目ざとく気づいてはさっさと済ませてしまう。ユーリケの承諾も了承も得ずに、自分が勝手にやったという体で。なので、それらにかかった費用を決して支払わせず、受け取る気もないようだが当然そうはいかない。いくらリオが勝手にしたこととはいえ、事務所のことであり本来であれば所長であるユーリケがやらなければいけないこと。先にされたからといって、ありがとうで済むことでは決してない。かかった費用をリオに返さなければ、所長として面子が立たないというものだ。事務所として多少の蓄えはあるため、何としても費用を返したいところだが、リオは頑として受け取らず、知らぬ存ぜぬを貫き、頷くことはなかった。どうしたものかと頭を抱えるユーリケに、何となく事情を察したシロウは、身も蓋もないこと——腐るほど金を持ってるんだから好きにさせておけばいいと言い、メルに至っては真剣な表情で、後々お金をせびられないように一筆書いてもらった方がいいんじゃないですかと言った。ついでに私にPCを買うよう言っておいてもらえませんか、なんてことを言い出したので、それは自分で買いなさいときっぱり切り捨てる。何もメルは仕事で使うからほしいと言っているわけではない、個人的に使いたいからほしいと言っているのだ。以前はユーリケにも散々無心していたが、絶対に頷かないことを悟り、相手をリオに乗り換えたらしい。見た目に反し、メルは意外にも強欲でしつこく諦めを知らない。何があっても折れない強ハートの持ち主なのだ。

結局、費用問題は、ユーリケがリオに借用書を書くことで一旦は収まった。もちろん、リオは借用書を最初から無効にするつもりで了承したのだが。

タイプの異なる二人とリオが上手くやっていけるか不安に思っていたユーリケを他所に、リオは瞬く間に二人と打ち解け、随分と親睦を深めたようだった。リオの適応能力が高すぎるのか、それとも二人の好奇心が強いのかはわからないが、悪いことではないと若者たちの様子を一歩引いたところから見守っていた。

メルもシロウも根はいい子でとても優しい人間であることをユーリケは知っており、二人と少しでも関わればわかることだったが、人間は外見で判断しがちだ。

シロウは、一言でいうと「やんちゃそう」な見た目をしており、チンピラやヤンキーといった何でも暴力で解決しようとするタイプに見られがちで、女性や子供や老人からは嫌煙され、一目見ただけで目を逸らされやすいが実際は違う。事務所にいる誰よりも心根は優しくて情深く、面倒見のよさゆえ年下には好かれやすい。

一方メルは、特別な容姿をしているわけではないもののアニムスである。頭部から生えたウサギの耳は誰がどう見てもアニムスの象徴であり、特徴にも当てはまる。ただでさえアニムスというだけで差別や偏見の的にされやすいが、特に女性のアニムスはこの世界で一番の弱者として見下されていた。メル本人はアニムスであることに引け目を感じておらず、自分が弱者であるとは全く思っていないが、世間がそうとは限らない。まだ無関心でいるのならいいが、無意味に近づいてくる質の悪い人間もこの世には多い。メルにはそんな人間から自衛できる程度の力や技術が備わっているが、必ずしも太刀打ちできる相手とは限らないのだ。

だからこそ、人間であり権力者の息子であるリオとメルが親しくなっておくのは大切とユーリケは考えていた。雇用主や上司としてだけでなく、同じアニムスとしても決して損はないと確信している。

リオが事務所で働くようになり、一週間が経過したある昼下がり。壮年の夫婦が事務所にやってきた。

どちらも四十代後半くらいだろうか、身なりはいいが金持ちというわけではないようで、靴は丁寧に手入れされているものの履き古され、スーツは型落ちしたデザインのものだった。背中辺りで不安げに揺れるライオンの尻尾に反し、アニムスの男性は神妙な面持ちで、女性はどこか困ったような表情で、向かいに座るユーリケを見つめる。

メルが依頼人の前にコーヒーを置き、様子を窺っているシロウとリオのいるデスクに下がっていく。

「どういったご依頼でしょう」

コーヒーに手をつける様子のない二人に、ユーリケは早速切り込む。二人が仕事を依頼するためにやってきたことは明白であり、まどろっこしく遠回りする必要もない。

「こちらでは報酬さえ支払えば、どんな依頼でも受けていただけると聞いたのですが」

「例外はありますが大抵は引き受けさせていただいております」

数多ある事務所の中で、ローズ事務所を選んだ理由がそれに限ることをユーリケはよく理解していた。むしろ、専門的な事務所が数多く存在する中、ローズ事務所を選ぶ理由などそれ以外ないと断言できるほどに、ユーリケはローズ事務所の方針——報酬さえ支払えばどんな依頼でも受けることを特徴と、強みと捉えていた。

ユーリケの言葉に、男性は膝に置いていた拳を固く握り、女性は不安げに瞳を揺らした。

「——娘を、連れ戻してほしいんです。ブラック・テイルから」

「ブラック・テイル」という単語にメルは僅かに耳を揺らし、シロウは眉間に皺を寄せた。リオは反射的にユーリケに視線を移したが、依頼人と向き合っているため表情を窺い知ることはできない。

ブラック・テイル——アニムス過激派組織の一つであり、二十年前に「聖戦」を起こした「レイシズ」の後身組織といわれている。アニムスのみで構成されたブラック・テイルは、「人間よりアニムスの方が優れているにも関わらず、なぜ我々が差別され迫害されなければいけないのか」という思想を持ったアニムスの集まりで、デモや布教活動は行っているものの目立った活動はしておらず、テロや犯罪とは無縁を装っているが実際のところはわからない。というより、かなりグレーに近く、各地で起きている反アニムス思想を持った人間が襲撃される事件や事故に関わっていると噂されているが、証拠がないため警察や政府も動けずにいた。ブラック・テイルに所属するアニムス全員が過激な思想を持っているわけではないが、それでもみんな人間に不満を持ち、現在のアニムスの扱いを不当に思っている者たちであることに変わりはない。想いの強さは違えど、今の世の中の仕組みを、自分たちの扱いを不満に思い、自分たちのやっていることは正しいと思っている。彼らの言っていることは正しく、大半のアニムスが抱く感情だが、だからといってなんでもやっていいわけではない。無関係な人間を傷つけたり、暴力に訴えるなんてあってはならないことだ。だからこそ、同じアニムスでもブラック・テイルを厭うアニムスは少なくなく、正しいと思わない者たちもいる。しかしブラック・テイルが止まることはない。なぜなら自分たちを正義と信じて疑わないからだ。

「聖戦」により、アニムスは間違いなく人権と権利を手に入れた。いくら言葉や態度で訴えても意味がないと悟った「レイシズ」が起こした大規模テロ……数千人という死傷者を出し、被害者の大半がテロに巻き込まれた一般市民で、人間だけでなく同族であるアニムスにも被害が出たが、「聖戦」をきっかけにアニムスの人権に関する議論が進み、法整備がなされ、結果的にアニムスは暴力に訴えたことで自分たちの権利を獲得してしまった。

どんな理由があろうと、暴力に屈してはいけなかった。何があっても、暴力が勝ってはいけなかった。それなのに人間は、政府は、暴力に屈し、従ってしまった。当時の政権は決して暴力に屈したわけではないと反論し、タイミングと時期が重なっただけと言葉を繰り返していたが、とてもそうとは思えなかった。それに、仮にそうだとしたら、あまりにもタイミングが良すぎる。まるで、最初から「聖戦」が起きることを知っていたかのようなタイミングではないか。知っていたのなら、なぜ、未然に防がなかったのかという疑問が生じるが、政府が認めていない以上、いくら考えても仕方がない。納得がいかない人間は山ほどいて、せっかく人間と同じ権利を得たにも関わらず「聖戦」をきっかけに以前にも増してアニムスは恐れられ、差別する人間が増えたのは想像に難くないことだった。

「詳しいお話を聞かせていただけますか」

「娘は私と同じアニムスで、一か月前に家を出ていったきり帰ってこず、居場所を探していたところ、ブラック・テイルの集会場で娘を見つけたんです。無理矢理連れ戻そうとしたら、信者たちにとめられてしまい……それから娘とは会えていません」

「娘さんのお写真はありますか」

「ええ、はい。これです」

男性は懐から取り出した端末を指先で操作してはユーリケに見せた。お借りしますねと受け取った端末には、真新しい学生服を着た少女が照れくさそうに母親の横に立っている写真が映し出されており、少女の頭には父親と同じ毛並みの耳が生えている。撮られた日付は一年前なので、今は高校二年生だろうと推測する。気難しそうに見えるが、快活で素直そうな子という印象を受けた。

端末を男性に返しながら、

「失礼ですが、抑制ワクチンは?」

「娘は赤ちゃんの時に。証明書もあります」

女性は素早くバックから端末を取り出したが、大丈夫ですとユーリケは遮る。

抑制ワクチンとは、アニムスに人権や法律が適用された際、それ以降に生まれたアニムスに義務化され、それ以前に生まれたアニムスにも推奨されているワクチンのことだ。抑制ワクチンにはアニムスしか持っていない特殊な細胞を衰退、消滅させる効果があり、接種したアニムスは「ビースト化」できなくなる。ビースト化できなくても生活には何の問題もなく弊害もないどころか、アニムスと人間双方の安全が確保されることから接種するアニムスは多いが、人権侵害と訴える者も少なくはない。しかし、接種していなければ立ち入れない場所や利用できない施設、適応されない制度があり、接種していないことで新たな差別が生まれ、迫害されるアニムスもいたが、それを承知の上で彼らは接種しないことを選んだ。接種した方がメリットは多いと感じるかもしれないが、「ビースト化」を奪われることに不満を感じ、危機感を抱く者も多く、だからか義務化以前のアニムスのワクチン接種率は60%程度にしか到達していない。

「ビースト化」が一体どのようなものなのか、実際に目の当たりにしたことのある人間はそれほど多くはないだろう。しかし、二十年前に起きた「聖戦」により、どんなものなのかは間接的に理解しており、危険という共通認識を人間たちは持っていた。アニムスたちもそれを危険と理解しながらも、自分の身は自分で守らなければいけないという認識が残っており、現在の法に不安があることから手放せない者たちもいた。ビースト化したからといって、アニムスが無敵になるわけでも、驚くほど凄まじい強さを手に入れられるわけでもない。

ビースト化するということは、原種により近くなることである。獣人であるアニムスの原種が人間ではなく動物であることは明白であり、ビースト化するとより人間から離れるということだがノーリスクでなれるわけではなかった。たとえ生まれながらに持っているものだとしても、リスクを背負わずに力を得られるわけがない。——ビースト化したアニムスは理性と心を失い制御もなく、本能の赴くままに人間を襲う獣と化す。本人の意思で発動することが可能だが、発動した後のことは本人が干渉することはできない。何事にも長所があれば短所もあるが、ビースト化することでいいことが起こるわけではない。何せ理性を失うのだ、自分の意思で発動させたとしても、それでは何も守れないし何とも戦えない。諸刃の剣とさえいうことのできないアニムスのもう一つの特性……認識や理解は進んでいるものの、どれほど恐ろしいものか知っている者は多くはなかった。力を持つアニムスたち本人でさえも。

「娘さんがブラック・テイルのメンバーであることは間違いないんですね?」

「何かの間違いと思いたいのですが……仮面を持っていたので、間違いないかと」

「元から反人間思想を持っていましたか?もしくはブラック・テイルに知り合いがいたとか」

「知り合いがいたかどうかはわかりませんが、反人間思想を持っていたとは思いません。少なくとも家を出るまでは。家族でそういった話をしたことはありませんし、妻は人間ですから……」

「奥様、親子関係はどうでしたか」

「悪くはなかったと思います。ただ年頃の娘なので、会話や関わりは以前と比べて減ったとは……。でも、娘から私が人間であることに対して何か言われたり、自分がアニムスであることについて話をしたこともありません」

「学校での様子や人間関係は」

「あまり聞いたことはありませんが……変わった様子はなかったと。比較的楽しそうに通っていましたし、仲のいい友達もいたようなので」

「その友達の写真はありませんか」

「お友達の?どうだったかしら……」

女性は端末をスクロールしながら、お友達お友達……と呟いていたが、目ぼしいものが見つかったのか、画面を見せた。拝見しますと受け取ったそこには、制服姿の少女が四人写っており、ユーリケは娘の横でポーズを取っている少女に目を留める。その少女も娘同様、アニムスだった。——きっとその友人にそそのかされ、ブラック・テイルに所属することになったんだろうとユーリケは推測する。何かしら証拠があるわけでも、全てのアニムスがブラック・テイルの考えを支持しているわけでもないが、ユーリケはその推測に確固たる確信を抱いていた。

「そのご依頼、お受けします」

「ありがとうございます」

「少々手荒なことになってもよろしいでしょか」

「はい、覚悟はできています」

男性の言葉にユーリケは力強く頷き、左手を僅かに上げた。依頼が受託され、遂行されるときの合図だ。合図を受け、控えていた三人が一斉に動き出す。メルは真新しいPCの前に鎮座しキーボードを叩き、シロウはハンガーラックにかけていた上着を取ると、足早に事務所を出ていった。同じように動き出したリオだったが、すべきことがわかっている二人とは異なり、今回が初めての仕事だったため、勝手に動かず指示を待つべきと判断し元の位置に戻る。

動き出した二人を他所に、ユーリケは依頼人との話を進める。

基本的に報酬は依頼人が決め、依頼が達成された際支払うことになっているため、ここで金銭のやり取りが行われることはない。

依頼人がどの程度の報酬を提示したのかはユーリケしかわからないが、滞りなく契約が交わされたので妥当な金額だったのだろう。

後のことは我々にお任せくださいと依頼人を見送ったユーリケにリオは駆け寄り、自分は何をすればいいかと問う。

「そうだな……とりあえず待機、かな」

「待機……それはつまり、お前に任せられる仕事はないからじっとしていろ。と、いうことですか?」

「いや、違うよ?何言ってるの?」

真面目な表情でそんなことを言うリオを、ユーリケは怪訝そうに見やってはもう一度、何言ってるの?と繰り返した。

「依頼にもよるけど、基本的にメルとシロウが先に情報収集をする。その後集めた資料を基に動く、といった感じだよ。だから二人から報告が上がるまで、私は待機。リオ君に何ができるかわからないから、とりあえず今回は私と動いてもらうことになるけどいいかな」

「なるほど、わかりました。問題ありません」

「リオ君は何か得意なこととかあるかな。面接の時はあまりそういった話は、できなかったからね。ちなみにメルはネットを介した情報収集が得意だね。あと力業も」

「力業?物理的な意味でですか、それとも何かの比喩?」

「物理的に、かな。シロウは足で稼いだり、聞き込みによる情報収集、それから手荒いことの手伝いかな。得意と言っていいのかはわからないけど」

「得意なことと言えるかはわかりませんが生まれが生まれなので、そういった界隈には顔が利きます。会社のものを拝借しても問題ありませんし、金銭的に協力することも可能かと」

「まあ——それも強みだね」

「護身も心得ているので、二人のようにお力になれるかと。……やはり、そういうことになるんですか」

「依頼によるけど、こんな事務所を頼りにくる人って大抵見放された人や何らかの事情で警察を頼れない人なんだよね。今日の依頼人もそうだ。警察にはいけない事情があるんだと思う。でないと、娘の居場所がわかっているのに警察にいかないなんておかしいでしょ。……いっても意味がないことを知っているんだよ。確固たる証拠がなければ警察は動かない。こと、アニムス過激派組織に乗り込むなんて持っての他だ。娘の居場所がわかっている以上行方不明とはいえないし、組織に加担していたとしても、それはあくまでも個人の自由と判断される。今のところブラック・テイルはただの宗教団体。犯罪やテロを画策し実行した証拠がないからね」

言葉を選びながら慎重に話すユーリケに、リオはそういうものかと理解する。ユーリケやメルだけでなく、アニムス全員にとってブラック・テイルという組織は、アニムス過激派思想というものは、極めて難しい問題であり、人間にとっても無視できない社会問題だ。人間以上にアニムスはその問題を他人事にはできず、他人事にしたところでアニムスというだけで疑いの目を向けられる場合もある。だからこそ、ユーリケは慎重に言葉を選んだ。人間であり権力者の子息であるリオにアニムスの問題を理解してもらうことは難しいと思ったからだ。

反人間思想を持つアニムスがいるように、反アニムス思想を持つ人間がいる。特に権力者や資産家の大半が反アニムス思想を持っており、古来よりアニムスを奴隷として扱ってきた人間たちだ。同じ人間ではなくただの労働力、もしくは動物として扱っているため、人権や権利は必要ないと今も思っている。人間が一番偉いと信じているため、アニムスが人間と同じ扱いを受けていることが許せないのだ。ブラック・テイルのように過激な行動に出てはいないが、性懲りもなく非人道的な扱いを続け奴隷として働かせ続けている。そういった人間は上との繋がりも深いため、犯罪がまかり通ってしまうのだ。

リオがどんな教育を受けて育ったのかユーリケは知らないが、教育の過程で刷り込みは間違いなく行われていたはずだ。アニムスは人間ではなく動物なので、奴隷として扱ってもいいとそれが正しい接し方なのだと教え込まれ、何の違和感も疑問も抱くことなく受け入れていたに違いない。

反アニムス思想を持つ権力者を何人も見てきたユーリケは、リオも同じだろうと思っていた。実際、リオの父親でありワイスカンパニーの現社長は反アニムス運動家として有名だ。メディアにもたびたび登場してはアニムスがいかに危険で、人権に値しないかをスピーチしており、信奉者も多く、内輪でそういった集いを開いていることもユーリケは知っている。リオが次男であったとしても子息である以上、そういった集まりには顔を出していたに違いない。親にこうと教えられれば、子供はそれが正しいと認識しすんなりと受け入れてしまう。なぜなら親が間違えることはないのだから、こと圧倒的な力を持った父親ならなおさらである。

「ブラック・テイル……ユーリケさんはどう見ているんですか」

「どう見ている、とは」

「聖戦以降大人しくはなりました。レイシズは事実上解散となり、ブラック・テイルになってからは、デモは行っているものの、テロといった実力行使には出ていない。しかし、レイシズのときと同様アニムス過激派組織であり続けていますし、リーダーはカリスマ的存在で信者以外のアニムスにも信頼されていると耳にしたことがあります。聖戦から二十年経ちましたが、レイシズの炎は間違いなく受け継がれていると思いませんか」

「……」

「でなければブラック・テイルを組織した意味がない」

「——今後、何か起こるとでも?」

「一般論ですよ。私はアニムスではないので、彼らの人間や世界に対する憎しみを計り知ることはできません。一定の理解や同情を示すのもお門違いでしょう。しかし人間の私から見てもわかるほど、今のブラック・テイルの行動は理解しがたい……が、それが何かの準備期間だとしたら——納得できます」

リオの言わんとしていることはわかった。聖戦以降動きを見せないブラック・テイルに、不安を感じていない者はいないだろう。それは人間もアニムスも同じだ。不安に感じているからこそ、手遅れになる前にブラック・テイルにメスを入れ、徹底して組織を壊滅に導かなければいけないと、リオは思っている。しかし、それができていれば、そもそもブラック・テイルという組織が誕生することはなく、レイシズが瓦解した時点で跡形もなく消え去っていなければいけない。それができていないからこそ、今もなおブラック・テイルは活動を続けられているのだ。

ブラック・テイルについては、ユーリケも同じ意見だったが、リオが意図するところがわからなかった。純粋にブラック・テイルという組織の危険性を諭しているのか、それとも暗に近づかない方がいい、自分は関わりたくないと言っているのだろうか。そうだとしても、依頼を引き受けた以上今更キャンセルすることはできないし、それ以前にユーリケは既に何度もブラック・テイルの企てを阻止し、何人ものアニムスの脱退に成功している。ブラック・テイルが事務所の存在に気づいているか定かではないが、今のところユーリケには気づいていない。だから今回の依頼を引き受けたわけではないが、経験したことのない依頼を受けるより、経験したことのある依頼を受ける方が自然と成功率は上がる。引き受けた以上失敗は許されないが。

「もし、嫌なら事務所に残っていてもいいんだよ。代わりにシロウを連れて行くし、場合によっては一人でも問題ない。私と行動するとなると、ブラック・テイルの本部、もしくは支部に潜入することになるからね。無理強いすることでもないし」

「は?一緒にいきますけど?」

「え?なん……で、ちょっとキレ気味なの?」

「別にキレてませんが?」

あからさまに不機嫌そうな表情で早口に言うリオに、ユーリケは戸惑った声を溢す。しかし、戸惑うユーリケを他所にコーヒーでも入れますねと言うと、リオはその場を離れていった。扱いの難しい新人だなあ、とユーリケは頭を掻く。ブラック・テイルと関わるのが嫌であんなことを言ったと思ったがどうやら見当違いだったらしい。

リオは決してブラック・テイルと関わるのが嫌だったわけではない。ユーリケからとあることを聞き出そうと話を振っただけだが、結果要らない誤解を招いてしまった。事を急ぎ過ぎてはいけない。何よりもまずは信頼を勝ち取らなければいけないと理解しつつも、それはリオにとって、そう簡単にできることではなかった。


メルとシロウが情報を集めた結果、依頼人の娘はノットフォールシティ内のブラック・テイルの支部の一つである、とある施設付近でたびたび姿が目撃されており、確認した結果間違いないことがわかり、ユーリケは早々にその施設に向かった。無論、リオがついてきたのは言うまでもない。

巨大なビルが立ち並び、商業施設や住宅、マンションなどが乱立し、人が多い中央地区とは異なり、比較的静かで閑散とした南地区にその施設はあった。港が近いことから工場や倉庫が多く休日や平日の夜は特に人通りが少なく、時折大型トラックが煙を立てながら走り去っていくくらいで、人とすれ違うこともない。人の目を盗んで悪いことを企てるには丁度いい場所だと、施設から少し離れた場所に身を潜めながらユーリケは思う。

危険な組織と理解しながらも全く捜査の手が入らないのは、ブラック・テイルが狡猾で用心深いからに他ならない。人間を毛嫌いしている以上、人間でだけ構築された政府とブラック・テイルが繋がりを持つことは不可能と言っても過言ではない。もちろん、人間の中にブラック・テイルの思想に賛同する者がいないとは限らないがそれでも可能性としては極めて低かった。人間の反アニムス団体や組織が一切明るみに出ず横暴な活動を続けられているのは、一概に横の繋がり縦の繋がりによるものだが、ブラック・テイルにはそれがない。ないにも関わらず、ここまで政府や警察が介入できないのは、ブラック・テイルが何においても徹底しているからに他ならなかった。信じられるものが自分たちの他に何もないからこそ、ここまで徹底して外部からの侵入を拒めるのだ。

あらかじめ監視カメラの位置や、出入り口は確認しており、組織の支部とはいえ末端の施設のようで警備を立てているわけでもないから、今回は比較的簡単に終わらせられるだろう。ユーリケは以前手に入れたブラック・テイルの証である仮面をつけ振り返ると、同じ仮面に精巧に作られた猫の耳をつけたリオが僅かに緊張を滲ませた面持ちで立っていた。アニムスの組織のため、本来であればユーリケとメルで向かうべき場所だったがリオが譲らず、こういう形での潜入となった。アニムスと人間の違いはビースト化を除けば動物の一部を持っているかいないかのため、人間がアニムスになりすますことは可能だ。もちろん動物の部分は作り物のため、どれだけ精巧に作られていたとしても動くことはない。それに気づかれれば自ずと人間であることがバレてしまうが、施設に侵入しターゲットを回収する間くらいなら気づかれることはないだろう。至近距離でアニムスと対峙しない限りは。

ユーリケがリオに合図を出し、それにリオが頷いたのを確認するとユーリケは封鎖された門を飛び越え、リオも遅れて施設内に足を踏み入れる。

集会場の他に、行くあてのない信者や何らかの理由で家に帰れない信者のための宿泊施設が備わっているここには、比較的若い信者が多く半数が未成年のようだった。若い信者をわざと一か所に集めているようでもあるが、理由を考えたところで部外者であるユーリケにはわからず、どんな理由にせよ、ろくなことではないだろう

ここにいることはわかったがどこにいるかまではわからず、家に帰っていないのであれば宿泊施設に身を寄せている可能性が高いと、メインではなく後から作られたであろう四階建ての方に向かう。いつでも出入りできるよう鍵はかかっておらず、扉は難なく開いた。建物内に足を踏み入れようとしたリオを寸前のところで引き留めたユーリケは、怪訝な表情のリオに指差す。先では監視カメラが赤く点滅しており、危うく姿を捉えられるところだったことに気づき、リオは一歩引いた。自分が先に行くというユーリケのジェスチャーに頷き、リオは大人しくユーリケの後をついていく。

カメラの死角、非常階段まで無事辿り着いた二人は静かに息を吐き、一瞬胸を撫で下ろすがまだ依頼が終わったわけではない。

「ここからは手分けしていこう。私は上から下に向かう」

「でしたら俺は上から下に」

「対象の顔は憶えているかい」

「もちろんです」

「よろしい。本当は一緒に動きたかったんだけど思ったより施設が広い」

「問題ありません。人探しくらいできますし、最初の仕事がキツい方が、印象にも残りますしいい経験になります」

「そうだといいけど」

苦笑を浮かべたユーリケは、対象を見つけ次第施設を出るように。と言ってはオオカミの尻尾を揺らしながら非常階段を勢いよく駆け上がっていった。

残されたリオは一つ、深呼吸を落とすと素早く行動に出た。

四階建てで、中央に設置されたエレベーターの左に四つ、右に三つ部屋がありと非常階段を備えた建物の部屋を一つずつしらみつぶししていくのはかなり時間がかかる。ここにいることはわかっているが、何階のどの部屋で生活しているかまでの情報は流石に得られず、一つ一つ確認していく他ない。既に依頼人の娘の特徴を憶えていたリオは、早速一階の部屋を見て回る。入口とは異なり、廊下には監視カメラはなく身動きは取りやすかったが、目立つ行動は避けるべきだろうと中腰の状態で、扉にはめ込まれた窓から中の様子を確認していく。しかし、一階は寝泊まりする部屋ではなく、多目的室や簡易的な食堂が集まった共同スペースのようで、大方確認したリオは二階に上がる。

二階には人……若いアニムスたちが一部屋に二人から五人程度で生活しているらしかった。生活している、といっても家具の類は一切なく、簡易的な寝具を床に直接置き寝ているようで、決していい環境とはいえない。それでもここにいるアニムスたちは家にいることより、ここにいることを選んだ。自ら、または友人や知人に誘われて。

全てのアニムスがブラック・テイルの思想に賛同しているわけではない。それでも正当な権利を求めることや、差別や不当な扱いを嘆くことはあるはずだ。ブラック・テイルの言っていることが必ずしも間違いというわけではない。過激なだけで、根本的に世に訴えかけていることは、今も昔もアニムスの権利と自由そして差別についてだ。酷い境遇や劣悪な環境に置かれ、心身共に疲れ果てていたとしたら、誰だってブラック・テイルのような組織に縋りたくもなるだろう。だからこそ、こういう組織は厄介で、政府も中々手出しできないのだ。

男女別に分かれた部屋を探し一番左端の部屋で、リオは依頼人の娘を見つけた。娘はリオがくることを最初から知っていたかのように、部屋の片隅で一人座っており、扉外のリオを認めると静かに部屋から出てきた。

「ミア・ノックスさんですね」

「……はい。探偵事務所の方ですか」

「——ええ。なぜそれを?」

「数日前、母から連絡が入っていたので……」

「そうですか。であれば、なぜ私がきたのかもご存知でしょう?」

「……」

「あなたをご両親のもとへ連れ戻します」

少女は静かに頷いた——そのとき、突然建物に明りが点り、施設内にけたたましいサイレンが鳴り響いた。呆気に取られたのもつかの間、状況の異常さに気づいたリオは少女の腕を掴み、階段に向かう。

何が起こっているのか、誰によって引き起こされた事態なのかはわからなかったが考えている暇はない。とにかく今は、信者たちが動き出す前に少女を連れてこの場を離れなければ。幸いにも少女は、リオたちがくることをあらかじめ知っていたからか協力的で、説得などの必要はなさそうだ。少女がどういった経緯でブラック・テイルに加担することになったのかはわからないが、大方自分の過ちに気づき本人も組織を抜けたいと思っていたのだろう。だからリオを拒まなかった。もしくはこんなにも、大事になると思っていなかったのかもしれないし、思春期によくある、親の愛情を確かめたかっただけかもしれない。それにしては些かやりすぎだとは思うが。

騒ぎを聞きつけた信者たちが部屋から出てこようとしたが、何かあった時のことを考え、リオはあらかじめ確認した部屋の扉に細工を施し、扉が開かないようにしていたため廊下が人でごった返すこともなければ、少女に気づき後を追いかけられることもなかった。

リオが階段を駆け下りるより早く、バタバタと勢いよく階下に下りてくる気配がして足を止めると、上階から数段飛ばし——半ば飛び降りるような形でユーリケが下りてくる。リオと少女を認めると、一瞬態勢を崩し、階段から落ちるような姿勢になったため、リオは咄嗟に受け止めようと手を伸ばした。しかし、ユーリケは攻撃を避けるために姿勢を崩しただけであり、決して足元を掬われたわけでも気を取られ踏み外したわけでもなかったため、難なく踊り場に着地する。妙な態勢で腕を伸ばしていたリオは、着地したユーリケを横目に何事もなかったようにゆっくりと態勢を元に戻した。

「よかった、合流できて。君がミアさんだね」

「はい」

「無事で何よりだ。少々面倒なことになってしまってね、急いでここから離れようか」

「わかりました」

「ちなみに面倒なこととは?」

「見ればわかるでしょ」

「具体的な説明を求めます」

しつこく尋ねるリオに一瞬ひどく面倒くさそうな表情を浮かべたユーリケが口を開きかけたが、それよりも先にユーリケの後を追ってきたであろうアニムスの姿を見つけ、リオは少女を連れ立って先に、ユーリケはアニムスたちの足止めをしながら後に続く。

ただの宿泊施設と甘く見ていたが、ここはブラック・テイルの支部。武装した信者や武闘派の信者がいてもおかしくはない。もちろんそれを忘れていたわけではないが、こんな末端の支部、しかも未成年ばかり集めた支部にそれほど人員は割かないだろうと予想していたのだ。

少女を取り戻すためか、侵入者を逃がさないためか、もしくはその両方か。追いかけてくるブラック・テイルの信者たちは一般人であるにも関わらずユーリケに攻撃を仕掛ける。一般人ではあるが、探偵事務所の所長であり、これまで様々な依頼を達成してきたユーリケは常人ならざる体幹、そして経験から攻撃を避け往なしつつも反撃することはない。今回の依頼はあくまでも少女の組織脱退である。何よりも優先させるべきは少女を無事両親のもとへ連れて帰ることであり、信者との戦闘でもなければ支部の壊滅でもない。そのため、少女を危険に晒す可能性のある戦闘は避けるべきだ。

「ユーリケさん!正面が塞がれています」

「警報が鳴ると自動でロックされるのか」

一階まで下り扉に手をかけたが、警報が鳴ったことで警備システムが作動したのだろう。扉は開かず、扉の向こうではまだユーリケたちに気づいていない信者たちが何事だろうと騒ぎながら本部に向かっていく。前方には開かない扉、後方からはユーリケたちを追いかけてくる信者たち。進むも地獄、戻るも地獄という切迫した状況に奥歯を嚙み締めるリオとは異なり、危機的な状況であるにも関わらずさして慌てた様子もないユーリケは、ポケットから端末を取り出しては、素早く文字を打ち込む。

「どうしましょう?扉、壊しますか。壊すしかありませんよね」

「そんなことしたら更に騒ぎが大きくなるだけだよ。というか、意外と大胆なこと言うね。最終手段じゃない?それ」

「最終手段レベルでしょう、今は」

「そこまでの危機的状況じゃないよ」

「……今までどんな依頼を受けてきたんです?」

「それは企業秘密だから言えないかな。守秘義務もあるし——お、きたきた」

そんな言葉と共に扉に手をかけたユーリケに不審な眼差しを向けたリオと少女だったが、突然ユーリケがカウントを始めた。3から始まり、2、1とカウントが終わった刹那、隣の本部から耳を劈くような爆発音が聞こえた。自然と音の方に顔を向けた二人とは異なり、即座に扉を開いたユーリケは二人を施設から連れ出し、同じように何事だと本部を見つめ呆気に取られる信者たちの隙間を縫い、門を越える。

無事、支部を抜け出した三人はユーリケの先導のもと、路肩に停まっていた車に乗り込んだ。誰のものかもわからない車に乗り込むことに多少抵抗のあったリオだが、ユーリケが促すのだ、乗らないわけにはいかない。少女を後部座席に押し込むと、遅れてリオも乗り込む。

「ありがとう。助かったよ、メル」

運転席に座っていたのは、普段とは異なり全身黒で埋め尽くし、頭には耳を隠すためニット帽を被ったメルだった。

リオがユーリケから作戦の詳細を聞いた際、メルの話は出てきておらず、てっきりユーリケとリオの二人だけで少女の救出に向かうものと思っていた。メルとシロウは情報収集という仕事を既に済ませており、得意なことをそれぞれが分担し依頼をこなしていくものだと。しかし、そうではなかったらしい。少人数だからこそ、それぞれが様々な役割を分担し一丸となって依頼達成を目指す——それこそ、ローズ事務所の強みでありやり方だった。

四人を乗せた車は騒々しいブラック・テイルの支部を背に、夜の闇に紛れ走り去っていった。



「はい、みんなお疲れ様。今回の報酬だよ」

後日。少女を両親のもとへ送り届け、報酬を全額受け取ったユーリケは早速三人に報酬を配った。現代には珍しく、給与を手渡しするローズ事務所では依頼達成後すぐ、給与が支払われることになっている。メル、シロウ、リオの順番に茶封筒が渡され、各々が嬉々としてそれを受け取る中、リオだけはどこか不服そうな表情を浮かべていた。

「お聞きしてもよろしいでしょうか」

「給料の少なさに驚いたかな?」

「いえ、そんなどうでもいいことではありません」

「おいおい、どうでもいいとか言うなよ。大事だぞ、金は。生まれながらに金持ちのお前にはわからないかもしんねえけどよお」

「あの爆発音が意図的なものだったことはわかりました。爆発音というか、ただの大きな音ですよねあれは。炎はもちろん煙も上がっていませんでしたし、爆発に伴う振動もなかった。私が不思議なのは、なぜあのタイミングで扉が開いたのか、です。扉は間違いなく施錠されていたのに、あなたはいともたやすく開いた。ピッキングしていた様子も合鍵を使った様子もなかったのに」

「ああ。あれはね、あらかじめメルが警備システムに入り込んでいたんだよ」

「バックアップ要員として同時に動いていたということですか?」

「そういうことだね」

「そんな話、聞いていませんが」

「そりゃあ話してないからね」

「リオ、ユーリケさんはこういう人だから何を言っても意味ねえよ、諦めな」

呆れた表情で言うシロウの後ろで、メルはうんうんと頷く。二人は慣れているため今や何とも思わなくなっていたが、慣れていないリオはユーリケの意図的な説明不足に多少苛立ちを覚えたものの、それがユーリケの普通なら仕方がない。意図的に説明を省略しているということは、その裏に間違いなく何かあるということ。それこそリオには到底理解の及ばない、思いつかないことがあるに決まっている。実際、リオに説明していないからといって作戦が失敗に終わったわけでも、失敗しかけたわけでもないのだからリオが深く考える必要はどこにもない。

ふう、とあからさまなため息を落としたリオは、

「そうですね」

と、なぜかやれやれといった様子で言葉を溢した。そんなリオを見て、あれ、私、何か呆れられてる?どうして?とメルとシロウを見るが、二人もリオ同様ため息を落とし、首を左右に振るばかりで、ユーリケはどうしてと騒ぐが誰も相手にもしない。私に非があるならちゃんと言ってくれなきゃわからないよ!と声を荒げたが、シロウは素知らぬ顔をして自分のデスクに戻り、リオはコーヒーでも入れますねと哀れむような笑みを浮かべた。一人ユーリケのそばに残っていたメルだったが、ユーリケに言葉は返さず、そういえばと懐から郵便の束を取り出した。

「丁度配達の人が通りかかったから、受け取っておいたよ」

「ああ、ありがとう」

「自宅の方も渡されたんだけど、間違いがないか確認しておいてね」

「うん、わかっ——」

「どうかした?」

「……いや、なんでもないよ」

郵便物を一つ一つ確認していたユーリケだったが、とある手紙を認めると僅かに目を瞠った。普段とは異なる様子にメルは声をかけたが、取り繕うようにユーリケは笑顔を浮かべ、何事もなかったように自身のデスクへと向かっていった。

ユーリケの様子をさして気にも留めなかったメルは、シロウの隣に腰かけ、PCに向かったがただ一人、リオだけはじっとユーリケの背中を視線で追いかけていた。

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