第9話
私は横浜の実家の母親に電話した。母はオレオレ詐欺か何かと勘違いしたのか「そんな声で、何を言おうと、私は信用しませんよ」と強い口調で、ガツンと電話を切った。まず、電話で訪問日を告げてから訪ねるつもりだったが、何度電話しても同じ反応だ。
そこで、クルマを実家まで走らせた。あちらの世界とは、同じ道を走行していてもところどころで周囲の景色が違っている。私には、ドラマか何か、現実味のない世界を彷徨している迷子の心境が理解できた。
玄関口に出た母は、驚きのあまり声が大きくなり「今までどこにいたの? 奥さんと奈緒は一緒なの?」と、戸惑うそぶりを見せた。私は、自分の言動で人が戸惑う様子を何度も見てきた。あの世界では、実家の母に何度も会っていた。
しかも、カレンダーの日付ではほんの一週間前に会って、夕飯を一緒に食べたばかりだ。私自身も、戸惑い、違和感、驚嘆は数多く経験したため、次に何が出てこようと、状況のもたらした変化の一つだと、想像するようにしてきた。
今、目の前にいる母は、予期せぬ私との再会を喜び、涙を流しながら「生きていて良かった」と、気持ちを汲み取ってくれた。家に上がるとお茶と最中饅頭を用意してくれた。母は私が失踪後にどこにいて何をしていたかを伝えると「ともの話なら、全部本当だと思う」と、真剣な眼差しを向けてくれた。
一つの疑いも差しはさまず「ご苦労だったねえ」と労う。少なくとも、私には一人の理解者がいる。そう考えると、気持ちが明るくなった。母は「今日は泊まっていくの?」と尋ねたが、私は「色々、野暮用があってね。近いうちに、また来るよ」とだけ告げて、実家を後にした。
あくる日、家庭裁判所への失踪届や警察署への捜索願が出ていないか調べてみた。五年も行方不明になっていた。失踪宣告を受けると、七年間の不明期間満了後に死亡したものとみなされる。もうあと、二年で死亡者扱いにされているところだ。
船舶の沈没などの危難失踪で生死が明らかでないときは一年間で死亡者扱いとなる。私の場合は、記憶していた通り、救助船の近くにいていち早く助けられたのは自分自身で、妻や娘こそ海の波にさらわれて消息を絶っていた。一方の私は、救助された船の上で長い時間身を横たえ、病院のベッドに運ばれてから目覚めていた。
これは、残酷でありながらも、現実の出来事だ。つまり、私はここに来る前は失踪者だったが、妻と娘は危難失踪による死亡者扱いとされていた。予感していた展開とはいえ、私は茫然自失した。これが原因となり、裁判所の職員に何度も「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」と声掛けされたものの、反応できなかった。裁判所では、失踪取消届を提出した。
警察署に出向くと警官は「遭難後のあなたに、いったい何があったのですか?」としつこく聞きなおされた。私はただでさえ、妻と娘の消息で頭の中の整理がつかない状況だ。
幾度パラレルワールドでの出来事を話しても、警官は「病院で診てもらい精神安定剤を投与してもらってはどうでしょう? 気持ちが落ち着いてから、あなたに何があったのかお聞きします」と、話を本気にしない。
説明しても、それが事実だと相手に理解させる手立てはない。話すたびに、こちらの世界にいてもあちらの世界にいたときと同様に、喧騒の中の孤独感が胸を圧し潰す。私が、「すべてが、事実なのです」と強調しても、警官はあきれたような表情をするだけだ。
警察署を後にして、榎本建設工業を訪ねた。ビルの一階入り口の年若い受付嬢は三人とも見知らぬ顔だ。エレベーターに乗り、十六階で下りると事務室に入った。そこには、見慣れた顔がいくつもあった。
彼らの中には私の姿を見て、まるで幽霊でも見ているように驚きに恐怖の混じったような表情をした。あの世界では、私に悪態をついた直属の部下の轟部長と青山副部長は、私を見つけると慌ててこちらに小走りで近づき「木下常務じゃあ、ありませんか」と尋ねると、ペコペコ頭を下げた。
彼らが裏表のある男のような、現前とのギャップに惑乱される。同時に、私の胸の内に、懐かしさと、不快と、滑稽な気分の混在した感情が押し寄せてきた。
社長室に入り、五年間音信不通だった事情について説明した。といっても、パラレルワールドの話をしても通用しないのは明白だ。そこで、私は妻と娘を失った事故によるショックを癒すために、海外で療養していたと嘘をついた。
榎本社長は「何処の国にいた?」と尋ねながら、首を傾げた。私は「ハワイのオアフ島にある病院で療養していました」と口から出まかせを言葉にした。何度も訪れて、土地勘がある地域を口にすることで、矛盾が生じにくいと思ったからだ。
社長は私の非常識を咎めず「君の性格だから、余程の考えがあって、判断したのは分かる」と一息つくと「もう一度、会社に戻ってくれないか。我が社は君が不在の間、業績が伸び悩んだ。会議の席に君がいればなあと何度も思ったよ。皮肉にも君の有能さが証明されたといってもいい。それなりのポストを用意しておくよ」と話し終わると、握手を求めてきた。
私はあの世界では、いつも無能呼ばわりされてきた。
いつの間にか生じた反骨心が胸の中で膨らみ、握手には応じたものの「私にはやりたい事業が、他にあります。少しだけ、考えさせてもらえませんか?」と、疑問符付きで返答した。
「ところで、君はこの後、何か予定があるのかね? もし、良ければ夕食を一緒にできないかと思ってね。どうだい?」社長は、私が返事をするのも待たずに、三十四階のレストランに電話し、すぐに予約を入れてくれた。
レストランでは、フルコースですべての料理が出されるまで、話し続けた。ウェイターの男は、常連の榎本社長の立場も、私の状況もよく知っていた。心得たもので、礼儀正しい口調で笑顔にも親しみがこもっていた。
男は素直に私との再会を喜び、奥にいたシェフを呼び「今日は飛び切りの料理を提供できそうです」と、はしゃいで見せた。
メインディッシュのフィレ肉のステーキを私が食べ終わった頃、社長は私の目を探るように見て「君がさっき話していた、今やりたい事業というのはどんなものかね」と尋ねた。私は「居酒屋を経営しようと考えています」と率直に、自分の夢を語り聞かせた。
すると、「それなら、私にも協力させてほしい」と申し出ると、すぐさま「ただし」と付け加えた。「ただし――、君から経営上の意見を聞きたい。やはり、わが社は君でないと出来ない事業がある。優れた頭脳を有効に生かさないのは惜しい」と、面子を立ててくれた。
私が「具体的に言うと?」と、尋ね終わるより早く、社長は「君に、わが社の非常勤顧問として残って欲しい」と、微笑みながら打ち明けた。私なら経営上の難点を指摘して、健全化し、収益性の向上を図る自信は十分にある。
反して、これが私の求めてきた夢なのか? そう思うと、即決する気になれず「しばらく、考えさせてくれませんか?」と答えていた。
社長は、少し不満げに「返事は遅らせないでくれよ」と口にして、私の肩をポンと叩いた。
宇宙飛行士のなかには宇宙から帰還後に、人生観、世界観が変化し、自分自身を深く見つめなおすものが多く存在する。また、臨死体験者のなかには、自分が今生かされている現実への感謝の念で、生き方が激変するものがいるという。
私は、というと、パラレルワールドを見た影響で、出世競争で激務に追われる浮世の暮らしではなく、晴耕雨読の生活でのんびりと自分を見つめ直したくなっていた。
※
私は長年こちらの世界で財テクなどにより貯蓄してきた資金を使って、居酒屋の経営を始める計画を立てた。勿論、赤ちょうちんの居酒屋だ。あの世界と場所は異なるが店名も「勘助」とした。偶然の皮肉で、合い見積もりをとり競わせた結果、店の設計・施工をこちらの永倉工務店に依頼した。
私は誰よりも、腕がいい佐々岡に仕事を頼んだ。私が佐々岡の実情を詳しく知っている事実を前に、本人は目を白黒させ「何でそんな個人情報まで、ご存じなのですか?」と尋ねた。私は「それは、魔法の力によるものだね」と茶化しておいた。
こちらの世界では、赤ちょうちんというものはなかった。居酒屋はやはり赤のれんが定番である。私が調べてみたところ、これは三十二年前から今の木目模様のちょうちんが主流になり、赤ちょうちんの存在が忘れられた経緯に起因している。
私は今でも、あの居酒屋「勘助」の赤ちょうちんを思い出す。それは、まるで幻のように脳裏に浮かび、ノスタルジックな気持ちにさせてくれる。今では、こちらの世界では居酒屋の定番は「木目模様のちょうちんに赤のれん」の組み合わせが定番だ。ここでは、テーブルは木目の浮き出た天然木と決まっていた。
赤ちょうちんの居酒屋「勘助」は、あの世界の店に似せて建設した。居酒屋メニューも、同じものを用意し、あの店長とよく似た男を採用した。いつの日か、行方不明の妻と娘が見つかり、生きて帰ってきた二人と、店で酒と肴に舌鼓を打てる日を心待ちにしている。
あちらの世界で私を苦しめた中井部長は、こちらの世界では永倉工務店の社員ではなかった。どのような因果が巡り、あちらとこちらの世界が違ったものになるのか、見当もつかなかった。
それどころか、居酒屋「勘助」の店員を募集したところ、中井が応募してきた。あの世界での私への生意気な態度を思い浮かべると、うんざりだが、私はあえて中井を採用した。こちらの世界では随分、苦労し職を転々としていた。中井は明らかに、自分に自信を失いかけていた。
私はあくまでも、オーナーとして居酒屋を経営し、店には客として出向き酒と肴を堪能した。あの世界の「勘助」の人気メニューに合わせた品ぞろえだ。私のおすすめは、じゃがバター、茹でたての枝豆、カニ味噌の甲羅焼、鱧の湯引き、トマトの香味サラダなどだ。酒は日本酒、焼酎、ビール等々、多彩にそろえた。
榎本社長に答えを保留していた非常勤顧問の件は、承諾する意思を伝えた。社長は「毎日の出社義務はないが、こちらから要請したときに出て来てもらう。まあ、月に一回になる予定だ」と説明した。ただし、報酬については「年間百八十万円内外になるが、宴会などでは居酒屋『勘助』を利用させてもらう」という条件だ。
常務取締役として常勤していたときの報酬が、年収八千万円だった処遇を思い起こすと、僅かな金額だ。しかし、今の私は金に対する執着は少なくなっていた。あと何十年生きられるかは分からないが、余生を読書や自分を見つめ直すために使いたかった。
私は向こう側の世界では、仕事の失敗でもう一人の私の職を奪っていた。もし「彼」――相変わらず混乱するが「私」――が、死んでなくてあちらの世界へ舞い戻ったとしたら、私を憎らしく思うだろうか? 私の存在の痕跡を至る所に見つけて、彼(私)は驚くに違いない。
日記に残された知的で優れた記述を読んで、どう感じるか想像した。家族の前では、テレビのクイズ番組でインテリ回答者よりも先に答えて、妻に「先に答えが分かると面白くないから、言わないでね」と叱られていた私は、もう一人の男の特質とは明らかに異なる。
私は建築工学の論文か事業計画書でも仕上げて、彼のために置き土産にでもしてくれば良かったと思った。しかし、もう一人の私は、それを読んで有効に生かせるか? 彼(私)の置かれた立場なら、抽象論ではなく、企業の実益につながる内容を論文に盛り込んだとしても、誰にも見て貰えない状況が予想された。
あの世界の私は、日陰に咲く美しい花のように、周辺のごくわずかな人たちの心をなごませ、支えとなるような存在だった。逆に、もし彼(私)が、知識を振りかざし、大きな声を上げて正論を唱えたとしても、世界の冷淡なまでの沈黙の前では、何の意味もなさない。
私はもう一人の私との不可思議な邂逅で、アイデンティティがおかしくなりかけていた。それでも、自分自身を理解し、最後に救えるのは他ならぬ自分しかいない。海難事故に遭遇し、時空の扉の向こう側に行ってから私は、幾度となく――自分とは何か? いかにして生きていくべきか?――と、思春期の少年のように自分に問いかけてきた。
何度、問いかけても答えは分からなかった。あの世界では、今も妻と娘が私の帰りを待ちわびている。あるいは、水死体で見つかった男の正体が分かり、彼女たちに失望と混乱をもたらしたかもしれない。
二十一世紀の宇宙物理学は、新しい天体の発見によって、長足の進歩を遂げている。天体望遠鏡は、太陽系の系外惑星の中に地球と同様に生命の存在する可能性が高いといわれるスーパーアースをいくつも見つけている。最新宇宙論では、私たちが住む宇宙は単一のものではなく、多数の宇宙が存在するマルチユニバース理論が支持されている。
私たちの住む世界が、存在のすべてで無限の価値があるかのような考えは、心が創造した幻影に相違ない。私はいつの間にか、現象世界は稀有壮大な虚像なのではないかと感じるようになっていた。寝てみる夢に実体がないように、現実世界も相対的に成り立っている。決して、絶対的で完全なものではない。
※
赤ちょうちんの居酒屋「勘助」の開店日は、海難事故に遭遇したのと同じ七月二十日にした。この日は、明治天皇が灯台監視船に乗って、地方巡幸を終えたあと横浜港に帰着した日だという。海の日はこの出来事に由来して、名づけられた。元々は不吉な日などではない。
私はゼロからの出発にふさわしいと考えて、あえて七月二十日を選んだ。開店後の客足は上々だった。客として週に一度は、店に行き酒肴を楽しんだ。また、黒田を呼び出して、酒を振舞い若いころの思い出話をした。榎本社長の約束通り、新年会、歓送迎会、忘年会などの宴会では、会社の役員を中心に店を利用してくれた。
店では、店員の中井が相変わらずヘマをしでかしては、店長に注意されていた。よく、食器を雑に扱って床に落して割っていた。度々「馬鹿があ、もっと丁寧に扱え」と怒鳴られている。それが、私には毒々しいものではなく、何故か懐かしく思える。
私の心の中では不可解な力の働きによって、いつかまた元の家族に戻れるのではないかと期待していた。
一方で、海難事故の後の行方不明者の捜索は、とうの昔に打ち切られていた。五年も見つからなかったから、海の藻屑となっていても不思議ではない。
多次元宇宙論では、いくつものパラレルワールドがあるものと考えられている。今でも、どこかに妻と娘が存在し続けていて、ふらりと戻ってきそうな気さえする。それが実現し、赤ちょうちんの居酒屋「勘助」で、再び心温まる話が出来れば良いと思う――。
亭主の好きな赤ちょうちん 美池蘭十郎 @intel0120977121
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