第8話

 私は永い眠りについていた感覚がもたらす身体のだるさと、うすぼんやりとした意識のままに目覚めた。寝ていたのは自宅のベッドの上だ。それでいて、神田神保町のアパートの一室とは違う。周囲を見渡すと、懐かしいものに囲まれている様相が分かった。頭の奥が重く、僅かな痛みを感じた。

 そこが、長年住み慣れたもう一つの我が家である、新宿区内の一軒家の寝室であるのに気づいた。壁に掛けられたカレンダーは、五年前の物だが、どこも清掃は行き届いており、室内は元のままの配置がなされている。

 テレビのリモコンを手に取り、スイッチをONにした。期待に反して、テレビ画面は真っ黒なままだ。電池を探して入れ替えて見たところ、画面が明るくなった。朝の番組だが、出演者も同じでCMも同じに見えた。それでいて、細部のどこかが違うという感覚が頭のどこかに残りつづけた。微差は意外なほど、分かりづらく気づきにくい。

 私はパラレルワールドの向こうで着ていた、シャツとズボンのまま寝ていた。起きると、窓に近づき、外の景色を眺めた。そこには、見慣れた景色があった。五年で周辺の建物には変化したものがあった。いずれにしても元の世界に戻れた。

 私は、今まで別の時空で時の歩みを進めていた。私は不可解な現象を喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか分からなかった。

 家の中をあちこち歩いてみた。家具調度品のすべてがあの世界のアパートにあったものとは比べ物にならない高価な物だ。書斎の本棚に並べ置かれた書籍も、私の実際の知能の高さを証明している。そう考えることで、ほっと安堵すると同時に、あちらの世界の私への背徳行為のようにも感じていた。

 私は、もう一人の私に対して、選んできた道筋の相違による感じ方考え方に対する大きな隔たりと、双子の純真な弟を見るような親しみを感じていた。

 娘の部屋に入ってみた。こちらでは、娘は茉優ではなく奈緒だ。大学の卒業アルバムを見て確認してみると、名前に間違いないのが分かった。容貌も背丈も、姿勢も、音声も、話し方も、服装のセンスもよく似た二人の娘が、全くの別人だ。驚くことに、誕生日まで同じだ。

 だが、茉優は私に愛情と信頼で接し、奈緒は不信感と軽侮の念で私に接してきた。

私は、あの世界で茉優と話していると、子供のころの素直で明るい奈緒を思い出した。仕事の苦労や金の不自由はあったものの、ある意味で家庭では満たされていた。

 茉優はいつも「お父さんは健康だけが取り柄だから、身体だけは大事にしてね」と労わってくれた。一方で、奈緒は金の無心の時だけ話しかけてくるようになっていた。

 私がもし、これまでの経験を言葉にすれば、理知的な人々を呆然とさせるのは必至だった。さらに、妻と娘が遭難し、誰もいない空き家に戻ってきた。茫漠とした喪失感を考えると、向こう側の世界でパワハラ、モラハラの被害に苦しみながらも、家族団らんの時間を持てたひとときの方が余程、素晴らしく思える。

 人間は、自分にないものを求めてばかりいて、自分にあるものに満足して感謝しない愚か者だ。それは、他人事はなく、自分自身の内面における問題だった。

 気持ちを整理するまで、時間がかかるのを予感した。さらに、あの世界に再び戻る展開や、もっと異質な何も知らないし、分からないような世界に、時空の壁を超えて飛ばされたとしたら、どうなるのかと不安を感じていた。

 それとは逆に――向こうにいた妻や娘とは永遠の別れになるのではないか?――と考えると哀切な気分になった。決別した後に、やり残した事、伝えたかった気持ちが、泉のように湧いてきた。彼女らの今後の生活や孤独を想像すると、いたたまれない思いにもなる。

 私が消息を絶ってからの五年間、親類が管理してくれていたので資産は人の手には渡っていなかった。一人住まいにしてはだだっ広い家の中で、私は自分自身の置かれている状況を理解して、孤独を改めて感じていた。

 パラレルワールドは、あくまでも仮説だと感じていたものの、自分の経験を考えると、もっとも論理的に整合する仮説だった。無論、まだ実証できたわけではないが、何かの不可知な力が働き、私は異世界に飛ばされていた。

 これが、物理学的に実証できればノーベル賞級の発見だが、戸惑いと混乱の日々がトラウマになり、苦々しい体験を再び想起できそうもなかった。

 向こうの世界で私は、周囲からこき使われた挙句、口汚くののしられ、傷つきながらも苦労を重ね家族を守り続けてきた。家族思いの私、地域社会に貢献し無償の奉仕に熱心な私など、あちらの世界へ行くまでは想像できなかった。

 こちらの世界での自分を再確認するために、家の中をくまなく歩いた。書斎に飾られた表彰状やトロフィーを見た。預金通帳も確認した。日記帳には自分の仕事への自信と、周囲から認められている現状への感謝の念が綴られていた。

 間違いなく元の世界へ戻れたのかどうか確認するため、向こうの世界でやったのと同じように、知人を訪ね歩き、同窓会を企画しようかと思いついた。

 時間が経過し、周囲を見渡すうちに、私は事故に遭遇する前の記憶と寸分も違わないものに囲まれている様相に気づかされた。やがて、確認のための行動は、時間の無駄にしか思えなくなった。

 二日後、居酒屋「勘助」のある場所を訪ねてみた。そこは、洗練された雰囲気の料亭で「甚平」という名前の店だ。私はスマホを手にして、電話帳に記録のある黒田のケータイにダイヤルした。戻ってきた世界で再会した黒田は、向こうの世界と同じ雰囲気を持ち寸分違わないため、錯覚による混乱が再発した。

 黒田は、初めのうちは戸惑うそぶりを見せていたものの「夢の中でお前には何度も会っていた。だから、生きているのも、いずれ戻るのも、確信していたよ」と断言し、いつものようにはにかんで見せた。

 彼は、私がパラレルワールドに行って「もう一人の黒田に会った」と話すのを聞いて「お前、気は確かなのか?」と私の目の奥を覗き見るように、じーっと目を向けた。

「ところで、本当はどこにいた? 随分、心配したぞ」と、訝しむ。今の私にはこちらの世界の黒田も、あちらの世界の黒田も同一人物のように見える。彼の一言一言が、たちの悪いジョークのように感じられる。

 私はあの世界で買い求めた「まりもっこり」のキーホルダーを黒田に見せた。これが、パラレルワールドが存在する動かぬ証拠だからだ。しかし、黒田はそれを手に取ると「あはははは」と愉快そうに笑い声を上げて「これは『まりもぽっこり』のパロディだよな。どこで、手に入れた?」と、また訝しんだ。

 こちらの世界の黒田は、あちらの黒田よりも物分かりが悪い。

 私はこちらの世界では出世競争のために、家庭を顧みずに仕事に打ち込み、社会に貢献していると考えてきた。ところが、もう一つの世界で見てきた事物を思い起こすと、はたしてそれが正解の選択肢だったとは言えない気がした。

 私の周辺には、赤ちょうちんの「勘助」がある世界とは違い、妻と娘はいない。心から励ましてくれる飲み友達も消え失せていた。只々、寂寞とした気分になった。私はいったい、何度家族を失えば良いのか? 

 反面で、これは何かの偶然の出来事で、私だけを選んで発生した椿事ではないと、心のどこかでクールに感じてもいた。今後、何かのアクシデントで、私だけが別のパラレルワールドへ飛ばされて、困惑する展開はないと思い為すようにした。

 黒田は「よくできた話だが、すぐには信じられない。パラレルワールドの仮説は知っているが、人間一人だけがそこへ迷い込んで戻ってくるのは、SF映画の創作世界の出来事だよ。話しにくいのは分かるけど、時期が来たら真相を説明してくれないか」と落ち着いた口調で質問した。

「俺は、木下が事件や事故に巻き込まれていないか、それだけが心配だった。元気そうなのでほっとしたよ」と付け加えた。

 彼は「俺のバイブルだ」と、カバンの中からボロボロになった一冊の本を取り出した。タイトルを見ると、山本有三の「路傍の石」だと分かった。本を取り出すと、湯呑をテーブルの脇に寄せてしおりの挟んだページを開いて見せた。

 本の開いたページには「たったひとりしかいない自分の、たった一度しかない人生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないではないか」という個所に赤ペンで線が引かれていた。

 黒田は「この本が、これまでの俺の心の支えになっていた。何かあるたびに本を取り出し、読む習慣に救われてきた。それと、もう一つ、木下、お前の存在が大きかった。転校生で、あの頃は関西弁訛りでしか話せなかった俺を、お前は同じクラスのあいつらからかばって、励ましてくれた」と、懐かしそうに目を細めた。

「路傍の石」は、私も中学二年生の時に読んで知っていた。

 小説は明治時代中期が舞台で、旧士族の貧しい家に生まれ、家計を支えるために小学校卒業と同時に、奉公に出されていた吾一という少年の物語だ。吾一は奉公先の呉服商の主人に気に入られず、仲間の少年たちからもいじめられる。

 学業成績優秀な吾一は、家の経済的事情で旧制中学への進学を断念していた。そうした背景で、吾一の実母が急死する。絶望的な状況で、自殺を図ろうとするのを、恩師が励ますために口にするのが、「たったひとりしかいない自分の」で始まる言葉だ。

 私は同じ本を読んでいたものの、黒田に言われるまではここに書かれた言葉を重く受け止めず、正確には覚えていなかった。

 黒田は「お前は自分自身をまだまだ、本当に生かし切っていないのではないか?」と私に尋ねた後、「人生は、生きるという、それ自体に価値を見出すべきだと、中学時代にお前が俺に教えてくれた」と持ち上げた。

 甚平の店員は、淡々とした様子で配膳し客が食べ終わった料理の皿を手早く片づけた。私は、黒田の友情に心の中で謝罪していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る