第7話


 旅行先から帰宅すると、久しぶりにクルマを運転した。元居た世界では、わたしの愛車はBMWの五シリーズセダンで、自宅の車庫にあった。こちらの世界では月極駐車場に国産の小型車を停めていた。小型車で、自宅から榎本建設工業までをドライブした。

 町の中の建物は、向こうとこちらではかなり外観の違うものがあった。これらは、私が建設に関与した建物ばかりではなかった。想像に過ぎないが、向こうの世界では、私が建てたビルを見た誰かにヒントを与え、事業展開に影響し、こちらにあるものとは外観などが、異質な建物に変化したものが、多数あった事実を示している。

 道路を走行するクルマの中から見る世界は、現実のものでありながらどこか古めかしい感じがした。町の景観のあるべきところにあるはずのものがなく、あるはずのないものが何故かあるのである。私は地図を頼りに運転しなければ、道が分からない迷路の中を周回している気分になった。

 私が関与した建物は日本国内に数多くあった。つまり、私の存在は小さく見えて、大きく世界の現実を変えている。もし、観光地にあるビルの一つを見て、外国人が何らかのヒントを得て、母国の建築設計に役立てたとしたら、影響は国内にとどまらない。

 私は、世界に生きているだけではなく、世界に生かされている。――宇宙は、私に経験する価値を教え導いているのではないか? 意味は、自分で見出さなければならないのか?――と、漠然とイメージしていた。

       ※

 夢を見ていた。荒れた海が木の葉のような船を飲み込み、乗客のすべてを死の世界へ引きずり込もうとしていた。大きな波がものすごい勢いで押し寄せてきた。死の深淵がぽっかりと大きな口を開けて待ち構えていた。

 私は真っ黒い穴の中に沈む動きで、異次元の扉を開き、何か別のものになれそうな気がしていた。不安のせいで、体中が汗ばみ夢の中で――どうかこれが夢であってくれますように――と、念じ続けていた。

 願いもむなしく、大波に飲み込まれた私は、暗くて長いトンネルを潜り抜け、光のある場所へとたどり着いた、あとの光景は、難破船にいた時よりも、凄まじく、おぞましい。私の周りには、姿かたちの異なる無数の妖怪がいて、私をそそのかし「お前に大金を与えるから、悪魔に魂を売り渡せ」とか「名誉をとるか、家族への愛を選ぶかどちらにする?」と鋭い口調で責め立てる。

 醜悪で恐ろしい相貌の彼らは、怒りを露にして、私をそそのかしたり、不徳をなじったり、時には手を変え、品を変えて誘惑してきた。長い夢だった。目覚めたときは、自分が生まれ変わり、元居た世界へと回帰できたのではないかと思った。

 しかし、私が目覚めた場所は、神田神保町の3DKのアパートの一室だった。つまり、まだ元の世界へは戻れていない。――これが、もし神罰のようなものなら、そろそろ許されても良いころではないか? 自分はここに来てから、十分な苦労を経験し、多くの現実から学んだ――とも思った。

 再就職活動は思いのほか難航した。体力的に辛くない事務の仕事は皆無だ。営業は未経験の業界が大半で、ノルマを課されているものばかりが目に付く。ようやく、倉庫の入出庫管理の仕事を見つけた。倉庫作業のために、フォークリフトの資格を取得した。

 所長から「慣れるまでは、簡単な作業だけでいい」と指図されて、マイナス35度のF級倉庫で軽い凍魚の出庫を任された。庫内作業では防寒着を着用し、厚手の手袋をはめ安全シューズを履いて作業にあたった。

 三か月が経過した。

 職場の同僚の中には「若いうちに操作を体に覚えさせていないと、フォークリフトはなかなか上手くならないよ。ゆっくりでいいから、丁寧に作業した方が良い」とアドバイスをしてくれるものもいた。

 同僚の予言通り、私はフォークリフトの操作がうまく行かず、たびたび荷物を進路に落とした。荷物は中のものが破損しないように梱包されていたが、そとの発泡スチロールの箱は破損を免れなかった。

 私は「ゆっくり、丁寧に」という言葉を胸の内に唱えながら、確実な作業をしようとしたが、現場の責任者は、そんな様子を見て「もたもたするな。もっと、素早く動け」と容赦なく、声を荒げる。

 中でも、現場主任は「箱だって金がかかっているからね。給与から引かせてもらうよ」と厳しい目でにらみつける。今の状況で、家にいるときの妻や娘が無理解で、反抗的だったとしたら私は身がもたなかった。私は家族のやさしさに支えられていた。ここには、元のあの世界では得られなかった安らぎがあった。

 元居た世界では、大学時代までは学業成績を賞賛され、職場では仕事の能力を認められてきた。一方で、家族とともに過ごす時間を削り、彼女らを犠牲にしてきた。スナックのホステスとの不倫まで妻にばれたため、ここ数年は気まずい関係が続いていた。ようやく、家族との関係を修復し船旅に出ようとした矢先の遭難だった。

 元の世界にいた妻は「あなたは、仕事ばかりが大事で、家族の気持ちを考えないの?」と、よく不平を言葉にした。私は「充分に、豊かな生活をさせてきた。欲しいものは全部与えてきたじゃないか? 何の不足があって、そんな不満を話す?」と厳しい口調で叱りつけてきた。娘も決まって、母親の側について、あきれたような表情をしていた。

 逆に、こちらの世界に来た私は毎日、慣れない作業に疲れ筋肉疲労で痛みを感じながら、重い足を引きずるようにして3DKのアパートへ戻った。妻も娘も、私の労をねぎらい「お疲れ様、今日もお仕事大変だったでしょう」と、ほほ笑みかけてきてくれた。

 さらに、赤ちょうちんの居酒屋「勘助」で、美味しい酒を飲む時間は、私に救いと癒しをもたらしてくれた。店に、一人で立ち寄ったところ、居酒屋の主人は上機嫌で「ともさんへの見舞いだ」と、越乃寒梅とエイのひれを出してくれた。

「おやじさん、何回目の見舞いだよ。そんな商売していたら、儲からないよ」と指摘しても、「ただ酒を振舞いたくなるのも、あんたの人徳だよ」と、笑っている。

「一日も早く、明るくて面白い、ともさんに戻ってもらわないとなあ」と付け足した。周囲も私が海難事故に遭遇し、大けがして入院していた事態を知っている。テレビの報道でも取り上げられ、十日後に発見され一命を取り留めた私をヒーロー視していた。

 居酒屋では、私は同情と親しみで迎えられていたため、主人の特別待遇も嫉妬の対象にならず、逆に「ともさんに、俺からも焼酎をご馳走するよ」と励ますものまでいた。――利害得失が関係しなかったら、人はこんなにも柔和で親切で温かい――と思い浮かべると、自然と涙があふれ出ていた。

       ※

 私は到底、元の世界には戻れないと諦め、この地を安住の地にしようと思い始めていた。仕事での成功も、優雅な暮らしとも無縁だが、心優しい隣人たちに励まされ勇気づけられて来たからだ。

 職場では、何年も過酷な現実と向き合う羽目になり、今まで元の世界で積んできた経験も、同世代の大半よりも豊富な知識も、何一つ生かせない牢獄暮らしのような現実が続くのは容易に予想できる。そんな経験をしているうちに、こちらの世界の彼(私)のように聖人のような達観した心境で、物事を見る目が養われてきたような気がしている。

 皮肉にも、そんなある日の出来事だ。私は朝から異変を感じていた。これは、何かあると予感した。家族と食卓を囲み、テレビをつけ一家団欒のひとときを楽しんでいたときだ。私は先に食事を終えて席を立とうとした。ニュース番組では、私にとっては戦慄を覚えるような事件が報道されていた。

 ニュースキャスターは、私が遭難したと同じ海域で、水死が原因とみられる白骨化した遺体が回収されたと、報じていた。私と同年代で、死後五年が経過しているといわれる遺体が、事故さえなければ紛れもなくこちらの世界にいた、もう一人の私だと直感した。

 そう思うと、気分が悪くなりめまいを感じ、身体を横にしたくなった。いずれ、身元不明の男の歯型を調査すれば、遺体の人物がここにいる私以上に、私自身に他ならない事実が判明すると思った。無論、それは想像の域を出ない。

 しかし、絶対そうに違いないという確信とともに、アパートの和室に布団を敷くと、我が身を横たえた。普段と異なり、私は異次元の時空にいて、幻想のような不可思議な経験をしているのだと無意識に感じた。いつの間にか、深く、深く、眠りの国の森の奥地へと誘いこまれていた。

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