第6話
一つの局面が変化した。これまでの入院・通院費用は旅行保険や医療保険を活用したため、実質的な負担はなかった。一方で、休業中の補償や後遺症の問題が残っていた。同じ船に乗り、死亡した乗客への賠償金についても未決のままだった。
船舶会社との話し合いが実施されていたものの、現場検証や他の調査に時間がかかり、難航していた。
しばらく時間がかかったものの、私のケースでは賠償金は二百八十万円となった。毎日の生活の足しにするには大きな金額ではなかったが、これで職探しに力を入れられる。僅かに、ほっとした。こちらの世界の私は、地域社会に貢献しようとボランティア活動にも前向きに取り組んでいた。少ない給与から、毎月のようにNGOの団体に募金までしている。
それでいて、自分が困ったときには誰一人として救いの手を差し伸べてくれない。
居酒屋で出くわす人好きのする連中も、ボランティア仲間も失業者に仕事をあっせんできるほどの人脈を持っていなかったからだ。居酒屋「勘助」の主人は「悪いねえ、ともさん、紹介するあてがなくて。でも、あんたなら、ちゃんと評価してくれる企業にめぐりあえるよ」と慰め「俺のおごりだ」と、酒と肴をご馳走してくれた。
求人情報を見ると「長期安定雇用のため、若い力を積極的に活用する企業です」と記載されているものが多かった。さらに、面接に出向くと「転職歴三回までの方を対象にしています」とか「五十歳代のあなたの上司に二十歳代、三十歳代の若者がついて細かい指示を出す。扱いにくいので、採用を見合わせたい」と告げられる。
とはいえ、挫けてばかりはいられない。幸運の女神は、前向き思考のものにほほ笑む。私は胸糞の悪い気分を変えるために、赤ちょうちんの居酒屋「勘助」に家族で出向いた。今回は黒田の家族も来ていた。
人はジレンマに向き合うと、妙にいろいろと考える。しかし、そんなときこそ、何も考えない薄ぼんやりとした時間が必要だ。私は酒を呷る嗜癖が、救いになると思った。
※
私の話を一通り聞いて、黒田は「物理学者のシュレーディンガーは、猫を使った思考実験をやっている。まず密閉状態の箱を用意して、中に1匹の猫を入れる。箱には少量の放射性物質と、ガイガーカウンターを用意する。それに反応する青酸ガスの発生装置があるという設定だ。放射性物質は一時間の内に原子崩壊する可能性が50%ある。もしも原子崩壊した場合は青酸ガスが発生して猫は死ぬ。逆に原子崩壊しなければ毒ガスは発生せず、猫は死なない。一時間後、果たして箱の中の猫は生きているか死んでいるか。お前ならどう思う?」と、思案深げな表情をした。
「確率解釈が正しいのなら、箱を開けるまでは猫の生死は決定していない。しかし、箱の中身を確認する前に、猫の生死は決定している」と私は答えた。
「ご明察! もし、生きた猫と死んだ猫が同時に存在したらどうなる? 物理学ではパラレルワールドに関する仮説が知られている。二つの並行する世界を意味する。生きた猫と、死んだ猫のように、別の世界にもう一人のお前が生きていたとしたらどうなる? 正直なところ、目の前にいるお前は、俺の知っている木下とは別人だ。お前の目には俺はどう映っている?」
「パラレルワールドは、SF小説や映画でよく扱われているのは知っているよ。タイムトラベルの物語と同様に、現代人が実際に経験するとは思いもしなかった。それと、俺の目に映るお前は、記憶の中のお前と寸分も違わない」
「ふふうん、思ったよりも現象世界は、複雑にできている。それと、今となっては、元の並行世界で事故が発生する前の時間に戻り、未然に防がない限りは、以前の状態には戻れない。それが出来るかどうかは、現代科学では、残念ながら判断できない」
私たちの話をそばで聞いていた妻は「ずいぶん、難しそうな話なのね」と、眉をひそめた。娘は「もし、それが本当だとしたら、私の目の前にいるお父さんは誰なの?」と、訝しんだ。
「双子以上に相似形の誰かだ」
「それが事実としたら、お父さんはどこにいるのかしら?」
「分からないよ」
「どういうこと?」
「どんな考え方も、証明できるまでは仮説でしかないからな。でも、俺は間違いなく、木下智也だよ」
私はある事実に気が付いた。それは、図書館で世界史や日本史を調べても、私の記憶との差はまったくなかった。それと、日記帳で振り返ると、中学時代のところから、現実は変化していた。中学時代の一人の男の経験が、世界を巻き込み、変化させるものなのか?
今のところは、歴史的規模の変化はないのが直感で理解できた。しかし、私が榎本建設工業の社長に就任し、今よりもっと政治家と太いパイプを持ったとしても、世界を揺らす振り子は、同じふり幅で揺れ続け、何事もなかったかのように、時計の針を進めていくものか?
パラレルワールドの仮説を当てはめて考えているうちに、人生の大事なターニングポイントで選択肢を誤ると、展開が変化する事実を知った。これは、今までの経験だけではなく、これからも同様の展開が予想できる。私は運命が予め決められているという運命論者の考え方を否定的に見るようになっていた。
これまで、ずっと黙っていた黒田夫人が口を開き「難しい話ばかりしないで、今度、ご家族で旅行にでも行って、重たい気分を変えてはみてはいかがかしら?」と提案した。
黒田から餞別をもらい家族で北海道旅行に出かけた。船旅をする勇気はなく、移動手段は飛行機を利用した。旅先で見る名所旧跡は、二つの世界で同じに見えた。
北海道旅行では、函館、小樽、札幌と回った。初日は函館観光だ。ここでは、五稜郭公園を見物し、夜はロープウェイで函館山に登り世界三大夜景のひとつとされる美しい街並みを眼下に眺めた。妻も娘も「うわーつ、素敵ね」と、大きな声を上げた。「まるで別天地ね」と妻は、私の顔を見ながら感嘆した。そう、まさに此処は私にとっては、同じ世界に見えていても別天地だ。
私が北海道エリアで間接的に建築工事に関わったケースは、何件もあったが函館の観光地周辺の景観は、向こう側の世界と見分けがつかなかった。
小樽に移動して、中央橋から小樽港、北運河、南運河を四十分でクルーズした。日没前に出発するデイクルーズに申し込んでおいた。小樽運河の周遊コースには、歴史的な街並みが多くノスタルジックなムードを味わい、日常の悩みを忘れるのには最適に思えた。ここでは、私の存在の有無が何物にも影響を与えてはいないと実感し、ほっとした。
ところが、それも束の間で、私は土産物店に行き凍り付いた。ご当地キャラの「まりもっこり」を見た時だ。このキャラは微妙なところに膨らみがある。私のパラレルワールドのあの世界では、「まりもぽっこり」という名前で呼ばれており、お腹が前方にぽっこりと膨らんでいるのが特徴だ。私に起きた変化は、世界のこんなところにも及んでいる。
原因に当たるものは皆目分からなかった。要するに、私と周辺に起きた変化は、思わぬところの変化につながっている。
まさか、こちらの世界では「ぽっこり」が「もっこり」に変化しているとは想像さえしていなかった。私の言動の何が影響したのか、知る術もなかった。因果関係をたどって解明するのは容易くはない。
札幌では時計台や、北海道庁旧本庁舎などを見た後で、榎本建設工業の北海道支店まで出向いた。私は北海道支店を見て、すぐに違いに気が付いた。外壁塗装が異なり、あちらではグレー主体のカラーが、こちらの世界ではレンガ色だ。あきらかに、私好みのカラーでも外観でもなかった。
私は、いまだに娘の名前を「茉優」ではなく「奈緒」と間違えて呼ぶポカをする。私にとっては、見た目や性格がそっくりな娘の存在こそが神秘に思える。
人間は両親の精子と卵子の結合という生物学的な事実によって誕生する。一回の性交でおよそ五億の精子が射出され、一つが卵子と受精し、他の精子は死滅する。つまり、一回の性交だけでも、同じ人間が誕生する確率は五億分の一だ。これが、性交のタイミングが違うと、同じ人間は生まれてこない。
「茉優」と「奈緒」を呼び間違えるたびに、娘の存在の神秘に気が付き圧倒されていた。思えば、私のパラレルワールドの此岸と彼岸の分岐は中学時代の一日の出来事を起点としていた。とすると、それ以降の展開は大きく違っていても不思議ではない。
それにも関わらず、私が経験し実感しているあちらとこちらの差異は、大宇宙レベルのスケールでは微差でしかないという現実を想像すると、私自身の存在の不可思議が途方もないもののように感じられる。
私はパラレルワールド仮説に心を奪われていた。仮説をあてはめると、すべての意味が整合し、私も狂気を免れそうな気がした。その反面で、私が気の付かないところに論理の綻びがあるのではないかとも思った。仮説をあてはめても、間違いない、でもどうなのか、という印象がどうしても心の内に残る。
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