第5話


 死のうと思った。現実世界の呪縛の力によって、元に戻れない実情は、私には耐えがたく、忍び難い苦悩だ。また、もし記憶の向こう側の世界に戻れたとしても、妻子は他界している。今のままの状況では、出口のない迷路を無限に彷徨い続けるかのような、息苦しさと辛さしか感じられない。

 私は、何か解決の糸口が見つからないかと、ここ何年かの日記帳を開いてみた。

 永倉工務店の前に、勤務していた会社での出来事が書かれていた。

「五月〇〇日 曇りのち晴れ

 芹沢教育出版株式会社に入社して五年になるというのに、正当に評価されていない。入社一年目の営業成績は上々で三十名の社員のトップだったにも関わらず、二年目からエリアターゲットを変更され不振が続いている。不満を言葉にできないような雰囲気が社内にあるため、打開できそうもない。

 北邑専務は私が所属する営業二部を目の敵にしては、何かと批判を差し向けてくる。特に芹沢社長が会議に出席しているときには、自分が担当する営業一部から、社長の視線をそらせるために、二部の連中をやり玉にあげる。

 北邑は、ライバルの平田常務が担当する営業二部と庶務課を目の敵にしている。今日、営業一部の夏山課長が『会社で生き残るには、芹沢社長に好かれて一目置かれる。さらに、北邑専務の前で平田常務の味方をしない。以上の二点が仕事の出来不出来よりも重要だ』と、内情をばらした。そんな処世術は到底できそうにもない。絶望的な気分になった」

「八月〇〇日 快晴

 ボランティア活動で、小・中学生にキャンプ場でのテントの設営方法や、炊事の仕方、山道で迷わないようにするためのポイントなどを指導した。みんな、熱心に耳を傾けてくれる。夜になり、キャンプファイヤーの周りに子供たちを集め、私が怪談話を聞かせたところ、彼らは時折、悲鳴をあげたり、笑いだしたりしながら、盛り上がっていた」

「十月〇〇日 晴れ時々曇り

 今日は月に一度の清掃ボランティアの日だ。商店街付近の清掃をしていて気付くのは、タバコの吸い殻や、ジュースやビールの空き缶のポイ捨てが意外と多い。箒を使って掃き清めていると、街路樹の葉も思いのほか多く、集めて捨てるのに時間がかかる。しかし、一仕事終わった後の疲れは心地よく、商店主から笑顔で『ありがとう』と感謝され、ボランティア仲間から『お疲れ様』と労われた時の日本酒ほど、おいしいものはこの世にないと思った」

 記憶と異なる私は、世渡り上手とは言えなかった。不器用ながらも、奉仕活動に存在価値を見出そうとしている。勤め先では、軽んじられ傷つきながらも、必死で家族や周囲の人間を守ろうとしている。

 私は、日記帳を読みながら――なんと美しくも、いじらしい心境なのか――と思い、深い感動を覚えた。日記の記述に比べれば、私は打算的で、嫌な人間のように思えてくる。――いつから、こんなにも優しい気持ちを忘れたのか――と考えると、涙がにじみ出ていた。

 人を絶望の淵に追い込むのは、他ならぬ人の所業だ。身近にいる人間の無神経な言動の一つ一つが、他人の心に傷を与え、命を蝕んでいく事態もありうる。日記を読み、異世界の現実に合わせているうちに、別人格の私が、純真で愛おしい、自分の弟のように思えてくる。

 もう一人の私という不可思議な分身は、私よりもはるかに逞しい。それに比べれば、今の私はエリート特有の人間で、計算高いが、生々しい現実に向き合うと、ひ弱で頼りない存在に過ぎないと感じていた。

 死ぬ前に一度だけ、あの男に会っておこうと考えた。人通りの少ない公園のベンチに腰かけて黒田を呼び出して悩みを打ち明けた。

 黒田は「俺は、偉大な人間とは、苦しい現実に向き合ったときに、逃げ出さない人間だと思う。仮に失敗したとしても、それはそれで仕方がない。だがな、初めから投げやりになるのは卑怯だ。いつもの、お前らしくないだろ」と強い口調のあと、今度はボソボソとした声で、中学時代、転校生の俺を馬鹿にせず、励ましてくれたのは、お前だったよなあ」と、神妙な顔で話した。

 私は「お前の気持ちは分かるけど、気休めにしか思えないよ」と、黒田から目をそらした。彼は「向かい風にひるんでいては、自分も家族も守れない。ヨットのような斜めに帆を張る船は向かい風の時こそ、強く前進できる。もう一度、自分を信じてやり直してみないか? もう失うものがないのなら、何も恐れる必要はない」と、諭した。

 記憶の向こう側の世界では、心から信用できる人物は限られていた。誰もが打算を軸にして、駆け引きで付き合うだけで、本心を明かすものは少なかった。今の私の周囲には、お人よしとも思えるような善良な人たちがいた。無償の行為に力を尽くし、 一円にもならない作業でも思いやりを持って取り組む人たちだ。

 帰宅すると、既に寝室で妻と娘は眠っていた。私は彼女たちの顔をじっと見つめていた。二人の家族の励ましや、愛情に満ちたまなざしを思い浮かべた。彼女たちを守れるのは、自分しかいないと、何度も繰り返し頭の中で唱えていた。

       ※

 私は、黒田に諭されたこともあり――何とか、家族の生活を守らなければならない――という思いだけで、会社に行って、理不尽な批判にさらされながらも努力した。☆マークが成約直前の超有望客であるのに気づいたのは、自分にとって幸運だった。

 当面は☆マークの有望客を追い続ければ、成果につながる予想が出来た。現に、最初の☆マーク客は、私が訪問すると無邪気なまでに喜んでくれた。

「熱心に相談に乗ってくれるので、木下さんの怪我が治るのを心待ちにしていました」と激励したうえで、社屋の増築費の見積もりをみて即決してくれた。それどころか、料亭で夕飯をご馳走になった。

「人間、苦労をすると変わるものだねえ。以前の木下さんは、肩の力が抜けていてさあ。どういうのかなあ、人情味の溢れる人だった。今の木下さんは、言葉遣いが丁寧になったものの、まったく隙がない。立派な紳士と話しているような印象は悪くないけどね。俺は、前のあんたの方が好きだったなあ」と、しみじみと述懐した。

 他の☆マーク客も、同様に好意的だが、どこか物足りない。中には「仕事熱心で、額に汗を流しながら世話してくれるあんたのファンだった」と、寂しそうにつぶやく顧客もいた。

 今の調子だと、◎マークも攻略できると思ったが、現実はそう甘くはなかった。

☆マーク客の四分の一しか成約しなかったからだ。成約率が減少するとともに、会社の私への視線も冷ややかなものに変化して行った。さらに、会社の人間は、成果を認めてはくれるが、それを給与所得に還元したりしないし、私の出世を喜ばない。

 それどころか、極端なまでに虚言壁のある人物の勢いに気おされ、ご機嫌をうかがい続けているようなありさまだ。田畑という男は、驚くほどおしゃべりで声が大きい。それでいて、自信満々に話す内容は中身がなく出鱈目だ。「俺の兄弟と父親は、すべてコネで公務員になった。いずれも、裁判所職員で司法当局に顔が利く」などと、口から出まかせを吐く。

 いくらこちらの世界でも、裁判所の職員にコネで成れるわけがない。別の機会には「自分が会社を経営していたころは、業界では知らないものがいなかった」と嘯くが、矛盾が多く抽象的な話ばかりだ。奇妙な話だと思って、質問でもしようものなら、田畑は決まって悪態をつき「俺が事実だと、言うのだから、事実だ」と怒声を浴びせてきた。

 周囲の人間は、嘘が見抜けないのか、怒らせるのは得策ではないと予感するのか「田畑さんは、元経営者なので博識ですねえ」と媚びる。そんな様子を見るたびに、 私は背筋に寒気を感じると同時に絶望的な気分になった。

 とうとう堪忍袋の緒が切れた。私は「田畑のような嘘で塗り固めたような男は、重用すべきではない」と主張した。思いもむなしく、意外にも彼らは皆、田畑の側につき「お前は、生まれてから今まで、一度も嘘をつかなかったのか? そうでなければ、田畑を悪く言う権利はない」と理不尽な言葉を並べ立てる。

 田畑は永倉三郎専務と高校時代の同級生で友人だと分かった。一部の同僚は「田畑のほら話は、専務も知っていて、知らんふりをしている」と、私に実情を告げた。さらに、「専務の今の奥さんは、田畑の親戚だ。悪いことは言わないからさ。田畑には逆らわない方がいい」とも示唆した。私は、こんな会社では勤まらないと考え、社長室に入ると辞意を示した。永倉工務店は退職金の給付制度がなく、退職の希望を出すとすぐさま社長から「明日から来なくていいから」と突き放されて、それでおしまいだ。

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