額縁の魔女

藤光

声なき世界

 この学校には魔女がいる。世界を自由に切り取ることができる彼女は、半期に一度行われる制作発表に現れる――そう教えてくれたのは、同じ学校に通うひとつ年上の幼馴染、あおだった。

 講義棟の一番北の端、大講義室で春と秋に一度ずつ開かれる芸術学部の制作発表では、百名以上在籍する芸術学部の学生たちが半年間のうちに制作した二百点近くの作品が展示される。これらの作品は、すべての大学教員と学生とが投票形式で評価することになっており、この時は、春に入学したわたしが参加する最初の学生制作だった。

「おれの作品も展示されてるんだ」

 案内してやるよ――写真科2年に在籍している蒼と国文科1年のわたしは、作品が展示されている大講義室に入った。大講義室は、展示された作品を見物にきた学生たちでいっぱいだった。わたしたちは身体を寄せ合うようにして狭い通路を進む。机の上に並べられた立体・彫刻作品と、講義室を仕切るパーティションに掛けられた写真・絵画作品とを見て歩いた。

 その狭い空間には、学生たちがその想いもそれぞれに作り上げた作品が、鈴なりに並べられている。非常に出来の良いものも、あまり上手とはいえない作品も、ここではまったく同列に展示されていた。

「これさ」

 少し得意げな様子で蒼が指さしたのは、壁に掛けられた若い女性のポートレートだった。ポートレート。高校時代は「人を撮るってなんだか照れくさいから」と風景写真ばかりばかり撮っていた蒼が、人物写真ポートレートを撮っていた。被写体は芸術学部の学生だろうか、キャンバスに顔をぎりぎりまで近づけて絵を描いている様子が写真に収められている。モノクロの画面の中で、筆先を見つめる女性の強いまなざしが印象的な作品だ。とてもいい写真だけれどそれだけの写真ではない。

 この人のことが好きなのか。

 作品からは、被写体に対する抱えきれないほどの憧れと控えめな愛情が伝わってくる。きっと蒼はこの想いを告げていない。この人のことは知らないけれど、とてもいい写真だと思った。いったいだれだろう。わたしが感じたとおり、この学校の学生なんだろうか。

 作品タイトルをみると、ただひと言『魔女』とだけ書かれていた。魔女?

「タイトルの意味はすぐに分かるよ」

 どうしてか、蒼はいたずらっぽく言って、『魔女』というタイトルの秘密については教えてくれなかった。

「おまえも描いてみろよ、絵――好きだろ」

「ううん」

「なんで? あんなに描いてたじゃないか。都内の有名な美大にだって入れるって高校の先生も言ってた」

「……」

「それが蓋を開けてみればおれと同じ大学でしかも文学部。国文科だって?」

 どうしてさ描きなよと蒼は言ってくれるが、わたしは聞こえていないふりをした。好きってだけで、将来の進路は選べないじゃない。好きってことが、敵わないって知るのも辛いじゃない。現にいま――。

 ここにはわたしより、もっと絵が、彫刻が、写真が好きだと諦めなかった人たちの作品が、所狭しと二百点も並べられている。やってきて早々、わたしは居心地の悪さに逃げ出したくなるような思いを味わっていた。

「すごいよな。でも、ほとんどは半月もしないうちに撤去されるんだ。なにしろ場所をとるからね。でも、この中から最優秀絵画作品ガクブチだけは半年後の制作発表まで、ここに展示されるんだよ」

「ガクブチ……?」

 そのうち最優秀絵画作品は、学生制作の象徴として半年間、大講義室の正面に掲げられるという。振り返ってみると、確かにいまも講義室の大黒板の上に、立派な額縁に収められた絵が掛けられていた。

「だから『ガクブチ』っていうのさ」

ガクブチは大きな絵だった。幅五メートルはあるだろう。白いコロナを纏い、青や紫、黄色や緑の光を投げかける黒い太陽の絵だ。奇妙に渦巻く太陽からは不思議な生命力が感じられる。いったいどんな人が描いたのだろう。

の作品だ」

「彼女って?」

「ほら――」

 蒼が大講義室の後ろから数列を取り払って設けられた期間限定の制作室アトリエを指差した。白いシートに覆われたその一角で、そのときまさにひとりの女性が、巨大なキャバスに向かい合っていた。作業服姿の女性は、おもむろに足元のバケツに手を突っ込むと、色とりどりの絵の具を掴み取ってキャバスに投げつけはじめた。青、水色、赤、ピンク……手で擦りつける、伸ばす、塗りつける。女性は全身を使って絵の具とキャバスとに格闘していた。

「ライブペインティング……」

 ライブペインティングとは、絵の制作過程を見せるパフォーマンス・アートだ。それは仕上がった絵だけでなく、それを描く過程も含めてひとつの作品といえる。

「彼女の作品は、三期連続で最優秀絵画作品ガクブチに選ばれているんだ」

 夢中になって描くうちに、頭から絵の具をひっ被ったようになる彼女。大講義室に詰めかけた大勢の学生や教員の見守る前で、白いキャバスに隠れていた絵が、みるみるうちにその姿を表してきた。窓がある。おおぜいの人がいる。大きな部屋に光が差している。みんな楽しそうにやりとりしている。これは――。

「学校だね。大勢の学生や教員が集まってなにしてるんだろう。思いおもいに絵を描いたり、話したり、何かを作っていたり……楽しそうだ」

 そう。蒼の言うとおり、それはわたしたちの学校を描いた絵だった。柔らかい光に満たされたこの大講義室に集まった学生と教員たち、抽象的に描かれた個々の人物の表情は読み取れないけれど、陽気で楽しそうだ。躍動感あふれる画面からは、学生たちの笑い声が聞こえてきそうだった。

「すごい」

 圧倒的だった。パーティションに掛けられたどの絵とも違う抜群の存在感とパフォーマンスが生み出すライブ感。最優秀作品はこの絵でしかありえないと思った。

「芸術学部油画科二年、青野原マキ。三期連続で最優秀作品に選ばれ続けた彼女を、みんなこう呼んでる――」

 これが、わたしとマキさんとの出会いだった。灰色の作業服に身を包み、頭にも顔にも色とりどりの塗料を浴びて絵のそばに立ち尽くす彼女は「額縁の魔女」と呼ばれていた。




 お昼の十二時。いつものように退屈な講義が終わった。万葉集、方言研究、現代日本語構文……。もう時間なのかと呟いて教授が教壇を降りると、席を立つ学生たちの声がわたしの周囲でかさを増してきた。

 お腹すいたねー。お昼ごはん何にしようか。ううん、いいよ。わたしきょうは帰る。えー。学食のメニューが新しくなったらしいよ。足を伸ばして駅前で食べてもいいじゃん。うん。なんか急におなかが痛くなっちゃって。だいじょうぶ?送ってこうか。ううん。うちで横になってれば大丈夫そう。じゃあ、またね。また。うん、また今度。

 明るく言葉を交わしながら、彼女たちはわたしを置いて講義室を出ていく。それを見送る視線の先、大講義室の正面には、おおぜいの学生たちが学んでいる様子を描いた絵が掲げられていた。

 本を読む学生、議論する学生、絵を描く学生、彫刻する学生、怒る学生、笑う学生、恋する学生、青い学生、赤い学生、黄色い学生、さまざまに描き分けられた学生たち――青野原マキさんの作品【学生たち】が、今期も最優秀作品ガクブチに選ばれている。

 どうしてあの絵に描かれた学生たちは、あんなにも生き生きとして楽しそうなんだろう。大講義室から学生がいなくなってしまうと、わたしは【学生たち】の収められた高さ二メートル、幅五メートルにもなる大きな額縁に歩み寄って考える。こんなに夢中に勉強をしているということは、じぶんのやっていることに迷いがないのだ。こんなに楽しそうに友達と話しているということは、心に垣根を作らず人と接することができるのだ。こんなに激しく怒ったり、笑ったりできるということは、自分の気持ちに正直でいられるのだ。わたしは無造作にノートや筆箱をしまい込んだカバンを抱え、ひとり大講義室を出ていった。なんだか本当におなかが痛くなってきたようだ。うちに帰って横になろう。そうしよう。きっとそれで大丈夫だ。

 講義棟を出ると学生の多い広場をとおって正門へ向かう道を選ばず、草木の茂る中庭を抜けて校舎の裏手へと回った。冷え切った建物と建物のあいだ吹く風が、狭い道を裏門へと急ぐわたしを追い越していく。寒い。冬の日は頼りなく、わたしはコートの襟元を掻き合わせた。

 途中、林の中に魔女を見かけた。冷たい冬の中庭で、陽だまりとなった校舎の壁をキャンバスに見立てたのか、以前見たときと同じように汚れた作業服を着、手には色とりどりのチョークをもって絵を描いていた。すぐそばに蒼が立っていて、そうしている彼女にレンズを向けている。ああ。煤ぼけたコンクリートの壁のうち、その一角だけが明るい日差しに切り取られているように見えた。

 ただ、以前とは違い大勢の観客はいなかった。たったひとり、自分のためだけにマキさんはこの絵を描いているのだ。静かな林の中に、蒼の切るカメラのシャッター音だけが響いていた。

 わたしは立ち止まり、少し離れたところからその様子を見ていたが、夢中になって描きつづける彼女に声をかけることなく、足を早めて裏門へと急いだ。金属的なシャッター音が耳につき、がまんできないくらいおなかが痛くなってきていた。

 翌日、蒼とマキさんのいた場所へ行ってみると、背の届く限り、校舎の壁いっぱいに絵が描いてあった。講義室に集められた学生たちを描いた絵だった。校舎の壁には黒板に使うチョークで描いてあったけれど、学生制作の最優秀絵画作品【学生たち】と同じ構図の作品だった。しかし、この絵は――。

「また別のものを描いているんだよ」

「蒼?」

 気づかなかったけれど、林の中に蒼がいた。いると知っていれば、ここにはやって来なかったのに。

「知ってたよ。昨日みてたよね」

「――ごめん」

 長い腕を伸ばして、蒼はザラザラとした壁面に触れた。さも、大切なものであるかのように。そこには容易く剥がれてしまう画材であるチョークで、もうひとつの【学生たち】が描かれていた。

 本を読む学生、議論する学生、絵を描く学生、彫刻する学生、怒る学生、笑う学生、恋する学生、青い学生、赤い学生、黄色い学生……。構図は元の絵とそっくりだ。しかし、描かれているものは違う。この絵のなかの学生たちは皆、仮面を着けている。頭に角を生やし、耳まで裂けた口からは牙を覗かせた鬼の仮面を着けているのだ。

 元の絵は、大勢の学生が大講義室に集まってくる様子を描いた明るい絵だったが、この絵は粉っぽく、くすんだ色調の暗い絵だ。画面全体を学生=鬼が跋扈しているような不気味な絵だった。

「すごいだろう」

「すごい?」

「素敵だと思わないか」

 素敵? この校舎の壁を踊る鬼の群れが? たしかに【学生たち】は魅力的な絵だと思った。明るくて、楽しげで、わたしもあそこに描かれた人たちのようになりたい――そんな風に思える絵だった。でも、この絵はそうではない。

「素敵だとは、思えないけど」

「……嘘を描けないんだ」

「え」

「マキは、そうなんだよ」

 なぜここでマキさんの名前が出てくるのだろう。覗き込んだ蒼の瞳は、黒く見開かれ、熱っぽく濡れていた。

「わたしは嘘なんて。本当にこの絵は――」

「この絵だけじゃないだろう」

「蒼……あなた、変よ」

「変なのは君だ。好きと思うことをやればいいじゃないか」

 どうして自分に嘘をつくんだと苛立たしげな声を残して、蒼は林の中へ消えていった。壁画の前にわたしひとりだけが残された。黒く垂れ込めた雨雲の下、壁の中ではさまざまに彩られた鬼たちが踊っていた。それぞれの仮面をこちらに見せつけながら。

 その日の午後からは大雨になり、マキさんの描いた鬼の壁画は冬の嵐に晒された。チョークで描かれていたその絵は、一晩のうちにその形を無くしてしまい、後には大きくて醜い染みが残っただけだった。次の日の朝一番にそれを確認したわたしはホッとしたが、同時に壁に残されたのと同じ染みが胸に広がっていくのを感じていた。

 それからの数日間は、殊更絵のことは考えないようにした。よく分かりもしなければ興味もない万葉集や方言研究の講義を聞いて、文学部の友達とランチを食べに街へ出たり、買い物に付き合ったりした。しかし、友達との時間をいかにも楽しげに振る舞っていたわたしの心を覆っていたのは、いつも彼女と彼女の絵ことだった。講義室はもちろん、カフェにだって、フードコートにだって、トイレにだって彼女たちはついてきて、わたしを悩ませるのだ。

 だから、つぎに管理棟の前で、いつものように作業服姿で絵を描いているマキさんを見つけたとき――

「あ、ちょっと」

「待ちなよ、そっちは」

引き止めようとする友達たちを振り切ると、わたしは意を決して彼女の元へ近づいていった。

「あの……」

「そこ邪魔」

 声を掛けたわたしを遮るようにマキさんは手を上げると、足元の地面を指し示した。細くて冷たい目が、わたしをにらんでいる。アスファルトの地面には、白いチョークで絵が描かれるところだった。

「退いてくれる? そこは絵のフレームの中なんだけど」

「あ……でも」

 ここで退いてしまってはいけない。退いてしまったらきっと何日も話せなくなってしまって、また嫌な思いをすることになるだろう。絵の中? 好都合だ。ここにいればこそ、彼女はわたしを見てくれる。

「【学生たち】素敵でした」

「?」

「マキさんのライブペインティング、はじめてこういうの見て、感動して、すごいと思いました。わたしも……【学生たち】のような学生生活が送れたらなって、憧れました」

 マキさんが、改めてという感じでまじまじとわたしの顔を覗き込んできた。その無遠慮な視線に敵意はなかったけれど、とても居心地が悪い。

「あなたも鬼になりたいの?」

 びっくりした。びっくりし過ぎて、何度も目を瞬かせながらマキさんを見た。化粧っけのない頬に白いチョークの粉がなすりつけられていた。

「どうして……?」

「あなた蒼の友達よね。学生制作のとき、ふたり一緒に見てた。覚えてる。彼はあなたのこと好きで……そんなこと、どうでもいいか」

 マキさんはふたたびその場にしゃがみ込むと、チョークを手に持って絵を描きはじめた。

「見てくれた? 校舎の壁に描いた絵。蒼が見てくれてたって言ってたけど」

「見ました。――あれから、ずっとあの絵のことが忘れられなくて。あの鬼の絵が」

 もう雨に流されてなくなってしまった絵が、ずっと心を覆っている。

「あれはもうひとつの【学生たち】。怒り、悲しみ、憎しみ、妬み――鬼の面には、そんな表に出せない学生たちの感情を乗せて描いてみたの。【学生たち】は明るくて、清潔で、前向きな学生たちを描いた絵だけれど、人ってそれだけのものじゃないじゃない。良くないことも描かないと嘘になっちゃう」

 だからか、マキさんが嘘を描けないって。

「それでもやっぱり【学生たち】のようになりたい?」

「はい」

 マキさんの描く【学生たち】に嘘はない。やみくもな若さとエネルギーとが放散される彼女の絵には真実がある。雨に溶け去ったもうひとつの【学生たち】もそのことを補完しこそすれ、損なうものではない。

「嘘。大人のふりすんなよ」

「え」

 見ると、マキさんは手を止めてわたしを振りあおいでいた。

「わたしはなにもできない半端な人間だけど、ひとつだけできることがある。それは世界を絵に写しとること」

 キャンバスの上にも、校舎の壁にも、アスファルトの地面にも、枠線フレームさえ引けば、そこに世界を切り取ることができる。混沌として、複雑で、取り留めのない宇宙から一個の世界を見つけ出すことができる。【学生たち】はそこから、学生たちを見つけ出してきた絵。子どもではない、大人でもない、傲慢と卑屈とが背中合わせとなった存在。でも、あなたはそうじゃない。

「あなたはこちら側の人でしょう」

 汚れた作業着を着て、地面に這いつくばって、髪を振り乱して、思うままに絵を描く。あなたは、あの絵の中にいる人ではない。絵を描く側の人でしょう。

 そう指摘されて、わたしは身体が震えるほどうれしかった。マキさんのようなすごい絵を描く人から「あなたは描かれる人ではない、描く人だ」と言われたのだから。しかし――

「……鬼ではなくて?」

「絵を描く鬼かな」

 そうして、わたしとマキさんは、顔を見合わせると少しだけ笑った。額縁の魔女の笑顔はとても可愛らしかった。


 あのあとも、わたしは絵を描くことを躊躇っている。蒼は、わたしが話しかけても無視するようになった。マキさんのアート・パフォーマンスは、いまもときどき見ている。文学部の友達とは仲良くやっているし、わたしは学生であることを楽しめるようになったかもしれない。

 つぎの学生制作が発表されれば、もうすぐ春である。


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額縁の魔女 藤光 @gigan_280614

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