末文

末文 月の仔狗



「少し、遅いな」

 崖の隙間の入り口から空を見上げながら、りょうは小声で呟いた。

ついと振り返り、宇迦之うかのを見遣る。これ以上身体を壊してはいけないので、持参していた衣服に改めてもらっていた。

「申し訳ございませんが、今しばらくお待ちください。あれは、言い出したら聞かぬのです」

 宇迦之は渋い顔を隠さない臥龍を見、ふふと笑った。

「御子息ですか?」

 臥龍は虚を突かれたような眼で宇迦之を見返してから、苦笑して首肯した。

「はい。不肖の息子ですが」

 宇迦之は首を横に振り「面立ちがよく似ておいでです」と微笑んでから、矢庭に表情を硬くした。

「――貴方のお顔は存じ上げております。禁軍にいらっしゃいましたね」

 臥龍は小さく頷いた。

おうりょうです。はくこうより雪巌せつがん字名あざなたまわっておりました」

「そうでしたね。覚えておりますよ。白皇が御斃おたおれになる間際、妣國ははのくによりの襲撃の報に際し、勅命を以って氷珀ひょうはくとりでにいらっしゃいましたね」

「はい。――際果てにおりましたが故に、皇の危難に馳せ参じる事あたわず、おめおめと生き残ってしまい……」

「御無事でいらして本当によかった。――氷珀の事は、長く気掛かりだったのです。当時、皇のおめしが掛かったとはいえ、自身の設計したものを中途で投げ出すような形になってしまいましたから」

 臥龍は宇迦之の前に歩を進め、膝を突いた。

「名工のほまれ擅権ほしいままになさった貴殿、すいれい君のお手による氷珀です。あの激戦を見事耐え抜いてくれましたよ。――本当に、長らくご不自由をおかけいたしました。と言っても、我が陣に来ていただいたところで宮中のようには参りませんが」

「元より承知の上です。そも、辺境の育ちであるわたくしには、宮中のほうが余程肌に合いませんでした」

 宇迦之は小さく笑った。

 と、そこへ軽い物音と共に着地した者があった。二人が入り口に目を向ければ、そこにはおすくにを肩に担いだらいが帰投していた。

 らしいと言えばらしいが、あまりに酷い息子の有様に、臥龍は呆れた顔を向ける。

「お前、それがどういう御方か本当に分かっているのか?」

「ああ? 何言ってんだよ、分かってなかったら連れてこねぇよ」

「全く……。その分では力に物を言わせただろう。先が思いやられる」

 臥雷は臥龍の嘆息に、へへっと笑って見せた。

 と、そこにべしょり、べしょり、という気持ちの悪い音が近付いてくる。

「なんだ?」

 眉間に皺を寄せた臥雷が、食国を担いだまま入り口の方へ向かうと、そこへ姿を現したのは、男を一人背負った野犴やかんだった。

「お前、何やってんだ? お前はこの二人の迎えにきたんだろうが」

 呆れたように呟く臥雷に、野犴は忌々しそうな顔で「面目ない」と額に張り付いた髪を掻き揚げた。

 臥龍が、男の背から生えた二本の矢を見て顔を険しくする。

「お前、えいしゅうの民に毒矢を射たのか」

「これは瀛洲の者じゃない」

 言うや否や、野犴は背中からずるりと投げ出すように男を滑り落とし、岩の上にどさりと転がした。

こく。こいつ何者だ?」

 男の傍にしゃがみ込んで顔を覗き込みながら問う臥雷に、野犴は氷の様に冴え冴えとした眼と口調で答えた。



げついぬだ」





         『白玉の昊 序章』 完


          続 『白玉の昊 破章』


https://kakuyomu.jp/works/16817330651111612092/episodes/16817330651112174118



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