44 天地人


 嵐の中、断崖から見下ろしたむらは、狭く小さかった。


 燃え上がる炎は徐々に弱まっている。煙が上がったものが上空で蜷局とぐろを巻いていた。この分ならじきに雨が降り出すだろう。八咫やあたは、生まれて初めて一望する邑の姿を、瞼の裏に強く焼き付けた。


 ――西の孔を抜けると、すぐそこに食国おすくにが待っていた。もう髪色をいつわる必要もない。八咫には未だ見慣れぬ白銀の髪が風になびいていた。二人は無言で頷きあうと、そのまま川の大岩で待つ寝棲ねすみの下へ向かった。

 独断専行も甚だしかったが、寝棲は何も言わずに「行くぞ」と荷物を背負った。食国も八咫も自分の分の荷を担ぎあげた。邑で何があったのか、寝棲は既に聞き及んでいるのだろう。それでも何も言わないのは、今が先へ進む以外にすべき時ではないからだ。

 川を更に上流へ向けて進むと、やがて足場にして崖を昇れそうな箇所があった。事前に寝棲が見付けていたという。そのまま三人は崖を昇り切った。


 そうして今、三人はこの瀛洲えいしゅうの全景を望んでいる。


 邑を見下ろす八咫の隣に寝棲が立つ。

「ここに来た時は、この崖から下まで転がり落ちたんだ。本当ならあのまま死んでたかも知れねぇ。お前達に拾われた命だ。いつか必ず、この借りは返す」

「ああ。期待しとく」

 八咫はにっと笑って、先へ進みだした。

 崖の上は起伏の激しい切り立った岩の連なりで出来ていたが、これをしばらく行けばその端に至り、くだり切れば乾いた平地が続くという。

 先導する寝棲の後から、食国が、そこから三歩程遅れて八咫が続く。僅かながら、後ろ髪を引かれる思いはあった。

 八咫の存在は、ここでは薄弱かつ無用の長物に過ぎなかった。食国も同じだと思っていたが、実際は違った。違ってはいたが、少なくともここにいて己を卑下せずに生きられたのは、食国がいてくれたからだ。そして図らずもゆうや、反目していたかじ長鳴ながなきとも手を結ぶ事が出来た。出ていく前に、八重やえを信頼して託せる人が出来た。それが心からありがたかった。

 ここは、これまでの人生の全てで、憎むべき場所で、それでもどうしようもなく別たれ難い場所で、つまりは結局ここが、自分の命を育んだ場所で。


 これからは、ここを解放するために自分は生きるのだ。


「――ああ、そうだ寝棲」

「なんだ八咫」

「俺気付いたんだけどさ」

「ああ」

「白玉を拭く布、あれ刺繍してあったの、意味の分からないただの模様じゃなかったわ」

「――は」

「あれ全部、ひらがなとカタカナで書いてあった」

「……なに?」

 寝棲が歩みを止めて、眉間に皺を寄せて振り返る。

「邑長がやらせてきたんだから、そういう事なんだと思う。あんなにしょっちゅう洗って干してしてきたのにな、全く分かってなかった。知識がないって、目の前に答えがあるのに何も理解できないって事なんだな」

 寝棲は深い溜息を吐いた。

「――えいしゅう是不動如山也」

「なに?」

「大昔に、叔父貴に言われた言葉だよ。今更思い出したぜ。えいしゅうは動かない山の如きものだ、と」

「動かない山、か」

「動かないからといって死んでいる訳じゃなかったんだ。其れ即ち座した白虎。楼閣をしずめる龍。ここもたい輿と同じように、ずっと、何があったのかを伝え守ってきたんだな。月朝に従った形をとって、虎視眈々と時を見計らっていた」

 説明はされたが、矢張り耳慣れない言葉は八咫には吞み込みにくい。意味が分かったような分からないような、何という事もなく昊を見上げる。雲が――厚さを増している。

 寝棲は憎々しげに唇を噛む。

「今更気付いたところで戻る事もできない。況してや大半は焼失してしまったんだろう? ――目の前で鍵を谷底に落としてしまった気分だ」

 それはいつか八咫が抱いたのと同じ思いであったろう。他者の泥に触れる権利は、信無くしては得られない。邑同士の間にも、伏して秘められた事は数多あまたあったはずだ。同胞が互いに胸襟を開かず、その泥に触れ合わずに来た。だから今日こんにちまでこんな状況が続いてしまった。そういう五百年だったのかも知れぬ。

 そして、言った当の本人は――未だ天を仰いだままだ。じっと雲を見ている。

「ねすみ」

 横から食国が声をかける。それでようやく、八咫も視線を下げた。

「ぼくが、むらおさたちからきいている。たぶん、すこしはやくにたつ」

「――ああ。ありがとうな」

 食国は自分達以外の人間の前では、これまで通りの聞こえぬ態を維持すると八咫に告げていた。食国と八咫は、静かに視線を交わし合う。

 寝棲は彼等のそんな思惑も知らぬまま、食国の横顔を静かに見詰めた。

 計らずも先朝の遺児を自分は手にした。これは間違いなく最強の手札になる。同じく朝敵となるだろう白浪はくろうに対し、そのかなめを陣営に加えた仙山せんざんは間違いなく一歩先んじる事ができる。それこそ、手勢の薄さを補って余りある。

 少年達の思いや志を利用しようとしているという自覚はあった。それに対して若干の罪悪感がない訳ではない。しかしそこに拘泥していては真の本懐に至る事など到底できないのだ。これで少しは先に逝った友や、帰りを待つ同士達に対して申し訳が立つだろうか。そんな風に忸怩たる思いを慰めていると「あ、そうだ。もういっこ話があったんだ」と、急に間の抜けた調子で八咫が声を上げた。寝棲は気を削がれて眉間に皺し、食国は微笑んだ。

「今度はなんだ」

「白玉の祠の中に、一冊、本があった」

「本、なんのだ……?」



「中は全部見てきたから憶えてるが、文字が読めねぇから意味は分からねぇ」



 瞬間、空隙、としか言いようのない物が辺りを支配した。

 言葉の意味をとらえあぐねるも、その意味は至って単純だ。

 寝棲と食国が、八咫の顔を穴が開くほどに見つめる。

「―――――は? おぼ、えてる、だと?」

 愕然とした寝棲を見て、八咫は怪訝そうな顔をした。



「当たり前だろ? いくら俺の頭が不出来でも、一回見たものは絶対忘れねぇよ。皆そうじゃねぇのか? 布に刺してあったのだって全部憶えてるぞ? 見た分だけだけど。多分四百とちょっとぐらい」



 ――ぽつり、と一滴が寝棲の頬を打った。

「――八咫、お前」

 寝隅の全身に粟が立つ。思わず八咫の両肩を掴んだ。

「いいか? 普通の人間は、一回見た程度じゃ、すぐに忘れるもんだ」

「え、そ、そうなのか?」

「お前、見たものを忘れないというなら、その本の中に何が書かれていたか、文字が分かるようになれば読めるという事になる、ぞ……?」

「ああ、それは絶対できる。間違いない」

 あ、と何か思い出したように、八咫は天を仰いだ。閉ざした瞼と頬を、ぽつり、ぽつりと雨が打つ。

「表紙だけは読めた。二人に教えてもらった仮名でほとんど書いてあったから」

 指先を天に向けて、文字を中空に書き付けていく。

「か、く、や、ひ、め、の」

 目を見開き、にっと笑って見せた。



「物語――かくやひめの物語、だ」



 彼等は未だ知らない。

 五百年前に、彼等五邑と共にこの国に持ち込まれた、その一冊の本が持つ意味を。

 自分達の祖が歩んできた宿命を照らすそれを。

 その内に記された全てが交差する過去がある事を。

 計らずも今しがた八咫が口にした言葉の通り、知識がないという事は、その眼前に答えがあれど何一つ理解できないという事を意味するのだ。

 轟、と強風が三人の髪を乱していった。そして風は海へと流れてゆく。

 寝棲と食国は、八咫の背後にあの青い大き星を見た。



 それは天球の内で唯一太陽よりも大きい星だ。満ち欠けはすれど、その浮かぶ位置は常に変わる事がない。表には白くうごめく雲をまとい、奥では地表と思しき大陸が回転をする。



 そして、八咫と食国は知らず、寝棲だけが知る事がある。

 この姮娥こうがの内で青昊あおぞらを頂くのは、この瀛洲に限られているということを。ここだけが、まるであの大き星のような青い天を望めるという事を。


 この邑は、翼を広げた鴻鵠こうこく海原うなばらかいないだいた、その翼下に落ちる影のような形をしている。

 大海から寄せる波頭はとうに削られた断崖絶壁の翼は猛々しい。左翼は北東、右翼は南西に向けて薄く内に湾曲してび、波のとどろきを受けて止む事がない。尾根の中央には鳥の首部の如く突出した山頂が一本屹立し、全体は海にのぞんでうずくまり、じっと湾を囲んでいた。村そのものは、その足元に包まれるようにしてそこにあった。

 三人は、その南西に向けて伸びた右翼に立ち尽くしているのだ。

「そうだ、もう一つ忘れてた。寝棲、布なんだけど」

「あ――ああ、どれか適当なものを取ってこれたか?」

「ごめん、だめだった」

「取って来れなかったのか?」

 八咫が懐から自分の布を引きずり出す。

「俺、白玉の所へ行った時に自分の布で試してみたんだ。最後の機会だから自分の物を使ってみようと思って。――でも、やってみたら俺も色変わらなかっ……」

 八咫が最後まで言葉を紡ぐのを待たず、寝棲は血相を変えて、自分の隣にいた食国の襟首を引き掴み、自身の背後に隠した。――あたかも八咫から隔離するように。

「いた……っ」

「ちょ、寝棲、なに」

「お前達はっ!」

 寝棲の手が、食国の肩をぎりと掴む。その手が震えていた。

「今後一切接触してはならん!」

 八咫と、食国は、寝棲の肩越しに、互いの眼を見た。



「――したら、こいつは間違いなく即死する‼」



 思いがけぬその言葉に、八咫は息を呑んだ。

「え、と……寝棲……? え、なに? 何言ってんだ?」

「何じゃねぇよ馬鹿野郎‼」

 寝棲の額に汗が浮く。しくじった。これは、想定していなかった自分が馬鹿だった。寝棲はあまりにも軽薄だった自分の警戒を心の底から恥じた。

「言っただろうが! 『色変わり』しない者は、その身体の中に死屍しし散華さんげを溜め込むんだって‼ ここに合祀された『御髪みぐし』は強力な殺傷力を持つんだ‼ それを身体に溜め込んだ『色変わり』しない者の殺傷力は他に類を見ないんだよ! こいつは夜見の民だろうが‼ 触れれば即死する‼」

 寝棲は食国へ顔を向ける。悲愴に歪められた白い顔に、寝棲は厳しい顔で首を横に振って見せた。


 寝棲を挟んで八咫と食国の視線が絡み合う。


 意味が――分からなかった。

 ここまで来て、どうして急にそんな事になった。何故だ。何が間違っていた? どこでどう間違えた? 答えの出ない問いで、二人の思考の全てが埋め尽くされた。その次の瞬間。



 食国の身体が宙に飛んだ。



「なっ……!」

 その直前まで間違いなく食国の顔を見ていた寝棲は、視界から彼の姿が消えた事実を理解する事が出来なかった。先に反射したのは八咫だった。

「寝棲! 上だ!」

 八咫が指す方へ顔を向ければ、何か白い紐状の物で上半身を巻き取られた食国が釣り上げられている。理解できない場面に直面したといった顔で、食国の身体はそのまま紐に引き寄せられてゆく。

 その紐の果ては、存外近くにあった。それは一人の男の右手に繋がっていた。男は遠目にも白い短髪である事が見て取れた。しかしその肌は――月人のものとは明らかに違う褐色だった。

 八咫も寝棲も、あまりの事に声が出ず、ただその光景に言葉を失っていた。

 最初に我に返ったのは食国だった。男のすぐ側まで手繰り寄せられた事に気付いた食国は、中空で体勢を変え、男の脳天に踵を落そうとした。しかしそれは寸でのところで男の腕で弾かれる。鋼の様に固い筋肉に弾かれて、食国の踵は激しくしびれた。

「おっとぉ、やるじゃねぇか御子様よ!」

 男は楽し気に紐を振るい直すと、再び食国を高く中空に巻き上げ、急激に強く引いた。勢いにあらがえず、食国の身体は岩に叩きつけられ、かすかな呻き声を上げた後意識を失った。

「食国いいいっ‼」

 八咫の絶叫に、はっとして寝棲は息を呑み込んだ。

「おっ、お前は何者だ⁉ それは俺達の連れだぞ!」

 男は困ったように笑いながら食国を掴み上げると、自分の肩に担いだ。

「こいつは俺達が迎えに来たんだ。横から勝手にさらわれちゃ困るんだよ。こいつの擁立を発案したのは俺だってのに、空手からてで帰投じゃ麾下きかに面目丸つぶれになるわ」

 にい、と笑いながら、男は「そうだ、俺が何者かって?」と心底楽し気に言い、男は自身の胸を親指で指した。 

「俺は白浪はくろう頭領、琅邪王ろうやおう臥雷がらい。手ぶらの言い訳に使えそうなら覚えとけ」

 八咫はひっと息を呑んだ。

 理解した。この男は食国を本気で連れて行く気なのだと。

「いっ、厭だ! 止めてくれ! 俺達はこれからもずっと一緒にやって行くんだって誓ったんだよ!」

 八咫の言葉に、臥雷がらいは眼を少し見開いてから声も高らかに笑った。

「おうおう、愛しの姫を奪われて悔しいか! だがなぁ、こちらも伊達や酔狂で国崩しやる訳じゃねぇんだわ。呪うならテメェの非力を呪え」

 男は「じゃあな」と踵を返した。歩いてゆく。歩いて行ってしまう。

「ま、」

 待ってくれ、と言葉にするはずの物は、形になる前に途切れた。そして八咫の肩にぽん、と大きな手が乗せられた。


「にぎやかだと思ったら、面白い事になっているね」


 突然背後から掛けられた手と言葉に、眼を丸くして振り返ると、そこには見た事もないような巨躯の、そして美貌の男が立っていた。

 男は柔らかく優しい微笑で、八咫を見下ろす。黒い長髪が波打って風に靡いた。肩に置かれた手首には、太金タイチンを内包した水晶の数珠を巻いていた。

「おっ――麻硝ましょう、どうしてここに」

 男を眼の前にして、唇を震わせているのは寝棲も同じだった。男は寝棲の方へ顔を向け、眼を細めるとゆっくり頷いた。

「うん。迎えに来たんだよ。寝棲。ここはもういいよ。あれは諦めて引き下がろう」

「なっ」

 八咫は血相を変えてその男の襟首を掴んだ。

「なんでだ⁉ なあ、あんた仙山の人なんだろ⁉ 俺達は、あんたたちの仙山に加わる為に邑から出て来たんだぞ⁉ なんで食国の事を見捨てるんだよ!」

 男はゆっくりと微笑んで八咫の手を襟から外す。

「そうだね。君達の志、有難く受け取ろう。しかし我等が仙山の今回の策はもう達成されたんだよ」

「麻硝、では」

「うん。各地の城より不死石しなずのいしは集められた。たい輿より戦果も無事に回収し、大本営に到着したと伝令が来た。後は君の報告が終われば、今回の作戦は全て成功した事になる」

「しかし……」

「報せの内容は承知しているよ。彼が何者かという事もね。しかし、あれを戦果に持ち帰りたかったのは、成果をいた君の独断に過ぎない。もしそうでないと言うならば、君は、それで亡くした仲間達の命の責をあがなえるとでも思ったかい?」

 静かな麻硝の指摘に、寝棲は図星を突かれて黙った。

「という事だ。仙山はこれで撤収する」

「厭だ! 頼む! 食国をっ……!」

 取り戻してくれ、という言葉を紡ぐ前に、八咫の頸に手刀が落とされる。気を失った八咫の身体を麻硝は寝棲に渡した。

「近くに馬を待たせてある。そこまで運んでやれ」

「――分かった」

 寝棲が八咫を担いで歩き出すと、麻硝は、対岸の崖に立つ臥雷に向き直り、すっと背筋を伸ばし微笑んだ。

「おおい、そこな白浪の頭領殿。お名前は臥雷殿でよかったか?」

 臥雷は、にやと笑う。

「ああ、それで合ってるぜ。お前は」

「これは失礼。私は弓削ゆげの麻硝ましょうと申す。仙山せんざんという名ばかりの破落戸ごろつきを恥ずかしながら取りまとめております」

「仙山、か」

「此度は我々はこれで引き上げる。そちらもそうなさると宜しかろう」

「ああ。俺もこれ以上長居するつもりはねぇ。命までは獲られやしねぇが、死屍散華の焼煙はそれなりに堪えるんでな」

「いずれまた、お会いする事もあるだろう」

「ああ。それが戦場で剣を交える時じゃねぇよう祈ってるぜ」

「こちらこそ」

 両陣営の首魁は、そこで両者踵を返した。

 これより双方の陣営が引き起こす事が、この国にとって如何に作用していくのか、この時、知る者は誰もいなかった。


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