「美しい沈黙」(第35回)
小椋夏己
美しい沈黙
「見て見て、きれいなお月様」
「本当だ、まん丸だ」
「そういえば今日は皆既月食だって」
「ああ、聞いた聞いた」
「ついでに天王星食だって」
「戦国時代以来だっけ?」
「ほう、そりゃめでたい」
「なんか祈っとけ祈っとけ」
「えっと、じゃあ、受験がうまくいきますように!」
「あ~あたしらはそれかー」
「お月様、なんとか第一志望に受かりますように!」
「受かりますように!」
二人並んで女子高生が欠けていく月に祈る。
「明日のお父さんの手術がうまくいきますように」
まだ若い女性が部屋のベランダから空の星に祈る。
「お母さん、おじいちゃんおばあちゃん、まだお父さんを連れていかないで。手術がうまくいって元気になってくれますように。ううん、前のようにならなくてもいい、まだそばにいてくれたらそれでいいから、だから……」
涙を浮かべ、ひときわ明るく輝く宵の明星にそう言って何度も何度も祈っている。
「あ、流れ星!」
「願い事言った?」
「だめだった~」
「あ、また流れるよ」
「……………………」
「何祈ったの?」
「いつまでも二人でいられますように」
「僕も」
幸せの真っ最中にいる二人が手を握り合い、次から次に流れる流星群に祈る。
「ずっとずっと幸せでいようね」
そう約束を交わしながら。
一人の女性が闇を帯びてきたグラウンドを走る、ただひたすら走る。
彼女は長距離ランナー、有望な陸上選手としてこの会社に籍を置いている。
朝から昼過ぎまで仕事をし、同僚たちより早く退席してその後はトレーニングを重ねる。
走る。走る。走る。
早く、早く、少しでも早く走るために、ただ懸命にトレーニングを続ける。
この時期、夜が落ちてくるのは早い。
やっと今日のノルマを終えた頃、ふと空を見上げるともう薄明の空には星が輝き始めていた。
彼女は自分で手にしたことしか信じない。
今までもずっとそうだった。
どれだけ祈ろうが、泣こうが、わめこうが、結果がすべての世界だ。
肩で息をしながら整理運動をする。
少しずつ息が整い、ふと見上げると透ける夜空に数え切れないほどの星がまたたく。
「次の記録会では前よりいい記録を出せますように」
思わず彼女の口からそんな祈りがこぼれていた。
今までどれほどの人が、どれほどの年月に、どれほどの星に、どれほどの祈りを捧げてきたものか。
そしてどれほどの祈りが届いて願いが叶い、どれほどの祈りが届かず願いが叶わなかったのか。
その人が祈ったその星は、何万年も前に燃え尽き、今はその残り火が微かな光となってかろうじて届いているだけ。
その人が祈ったその星は、ただ法則に従って、ぐるぐると決まった軌道を動いているだけ。
その人が祈ったその星は、本当に小さな宇宙の塵が、燃え尽きる時にしっぽをはやして流れただけ。
どの星も人の祈りを聞き、叶えてやろうなどと思うことはない。
なのにそれでも、人は祈りを捧げずにはいられない。
空も星も答えてはくれない。
それでも人が祈りを捧げるのは、そこに空が、星が、ただいてくれるから、存在してくれるからなのかも知れない。
ずっと変わらずそこにいてくれる。
何も答えてはくれないからこそ、祈りを捧げるのかも知れない。
今日もまた誰かが祈りを捧げている。
ただ冷たく美しい沈黙に。
祈りよ届けと微かな光に。
「美しい沈黙」(第35回) 小椋夏己 @oguranatuki
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