葉山幸雄の聖書

林堂 悠

第1話 はしがき

 葉山幸雄はやまゆきお。享年27歳。

 私が、彼の人生を小説として後世に残すことを決心したのは、つい先日のことである。


 私は故人のことを直接は知らないのだが、なんでも、私と同郷の道産子であり、27歳という若さで自ら命を絶ってしまったということで、その話題性から、知人や友人を介して私の耳に入ったのが事の始まり、しかし、始めは、その故人の物語に対して、何も思うところがなかった。


 いいや、……違うな。


 何も、小説の題材になるほどの感動も、壮大さも、悲壮感も(これはある意味では存在したが)感じられず、聞けば聞く程に、ただ、不愉快になるばかりだったのだ。


 事実、すすきののバーで故人についての話を聞いていた私は、作家の身でありながらも、ついに最後まで、これは小説になり得るだろうかと一考することもなく、好物のハイボールまで不味く感じる始末で、十数年来の再会であった友人との飲みも、早々に切り上げてしまったものである。


 語り手である友人が締めに選んだ言葉は、こうだ。


「死んで当たり前。救いようのない、とんだクズ野郎だよ」


 不敬も承知。故人の生涯を聞き終えて、全くその通りだと、私も思った。


 では何故、今となって一転、この故人の人生を綴ることにしたのかは、本当に、つい最近の出来事が関係している。


 お世話になっている出版社との打ち合わせのため、私が東京に来ていた日のこと。

 東京出張は、北海道を拠点に作家活動をしている私の、月1の恒例行事である。

 

 この日も、いつものように、打ち合わせにて、次号から月刊誌に載せる新たな小説のテーマについて、ああでもないこうでもないと論争し、犬猿の結末で終えて、新橋のバーで酒を飲み始めた時だ。たまたま、あの故人の名前がいきなり耳に入ってきて、私はグラスを運ぶ手を止めた。


「おい。知ってるか? 葉山の奴……自殺したらしいぞ」

「はぁ? 葉山って、何年か前までウチ(この人たちが所属する会社)にいた葉山幸雄か? マジで言ってんのか?」


 東京の地で故人の名前を聞くことに、驚きはなかった。

 もちろん、星の数ほどある東京の飲み屋の一件で、同じく、星の数ほどいる東京のサラリーマンの中から、故人の元同僚と出くわす奇跡には、間違いなく驚いたわけだが、すすきののバーで聞いた話によると、この辺りで故人が暮らしていた過去があることは把握していたから、こんなこともあるものかと、変な感動が芽生えただけである。


 しかし、どうにも、彼らの話に聞き耳を立てていると、腑に落ちないところがあった。


 友人が語った故人と、彼らが語る故人とが、まるで、違う人物に捉えさせられるのだ。

 

 故人が長い間、生活の拠点としていた新橋という場所、葉山幸雄という名前、自殺というワード、いずれの客観的証拠をもってしても、同姓同名の、別の人物の話をしているように感じられて仕方がないのである。


 ここで初めて、小説の「しょ」の字が頭に浮かび上がって、作家のさがかな、好奇心に駆られて、私はその元同僚らしき人たちに、初対面ながら、声を掛けてしまった。訝し気な反応をされたが、話題が話題なだけに、彼らも自殺の真意については好奇心に駆られた様子で(当時は私もそこまで把握していなかったが)、5分も経ってみれば、随分と私の質問に対して協力的になってくれた。


 早々に、私の中の故人と、彼らの中の故人とが、同一人物であることに間違えがないのは分かったのだが、人物像の相違に関しての謎は解けず、しかも、彼らから話を聞くほどに、それを究明することは難しい状況となってしまった。


 何故、困難となったのか。それを説明するためには、そろそろ、私が故人に対して抱いてるイメージ、つまり、私の友人が語った故人の物語というのを、話す必要があるだろう。(察しのいい方は既に予想出来ているかもしれないが、どの道、いずれは話すことだ)


 それは、こうだ。

 だいぶ省略して、要点だけを書く。


「葉山幸雄。大学の卒業までを地元の北海道で過ごし、就職のために上京してからは、東京の悪いことばかりを覚えてしまったタイプの男だ。酒と女。まぁまぁこれは割とよくいるタイプだな。娯楽の少ない田舎町で育った田舎者が、煌びやかな都会、東京に出て、優越感にでも浸るのか、田舎を馬鹿にするようになる奴だ。ただ、ここからがちょっと、普通とはかけ離れてくる。27歳にして三度の結婚。三度の離婚。原因は全て葉山の不倫。それからも人妻にちょっかいをかけては、何度も裁判沙汰になったとか、ならなかったとか。終いには遊ぶだけ遊んで、いきなり地元に帰ってきたと思いきや、これが最低だよ。何をしたと思う? 散々友達の前でも田舎を馬鹿にしたりしたんだろう、因果応報だな。もはやたったひとりだけになっていた自分の友人の、その妻を、……また寝取ったんだ。慰謝料に慰謝料がかさんで、借金地獄。んで、何もかもを投げ捨てて、自殺だ」


 そうして締めの言葉につながる。


 これを聞いた私が不愉快な気持ちになった理由、いや、もう、全てだ、ハイボールが不味く感じた理由も、小説にしようという考えすら浮かばなかった理由も、ましてや、私が故人に抱いたイメージも、細部まで語る必要はないだろう。


 クズな男がひとり、自業自得の結果で死んだだけである。


 しかし、この同僚たち。


 故人の生前について語りながら、酒の勢いも増してゆき、もはや私の存在を忘れたのかと思わされるほどに、涙まで流して、嗚咽するのだ。


「なんであいつが。自殺なんて。おかしいですよ。先生(作家を名乗った私をそう呼んでいました)、何か知らないんですか? あいつはね、僕が出会った人間の中で一番真面目で、正義漢の強い、優しい人間だったんです。本当ですよ」


 こう言って、私の腕の部分を、しわが残るほどに、強い力で掴む。


 私の頭の中にいる故人の印象など、伝えようもない。


 言ってしまえば、たかが数年の付き合いだろう。しかも仕事の関係。それでいて、ここまで故人の死を哀しみ、涙を流すというのは、彼に対してクズな印象を抱いている私には、理解が出来なかった。


 それはまぁ、故人が職場仲間に対してだけは、自身の非道徳な一面をひた隠しにして、常識人を装っていたということも考えられるだろう。だが、完全に隠すとなると、相当な意識が必要なのではないだろうか。「出会った人間の中で一番真面目で、正義感の強い、優しい人間」。こんな評価が下されるほどにだ。だとしたら、かなりの演技派。


 それはそれで、彼の人生が気になる。


 そう思って、私は、故人の人生を調べることにし、結果、こうして小説を書くに至ったほどの何かを見つけたのである。


 そう。


 何か、である。


 具体的に言ってくれよ、と、非難されることが想像されるが、この想像力もまた、私が故人の物語を綴ることに至らせた決意のひとつだと言ってもいい。


 先に言ったが、私は作家である。出版社との揉め事の多い、いわば癖の強い、厄介な作家である。(少々物語から外れて自分語りをするが、これから故人の物語を進めるにあたっても重要なことなので聞いてほしい)


 いつだって揉め事の原因は、世間が求める小説と、私が書きたい小説の相違にあった。


 大衆文学と、純文学。


 大衆文学というだけあって、大衆に売れるのは、前者である。

 従って、近年の小説に求められるのは、それとなる。


 物語が分かりやすいからだ。


 例えば恋愛物語。

 わざわざ説明する必要もないかもしれないが、もちろん、ただ女と男が出会って交際をするというわけではなく、複雑な家庭環境、金の事情、特殊な性癖といった困難をくぐり抜けて、結末にたどり着くまでの過程を描いていく。


 例えばサスペンス物。

 これはまぁ、言わずもがなだろう。


 もうひとつ、なろう系。

 これは見方を変えると、随分と違った点で、面白い。

 何故、昨今の人間は、比較的苦労を必要せずに得る屈強さと、恋を求めるのか。

 これはある種の哲学であり、心理学だ。もっと因数分解すれば、経済学にまでたどり着くのではないかと、私は思う。 


 いずれにせよ、読者が思慮を巡らす必要性が最小限で得られる感動と、感傷と、寂寥せきりょうが、結末に置いてあるのである。


 対して純文学は、どうだ。


羅生門らしょうもん』も、『人間失格』も、『カラマーゾフの兄弟』も、どうだ。(ドフトエフスキーに関しては大衆文学を交えた要素もあると、私は考えるが)


『下人の行方は、誰も知らない』


『神様みたいないい子でした』


『神が存在しなければ、全てが許される』


 残念ながら、文学に興味がないほとんどの人間、つまり、人間の善悪や日常の過ちに思慮を巡らせない大衆が読めば(とげのある言い方であることを謝罪する)、「で?」の一言で片づけられてしまう。


 おおよそ、社会の改善を志す人間とは、その救いの対象である大衆によって葬られるものだ。


 だからこそ、革命を成し遂げた偉人は、すごい。


 フランス革命のナポレオン。


 三国分立の諸葛亮しょかつりょう周瑜しゅうゆ


 それこそ、偉人ではないが、無神論者のイワン。


 あぁ、少し冗長になってしまっただろうか。


 ここまで書いても、「で?」と言われてしまうことが想像出来てしまう。


 一旦やめておこう。


 ともかく、私は、作家の駆け出しの時こそ大衆文学に、ある意味、私的には、逃げてきてしまった。


 その自らの葛藤とプライドが、現在、出版社と揉めている最大の理由である。


 私は純文学を書きたい。


 そんな折に見つけたのが、故人の物語であった。


 私は、書こうと思う。


 揉めた結果、出版社が出版する月刊小説誌の方向性から逸れることは、やはり、承諾されることもない。


 故に、このサイトに書く。


 ただ、初めに言っておく。


 書き終えて、「で?」と言われるのもしゃくだから、言っておく。


 この故人の物語を通して私が伝えたいこととは、彼がクズなのか否かである。


『下人の行方は、誰も知らない』的な感じで、主人公がふたつの意味で消え去り、果てにどうなったのかを思慮させるようなことは、しない。


『神様みたいないい子でした』的な感じで、酒と女と薬に溺れた主人公が、はたして本当に人間失格なのだろうかと、最後に考えさせるようなことは、しない。


『神が存在しなければ、全てが許される』

 これは、申し訳ない。私は未だに、ドストエフスキーの作品は、その作品論の全てを理解出来ていないから、せめて努力して、これほどの文学を作りあげたいとは、思う。


 では、始めよう。


 故人の物語は、到底、普通では想像しえないところから始まる。


 彼は、中途半端な無神論者で構成された平成の日本に生まれながら、キリスト教に入信した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

葉山幸雄の聖書 林堂 悠 @rindo-haruka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ