第12話
社長室にサンタ・クロース・カンパニーにとっては、最大の功労者ともいえる冬村と南郷の二人を呼ぶと、萌依は辞令を手渡した。
「冬村さんには、わが社の副社長、南郷さんには専務に、就任してもらいます。年収もちょっとやけど、増えるから安心して」
萌依は大企業の鷹司産業の重役と、子会社で新設されたばかりの零細企業ともいえるサンタ・クロース・カンパニーの役員を兼務していた二人が、所得が増えたとしても喜ばないのではないかと危惧した。が、予想に反して二人からは好反応が返ってきた。
「ということは、私と南郷さんが萌依社長にとっては、水戸黄門の助さん、格さんと言うことになりますな」
「時代劇知らんし……。普通、女の子を水戸黄門に例えるやろか」
「まあ、そんな話はどちらでもよろし。二人とも、粉骨砕身、働く覚悟ですわ。そやから、あんまり虐めないでください。なあ、冬村さん」
今日の会議での表情から察すると、力哉の心境に何らかの変化があったのは明らかだった。萌依は、布巾でテーブルを拭いたり、コーヒーを運んだりしながら、注意深く様子を観察した。悔しさで打ちひしがれているというよりも、力哉はむしろ吹っ切れて開き直っているように見えた。
居眠りしている航大を横に見ながらも、萌依は会議中できるだけ多くの意見を伝えたり、彼らの主張に熱心に耳目を傾けたりして、意識をよそ事に向けないようにしていた。
※
萌依と航大はホテルのロビーに入り、周囲を見回した。ロビーの椅子に腰かけているものが何人かいたものの、華音の姿は見当たらなかった。
兄の航大は気が逸るのか、萌依を急かして、家を早く出過ぎていた。
華音がホテルに来ると、すぐにレストランに行って、バイキング形式のランチを堪能した。
テーブルについて、しばらくすると電話が鳴動した。電話の相手は力哉だった。
「昨日、青野君たちと、夜通し相談したのやけどな。サンタ・クロース・カンパニーを正式に存続させるに当たって、方向が決まった。株主も支持しているし、それが株価にもプラスに作用している。鷹司産業でも、営業の担当が、サンタ宅配便の問い合わせを受けているそや。宣伝効果を考えると、潰すわけにはいかんからな」
「会長、ありがとうございます」
「それとな……。鷹司産業から、サンタ・クロース・カンパニーに広告宣伝費として二億七千五百万円入金する。広告効果の絶大さに比べたら安いものや」
電話を切ると、萌依は僅かな間、身体が震えるのを感じた。無論、それは恐れのせいではなく、感動が原因だった。
二人に電話の内容を伝えると、周りが注目するほど大きな声で「よかったねえ、よかった」と華音が声を出して喜び、二人同時に拍手した。
萌依は華音が愚痴をこぼすのを耳にした例がなかった。華音の生真面目で好感の持てる態度に敬服し、賛辞を呈したときも「褒めてもらえるだけの仕事をできるように頑張りたいと思っています」と、慎ましく言葉にしただけだった。
顔をハンカチで拭っても、涙が溢れ出ていた。萌依の頭の中には、クリスマスの日に子どもたちが喜ぶ姿があった。頬を伝う涙が、喜びの感情をいっそう、強く確実なものにした。萌依が泣き始めると、華音まで涙を流し始めた。
二人が泣いているので航大は戸惑い、「変な人たちだよな。嬉しいのに泣いているのやで……。嬉しいときに尻尾を振るサンチョの方が、よっぽど分かりやすいやつやな」と言葉にすると立ち上がった。
歓喜はたちまち、次の希望へとつながり、萌依は自分の胸の内にあるものを話し始めた。
「最初はどうなるかと思ったけど、ずっと続けられるやなんて、夢のようやわ」
「こっちこそ、ハラハラしたわ」
「萌依ちゃんの経営手腕は、見事やったわ。そばで見ていて、惚れ惚れしたぐらいや」
「そんな風に言うてくれるのは、華音ちゃんだけやわ。さんざん悪口を言うていたのに、黒字が確定しても、誰も本心から褒めてくれへん」
「そらそうや。サンタ宅配便事業の波及効果で、鷹司産業グループ全体の収益性が向上したから、サンタ・クロース・カンパニーに広告宣伝費の名目で入金してもらえた。そやから、会社が救われたのや。まだまだ、単体事業では、課題が残っているやろ。まあ、そういうこっちゃな」
「これからが正念場やね」
華音は楽しげに笑った後、顔にかかる長い髪を手ではらった。美しく大人びた華音が、萌依の目には無垢な女子高生のように見えた。
「泣いたカラスが、もう笑ったか。ほんまに、変な人や」
毎年、十二月には一階のショールームに、サンタ・クロースやトントゥ、トナカイの蝋人形が飾り付けられる案が採用された。サンタ・クロースは冬村、トムテは華音にそっくりに作られた。
サンタ・クロース・カンパニーの社員たちは、萌依の説明を聞くと、一斉に立ち上がり、誰からともなく拍手をし始めた。それは、愛すべき社長に対する心からの賛辞を贈り、敬意を表するための拍手だった。
冬村の目に涙が溢れ出していた。南郷ももらい泣きしそうな情けない表情をした。
クリスマスの最大の贈り物は、萌依にとっては――優れた社員やスタッフたちとの邂逅だった――そんな風に、漠然と想像しながら、彼女は幸福な気分で満たされていた。
閑散期には、サンタ・クロース・カンパニーは鷹司産業の広報部門をサポートする部門として評価された。
株主たちが、サンタ・クロース・カンパニーの実力を認めると、野心家の青野もうるさく口出ししなくなった。その後も、青野はサンタ宅配便事業に関しては、嘴を挟まなくなり、サンタ・クロース・カンパニーの存続は、確定的となる雲行きに思えた。
「会社には、青野さんのような鬼軍曹も必要なのですわ」と、冬村は航大と同じような意見を言うと「これからは、私が経理部門の鬼軍曹をやらせてもらいます」と付け足した。
冬村は苦言を呈する時も、善良さが滲み出ていた。
※
萌依はポルシェのハンドルを握ると、勢いよくクルマを走らせた。
絶望を経験していた自分には、抱けなかった希望が、実際にそこにあった。冷気を身に纏った冬の京都は、ノスタルジックな古い寺社仏閣をより繊細な町並みに見せていた。萌依は、今後もサンタ宅配便事業の継続ができるので、深い悦びを感じていた。
――また、子どもたちのあの笑顔に会える――と思うと、飛び上がりたい気分になった。水の上を跳ねて向こう岸にたどり着く小石のような躍動感と達成感が、萌依にとっては、クリスマスの最高の贈り物だった。
行きかうクルマの列の向こうに、一台のシルバー・メタリックのベンツが自宅の前に停車しているのに気づいた。運転手は通りの様子を見ていたので、横顔しか分からなかったが、その顔を見てすぐに、力哉だと判断できた。
力哉の考えには、心から同調できなかったものの、――組織は改革派と保守派のバランスの上に成立しているのも動かせない事実だ――と、萌依は思った。萌依は、組織人として成長していく自分に気づいていた。
※
日曜日の朝、いつも通り早起きしたものの、朝から雨が降っていたのでジョギングは中止した。九時前に家を出ると傘を差して散歩し、和菓子屋の「朧八瑞雲堂」に立ち寄った。分厚い生クリームと餡を挟んだどら焼きを三つ求めた。どら焼きの好物は、萌依が抹茶、航大が小倉、華音が苺なので、それぞれ一つずつ買い求めた。
家に戻ると萌依は、航大に「ただいま」と告げると、ダイニング・ルームにいてテレビ画面に顔を向けていたサンチョに餌を与えた。犬はオオカミの血族とされるが、サンチョには野生の猛々しさが感じられなかった。
自宅に着いて、華音が訪ねてくる前に、家の掃除をした。サンチョは、何故か掃除機の音が響きだすと「ワンワン」と吠えながら、萌依の後をつけて回った。
サンチョは華音が訪ねてきた途端、大人しくなり、寝そべりながら上目遣いに、三人の様子をじっと見ていた。
華音は、どら焼き口に運び、嬉しそうに「このどら焼きが、大好物なの」と褒め、紅茶を啜った。
萌依は「あなたやったら、うちの正社員としても活躍できるわ。私が推薦して、管理職に登用してもええし、秘書になってくれてもええのよ」と、華音を持ち上げると意外な答えが返ってきた。
「あたし、永久就職するから、三ツ松デパートにも、サンタ・クロース・カンパニーにも……、残るかどうか微妙なのよ」
「それは、つまり……、どういう意味なの」
「この間、お寿司屋さんで航大さんに、プロポーズされたでしょ? その後で、結納を交わす日が決まったの」
突然の告白に、萌依は目を白黒させた。
「華音ちゃん、兄貴とは、結婚を前提に……、将来を見据えて、付き合っていたのと違うの? まだ、先の話やと思うていたわ」
「うん、実は……」華音は、少し言い淀むと「つまり、その……、あなたの兄貴と、今年の六月に結婚するの」と、言葉にすると華音は少しだけ、首を傾げた。
「えーつ、まさか……。あの時は、まだまだ先の話やと思うていたわ」
萌依にとっては、寝耳に水だった。航大からは結納の件は、まだ聞いていなかった。
「そのうち、萌依にも言うつもりやった」
航大は、申し訳なさそうに弁解した。
華音は、萌依に視線をやった後で、航大に向き直り「結婚後もよろしくお願いします」と、行儀よく、深く頭を下げた。
突然なので、萌依は驚いたものの、何故か笑いが込み上げてきた。三人で話し合ううちに「一度、うちに遊びに来て」との誘いを受けて、航大と一緒に華音の家を訪問した。
※
航大は着替えをし、ジーンズにスタジアム・ジャンパーを着ていた。
萌依は、自室に引き返すとロング・スカートをはき、急いでセーターを着た。
「ぐずぐずしないで、早う、出かけましょう」
「分かった、まだ間に合うやろ? 早く行き過ぎても、先方の迷惑になる。急かさないでくれよ」
「早く着き過ぎたら、クルマの中で時間調整ができるでしょう」
「アイドリングして長々と待つのは、地球環境に悪いやろ。今、出たら二十分も早く着くよ」
「ケーキ屋さんで、お土産を買うのにかかる時間も計算しといてね」
風が強くなり、雪が激しく降っていたが、通りには相変わらず大勢の人が行き交っていた。萌依はポルシェを走らせて、華音の家がある下鴨に向かった。北山から下鴨までクルマで十分しかかからないが、途中で洋菓子店に立ち寄ったので二十五分後に着いた。
インターフォンを押すと「はあい」と、華音の明るい声が聞こえて来た。
華音は約束したとおり家にいた。インターフォンで声を確認されると、オート・ロックの玄関が解錠された「カチッ」という音がした。二人は中に入った。家の中に入ると同時に、人を暖かく迎え入れる家庭の雰囲気を感じた。室内は綺麗に整頓され、見事な装飾が施されていた。床材や壁紙、家具調度品や食器棚の中にある陶器まで洗練されていて、この家の住人たちのセンスの良さを物語っていた。
ゲスト・ルームに入ると、華音の母親が出てきて「ゆっくり、していってくださいね」と、微笑みながら挨拶した。
航大は、顔をこわばらせると、およそ大企業の社長とは思えない表情で、恐縮したようにぺこぺこし「いつも、お世話になっております」と声に出した。
自分には――経営者たるもの堂々と振る舞え――と、指図する航大の矛盾した態度が滑稽に思え、萌依は吹き出しそうになった。
奥に戻る前に、華音の母親は敬意のこもった目で二人を見ていた。
航大と萌依がゲスト・ルームに腰かけていると、華音が紅茶とショートケーキをお盆の上に載せて運んできた。航大は物珍しそうに家の中を眺め回していた。萌依の見たところ、秋月家は大邸宅ではないが内部は豪勢で、華音の大学教授の父親が蒐集して来た絵画や骨とう品で溢れていた。
紅茶とケーキに口をつけて、歓談した後で、華音の幼い頃の写真を見せてもらった。誕生時からの写真が、アルバムに綺麗に整理されていた。向かい側のソファーに半身を起こして腰かけている華音の姿は、気品が滲み出ていて、ひときわ美しく見えた。
華音は、先に歩き出すと庭を案内した。庭の花壇は手入れが行き届いており、池の中の鯉は、そこにいるのが幸福なように心地よさそうに泳いでいた。庭には、落葉低木のサンザシが、まだ赤い実をつけており、上空のどこかからメジロの「ピイピイピ」と鳴く声が聞こえて来た。
航大と華音は、手と手をきつく握り合わせていた。華音は航大の恋人であるとともに、萌依の無二の親友でもあった。不思議にも、今までは三人でデートしても違和感がなかったが、今は明らかに萌依が邪魔な存在になるタイミングがあった。それが嬉しくもあり、悲しくもあった。
華音の父親が帰って来た。父親は紳士的な風貌で、輪郭や体つきが華音に似て見えた。華音の切れ長の大きな目は、母親譲りなのが分かった。
親友が兄と結婚するという事実が、萌依には奇妙なジョークのように思えた。本当に、そんな日が来るとは想像ができなかった。
航大は、鼻筋が通った彫りの深い顔立ちと、筋肉質で背が高いので人目を惹き、萌依と並んでいると、美男美女のカップルと間違われ、羨まれた。そこに、華音が加わると、美観がさらに弥増した。
華音を抱き寄せると、萌依はポンポンと彼女の背中を叩いた。萌依は、兄の航大と暮らし、不平不満を言わずにコーヒーとトーストの用意を今まで何度もしてきた――と思い浮かべて、感慨にふけった。これからは、華音というチャーミングな女性が妻として、航大の世話を焼く。萌依には、今まで面倒でしかなかった手間がなくなるにもかかわらず、説明の困難な寂寥感が、胸の内に湧いていた。
――考え事をしているとポカをする。夜更かしして、昼間は居眠りをする。正義感が強いくせに、お人好しで損ばかりしている――これらは、航大の短所であり、時には魅力でもあった。萌依は、華音に兄の人間性を細大漏らさずに知っておいて欲しかった。
萌依には、航大が今の時間、天国にいる気分なのが分かっていた。では、華音にとっては、どうなのか? 結婚はバラのつぼみが美しく開花し、華音の人生を大きく転換する節目になると想像した。嬉しくもあり、悔しくもあり、羨ましくもあったが、萌依の目には、二人がお似合いのカップルに映っていた。
結納を終えて帰って来た航大は、終始上機嫌で萌依が呆れるほど、長く話し続けた。航大は、優秀な割にエゴイスティックな人間ではなく、世界が自分を中心に動きを止めればいい、言いなりになればいいと考えるタイプの人間ではなかった。草花やペットの小動物にも愛情を注ぐ、思いやりに溢れた兄だった。
萌依と華音は、暴漢に襲われて以来、結びつきがいっそう強くなっていた。萌依は、航大と華音が結婚した後は、兄妹二人で住んでいた家を結婚後に明け渡し、自分はマンション暮らしをするつもりでいた。
萌依は望めば一軒家に住めたが、一人暮らしになると慎ましいマンションの方が過ごしやすく思っていた。
※
航大の書斎は萌依の部屋よりも広く、壁の三面に床から天井まで書棚が配置されており、そこに経営学書はもちろん、法律、経済学、哲学、心理学、宇宙物理学の幅広いジャンルの専門書や文学全集、文芸評論、百科辞典など、難しい本が数多くあった。航大は、本や書類に飲み物をこぼすのを恐れているのか、書斎ではソフト・ドリンクもアルコールも口にしなかった。
ダイニング・ルームに来た時に、萌依は尋ねた。
「コーヒー? それとも紅茶?」
「コーヒーにしてくれ」
航大が「ロールパンにもう少しジャムを塗り付けてくれへんかな?」と、皿ごと萌依に手渡した。仕事を持ちながら、航大に家事を押し付けられるのは、妹として不満な時もあったものの、萌依は修行のつもりで割り切っていた。
パンにジャムを塗りながら、萌依は航大を羨ましく感じていた。萌依は、数多くの縁談を勧められ、大勢の男から告白されてきたが、ときめくことなく、受け流してきた。彼女の理想の恋人は今でも、優しいサンタ・クロースだった。
華音と婚約してから、航大は急に家事全般に協力的になった。航大は、食器をキッチン・シンクまで運んで洗った。さらに、濡れた布巾を萌依から手渡されると、テーブルの拭き掃除を始めた。テーブルを拭き終わると、自分でバケツに水を張り、雑巾を用意し、床掃除に取り掛かった。
部屋の中をうろうろしていたサンチョは、萌依が掃除機をかけ始めると、尻尾を振り、いつものように後ろをついて歩いた。
家中を掃除するのに、航大は休日の早朝と夕方に分けて何時間もかけ、隅々まで磨きをかけた。今までの航大は、萌依のリズムに合わせる日も、鷹司家に特有の快調なメロディーを奏でる日も合ったが、家事をしているときに調和のとれたハーモニーを奏でる日は、ほとんどなかった。婚約してからの航大は、優れた音楽家のように家の中でも、交響楽には欠かせない名演奏家のように振舞っていた。
食料品の買い物は、忙しい合間を縫って専ら萌依がしていたが、航大もついて来る日があった。萌依が理由を問うと「俺の花婿修行や」と航大は大まじめに答えた。萌依にしてみれば、兄妹なのに夫婦に見られるのを恐れて断っていたが、渋々承諾し荷物持ちを頼むようになった。
※
呼び鈴を鳴らすと、力哉が出て来た。二人を見て、いつになく気まずそうな表情をした。奥から、叔母が出てきて「まあ、お久しぶりやね。外は寒いさかい、早う、中に入って……」と促した。
「こちらこそ、お久しぶりです。叔母さんにお会いするのは、二年ぶりぐらいですね」
叔母は、家の中に招き入れるとキッチンに姿を消した。
航大は挨拶した後で、重い口を開いた。
「実は私、結婚するのです。相手は、叔父さんも知っている。秋月華音です」
「あの娘か、そういえば……随分、仲良さそうにしていたな」
力哉は、会社で見せた例がない表情で、終始にこやかに話した。
「おめでとう、小さい頃によくうちに来ていたあなたが、もうそんな年齢になっていたやなんてね」
「それで……、恐縮ですが、お二人に仲人をしていただけないかと、お願いに参りました」
「誰か、他に適当な人はおらんのか?」
「私は、叔父さんにお願いしたいと思っています」
「会社で、あれだけ虐められているので、私にはなんで叔父さんにお願いするのか、ほんまに不思議で仕方ありませんでした」
「あれは、私がビジネスの時にだけ見せる顔や。会長派も社長派もあらへん。皆、同じ意見でなれ合いになったら、企業はおしまいや。私も、青野君の暴走には手を焼いていた。青野には、十分注意しておいたから、大分やりやすくなるやろ」
「ありがとうございます。仕事に私情を挟むと、経営判断が狂うと、叔父さんにはよく言われました。そやけど、仲人になってもらう話は、別やと思います」
力哉は航大の結婚式の仲人になるのを承諾した。
自宅に戻ると、サンチョがルビーのペンダントを口に咥えて現れた。室内のどこかに落としていたのだ。萌依にとっては、祖母からの二度目のプレゼントとなった。萌依は、サンチョの頭を撫でて、身体を引き寄せて抱きしめた。サンチョは褒められたのに気を良くしたのか、幸福そうな表情をしていた。
※
仕事が終わり、力哉と航大と三人で料亭に出向いた。会社のビルの外に出ると、暗い夜の空を粉雪が舞っていた。アスファルトの路面には、雪が積もり、路肩に子どもが作った小さな雪だるまがあった。街灯に照らされて白銀色に見える雪だるまは、子どもたちの思いが込められているかに見えた。
萌依は、専用駐車場に停めた赤いポルシェのハンドルを握ると、滑るようにクルマを走らせた。スピードを上げると、雪はクルマの前で砕けて跳ね飛び、蛍火のように散って行った。
三人がクルマを下りると、外はすっかり暗くなっていた。風に煽られて、寒気が萌依の首筋を冷やした。目的地は駐車場から出て、どう行けば良いのかと迷ったものの、道路上に表示が出ており、人の流れを追って歩いていくと、しばらくして看板が目につき、通路を進んで突き当りを右に折れるとそこへたどり着いた。
レストランに着くと、料理ができるまで萌依はピアノに腰かけて鍵盤を叩いた。二月中旬の時期には、不似合いな『サンタが街にやってくる』を演奏し、流暢な英語で歌を歌った。歌が終わると、レストランの客たちは立ち上がり一斉に拍手をした。
クルマを運転してきたので、萌依はアルコールを控え、ウーロン茶を口にした。
「冬村さんと、同じやな」航大が茶化すと、萌依よりも先に力哉が声を出して笑った。
ウエイターがスープ皿を持って現れると、所定の位置に並べた。萌依はスプーンですくうと、口の中でゆっくりと味わった。
カボチャのスープは、甘くクリーミーな味わいを楽しめた。スプーンで皿の底をさらうと、萌依は「サンタ・クロース・カンパニーが、いつまでもお客様に愛されるかどうか、これからが正念場やからね。頑張りたいと思うています」と、力哉の様子を見て告げた。厨房からジュッという音と、肉の焼ける香ばしい匂いが漂い出していた。
力哉は今や敵意を捨てて、二人の上司として、叔父として本音で向き合う構えを見せていたが、萌依はまだ警戒し、力哉の真意を量りかねていた。
「サンタ・クロースは、人々に愛を教える聖人で、実在の人物ですわ。それに、今も子どもたちの心の中に住んでいる。まだ、会長には現役でやってもらいたい仕事がありますねん」
「何や? まだ、二人の社長がわしに頼らなあかんのかいな」
「今年のクリスマスは、会長にサンタ・クロース役をやってもらいたい」
「サンタ・クロースの贈り物は、玩具ではなくてね。子どもたちを大切に思う気持ち……、つまり――愛の贈り物――なのよ。だから、サンタ・クロースは、クリスマスでなくても、私たちの心の中にいつまでも住み続けているのやと思うのです」
「わしで、そんな大役が務まるのやったら、やらしてもらうわ」
萌依が調べたところでは、キリストの降誕祭としてクリスマスが祝われたのは四世紀ごろのヨーロッパだと推測されている。
サンタ・クロースのモデルの聖ニコラオスの伝説には、貧しい者や、弱い者を助け、教え導いた逸話が多く残されている。萌依は、サンタ・クロースを架空の人物ではなく、過去に存在し、今も私たちの内に生き続けている――と、考えていた。
思いやりは一つの素質であり、酷薄も同じく素質だった。惨めな状況になると、思いやりのある人間は、他人ではなく自分を責め始め、酷薄な人間は残酷な行為に及ぶ。力哉は、青野たちとは異なり、潔く自分から非を認めた。
二人はジン・トニックを飲み、スモーク・サーモンやチーズなどのつまみを口に運んだ。萌依は、クルマの運転を意識してアルコールを控えていた。
萌依の頭の中には、クリスマスの子どもたちの明るい笑顔と、歓声が想起された。麗しい時間が流れていた。
「夕食代は、私が支払う」と萌依は主張した。「ええから、今日ぐらいは俺に払わせてくれ」と、力哉が言い返した。
力哉が支払いを済ませ、すっかり日の暮れた道路上に出ると、通りの向こうを眺めた。街灯が、地面に鈍い光を投げかけていた。人工の光を靴の底で踏みながら、スーツ姿の酔漢たちが、奇矯な声を上げつつも上機嫌で通り過ぎて行った。
萌依は、酒が人をダメにする成り行きもあれば、人を救う展開もあると感じていた。小さくも可愛らしい浮世の夢は、夜の街にいくつもの希望の灯を点じていた。
航大は立ち上がると、力哉と握手した。すると、二人がまだ席に着く前に、力哉がだしぬけに告げた。
「航大、わしの心配は杞憂やったな。妨害工作も、会社の将来を思うてやったのや。それだけは理解してくれ。わしも、もう年が年やさかい、社長の邪魔をせんと辞職しようと思うのや。萌依にも、迷惑かけたこっちゃしな」
萌依たちの成し遂げた事業は、人智でははかりしれないクリスマスの奇跡だった。力哉は二人を前にして、サンタ宅配便をめぐり対立したのを後悔している――と、今の思いを打ち明けていた。
クリスマスの街並みを眺めたときから、萌依の頭の中におぼろげな記憶が呼び覚まされていた。ぼんやりとした思い出の中では、巨大なツリーや、煌びやかな電飾に紛れて、幼い頃に叔父の力哉から、ぬいぐるみのプレゼントを貰った記憶も含まれていた。萌依は、力哉の人となりを誤解していたのに気づかされた。
帰りは、力哉の自宅まで、萌依がポルシェを運転した。クルマの中まで寒く、外ではまだ雪が降っていた。走り出すと、ヘッドライトに照らされて前方に小さな雪片が舞うのが確認できた。
自宅の広い庭を横切る途中、力哉は一度立ち止まった。萌依には、振り返る力哉の表情に敗北感はなく、甥や姪の成長ぶりに安堵しているかに思えた。
サンチョはホット・カーペットの上で、いつものように長い舌を出し、満足そうに寝そべっていた。
萌依と航大は自宅の居間で、心地よい沈黙に包まれて座っていた。冷え込む晩だったが、部屋の暖房が効いており、充実感によって心の奥まで温かかった。萌依は長い時間忘れていた、溢れ出るようなエネルギーを体内に取り戻した。それまでは、サンタ宅配便事業の失敗を恐れるあまり、本来ならあるはずの彼女の内なる燃え盛る炎を弱めていた。
社内のライバルたちとの暗闘、思いがけないアクシデント、内なる葛藤、これらのものが萌依から力を奪い、失望を味わう状況に陥れていた。だが、今はサンタ・クロース・カンパニーの経営にも、サンタ宅配便事業の継続にも、明るい見通しがついていた。横になるとすぐに、萌依は眠りの世界に誘われたものの、頭の中では、様々な想念と感情が炸裂していた。
それらのイメージのすべてが、萌依にとって創造力の源泉になるものだった。
サンタ・クロースの贈り物 美池蘭十郎 @intel0120977121
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