火車の足取
九川 歩町
1. 漂浪者
その昼、僕は友人とともに都会へ出ていた。
雑踏、雑踏、雑踏。
隣を歩いてもその慣れた気配を見失うほどに、人間から発せられるノイズに溢れる都心の空気に、正直目が回りそうだ。休日の今朝、布団の中で再び夢へ浸かるか否かに葛藤していたところへ唐突、誘いの電話がきた。まったく、友の言い分は理解しがたいものだった。都会へ行きたいというので何故と問えば、そりゃあ都会へ行きたいからに決まっているという。目的なしの外出と了解しはしたが、そんなトートロジーを電話口でさも当然と言い張るものだから、不自然な論理の停滞に僕の目はすっかり冴えてしまった。乗り気でもなしに靴を履いたのはこういったわけである。
けれど僕はこのような目の回る雑踏が得意ではないものの、嫌いでもない。時間のあり余った年度前の休みに、暇を持て余した学生が、否応も無しに聴覚や視覚に過多な人間の情報を送り込む環境に入ることで、なんとなしに充足感を得るには、労力の側面からいえば経済的な手段といえる。何かしらの事物を大成させる自主的な努力も億劫だが、部屋で空っぽな己を持て余すよりはましという訳だ。
「おうい、歩士郎。何やってんだ」
人混みを割って響く友人の声に顔を上げる。歩道の端に蹲る僕の左右を行き交う早足の靴音が耳についた。思うより早く、信号が青に変わってしまったらしい。
「フシロー、もしや怖いんだな?迎えが要る?」
「そんな訳あるか」
結びかけの靴ひもをいい加減に引っ張って、交差点へ踏み入る。奴は心の狭い訳ではないが、揶揄いかたに少し執拗なきらいがある。都会の信号は距離に見合わず短い。置いていかれれば、通り過ぎる車越しに待ち呆ける僕は格好の種にされるに決まっている。そうなれば靴紐よりも、遊戯の始末が面倒だ。
大股で白黒を跨ぎながら、十字の交差点の中ほどまで来た。前方、人の隙間に、見慣れた服の生地がちらついた。それを目指して踏み出した二歩目で僕の身体はおどけたピエロの像みたいな恰好のままぐらりと傾く。何のことはない、派手に躓いて転んだのだ。
右足を頑固に引っ張る感覚。おざなりな結び目の因果に納得する。こうして道路に打ち付けられる寸前、誰かの足首か靴かなにかが僕の背中の緩衝になったから、深刻な怪我はしなかった。が、足元に倒れ伏した僕に迫り寸前で除けていく革靴やヒールの固い音は案外怖いもので、しばらく地面に手を付き腕を立てられずにいた。
人が疎らになり始めたころ、ようやく体を起こしてとうに対岸へ着いている友人のほうへ小走りする。紐が跳ねのけられるのが解ればこれくらい問題ないようだった。
青信号の点滅し始めた交差点は、気を払わずとも悠々歩けるくらい過密は解消していた。それに、僕は一直線、友人の後ろ姿目がけて走っていた。前を歩行者に塞がれそうな気配はなかったはずだ。
しかし、直後僕は人にぶつかった。
やけに近くに、焦点も合わないぼけた影がちらと映ったその瞬間のことだった。こんな一瞬というほどもないくらいの瞬間に、僕が進行方向に引いた直線上に飛び込んできたのだろうか。視界を横切るような影はひとつも見なかった。もとよりそこに居たのでもなく、横から飛び出てきたのでもないとすれば、かれはどうやって現れたのだろう。しかも、僕のかけていた眼鏡が相手の頬か耳に当たってずれたので、正面衝突らしいことにも驚きだ。
とにかく、気づけば僕は、あぶない、のあの字も思い起こさぬうちに、自分が進んでいた速度のままかれにぶつかっていた。
ぶつかったことに気が付き、それが一人の男だとわかったのは、訳知らず視界が空の青に転じ危うく再び道路に伏そうとしていた僕の腕をかれがはしと捕え、ああ悪かったな、と声が降ってきたときだった。踏みとどまり、男の顔が見えた。と思えば何故か視界が暗転した。
辺りを見まわそうと首を振ると、ちょっと待ってくれと言うのが聞こえた。目元が温く、柔らかいものが触れている。どうやら、男の手が僕の目を塞いでいるらしかった。
二、三歩の足音がして止むと、視界が戻った。いや、視界のみ戻った。周囲の景色は見える。しかしそれは交差点の真ん中でもなく、それどころか、建物や人や車やら都市の片鱗すら存在していない。
荒涼とした砂地が、辺り一面に広がっている。時折はやい風が気まぐれのように地面を掠め、宙を低く煙らせた。空は真っ白に曇っている。不穏な黒色のむらのある天井というのではなく、雪原のようなどこまでも平たい白一面の空で気味が悪い。そしてその白天井を砂の黄ばんだ煙が二重に曇らせるのだ。果たして、あの雲の向こうに青い空が在るのかも不明であった。砂の色と白の二色で出来上がった世界は時折、どちらが背景かわからなくなるようなモノトーンの画になった。
都会にいて人にぶつかった事実からの脈絡のなさと、この気を狂わすような殺伐とした景色そのものと、双方に双方の区別もなく、僕はただ驚愕し混乱していた。ただかっと目を見開いて、目玉を画の各所へ留めることなく回し続けていた。それ故に、しばらくすると、目がちかちかして、頭の裏側も白と砂色に点滅しているような感じになった。
「後ろを見ないで」
まさに首を倒そうとしていたときだったから、僕は驚いて目線を真っ直ぐに意味もないが背筋とともに正した。糸に引かれるように地平線を見つめ、こうして目を固定していれば問題ないのではとはたと気づいてから一呼吸、ふたたび景色が転じた。
息も止まった。
遠近もない暗黒に包まれていた。
僕は眼前まで迫りくる闇に途方もない閉塞を覚え、どこかから聞こえる浅い呼吸の音に怯えた。誰でもない自分の肺に僅かな空気を貯えた音だった。地を踏む感触をよすがにしようと靴底をじりじりと擦りつけた。何の音もない。どころか、摩擦も抵抗もない。足首が伸びて空を切った。
どうやら、足元に地面がない。
宙に浮いている?闇の中にぽつんと、浮かんでいるのか?暗闇の満ちた膨大にも感じられる空間、ともすると無限に広がる領域ですらあり得るそのなかに、点に等しい小さな人間が存在している。いや、僕は存在していると言えるのか?僕は自分のからださえ見て取れない。僕は本当にここに在るんだろうか?実は僕の体全体が空っぽの殻になってしまって、末端から入り込んだ闇は既に全身に行き渡り、器となり果てた自分の表面は溶けるように透明に消えつつあるのじゃないか————
声帯も硬直して振動できないすかすかの叫び声をあげそうになった。自分で生み出した恐ろしい妄想に取り憑かれおかしくなりかけた僕を、最低限には正気と呼べる状態へ引き戻したのは、右の二の腕を圧する感覚と、右側から聞こえてきた声だった。
「後ろを見ないで。できるだけ、頭も動かさないほうがいい」
声は落ち着き払っていた。どんな喧騒の中でもその発音の端々を聞き取れるような、或いは騒音の音量がさっと引いて耳に流れ込むような、そういう調子の穏やかで淡々とした響きの言葉だ。
僕は幾らか落ち着きを取り戻す。石のように固まった筋肉が緩み、自然に呼吸できるようになり、その途端楽になった。恐れが消えたわけではなかった。急速に膨らみながら心身を侵していた恐怖の外郭を捉えて自覚し、その膨張を制御できたというような感じだ。
声色で、隣にいるのが先ほどぶつかった男だとわかった。腕は倒れかけ支えられたときからずっと掴まれたままらしかった。心強い感覚が上腕の同じ位置にあった。
緊張がゆるむと、ふっと視野が広がった。眼前の闇しか見えていなかった視界が、あちこちに光点を捉え始めた。目が慣れると、光は更に数を増した。宝石を切り出したあとに残ったかすを散らかしたように、無数の煌めく瞳が僕を見つめた。僕はこうして初めて自分が星宙の只中に居ることを知る。ああ、僕は此処に在るのだ。星々が光を届けてくれるのがその証左だ。そしてきっと、しかし端からそんなことはどうでもよかったのだろう。星たちも僕自身も、僕がここに居ようと居まいと、最初からどちらでも構わなかった————そんなふうに思えるくらいになっていた。恐怖は初めから無かったかのように取り払われ、歓声すら上げそうな気分で溜息を吐いた。
暴走しかけた僕の精神に歯止めをかけるために一層強くなっていた、右腕を掴む力が緩んだ。彼の手が離れはしなかった。僕は息ひとつ吸って、初めて問うた。肺の中に息の音はしなかった。
「何故、どうして後ろを見たらいけないの」
男はとくに緊張もない平静の声で言う。
「危険だからに決まっている」
「危険。何が?」
「君が今までのような平穏な日々を送れなくなりうる。君はそんなに頑固な人間ではないようだから」
男はリスクを冒した場合の展開について述べた。なんとなく会話が噛み合わない。どこでずれた。そうだ、僕は脅威の本体がなにかを訊いたのだ。
「後ろには何があるんだ」
改めて聞き直す。短い沈黙を挟んで、さあな、と男は言った。
不明確な答えだ。しかし恐れるなら知らぬ筈はないだろう。的をさらに絞る。
「振り向けば怪物か何かと目が合って襲われでもするのか?」
「その表現は遠からず、かもしれない」
男の返事は、やはり煮え切らない。知らぬのか、真実を肚から出しかねているのか。
そのとき、また視界が転じた。
今度はやけに明るく白んだ世界だった。あちこちに、白よりも白い靄のようなものが漂っている。真っ黒の闇の中から出で来たはずなのに、日陰から出たときのあの眼球の表面に墨の滲むような感覚もなかった。しかしなんだか、目の焦点があわない。
例のごとく顔を固定して視線をあちこちへ回すが、どの靄にもそれが結ばない。遠近感がない。いやおそらく、実態もない。形なき靄。物質でなき白。
靄は捉えどころがない癖、ふとした瞬間に鋭利な刃となって目の中に飛び入ってくるのだ。虹彩を易々破りぬけ、頭蓋の中に突き刺さるような感覚がした。目が痛む。が、瞬きをするより前に、それも一瞬でなかったように消え去る。白い凶器の幻想。それが虎視眈々と眼球を狙っている。
焦点が合わぬせいで吐き気が腹から浮上し胸のあたりにわだかまっている。空間が歪んでいる。気分が悪いのは、自分も不自然に歪められ始めた所為か。自分の肉体はまだくっきり見て取れるだろうかと左腕を持ち上げる。上がらない。いや、徐々に前方に動いてはいる。しかし遅々として顔の真ん前までに数十分もかかりそうだ。重い、得体の知れぬ抵抗がある。なかなかもどかしい。
なんだこれは、と僕は叫んだのかも知れない。もしくは叫んでいなかったのかも知れない。が、ともかく頭の中はこういった驚愕と疑問がめまぐるしく攪拌されながら占拠していたのだ。だから沈着な考察が横から落ちてきたときはやはり安心した。
「なるほど、液体ガラスに封じられた、といったところか」
声は幾分かくぐもっていたが、滑舌も明瞭に聞き取れた。
焦点が合わないのはレンズの中だから。白い靄は白光の屈折したもの。眼を刺す刃は集中された眩しい光。確かに、辻褄があう。いや、違うだろう。そもそも液体ガラスに僕らが封入されること自体おかしいのだ。
不便だな、と男の呟くのが聞こえた。何が、と問い返す前に鮮やかな風景が取り巻いた。
原っぱの上に立っていた。芝の張り付いた地面はうねるような奇妙な起伏を辺りいっぱいに展開している。緑には赤が一面に散っている。草いきれと芳しい匂いが混じり合って鼻を掠める。赤は花だとわかった。その光景はどこか、地中に蠢く血みどろの巨大な化け物がそこら中の地表を乱しながらのたくって、地表面に激しく擦れぶつかり引っ掛かり転げまわった拍子にばら撒かれた血液が滲み出たかのようだった。
そうして巧みに不気味な妄想をしてから、たった今ちょうど自分の足の裏の地中にそれが蠢動しているかもしれないなどと思うと、独り善がりの空想に過ぎぬというのに膝の関節がうまくかみ合っていない様な覚束ない感覚をおぼえた。僕は少しばかり後悔する。吐き気は消えたが、気分は晴れなかった。
「なあ、これはなんだ。先ほどから世界が二転三転するのは」
男はためらったように口を開いた。
「気になるのか」
「気にならないというほうが変じゃないのか」
「確かにそうだろうな」
男は口を閉ざした。次の言葉がその口を切るのを待ったが、何か迷っているのか、躊躇しているのか、それとも既に会話を終結させた気でいるのか、甲斐はなかった。
「お前はこの不可解なしかけを知っているのか」
「どうかな。知らないことの方が多いような気もする」
男は深掘りされるのを避けるように、持って回った言い方で発言の内容を希釈する。しかし無知とは恐怖だ。その莫大な恐怖の只中に置かれた僕は生存本能により、この視力の弱った双眸を眼鏡の厚いレンズの後ろに炯々とさせているのだ。言葉に含まれたものの内、彼の匂わせた諦めの要請よりも、何かしらの情報を彼が持っている事実のほうが僕にとって見落とすべからざる重要な要素であった。
「お前の知る範囲で教えてくれ」
「知らないほうが身のためだ」
説明を拒んだというようには聞こえなかった。躊躇いはあれど、隠そうとする意志はないように感じられた。男は何か悟っているようであった。
「それより、今から僕の言うとおりにして欲しい」
「こちらにも知る権利はあるはずだ」
新たな男の要望に対して頑として主張を返す。後ろめたい隠匿の意図がなく、どこかしら残酷であるらしい真実から擁護してやろうという気遣いはわかった。しかし僕がそれに耐えられないと一方的に思われ、遠ざけられるのは違う。知ることより知らないことの方を恐れる人種だって居るのだ。そう、怖いのだ。怖いから知りたい。把握しようとせずには居られない。僕はそういう人間だ。
「今し方忠告をした。そのうえでの意思と捉えていいんだな」
「そうだ」
男が息を吐くのが聞こえた。僕はそれを意外と思った。
「わかった。話すこと自体はわけもないことだ。その未知なる代償を君が覚悟したというなら聞かせよう。ただし、条件がある」
「条件?」
「ああ。僕が話す前に、こちらの言うことを聞き入れて欲しい」
「それはなんだ」
右の手首が掴まれて上腕の圧迫感と温度が消えた。それから掌に男の左腕とおぼしきものを掴まされる。撥水加工の袖らしくツルツルとした感触がある。
決して離さないようにと言ってから、僕がしっかり握ったのを確かめる一拍を置いて、彼は自身の左腕を掴ませた手を僕の右手首から離す。僕と男とは先ほどと逆の格好になったわけだ。
「君が守るべき事項は三つ」
一瞬よりは長い静寂が耳に吸い付いた。緩やかに彼の声と入れ替わる。
「一つ目。今言ったように、僕の腕をしっかり掴んでいること。不用意に手を離さないこと。離した時には取り返しの付かないことになってしまって居るかもしれない。
二つ目。見慣れた世界、つまり君が生きていた、君にとってありふれた世界が僕らを取り巻いたら即座に僕の腕を掴んでいる手を離すこと。どんな話の最中でも、決して躊躇わず、僕に何か断ったり言葉をくれてぐずぐずしたりせずにただ、すぐに手を離すんだ。ここまでいいか?」
「不用意に手を離したり、或いは来る瞬間に手を離さなかったりするとどうなるんだ?」
「簡単なことさ」彼は初等の計算を解いたように言った。「君は二度と元の世界に帰れなくなる」
事態の重きの明快に、面食らわずにはいられなかった。
「……理解した。最善を尽くす」
「ああ。そうしてくれ」こともなげに言う。袖の締め付けがいくぶんかなり強くなったろうに。僕の胸には、何故と問いただしたい衝動が湧き上がってムクムク膨れたが、緊張に任せて口を結び、次の言葉が耳を突くのを待った。
「そして三つ目は、初めにも言った通り、決して背後を振り向かないこと。僕と同じ方向を真っ直ぐ見て、頭も動かさないこと。これで、君が正しい世界に戻れたとして、以降平穏な生活を送れるようになる。完全な保証はしかねるけど」
僕は同意を示す。
「気分が悪いようなら話はやめにしようか。僕の話は君のそれを助長すると思うけど」
「気分が悪いのはずっと前からだ。これくらいじゃ胃の中身が吹きこぼれやしないさ。知らないままでいるほうがどうかしそうだ」
男がふっと息を吐くのがわかった。呆れられたのかと思ったが違った。
「無知が故の恐怖でか?それとも、満たされない好奇心に食い荒らされるのか?」
は、と言葉の塊を呑んだ。何故?
「後者が君の本質じゃないのか?そして前者は建前だ。違っている?」
「そうだとしたら、教えてくれないのか」
「いや。君の望むようにするさ。ただ、君の中に純粋な人間の防衛本能以外のものが燻っているような気がして、なんだかその真偽を確かめてみたくなっただけだ」
「想像の戯れというわけだ」
「そんなところ。好奇心に寄生されるがまま危険な領域にどかどか足音立て、靴跡刻みながら踏み入っていくのは良くないな」
「他人に迷惑はかけてない。僕の性質が支障にならないなら話を進めてくれ。いつ強制帰宅の瞬間が来るとも知れないんだから」
「支障どころか、安心したさ」
「どういうことだ」
「出会ってしまったのなら、非現実として信仰してしまえた方がいい。いや、崇拝かな。そういう者は物凄い危険が迫った瞬間に我に返ることができる。つまり主観的な現実を客観的な非現実として見做してしまえる。そうしてあらゆる支配から自己を切り離し難なく脱してしまう。或いは、知識のがらくたをかき集めて巧みに、現実的に理解し得るそれらしい解釈を創ることでこれを成し得る。決して解り得ないものに対してね」
「よくわからない」
「それでいい。無作法だが良い趣味だと言いたかったんだ。だけどそうだな。もうひとつテストをして、それを話の序論としようか」
幾分か砕けはじめた会話の最中にも景色は移ろう。風景だけじゃない。匂いも、温度も、 何やら聞えるものも、五感では感じ得ない気配や空気も絶えず移ろっている。
一面の火の海が、荒れ廃れ果てた城の中に変わった。西欧のしつらえだ。城だと思ったのは、玉座らしい汚れた椅子が遠く前方の煤けた壇上に見てとれる、下以外全方向に莫大な空間だったから。
破れた窓から窓へ今の城の主であろう風が吹き抜ける。やけに冷たい歓迎だ。黴臭い匂いが鼻を掠める。
「シュレーディンガーの猫、というのを聞いたことがある?」
「シュレーディンガーの猫。名前だけなら多分、どこかで」
「内容については?」
「憶えていない」
「むしろ都合がいい。説明しよう」
箱の中にある装置が入っている。それは、毒ガス発生装置だ。トリガーは装置に組み込まれた放射性物質で、それが崩壊すると毒ガスが排出される。毒は猛毒で、中型動物一匹殺すくらいわけもない量を放出できる。放射性物質崩壊の確率は二分の一。即ち、箱の中で毒ガスが発生する確率としない確率は互いに等しい。
その箱の中に猫を入れる。箱は不透明で、内部は見て取れない。蓋をする。
少し経って、蓋を開けてみる。
「猫はどうなったと思う?」
「生きているか、死んでいるか、死にきれずに苦しんでいるか、のどれかだ。ひと目見ればわかるだろう」
「なるほど。では、蓋を閉じてから開けてみる前までは、どうだと思う」
「それでも同じ。生きているか、死んだか、死にかけか」
「うん。君は墜ちていくほうじゃなさそうだ」
常識的というより、それ以外の答えがあるのか、という明快な回答だった自覚はある。しかしなんでこんな質問をされたのか、というかこれがテストになるのだろうか。
「当たり前のことじゃないか。これを言いだした奴は何が言いたかったんだ」
「この思考実験を考えたエルヴィン・シュレーディンガーが呈したかったのはこうだ。箱を開けて中を覗かない限り、猫の生死は不明である。猫の生死は、箱を開けた瞬間に確定する。即ち、蓋を開けてみるまで猫の生死は確定しない。つまり箱を開けるまで、その中には猫の生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている、そういう状態が起きうる」
重なり合っている?同時に起こっているということか?いや、それは空想に過ぎないだろう。不明であることを断言したように表現したかっただけだ。そう、言葉の綾。三択しかありえないに決まっている。
「理解不能だ」
「それでいい」
「テストは合格か?」
「及第点は越したかな」
まともな解答なしに採点されるなんてたまったものじゃあない。
皮肉を言いかけて止めた。常識が通用しないのならば、皮肉することにどんな意味があろう。
僕は箱の中の猫を思い浮かべる。毒と一緒に飼われた猫。箱の中で死ぬかも知れない猫。生死だけが重要な意味を持つ猫。一匹と触れさえしたくない一台きりの箱の世界。かわいそうな、かわいそうな猫。
「僕の話をしよう」
初耳の理論に対する乏しい想像も尽き始めた頃、彼は不意に思いついたようにぽつりと言った。箱の中の猫が僕の現在の状況にどう繋がるものかと耳を傾けたがどうやら猫はなりを潜めてしまった。
「僕はごく普通の人間だったんだ。ただ、子供の頃から現象や構造を想像することが得意で、突飛な空想をすることが苦手だった。だから、兄が専攻していた物理学の話を聴講するのが好きで、隣家の同学年の女の子が熱心に語る創作が理解できなかった。そうそう、シュレーディンガーの猫も兄の口から聞いた話なんだ。
ところで、君はこの世の常ならぬ体験というものをしたことがある?自分の正常な常識的世界観が破綻するような感覚を来すような。まあ、きっとどんな衝撃的な経験もここでの基準であり前提になるものには及ばない。おそらく最低限が臨死体験だろうと思っている。あくまでも僕の憶測に過ぎないのだけどね」
僕は目を瞬く。臨死体験だって?簡単に言う。
「往生の常連みたいに言うじゃないか」
「否定はできないな。殆どの人間が人生の仕舞い時以外に縁のないであろう非論理的な体験を複数回したんだから。一度目は言葉も碌に覚えぬ頃だった」
「昔のことを覚えているんだな」
「断片的な感覚を想像で補填しながら思い出せるというくらいだけどね。あとは後で聞いた話を統合して推測し、言語化してると理解してくれたらいい」
沈黙を以て了承する。
「僕は乳児或いは幼児期のみに発症するなんとかという病気に命を奪われかかった。あとから記憶を手繰って察すると、誰かが僕を覗き込んで必死に何か呼び掛けていたんだろうけど、その時は誰の顔を聞いているのか、誰の声を見ているのかというくらい五感もぼやけていて、情報を振り分けられないほど意識が混濁していた。けれど不意に、その混迷状態からふっと身体が浮き上がって、暗く明るいものが全身に触れた。あたたかい温度が明瞭に聞こえた。夕陽色の匂いがした。鮮烈な世界に吞み込まれたことだけわかった」
「意識混濁の延長じゃないか」
「それにしては鮮明だった。鮮明にしてその世界には現実より確実な気配があった」
「気配?」
「そうだ。確かにそこにあるという実感であり、自分がここに居るという体感だ」
「単なる生々しい幻想でないと何故言い切れる?」
「そうだね。僕にも断言は不可能だ。だが単なる幻想も、実感を伴えば現実になり得る」
質問の切り口を変えようと、話題の渦の目から離脱を試みたとき、彼は僕の不理解ぶりを察したようだった。
「そうだな、こう言ったらわかるか————例えば、現在の僕らのようにね。続けてもいいかい」
微かに顎を引く。
それから横目に彼のなりを上から下へ順に眺める。撥水加工のブルーのジャンパー、そのフードのやや絞った口から覗く黒い前髪と白っぽい肌。顔立ちははっきり見て取れない。カーキ色の多分ズボン。足元も視野の外で不明。
一見した印象は登山者風だ。この男は何者だろう。
「二回目は、小学男児の真夏の遊戯の最中だった。不意に陽炎に巻かれたように視界が眩んでね。気づけば、というより気付けも起こせずに扁平な無意識下の世界を漂っていた。ただ、とても暑かった。炎天に晒されて、肉体を失った精神が直接焼け付くようで苦しかったよ。病院の冷たいベッドに身体を起こした時は助かったことに安堵することもできず、焦げかけた精神と生気を失って冷たくなりかけた肉体との乖離の感覚に、三日三晩吐き気との死闘を繰り広げたものだ」
「よく生きているな」
「ああ。帰る場所さえあれば、案外しぶとく生きるものさ」
彼は人類のあらゆる往生を見てきたように言った。
「僕はこの時、自分がこの世のものでない、つまり現実における非科学的な体験をしたということを自覚したんだ。それは自分の内側にしか存在しない世界であるのかもしれない。しかし、得体の知れない世界に、僕は確かに呑まれたのだ、と」
「全く信じがたいな。今のこの状況を差し置けば、単なる妄言だろうに」
「全くその通りだ」男は言葉を被せた。「この世界が存在する証拠を他人に示すことなどできない。しかし、逆も然り、なんだ。この世界が存在しないという証拠を誰かが掴むということもまた不可能だ」
僕は気持ちだけ右に傾けた首を、今度は左へ傾げる。「つまり、どういうことか」
「結局、よくわからないということだ。けれど話はここで終わりじゃない。続けるよ」
ともかく、最後まで聞くことだ。僕はなんとか沸き上がる疑問に折り合いをつけて頷いた。
「大学生の時分、本を読んでいた昼下がりのことだ。不意に、ジョージ・バークリという名前が頭に浮かんだ。その名前に吸い込まれるようにして世界が暗転した。いや違うな。瞬きをしたんだ。僕はこのめまぐるしい世界に浮かんでいた」
展開の速さに、必死に駆ける思考の足がもつれて空回る。
「待ってくれ、ひとつずついいか。————本を読んでいたと言ったが、何の変哲もない昼下がりだったのか」
「ああそうだ。普段通りの穏やかな午後だったよ」
「じゃあ、そのなんとかって名前は何だ」
「ジョージ・バークリ。アイルランドの哲学者だ」
男は悠然として答える。苦労して彼の言葉の謎を解こうとしている、見苦しい僕の必死の姿など目の端にも映らぬというような、安穏として涼しい声だ。
「その哲学者がおまえをこっちへ飛ばしたんだな。彼は一体何を論じたんだ」
「彼は物質の存在を疑ったのさ。知覚されないものは存在していないのと同じだ、とね」
「つまりは」
言い淀みもせず潔く言葉を切った僕に、君の不理解ぶりには慣れ切ったとでも言いたげに、彼が引き継いで続ける。
「視界に入らず、また触れもせず、音を聞かず、匂いも嗅がず、味わいもしない、あらゆる感覚に捉えられないものは、そこに存在していないのと等しい。君が東京の交差点の中心に立っているとき、地球の裏側が存在していることを君は実感できない。地下に鉄道が走っていることを君は確証できない。君が閉じられた部屋の中に立っているとき、扉の向こうに廊下が伸びていることも、カーテンの下りた窓の外に住み慣れた街が広がることも、君は証明できない。証明できなければ、それは君にとって存在していないのと同義だ。そして、君の世界は君の主観そのものだ。即ち、君の世界に、それらのものが存在していないに等しい」
「納得できないな。交差点を渡って飛行機に乗ればブラジルへ渡ることは可能だし、都心なら地下鉄はもっとすぐだ。部屋の扉の向こうに廊下が、窓の外に街があるのは開いて確かめるまでもない常識だ……」そのとき、この明らかに腑に落ちない理屈に対して半ば憤るような回答がかつかつと生産される滑舌に覚えがあることに気づく。
「……シュレーディンガーの猫」
「そういうことだ。五感を以てしてもその状態を認識し得ない箱の中の猫の生も死も、君にとっては存在しない。存在するとは即ち知覚されることだ。知覚が存在の十分条件なんだ。この関係は、次のことも意味する。知覚され得れば、それは即ち現実として存在する。この世界は、僕に知覚されることで僕らの目の前に存在しているんだ」
「おそらく、ある二つの条件が重なっていることが、この世界への扉を開く鍵なんだろう。一つは、さっきも言ったようにこの世の常ならぬ経験をしていること。そして、二つ目は、その体験を礎に、現実世界の常識を信用できなくなる契機、または自分の全感覚上に世界を創造し、その世界に対して五感を伴った強い知覚を行えてしまう能力をもつことだ。内面世界の外面現実化といってもいい。
おそらく、僕の場合はバークリの哲学がトリガーとなって、自分が内面世界を外側の現実として知覚・認識できる者だと気づいてしまったんだ。そして僕は瞬きをした。視界が遮断され、音やその他の情報も感じない一瞬ができたんだろうな。そうして僕は現実を離れた世界に飛ばされた」
「つまりは、このくるくる変わる世界は、瞬きのたびにお前の信用を失い、新たにお前の内面が外側へ投影されて、次々移ろいながら僕たちに現実として認識されている、そういうものということだな」
「そうだ」ひとつ、間があった。そこに、初めて彼の郷愁のようなものを感じた。「そして、僕は自分の住む世界を想像できなくなった。しぶとく生きた僕も、帰途を見失ったという訳だ」
彼の幾分か悲しみを孕んだような声音に、僕は恐怖と好奇心を織り交ぜた探索の手をふと止め、黙り込んで世界を眺めた。彼が瞬くに合わせ、世界はくるくる廻りゆく。
しかしいつまでもこういう訳にはいかないだろう。それに、横の男が何かに浸っていようと、初めに勝ち取った権利は有効なはずだ。僕は慎重に口を切る。
「もう二つほど訊いてもいいか」
「構わないよ。迎えはまだのようだから」
「その迎え、というのは、やってくる算段がついているのか」
男は嘆息した。「そう思うか」
違うのだろうな、と悟る。
君は二度と元の世界に帰れなくなる————その言葉が耳の奥に焼き付いている。簡単なことでは無いのだろう。そして、彼が帰路を見失ってどれほど経つのかは知らずとも、彼自身が帰宅への希望を抱いていない。僕が帰ること、即ち彼があの交差点のある世界を知覚する可能性は億が一というくらいに小さいのだろう。
「二つ目だ。僕らのどちらかが必ずもう一方の腕を掴んでいるのは、知覚に関係しているんだろうな」
「そうだ」
「手を離すと、どうなる?」
また、ひと息の間。彼を内向的なホームシックの温い海から引き揚げるために、僕は思考を彼に委ねることにした。目論見通り、男は呆れて意識の表層へ戻ってきた。
「……僕が君を知覚できなくなる。君は現実を信用しないということができないだろう」
「なあ。そのことなんだが」
「何だ」
「僕は世界の存在を信用できなくなったのじゃないのか。僕がここに居るのはその証左では?」
「その可能性は……」男は少々言いよどんだ。「完全に無いとは言い切れないが、おそらく低いだろう。君がこちらへやってきてから、たったの一度も瞬きをしなかったということはないんじゃないか。そのたびに世界が転じたか」
僕は数回瞬く。「……いや、変わらないな」
確かに、言われてみればそうだ。
「僕と君が衝突した衝撃で、僕は君だけを皮膚の上に知覚し、そのまま残りの感覚で別の世界を知覚して君を連れてきてしまった。君が世界を信用する力より、僕が抱く世界への不信のほうが強かったんだ。
僕は君への触覚による知覚を絶やさぬように腕を掴んだ或いは掴まれたまま、君を連れ回している。手を離したまま僕が瞬きすれば、君は僕の創り出した一個の世界に、君自身の知覚によって縛り付けられてしまう。君が元の世界へ帰る一縷の望みすら失せる。————しかしこれは、僕にとって辛い事実でもある。僕は、他人に知覚されることによって世界に定着することはできないとわかった」
「……ちょっと待てよ。お前が抱く世界への不信は、僕にも向けられるのじゃないのか。触れていても、それ以外の僕の情報はお前にとって存在しないと同様じゃないか。僕の姿かたち、声なんかは、お前の瞬きのたびに正しく知覚されるとも限らない。ましてや、僕らは互いに見ず知らずの他人だぞ。しかし僕は無事にここへ人間として存在して喋っている」
彼は数秒間押し黙った。僕にはその沈黙の正体が分からなかった。やがて、男は呟いた。
「……それはきっと、君自身の小さな知覚能力だろうね」
それから、君が世界を信用する力だ、と更に小さな声で言い添えた。
しばらく、と言っても時間の概念が在るのかどうか不明であるが、僕らは移ろいゆく世界をただ鑑賞していた。どんなに美しい情景も、過酷な環境も、鼓膜を打つ轟音も、刺激を含んだ香りも、瞼を下ろすほんの一瞬のうちに彼の信用を失うらしかった。それを指摘すると、彼はその一瞬に知覚の隙という名を与えた。
彼は言った。
「君の無作法は言い趣味だが、この件に関しては深追いしないほうがいいよ。それは外に知識を求めることも、内に理解を探ることも、双方においてだ。君は帰れたとしてもバークリを調べないほうが良いし、僕の横に居た体験を思い返さないほうがいい。できるならば全て、忘れてしまうのがいい」
「多くを語ったお前が、そのことを自ら求めた僕に対してそれを言うのかい」
「……それもそうだ。だが」
男は柔らかに逆接の言葉を繋げる。
「しかし、僕は怖いんだ。君がそうして知覚と存在の因果を追ううちに、世界を信用することができなくなるかもしれない、そのことを恐れているんだよ。好奇心に駆り立てられるまま探求の道をまろぶように走る君は、とても危うく見えるから」
「心に留めておくよ」僕は彼の心配に対して本心の半分からそう応える。「まあ、そうなったとしても自業自得の本望なのだけどもね」残り半分の本心は、ジョークに変換して返す。彼が笑った気配がしたような気がする。
不意に、うららかな陽光に包まれた。アスファルトの照り返しに痛む目を細める。
雑踏が耳に流れ込んだ。聞き覚えのあるノイズ。白黒縞の上へ繰り出される早足や浮き立つ足取り。目が回りそうに騒ぎたてる色の数々、人いきれ。狭く青い空を摩する高層ビルが取り巻く。
躊躇いはない。僕は掴んでいた手を離した。
さよなら、を告げると同時に、
僕は一歩前へ出て彼を振り返った。
羨ましいばかりに穏やかな世界で、男は慌てて瞬きをした。
暗転。暗闇の中に男は浮かんだ。周りには男の背丈ほどもある大きな水の塊が浮かんでいる。いや、それらは定型を保てずにぶよぶよと上方を膨らませて、自由落下していた。男もまた底のない闇の下方へと落ちる、夜雨の滴の一粒なのである。
「……幾つか嘘を吐いたな」
男の口から零れた文字の塊は、ほどけながら彼の頭上へと吸い込まれていった。
ポケットの端末の電源を入れると、数秒間微細な点滅を繰り返したのちに、画面の白光の上に十四時三十二分の表示があらわれた。おそらく、電波に乗って正常な時刻に調律されたのだろう。
歩士郎、と名前を呼ばれた気がして、一分時を刻んだ時計の表示から顔を上げる。
男が消えた空間を透かして、友人の後ろ姿を探す。歩き出そうとして、靴紐が解けていることに気が付く。注意を払いながら渡り切った対岸で人の流れから外れ、しゃがみこんで丁寧に結び直す。収まりの良いバランスの取れた結び目は中々に良い出来である。立ち上がり、身長分見下ろしてそれを鑑賞してから、辺りを見回す。友人の姿は見つからない。
仕方がないな。僕を揶揄おうって算段じゃなかったのか。
僕は歩道の上を流れに乗って、人混みに紛れる。
しばらく————時間の概念で言うと十数分程だが、帰ってきた喜びを噛みしめ、厚い信用の関係を現実との間に確かめるようにアスファルトを踏んで歩いた。
瞬きをしても世界はそこにある。当然だ。僕がこうして東京の摩天楼の間を縫うように散策している間にも、地球の反対側は存在するし、地下、即ち足の裏より少しブラジル側のその辺には地下鉄が走っている。
そうして今の僕の知覚の及ばないものをひとつずつ思い浮かべては一歩を踏みしめていると、ポケット越しに慌ただしい着信の知らせがあった。耳に当てた端末の上端から、聞きなれた友人の声が流れた。
路上で叫び声を上げかけて、通行人を飛びのかせ目の色を白く変えさせたのち、端末を首に挟んだままポケットに時刻表示の画面を探すという甲斐なき行動を甲斐なしと気づけないほどに、驚いたことには、友人との目的無き外出のあの日から二週間経った日が今日この時らしいのだ。あとから考えれば、路上での醜態に幻滅するほど、あの世界から時と場所共に全く同じ地点へ帰れる確率など限りなく低いのは当然であろうと思う。
電話口で案の定こっぴどく馬鹿にされた僕は、電話越しに、ささくれた心で友人にちょっとした嘘を吹き込んでやることにした。
最寄り駅へ向かう電車の中、ドアの脇に立って振動しながら流れる角ばった建物を眺めながら、僕は失くした春休みの二週間を想っていた。枕元に投げ出した、有閑の日に一冊ずつ増えていく栞や新刊案内や何やらくたびれた紙切れが挟まった本の数と、授業開始までの日数を比べてため息を吐く。まあ、命と五体とこの先長い人生の対価と思えば安いものかもしれない。
扉が閉まり、景色が加速されていく。
心を放ってぼうとしていると、思考はあの男へと吸い寄せられる。僕はまた、あの世界のことについて考えている。
彼は、自分の内面にあらわれる風景を、外界のものとして知覚し認識する。しかし、その一人きりで完結するように思える世界と、僕の立った交差点の現実が接点を持ったのはどうしてだろう。
彼の世界は独り善がりでも、妄想でも幻想でもなく、現実と対等な一連の世界として存在している。主観ある僕という人間が、確かに彼の世界に誘われ、身をもって知覚したのだから、これは確かなことだ。しかしこの巡り合いには何となく腑に落ちていかない。僕たちの衝突は、いや、世界そのものの衝突は本当にあり得たのだろうか。
それから、ふと思う。僕が見てきた世界が僕自身の空想で無かったという証拠なぞどこにもないのだ。僕が単なる幻視幻聴の患者か狂人であると指摘されたとして、どこをとって反論できよう。
いや、或いは。
開いたドアからプラットホームへ降り立ち、足を止める。
————僕自身、彼の創り出した空想のような存在なのかもしれない。
そういえば、彼の信用を失った世界は、どうなったのだろう。彼にとって既に存在しない世界を、例えば僕が迷子になって観測し続けたとしたら、それは彼にとってそうでなくとも、確かに存在している状態といえるのではないか。宇宙にはそこら中に世界が漂浪しているのかもしれない。僕が現実と信じるこの世界もその一つであるという、馬鹿げたような仮定も、否定できない。
背後で電車が動き出した。僕は改札へ向けて歩き出す。
自分が自我をもって歩き出した、幻想の泡沫のように思えた。靴の裏に自重でホームを踏む感覚は無かった。
あれから、ぼくはやはり世界や存在や知覚について考えることを放棄できずにいる。バークリやシュレーディンガーの本を、枕元の山に加えては紙切れを挟む日々を送っている。
ぼくは今更、ひとつだけ彼に聞き忘れたことを後悔している。
僕が追究せずにはいられないのには、こういった心残りが一因の役を買っている。それだけかと問われれば、彼の目を見つめながら首肯することはできないのだけれど。かの男の、あの二重瞼の下の黒い目を。僕がふいと目を逸らせば、犬歯の覗く口から、あの淡々と鼓膜へ染み入る調子で、もしかしたら僕の気丈な探求心への称賛を吐くかもしれない。 別れの一瞬、僕は彼の顔を脳裏に焼き付けた。そのために僕は、最後の最後で約束を破ったのだ。……否、約束を破るために、彼の顔を見ておくという目的が建前として必要だった、ともいえよう。
僕は、別れの言葉とともに、彼を振り返った。
見開かれた黒い目、驚嘆に開きかけた口から尖った犬歯が覗く。想像よりあどけない顔のその後ろに、僕は決して見てはならぬものを見た。
時折、例えばふとレポートを書く手を止めた時。
気を抜いた瞬間、背後に気配がするのだ。
恐怖に固まった体を軋ませながら振り返る。
何もない。
・・・・・・いや、違う。
それは、頭の後ろに引っ付いて、僕の後頭部と一緒にくるりと回ったのである。それは僕の、僕だけの死角の中に常に潜んでいるのだ。
僕は彼から聞き得る話を全て聞いておくべきだった。
「知覚の隙」とは一体、何であるのか。
瞬きの僅かな瞬間に存在するそれは————否、存在しないそれは、何なのか。生死の確定しない猫とは何なのか。状態が重なり合うとはどういうことか。状態が確定しない状態とはどういうものか。少し常識を外れた人間がその状態に置かれるとどうなるのか。その体験はどんな未知の代償をもたらすのか。我々の背後にずっと潜んでいたものの正体とは、一体何だったのか————。
あの時からだ。
僕が振り返って、男の背後、彼の死角に自らの姿を晒したときから。
それは僕を見とめ、僕の死角に棲み付いた。
厭な気配は染みつくように纏わりついて消えも離れもしない。……いや、実は僕のほうだったのかもしれない。
それは、以前よりずっと僕の背後にあって、僕が初めてそれを見とめてしまっただけなのかもしれない。その存在を、否、存在が確定され得ず混沌と蠢く何かを。ああ、しかし既に引き返すことはできないのだ。超えてはならぬ一線を越えてしまったのだから。
人間の自分に見て取れない背後には、死角には、ほんとうにありふれた世界があるのだろうか?視界の外にはみ出た世界は、視界の中の世界と本当に連続しているのだろうか?今、僕は振り返ってそれを確かめる。想像通りの景色があることにほっと息をつく。けれど肩越しに見ている光景は、僕が振り返る直前、本当にそこに存在していただろうか?首を体と同じ向きへ戻した時、先ほどと全く同じ世界が、僕の手許に戻ってくるだろうか?
僕は死角に化物を飼っている。
背後のそれは無数の世界を腹の中に収め、今にも僕を吞み込もうと息巻いている。それは、僕の確信を揺らがせる。
連続した日常の景色というのは、僕の単なる幻想ではないのか?
無意識に確信した日常風景の想像が、瞬間ごとに、僕の目の前に出現しているだけなのではないか?日常が一瞬すぎるたびに寸分違わず再現されうるのは、人間の無条件な現実崇拝が世界との間に成立させる脆い均衡と、それが崩れずに保たれる非常な奇跡だけに依っているのではないか?
化物とはこの奇跡を何なく掻き消し、均衡から僕を突き落とそうとするものであり、またこれらの問いそのものであるとも言える。知覚の隙というのは化物の棲家であり、化物の本質でもある。と、僕は見ている。兎角、その闇の溜まり場を広げ、膨れさせようとやつはいつも窺っている。
耳元で囁く声がする。
お前はお前自身の心に導かれるままに存在を疑い、世界を不信していいのだ。お前は知りたいのだから、知りたくて仕方がないのだから。そうだろう、さあ、すべてが幻想だと証明したまえ————低い風の唸りのような甘い脅迫が背筋を嘗める。涎の滴る牙の下へ誘い込もうとしている。時折、この囁きは荒く低めた僕自身の声だ。
それと決して目を合わせてはならない。耳を貸してはならない。一瞬の油断も抱いてはいけない。それの裡には無数の世界が、無限に存在しようとしている。呑み込まれれば最後、それの膨大な肚の中で一人、何もかもを見失って彷徨う永久の漂浪者になり果てる。怪物めいた、しかし名の与えようもないそいつは常に、無限の有と無、存在と非存在の混淆物を湛えて僕を待ち受けている。いかなる時も僕の背を逃さず、混沌の渦巻く深淵を茫漠な口腔から今にも吐きつけようとしている。
僕は、彼にとっての"バークリ"に出会うことなく、一生を終えることが叶うだろうか?出口のない箱の中の猫に成り果て、箱の中に無限の世界を飼う堂々巡りに完結しない状況に目見えることなく、平穏な日常を守っていけるだろうか?誘われるままに振り返ろうとする意識への縛めを、抗うすべなく一方的に無力化してしまう恐ろしい呪文に出会わずに済むことを、僕は心の底から願っている。
火車の足取 九川 歩町 @9_homachi
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