夏の逃避行 後編

 後少しで眠りそう、そんな時に嵐が来た。


「ねぇアナタ! 何をシテルノ? 眠そう! 遊びましょ!」


 少年に覆い被さるように、甲高い声を出しながら不思議な少女がしゃがんでいる。少年の眠気が一気に覚めた。


「うわああああああああ! だ、誰…? 何ですか…?」


 絶叫を上げながら少年は咄嗟にリュックを掴んで横に逃げる。


「そんなに怯えなくていいよっ☆ アタシはアナタのお友達になりたいんだ!」


 少女は一歩、少年に近づく。少年も後ろに二歩下がった。


「アタシね、ネモネっていうの! アネモネみたいな名前でしょっ?」


 逃げようとされていることを知っているのか知らないのか、はたまた気にしていないのか。ネモネはお構いなしに少年と喋ろうとする。右目のハートの眼帯も、エルフ族なのか尖った耳も、左頬についている花のような絵の具も、メチャクチャな髪型も、眩しい笑顔も、もう何もかもが少年を逃走の衝動に向かわせている。


「それでねそれでねっあのね、アナタにきて欲しい場所があるの! とってもタノシイ場所だからさっ おいで!」


 ネモネはいきなり五歩前に進んだ。見えているピンク色の左目がキラキラ光る。少年はそれに追いつけず、三歩しか後ずさることができなかった。


「……? お話ししようよ! アタシね、自然がとっても好きでね!」


 ころりころりと話題は転じていく。おしゃべりなネモネに、少年はついていけない。


「それでノバラっていうのはー」


 そこで彼女の話は止まった。口元から笑みが消え去る。


「…?」


 戸惑う少年。ネモネの瞳孔がきゅうぅと小さくなる。彼女は少年の手元を睨んでいるようだった。けれどもその不思議な表情はすぐに消え去り、また笑顔になる。


「ノバラの話はまた今度! アタシたちの秘密基地おいで!」


 ガッと少年の腕をそこそこ強い力で掴む。そのままネモネは彼を案内し始める。


「ちょ、ちょっとまって! リュック、拾わせて」


 置いていくのは嫌だから。


 けれどもネモネは首を横に振った。


「ソレ、なんだか嫌な感じがする。一応、ここに置いてって」


 彼女はリュックを一瞥すると、少年に目を合わせた。迷いのない言葉に、少年は脳内で天秤をかける。


 別に変なものは入れてないはずなんだけどな。ほとんど空だし。


「中身ないよ?」


「問題はナカミじゃない。表面。とってもダメな予感がする」


 鋭い視線と、ブレない姿勢。眩しいなと少年は思いながら、リュックを諦める。そのことがわかると、ネモネはまたニッコリ笑って、少年の手を引く。


 池を迂回していく。雨で湿っているのとは違う感じの土の感じをスニーカー越しに確認しながら、少年はネモネの揺れるピンクの髪の毛をみる。ラベンダーのグラデーションは染めているのだろうか。何もかもが常軌から逸脱している。おかしな長さのベルトの宙に放り投げられている方の金具部分には彼女の髪色のようなリボンが結ばれている。


 さっきいたところの反対くらいの場所に着くと、獣道があった。そこまで荒れていない、旅人たちが使っていたような道。


「これのさき!」


 ワクワクを声色で表しながら、ネモネは足を動かす。彼女に続いて、少年も前に進む。彼も自分の心がちょっとばかり浮かれたステップを踏んでいることに気がついた。


 少しずつ、二人の歩幅が大きくなる。少しずつ、二人が加速していく。二人とも、初めての感覚に心の鼓動を早める。笑みが滲み出て、溢れかえる。ネモネが笑う。


「見えてきた‼︎」


 もっと速く。もっともっと。もういっそのこと走ってしまおう。手を繋いでいるのは危ないけど、転んでしまっても一緒だから、離さないでおこう。


 緑の空間が一気に晴れた。風が二人の背中を押す。思わず、少年も声をあげて笑った。楽しい!


「あれがアタシたちの秘密基地!」


 ネモネが指さすのは廃墟の教会。ボロボロになった石レンガを、ツタが蛇のように締め上げている。見開きの扉だった入り口は開け放たれている。中も外も雑草が好きなようにのびのびと生えている。中の場合は石レンガの床の石同士の隙間から生えているが。屋根も崩れている。けれどもそれらがなんとも言えない神秘さを生み出している。


「アタシたちってことは、他にも誰かいるの?」


 少年は気になっていたことを訊いてみた。ネモネはこくりとうなずく。


「アタシの友達! きてるかどうかは知らないケドネ」


 いてもいなくてもアタシがいるから平気! 


 そう元気にネモネは笑って、廃墟の中に入っていく。少年も彼女を追う。けれど、踏みとどまった。


「あれ、ネモネ」


 教会の壇場に登るための階段に座って本を読んでいる少年が近づいてくるネモネに気がついて声をかけた。


「だれ…?」

「池のそばにいたの! 連れてきた!」

「ふぅん」


 興味のない素振りだ。しかし彼は読んでいた本をパタリと閉じる。そして立ち上がって好きなように生えている雑草を気にすることなく、静かに入り口の方に歩み寄った。


「ぼく、ニゲラ。よろしく…」


 ぼんやりとした藍色の瞳に、後ろで小さく結んでいる同じような色の髪。ゆったりとした衣服。まるで女性のような少年だ。


「君の名前は?」


 ゆらりと首を傾げながら彼は訊いた。少年の胸の中でどきりと音がした。えっと、とためらう。ネモネも振り向いた。


「ソーイエバきいてなかった! ねぇねぇ君の名前なぁに?」


 きかれたくなかった。僕の名前なんて。


 何も言わず目を泳がせる少年に、ニゲラとネモネは顔を合わせる。ネモネはキラッと、ニゲラはふわっと笑った。少年は疑問で首を傾げる。どうしたのだろう。


「別に…本名じゃなくていいんだよ…。ぼくもネモネも、本名じゃないし…」

「そーそー! アタシの名前、ほんとうはネモネじゃないよ☆ だけどね、ここではネモネでいたいんだ!」


 楽しそうに、けれどどこか虚しそうに二人は言った。からっぽ。まるで仮面舞踏会だ。


「…そっか。ここなら、僕でなくてもいいの?」


 教会の外側と内側の間を繋ぐ境界線をじっと見つめる。瞳が潤んでいる。それを必死に抑えようと奮闘して、手で目を擦ろうとしている。


「あったりまえじゃん!」


 きゃっきゃと笑って、少年に近づいて、彼を招く。ネモネに差し伸べられた手に、少年はためらいながらも自分の手を重ねる。そうすれば、ネモネはぐいっと彼を引っ張る。もつれたように少年の足が動いて、彼が恐れていた境目を越える。あ、と声が漏れた。少年のスニーカーが雑草が隙間から生えている石造りの床に触れた。


「あーあ☆ 超えちゃったね!」


 嬉しそうに、からかうみたいに、子どものように、ネモネは言った。その後ろで、ふふ、とニゲラが柔らかくほほえむ。


「で? で? どーする? 名前、何にする⁉︎ 一緒に考える? ひとりで考える? アタシたちは待つよ! ね? ニゲラ!」


 少年の周りをスキップして、瞳をキラキラさせている。心から楽しんでいるようだ。ニゲラはその問いに首を縦に振って答える。教会の奥に生えている木が風に揺らされた。


「名前、なまえ… ネ、ネモネと、ニゲラ、は、どうしてその名前にした、の?」


 たどたどしく、怯えているみたいに、少年はきいた。


「ぼくも、ネモネも、花の名前が元だよ…君も、そうするの?」


 感情の読めない声色と表情で彼にいう。風が駆け抜けた。ネモネとニゲラの髪の毛がひゅるりと揺れる。しばし黙ると足元の名も知らぬ雑草をじっと見つめる。


 セミの鳴き声がミンミン聞こえる。ちょっと遠くのタンポポの黄色が優しくて目を癒してくれる。鳥たちのさえずりが耳に流れてくる。


 ふと、脳内に僕の好きな花の映像が浮かんだ。純潔の花びら。きれい。棘があるからあまり触っちゃいけないけど。


「きめた」


 少年がそういうと、おっ、と二人は期待を口からもらす。ネモネがぴょんぴょん跳ねた。ニゲラはゆるりと笑う。二人ともワクワクした光を瞳に宿している。


「何にしたの? ねーねー何にしたの?」

「ネモネ…気になるのはわかるけど…落ち着きなよ…」


 前のめりになって少年に近づくネモネの肩をニゲラが掴む。「ダッテ気になるじゃん!」とネモネは彼に反論する。ニゲラはため息をつくが、不満という感情はなく、むしろ同意を感じる。


「ニゲラも気になってる! ネ、ネ、教えてよ!」


 両目をキラキラさせながら、ニゲラの手を振り解き、少年の肩をがっちり捕まえる。にっこりとした笑顔が少し怖い。


「すぐ言うよ、大丈夫」


 苦笑しながら少年が自分を捕縛している両手に自分のものを重ねる。ニゲラも二歩ほど、少年に寄った。よほど楽しみらしい。


「じゃあ言うね」


 僕は急かすネモネの期待に応えたくて、口を開いた。


「僕の新しい名前は」


「うんうん」


 ネモネが相槌を打つ。ニゲラがもう一歩、前に進んだ。


「ノラ」


 わああああっとネモネが声をあげる。くすくすとノラが笑った。ニゲラの隣を蝶が横切った。ひらりと舞うと、空に向かって飛んでいく。


「ノラ! ノラ! 素敵ね、ステキ!」


 ネモネはくるくるとノラの周りを飛んで跳ねて走り回る。ピンク色の髪が鮮やかに空中をたゆたう。彼女の真似をするように、ニゲラもノラの周りを走る。三人ともくすくす、ふわふわ、笑っている。


 五周ほどすると、すっと二人はなんの合図もなしに止まる。ニゲラはノラの右に、ネモネは左についた。二人同時に手を差し出す。鏡写しのように息のあった動きに、ノラは驚きながらも、二人の手に自分のを重ねる。重ねたのを認識すると、ニンマリ二人は笑顔を浮かべて、手を引く。


 たったっと、白い石の地面を蹴る。ちょっとだけ音がする。三人分の足音が微かに、かすかに聞こえる。ネモネのベルトが勢いよく揺れている。カチャリカチャリと金属の音が声をあげる。


 正面の段差をかろりと踏んで越えてのぼる。石造りの階段にスニーカーが沈むことはなかった。硬い感触が伝わる。雨に濡れていて、ちょっとキラキラとしている。


 段差をのぼって壇上に着くと、二人は喋り始めた。


「ノラ、あのね、約束があるの」

 真剣な声でネモネが言った。ニゲラが教会の入り口を眺める。一息ついてから、彼も喋った。


「大丈夫、簡単なルール。…ここ以外で、僕たちをみても、絶対に声をかけないこと」


 すぐにノラは反応する。「どうして?」と疑問をぶつける。


「アタシたちが知ってるのは、ここにいる『アタシたち』だけ」


 ピンク色の瞳が強い意思を宿している。どこか達観したような、先程までのネモネを感じさせない雰囲気がそこにある。


「僕たちは、ネモネじゃないネモネを、知らない。ネモネたちも…ニゲラじゃない僕を、知らない」


 悔しさを滲ませた声で、ニゲラは言った。空いている右手を握りしめる。けれど、急にその力は抜けた。


「なんで、そのルールができたの?」


 二人にそうきくと、すぐに返事が返ってきた。


「ここの外じゃ、アタシたちは知り合えないんだよ。実際、このルールがない時に話しかけたら、その子が怒られちゃった」


 寂しそうに口をすぼめるネモネ。彼女の言葉に続いて、ニゲラも話す。


「要するにね、『ワケアリ』が多いんだ…君もじゃないの?」


 藍色の彼は全てを見透かしているかのごとく、鋭い眼差しをノラによこした。しかし、詮索する気はないようで、すぐにニゲラは目を逸らす。


「つまりね、アタシたちは傷を抉ったり、過去を見ようとしたりはしないよ☆ってコト!」


 ナイフのような雰囲気を隠し去って、真剣さが減った口調で、人差し指を立てながらネモネはいった。キャッキャと笑う。ニゲラがノラの背中に手をのせる。そうっと、そうっとした手つきで撫でる。あやすように。


「そっか…」


 ぼくが背中をさすっているノラがつぶやく。かなしくて、やさしくて、小川みたいな目をしてる。緩やかで、柔らかくて、清らか。


 慎重に息をしてきたのかな、苦しそうだな、さっき見た時、そう思ったんだ。


「大丈夫?」


 ネモネが心配の声をかける。きっと、ノラの声からはりが消えかけていたからだろう。彼は平気なことを示すために、にこりとほほえんだ。ただ、それで切り抜けれるほど、ネモネは甘くない。彼女は頭を横に振ると、真面目な顔で言った。


「全然大丈夫そうじゃない! ちゃんと言わないと、助けられるものも助けられないよ!」


 自分のことを考えてくれているんだ。そう気づくと、途端にノラは申し訳なく思った。彼女はいわゆる、素直や純粋に分類される性格なのだろうか。自分以外のことも考えれる能力を持っている。


「なんて言うのかな、安心したというか、なんかそういうあったかい気持ちになったんだ。ありがとう」


 彼女にならって、ノラは率直に自分の思いを口にしてみた。そうすれば、ネモネの表情は緩み、嬉しそうな色に塗り変わった。


「あ、そういえば」


 ノラが何かを思い出す。ネモネとニゲラの二人は首を傾げる。


「僕のリュック、どうして嫌な感じがするって言ってたの?」


 三秒経ってから、ネモネはハッとした顔をする。すっぽり忘れていたようだ。ニゲラは完全に蚊帳の外。ある意味、当たり前だ。


「えっとね、ほんっとうに『なんかやな感じ』だったんだ。持ってきちゃったらダメな感じがしたの。どうしてかは言ったアタシもわかんないんだけど…」


 どういえばいいのか。うぅんと唸りながら、必死に説明しようとするネモネを見て、ニゲラとノラは顔を見合わせて笑った。


「うー、どう言えばいいのかなぁ」


「なんだか嫌な感じがしたんでしょ? 伝えてくれてありがとう。背中が軽くなったしさ」


 冗談めかしく言うと、ネモネはパァっとした明るさを取り戻した。


「あ、そうだ! 池のところ行こうよ‼︎ アタシいきたい!」


 思い立ったが吉日と言わんばかりにネモネは白い段差をすっ飛ばして降りる。白いカーディガンがふわりとはためく。ほらほら、と手招きをしながら、ネモネは入り口に走っていく。


「今行くから!」


 思わず、笑顔がたくさん溢れ出た。僕の前にはネモネがいて、後ろにはニゲラがいる。


 僕らが今いない街の中は、きっと炎天下で。そこで必死に生きている人が今もいて。それで、一般的に見れば、僕らは現実逃避をしている子どもたちで。きっと馬鹿らしいものなのだろうけれど、それでも、僕たちはこの瞬間が最高に楽しくて、自由な気がして。


 こんな時間がずっと続けばいいのにな!


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夏の逃避行 ぴーや @pi_ya

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