夏の逃避行
ぴーや
夏の逃避行 前編
セミがうるさい。
あそこの踏切もないている。花壇のマリーゴールドの黄色が眩しい。あの子どもは迷子なのかな、かわいそうに。
でもごめんね、僕は今、君にかまっちゃいられないんだ。都合があるんだ。泣いてもなんでも無駄なんだ。喚いても、反抗しても、逃げても、なんでも無駄なんだ。諦めなよ。
アスファルトから出てくる熱が重い。水筒持ってきた方がよかったかな。そこらへんの公園の水でも飲もう。
自己完結の音が鳴り響くな。
仕方がないだろう。自分の中で終わってしまうんだ。
会話も、思考も、世界も、関係も。ひどくうるさい現実より、僕は静かで誰にも侵されることがない独りだけの虚構に縋っていたいんだ。
僕を狂ってるなんて言うやつだっているけど、こんなの狂気の一端でもなんでもない。
本物の狂気はもっと自分勝手だ。自分を守るために必死で自分を繕って、周りを傷つけるんだ。そうすれば誰も近づかなくなって、自分を痛めつけるやつも消えて、だけどそんな膜で心を守っても、当の心は空っぽなんだ。
何もない。
ひどく虚しく、そしてだだっ広く。
でも水で埋め尽くされてるみたいに苦しいんだ。溺れそうで怖いんだ。それでもっと自分を守るために狂っていくんだ。
四肢を振り乱して、喉が枯れたって叫び続けて、誰も彼も何もかもを、全てを自分から離れるように仕向けるんだ。
全てを自分にやってくるように現実を変えた偉大な人もいるけれど、僕にそんなことできると思うかい⁉︎
僕ごときにそんな素晴らしいこと無理なんだよ。
わかりきっているのに、それを求める自分がいる。
気持ち悪い。世界は僕を中心に回ってなんかいないのに。世界はなんの理由もなく廻り続けるんだ。
理由だとか価値だとか、そういったものは全部僕たちが勝手につけるんだ。
価値なんて後付けだ。理由なんてデタラメだ。
つけないと気が済まない奴らが存在してるから、あんな面倒なものがあるんだ。理由なんてなんでもいいだろ。評価なんてしてどうするんだ。
それで誰かが満足するんだろうな。知ってるよ。だから今の今までそれが存在しているんだ。
ほらまた自己完結。
やっぱり僕は自己完結の天才だ。
全ての思考が己だけで終わる。完の文字が浮かぶんだ。どうしてなんだろう。
友達ともいい関係を築けているはずなのに。これもまた自惚れなのか? 最高に気持ち悪いな。
この吐き気は世界の終わりみたいな気温のせいなのか、自己嫌悪が引き金になって僕の心に弾丸が打ち込まれたからなのかどっちなんだろう。後者なら誰が僕を打ったんだ?
あ、そういえば僕だった。
いつだって自分を傷つけるのは僕自身だ。
誰ももう僕を刺さないのに、僕は勝手に自分で自分を刺して、嘲笑うんだ。ほらほら、泣くなよ雑魚がって、自分をバカにするんだ。
そうだそれが僕だったんだ。どれだけ褒められようが、持ち上げられようが、自分を認めないで、むしろ嫌うんだ。嫌って、誰かに嫌われったって、殴られたって、そこに留まっていたんだ。
なのに今はどうだ⁉︎
逃げている! 僕が長い間封印していた逃走という禁じ手に走っているじゃないか! どうしたんだ。何が僕を動かしているんだ! 不満なんてなかっただろう、文句の付け所のない、幸せな人生を送っているじゃないか! この恩知らずが、自己中心的なゴミが!
それでも僕は逃げている。足は家から遠くへ行こうと必死に動くし、腕もそいつを手伝うし、呼吸は走りやすいように浅くなっている。僕の体が逃げることを選択した。
いまだにセミは自己主張をする。踏切の声は、遠さがって聞こえなくなった。迷子のあの子もずっと後ろにいる。振り向いたって見えないだろうし、もとより何度も角を曲がってるから見えるはずがない。
行ったこともない道だらけだ。
自分がいかに無知で世界を知らないかが突きつけられるが、そんなことどうだっていい。
今はひたすらに自分が落ち着ける場所が欲しい。たとえ僕が自分像のフリをしなくったって、何も僕を拒まない、僕を知らない場所を見つけたい。どこだっていい、先客がいても蹴散らしてやる! 僕が安息の地を求めたっていいだろ!
◆
少年は、泣いていた。
瞳から透明な液体は流れていないし、嗚咽も上げていない。けれども、その心は、親を見失った幼児と同じくらい、泣きじゃくっていた。もちろん、少年はそのことに気づいていない。もう、誰も気づけないのだ。
彼は全てをだまくらかして、己を隠し続けた。必死に、自分像の仮面で本来の自分を覆っていた。たとえ泣きたくても、怒りたくとも、嫉妬の矛先を誰かに向けたくても、それを必死に押さえつけ、見ぬふりをし続けた。笑い続けた。
人望を獲得した。人気を得た。評価が上がった。
全てが、円滑に、滑らかに、綺麗に進んでいた。
一昨日までは。
昨日、少年は、初めて自分の意見を口にした。
とても、攻撃的な意見だった。
歌の練習を学校でしていた時のことだった。
空気が緩んだ。男子がふざけ始めた。歌い始めるのが難しくなった。ふざけていない方が必死に場をまとめようとした。けれども、全てが失敗した。
教師が怒った。
この時間が無駄だとは思わないのか。
こんなことをしている間に、他のクラスはもっと練習をして実力を伸ばしているぞ。
皆、沈黙を守っていた。最初は、少年もその場を静観していた。どこか他人行儀で、静かに、遠くから。
けれども、唐突に、少年の中で何かの感情が首をもたげた。
不満か、疲労か、好奇心か、はたまた、別の何かがその姿をあらわし、少年を支配した。
得体の知れない何かに、少年は突き動かされた。
「この時間が、一番無駄なのではないでしょうか」
瞬間、少年は今まで掲げていたガラスの自分像を力いっぱい、地面に叩きつけた。もろく、弱い、意味も価値も持たない像が粉々に砕け散る。今まで周囲のものたちが彼に持っていた印象が、百八十度回転し、ガラリと変わった。
「この時間が無駄だなんだと言うのであれば、パッパと切り上げて練習をすればいいのではないでしょうか」
少年は呪われたかのように、言葉を口にする。教室は、別の種類の静寂に包まれた。生徒たちが口にしたい言葉、先生が、口にしてみたかった言葉。それを彼は言ってみせた。
人望を無くすかもしれない。人気がなくなるかもしれない。評価がガタ落ちするかもしれない。
全てが、どん底に、失敗に、終焉へ向かうかもしれない。
けれども、少年は、多大なるリスクを犯してもなお、自分の意見を、考えを、言葉を、現実に差し向けた。
その日、少年の中で今までで一番の激しい嵐が吹いた。言葉を放った時の緊張。放ってしまったことに対する罪悪と歓喜。あの時の空気の張り詰めによる息苦しさ。自分の中の自分像が壊れていく音を聴いた事による興奮。夏に吹き荒れる台風よりもずっと荒れ狂っている嵐だった。
そして、今日。
彼は逃げていた。
現状から、親から、先生から、クラスメイトから、自分像から。
彼は探していた。
居場所を、自分を知らない誰かを、優しい誰かを、自分像ではない自分を。
今のところ、その試みはまだ達成されていなかった。ただひたすらに、アスファルトの灼熱の上を駆け回り、自分の行ったことのない場所を目指していた。見える角という角を曲がり、坂という坂を駆け上がり、けれども路地は避けていた。
止まってしまえば、少年の息は切れてしまう。腕と脚も疲れを叫んでしまう。もう、動けなくなってしまう。それを知ってか知らずか、どちらにせよ、少年が止まる気配は全くもってない。いつまでも走っていそうだ。
何が彼をそんなに動かすのか、なぜ少年はそこまで現実から逃げようとしているのか、彼自身も知らない。彼は、彼が自覚しているように、まるで何も知らないのだ。
◆
無知で無垢な少年は、無我夢中で体を運んでいた。気がつけば、彼は街の郊外にいた。足を止めた。彼の予想通り、肩で息をしている。
初めてくる場所。こんな場所が世界にあったのかと、少年は昨日、己を震わせた感情とは全く反対にいる感動に心を包まれた。
どこまでも続いていきそうなみずみずしい草原。だだっ広い青空。ゆるりと流れていく真っ白な雲たち。
前を見れば、少し遠い場所に森がある。後ろを振り向けば、ぽつりぽつりと民家があるだけで、他は何もない。自然というものだ。
少年は目を輝かせて、背負ったリュックの紐を握り、初めて見る街の外に、自然に、見惚れていた。
けれどもその時間はすぐに終わった。彼は一度、深く呼吸をして、唇をぎゅっと結び、森の方へと足を進めた。
森に近づくたびに、少年の歩幅は大きくなった。憧れの対象と出会えた夢見る少年少女のようだ。瞳は宝石のごとく輝き、力を込めて結んでいる口もプルプルと震えている。
森の鬱蒼とした空気を感じられる、いわば境目のところに立つと、少年は首だけ回して、町の方を見た。
罪悪感を感じたような目になったが、すぐにそれも消え失せ、彼は木々の生えている、行ったことのない領域の世界に足を踏み出した。
長い間使ってきたスニーカーが、柔らかい土に沈み込んだ。
雨が降っていたのか、湿った匂いがあたりに漂っている。どこからか鳥の歌声が耳に届いて、それと同時に音が空気に溶けていく。少年はその全てに驚き、恐怖し、そしてわくわく胸をおどらせていた。
一歩、二歩、三歩。少年は初めての世界をゆっくり、周囲を見渡しながら進んでいく。
草木の息吹を感じながら、潜んでいる動物たちから警戒を向けられながら、少しずつ、けれども確実に足を動かす。
どんどん森の奥へ進んでいく少年は、もう恐れ知らずの好奇心の塊となっていた。
そうなればもうためらう必要もなく、彼は進みたいだけ進むために、急に走ってみたり、振り返ってみたり、方向を変えたり。
迷子になることも、家のことも、学校のことも、もう何もかも忘れて、少年は自然への回帰を試みていた。
だが、もとより彼は自然で生きてきたわけではない。
彼は身勝手に帰還だなんだと思っているが、少年は、社会に育て上げられた。自然知らずの箱入り息子だ。社会知らずの野生児が、均衡で治められた社会に足を踏み入れようとでもしようものなら、規律がその異分子を見逃さない。
けれども、そんなちっぽけなことで拒否するような狭量なものが、自然を名乗るはずもなく。少年は迎えられこそしないが、追い出されもしない。蔦も葉も幹も草も花も動物も何もかもが、ただ、そこにある。
ふと、少年の目に、光り輝くものが映った。
きらきらと光を反射する水面。池があるようだ。
少年は好奇心の赴くまま、そちらに足先を向ける。
池は開けた場所にあった。まるで動物たちの集会場所にでもなりそうだ。池の表面には水蓮の葉が何枚か浮かんでおり、水はすっと透けている。
しかし魚の姿は見えない。池と繋がっている小川にでもいるのだろうか。
こんなにもうつくしい場所が、すぐそばで息ついていたのか。少年は腕の力を抜く。
池と陸を分けている境目までいくと、少年は座り込んで、頭上を見た。
狭いけれど、街中で見るよりかはずっときれいな空色。パステルカラーに分類されるだろう空色。夏らしく、ふわふわとした地上に近い入道雲が流れていく。
濁流かのごとく高速で動く日々に、こんなことができるような隙間はない。せいぜい、視界の端にうつるくらいで。視界の端にうつったものにいちいち意識も向けれなくて。
「…気づけなかったの、もったいないな…」
まるで呼吸をするかのように、かすかに少年はつぶやいた。いつもの日常の、はるか昔の姿。それが今、少年がいる場所のように思われた。
少年はしばらくその場に座って、背負っていたリュックを自分の横に置いて、ゴロンと土と草の上に寝っ転がる。そよりと風が吹いた。
(小説のワンシーンみたい)
少年は自分の存在している場所が現実だということを認めた上で、そう思った。
けれども、彼のそばには自信家の幼馴染も、変人の友達も、喧嘩をするライバルも、そのみんなが集まる秘密基地もない。横にあるのはただの空気だけだ。
なんと虚しいことなのだろう。
雨に濡れたノバラの花びらに乗っている露がぽとりと重力に従った。
しばらく、少年はそのまま、なんでもない時間をうつろに楽しんだ。ぼんやりと、眠りそうだけれども意識はしっかり保っている。
蝶がひらひら舞った。木の葉っぱがくるくる落ちた。うさぎがぽとぽと走ってった。初めて聴く音。知らない音。なんでだろう、涼しい。木のおかげかな。ありがとう。
少年の呼吸が静かな空間に響く。
小川の流れていく音が聞こえる。木の枝の揺れるざああざああとした音が四方八方から聞こえてくる。蝉の音もたくさんある。温かい光が少年を包み込んでいる。
少年のまぶたがうとうと下がり始めていた。
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