美しい沈黙

ヤン

最高の瞬間

「いよいよ明日ですね」


 音大時代の恩師が、言った。僕をじっと見ているその目の奥には、いろんな感情があるように思えた。


「はい。明日ですね」

「君。何だか、他人事みたいな言い方しますね」


 僕は、笑って、


「そうですね。他人事みたいな気分です」

「他人事じゃありません。君のファーストコンサートが、明日開かれるんです。他の誰でもない、君のコンサートなんですよ。わかってますか」

「わかってるので、これから最後の調整をしようと思っています」


 先生は、わざとのように大きな溜息を吐くと、


「僕の愛弟子ですからね。大丈夫なのはわかっています。でも、君は相変わらずですね」


 僕が首を傾げると、


「君は、変に度胸が据わっています。レッスンで上手くいかなかったはずの場所を、試験の時は、難なく弾いたりしましたよね」

「そうでしたっけ」


 もはや、覚えていない。


「でも……君に感謝しなければいけません。音楽に、ピアノに、戻ってきてくれて、ありがとう」

「いえ、あの……」


 途端に、音楽を捨てた頃のことがよみがえった。


 大学時代、音楽上のパートナーでもあった人との、突然の別れを経験した。何の前触れもなく、いきなりその日が来た。あまりのことに、僕は呆然とし、現実を受け止めきれなかった。


「先生。僕、もうピアノ弾きません。僕にとって、ピアノはあの人です。音楽もあの人です。甘えたことを言っているかもしれませんけれど、僕にはもう音楽をやる意味がなくなったんです。とてもじゃないけど、弾けません」


 涙が次から次へと流れ落ちて行った。


「先生。もう無理です」


 そう言って、僕は、先生の前で泣き崩れた。


 それからしばらくは、大好きだったはずのピアノに、いっさい触れなかった。こんなことは、それまでの人生ではありえなかった。最低限、しなければならないことをする以外の時間は、全てピアノに費やされていたのだから。それが、全く弾けなくなった。


 先生は、僕が戻ってくるのを信じて、ずっと待っていてくれた。僕が学校に戻った日、先生は、心底ほっとしたような表情で、「お帰りなさい」と言った後、涙を流しながら僕を抱き締めてくれた。


 それからは、それまで以上に真剣に取り組み、運よくプロのピアニストとして活動できるようになった。そして、明日は単独での初めての演奏会だ。そこまで広い会場というわけではないが、チケットは一応全部売れた。後は僕が、その人たちの期待に応える演奏をするだけだ。緊張はするが、それよりもむしろ、ワクワクする気持ちの方が強かった。先生が、僕は度胸が据わっている、と言ったが、否定は出来ない。


 先生と別れ、家に帰るとすぐに明日演奏する曲をさらい出した。



 翌日、リハーサルを終えて楽屋に戻ると、スマホにメッセージが届いていた。先生からだった。


『期待してますよ。僕の愛弟子だから、大丈夫だと信じています』


 またプレッシャーを掛けてくる。先生らしいな、と思って、つい笑ってしまった。


 開演時間が近づき、僕はスタッフに声を掛けられてステージ袖に移動した。客席はにぎわっていて、楽しそうに笑い合う声も聞こえる。それを聞いて、僕は微笑んだ。


 合図が来て、ステージに出て行くと、大きな拍手が沸き起こった。これが、僕だけの為になされていることだと思うと、喜びの気持ちが溢れてきた。


 ピアノの前まで進み、客席の方に向いた。端から端までゆっくりと見た。一番後ろの席に、同期だった人と、先生がいる。二人で聞きに来てくれたことが嬉しくて、思わず微笑してしまった。


 一礼して、椅子に腰をおろすと、途端に客席が静まり返った。今まで客席に満ちていた隣人たちとの会話がいっさい消えた。


 この静けさには、僕の演奏に対しての期待感が込められている気がした。早く、一音目を鳴らしてほしい。そんな、声なき声が聞こえてくるようだった。


 何て素晴らしい。何て美しい沈黙だろう。


 その最高の瞬間に、僕は、僕の前から突然消えてしまった人を想って、心の中で呟いた。


(やっと、ここまで来たよ)


 深呼吸をすると、僕は、鍵盤に静かに指を置いた。           (完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

美しい沈黙 ヤン @382wt7434

現在ギフトを贈ることはできません

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ