第24話 第二十四講 魔法の言葉と、修了証書


「わしの女房は、よくできた女だった。中学校で家庭科の教師をしていた。学のないわしを馬鹿にせず、辛抱強く支えてくれた。三年前に病死するまでは、かけがえのない存在だった。わしの料理教室も、女房が中学校を退職後に始めていたものを受け継いでいる」

 教室の壁に掛けられている額縁に入った美しい女性の写真は、先生の奥さんが若いころのものらしい。大きくて形の良い目や、上品な唇、細い顎のラインは、鈴奈や桔梗の顔立ちの特徴とも共通している。

 先生は、高校卒業後に教育関連の出版社でセールスマンをしていた。奥さんの勤める中学校に、教材販売の商談に出向いた時に出会っている。先生の話では、一目惚れだったらしい。先生が料理に興味を持ち、研究し始めたのも奥さんの影響が大きかった。

 話を聞くうちに、僕や鈴奈に対する親しみのある視線や語りかけは、先生と奥さんとの関係を僕ら二人に写し見ているのではないかと、漠然と思った。

 先生は奥さんの話をする時に、柔和だが寂しそうな表情を浮かべていた。

 講義がすべて終了するまでに、生徒は全員、先生のことが好きになっていた。いつも、先生に批判的な野島さんは、実は先生の姪御さんであるのが分かった。講義の前に、申し合わせて、批判的な質問も生徒の疑問の解消になると考えていた。

「私の姪っ子は、なかなかの名優だよ。元来、わしは気持ちにドライブがかかると、余計なことまで話し過ぎる。それで、わしを注意するように頼んでおいた。どうだ? 皆、講義中気が引き締まり、集中できただろう」と言い終わると、先生は甲高い声で笑った。

「それもね……。先生が皆にかけた魔法なのよ」と、野島さんは説明した。

 サプライズには、仕掛けた側の愉楽にしかならない種類のものがある。子供にクリスマスプレゼントとして、大きなびっくり箱をプレゼントする大人の心境だ。驚かせたいというシンプルな思惑だけで、配慮を欠くと、相手に対する脅迫や暴行と大差ない結果を招く。

 だが、先生と野島さんが仕組んだサプライズは、好感が持てた。

 先生は「料理の一番のコツは、人に喜ばれるのをモティベーションにすること」と、よく話していたが「いきなり、難しい料理に挑んで見るのではなく、トーストを焼くとか、インスタントコーヒーを淹れるとか……、そういうことで他人より、上手く作り、喜んでもらう機会を増やしていけば自ずと、料理上手になっている」と、心がけを示した。

「僕は今でも、作るよりも食べる方が好きですね」

「永瀬君、君の考えはいつも正しいよ。三つ星料理人として有名なポール・ボキューズは『料理人の腕は舌の記憶の確かさにある』と言っている。絶品料理を食べ歩き、舌を肥えさせるのも大事だね」

――今日が最終講義だ――と、考えると先生の発する言葉がいつもより重く感じられた。

「君たちは魔法の言葉の『5S』と『さ・し・す・せ・そ』を覚えているかな?」

「料理の時は、頭で考えると同時に、リアルにイメージすることが大事だ」

「最大のスパイスは愛情……、つまり、人を思いやる心だ」

 僕は最近、長田弘の詩集「食卓一期一会」を読んで、詩人の描く世界と先生の思いが、頭の中でつながっていた。長田弘は、詩集の中で食べ物の中には、世界があり、物語があり、そこに暮らす人々が存在すると、謳い上げていた。

「料理は時代とともに、変化し続けている。二十世紀の終盤頃に、イタリアの科学者と料理人が、料理を科学的に分析する分子ガストロノミーの研究を始めている」

「分子……ですか?」最前列の僕は、問い返した。

「専門用語で話して、申し訳ないね。実際に、瞬間凍結やゲル化、泡化などの技術で料理が提供されている。人工イクラが作れる時代だ。この料理教室で覚えた技術は、先端技術によるものではないが、時代が変わろうと家庭で役立つ技術だ。わしは、君たちに料理の技術ではなく、心を伝えたかった。そのことは、忘れないでくれ」

 先生は……、生徒を批判するよりも前に考えを受け入れて、優れた点を褒めてくれた。先生は……、講義を楽しく演出するために、時折、ジョークを交えて、分かりやすく説明してくれた。先生は……、料理を機械的につくる手立てを教えるのでなく、歴史的背景や思いを伝えてくれた。振り返ると、一つ一つが懐かしく思えた。

 もし、先生の料理教室で出会っていなかったら、僕と鈴奈は交際していなかったことが予想できる。別の教室や、どこか別の場所で会っていたなら、同じ親しみを感じないで、僕は鈴奈の目の前を通り過ぎていただろう。

 修了証書の最後の部分には、先生の名前ではなく、大きな丸枠の中でガッツポーズをとる先生の写真が印刷され、漫画風の吹き出しに「挫けずに、元気な笑顔で、美味しい料理をつくろう」と書かれている。

 修了証書は先生自身が、一人一人に直接、手渡した。美少女チームを始め、女性たちはハンカチで涙を拭いていた。

「修了証を受け取り、いざ出陣ということになったな。ここで、君たちは料理する立場と、食べる立場の両方を学んだと考えて欲しい。どんなものでも……そうだがね。作り手は、それを利用するものの為に存在している」

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魔法仕込みの料理教室 美池蘭十郎 @intel0120977121

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