第23話 第二十三講 注意事項って何だろ??


 先生はフェルトペンを手にすると、ホワイトボードに大きな字で「油断一秒、怪我一生」と書いてから、生徒に向かって問いかけた。

「わしが、今書いた言葉の意味が分かるかな?」

「……」生徒がすぐに反応しなかったので「分かる人?」と、先生は挙手を促した。

 今度は生徒全員が手を上げた。

「君たちが、知っている通り、注意を怠ると、大怪我することもあるので気をつけようと呼びかける言葉だ。じゃあね、お隣の国、中国の工場でこの標語を書いた紙を貼ると、どうなるか想像がつくかな?」

「標語に書かれようと、関係なく、中国では無視されてしまうとか……、そういう意味ですか?」先生の視線が僕を捉えていたので、思わず問い返した。

「いや、そういう意味じゃない。『油断一秒、怪我一生』は、中国語では『油を一秒でも切らしたら、私は一生涯、責任を負わなければならない』という意味になる。実際に1970年代に中国から工場見学に来ていた視察団長は、偶然この標語を見つけて、日本人労働者の責任感の強さに驚嘆したらしい。今回の講義は、料理に関する注意事項だが……、油断しないで聞いてくれ……。勿論、日本語の意味で考えて欲しい」

 教室のあちらこちらから、笑い声が漏れ聞こえてきた。

 先生は、ホワイトボードに書いた文字を消すと、真剣な表情で

「家の中にいると安全だと、思っているかもしれないが、台所災害と呼ばれる事故には注意が必要だ。消防白書によると、火災の原因の三位に、台所のコンロからの出火が上げられている。コンロと言っても、ガスコンロの利用時の出火が最多だ」と、先生は神妙な面持ちで告げた。

「柿崎さん、君は天ぷら火災が発生する原理が分かるかな?」

「消し忘れですか?」

「それもある。具体的に言うと、天ぷら油は360~380℃で発火する」

「油温が高くなった目安は、何かありませんか?」

「それが大事だな。天ぷらを揚げるのに最適な温度は、180~200℃だ。340℃を超えると泡が出始める。これが危険のシグナルだ。天ぷら油をコンロで加熱すると、十分で白煙が立ち、二十分で発火点に達する」

 生徒たちは、熱心にノートにペンを走らせた。

「台所は、熱湯の入った鍋、よく切れる包丁、割れやすいガラス食器など、危険なものが多い。地震などの災害時に、家族の命を守るのは、整理された収納、転倒予防、ガラス飛散防止、消火のための備えが大事だね」

 内容が内容なので、僕は少し緊張していた。

 料理の最中に火傷した事例では、着衣への着火、毛髪に着火、鍋やコンロに触れて火傷などの多様なケースがある。

「台所には無用なものは、一切置かないことだ。特に、レシピ本など紙類は出火の原因になるので、置きっ放しにはしない」

 先生は、さらに日常の危険への対応の必要性を訴えた。

「万一の時は、台所回りは危険なものが数多くある。使わない包丁は処分する」

「後片付けは、苦手です」長谷川さんが打ち明けると、他の生徒たちも同調した。

「後片付けは、使用頻度で決める。よく使う物、たまに使う物、あまり使わない物を分類し、種類ごとに決まった位置に収めるのがコツだ。雑然としている場合は、全部出して確認すると、どんなものがあるか、何に使えるか把握できる」

 先生は、日常の心構えから、食事の時の健康被害に話題を切り替えた。

「近年は、食物アレルギーによる健康被害の事例が増えている。食物アレルギーというと、どんな食材を連想する?」

 生徒は「牛乳」「タマゴ」「サバ」「カニ」「蕎麦」「大豆」「ピーナッツ」と、一人ずつ答えた。

「先生は、すべて正解だ。しかも、どの食材も、健康生活に欠かせないものなので、扱いには注意が必要だね。新聞記事にもなっていたが、小学校の給食で女子生徒が乳製品を食べてアナフィラキシーショックを起こし、心肺停止状態になり死亡したケースがある。こうした誤食による健康被害は、多発している」

「何が原因ですか?」野島さんが、冷ややかな表情で質問した。

 僕は、野島さんが発言するたびに、先生に向けた……、突き刺さるような視線が恐ろしくなり、ハラハラしていた。

「元々、タマゴ、牛乳、大豆は三大アレルゲンを呼ばれてきた。食が豊かになった結果、乳幼児期の消化器官が未発達な頃から、アレルギー食材を食べるケースが増えている。それと、機密性の高い住環境で、家ダニが増えたことも原因とされている」

「どんな点に、注意すべきでしょうか?」

「食物アレルギーの原因物質は、人によって違う。もし、自分や家族が、何かの食物に反応し、症状が出たら医師に相談しながら、原因の食材を避けることだね」

「何か、調理方法の工夫で、予防ができないものでしょうか?」

「そうだなあ、三大アレルゲンのうち、鶏卵の場合は加熱調理によってアレルギー症状の発症が緩和される。牛乳は、鶏卵のタンパク質と異なり加熱しても、アレルギーを起こすので、飲まない方が良い。牛乳が必要な料理を作る場合は、豆乳を代用すると良い。大豆アレルギーは厄介だな。様々な加工品に含まれている」

「要するに、判断の目安が難しいということですね」

「アレルギー物質を完全に避けるべきか、少量なら口にするべきかどうかは、医師に相談することだな。生兵法は大怪我の基だ。専門的なことは、自己判断しないのが肝要だ」

 食材の保存にも、工夫が必要となる。

「冷蔵・冷凍・チルドのそれぞれの温度帯を誰か答えられないか?」と、先生は生徒を見回したが、積極的に答えるものは見当たらない。

僕は、テキスト内に答えが書かれているのを見つけて手を上げた。

「冷蔵室は3℃~10℃、冷凍室はマイナス18℃以下、チルド室は0℃前後です」

「パーシャル室はどうだろう?」

 パーシャル室の記述は、テキストにはなかった。

「分かりません」と、僕は力なく答えた。

 その時、鈴奈が手を上げて「誠也君の答えがヒントになり、思い出したのですか……」と前置きして「パーシャル室は、マイナス3℃前後で、生鮮品や加工品を保存し、解凍せずに食べることができます」と、助け舟を出してくれた。

 先生の話では、冷蔵室はすぐに食べるものを短期保存するスペースで、食品を詰め込み過ぎると温度が上がるので、適度な間隔で入れる必要がある。

 冷凍室は、冷凍食品やアイス、すぐに食べないものを一定期間保存するスペースだ。

 チルド室やパーシャル室は、凍らせることはできないが、長持ちさせたいものを保存するスペースとなっている。

「それでは、納豆、味噌、豆腐、油揚げを……、春野さん、君なら冷蔵庫のどこに保存する?」

「すぐに食べるつもりなら、冷蔵室に入れ、鮮度を保ち賞味期限を延ばしたい時は、冷凍室に入れます」

「果物のバナナやメロンはどうだ?」

「バナナやメロンなどの温かい地域の原産品は、冷蔵庫に入れると低温障害を起こすので、どこにも入れません」

「野菜はどうだろう?」

「大半の野菜は、冷蔵庫で保存できますが、タマネギ、ジャガイモ、カボチャなど一部のものは、常温で保存しないと低温障害を起こすことがあります」鈴奈は、テキストに目を向けずに諳んじて、先生の質問に答えた。

「君の優秀さには、いつも驚かされる」と、先生は鈴奈を賞賛した。

 先生は、テキストの該当ページを開くように促した。

 テキストには、常温品と低温障害の記述があった。

 冷蔵庫に入れない方が良い野菜・果物は「タマネギ、カボチャ、ピーマン、キュウリ、ナス、ジャガイモ、サツマイモ、里イモ、バナナ、メロン、アボガド、キウイ、マンゴーなど」と書かれている。

「先生、覚えきれないですね」と、荻久保さんが音を上げた・

「まあ、シンプルに考えれば良いことだ。例えば、荻久保さんは、スーパーマーケットに買い物に行くと、売り場を見るだろう? そこで、食品の保存方法を見ることができる。常温品は通常の棚に、冷蔵品は冷蔵庫に並べている。それを参考にすることだ。ただし、ハクサイ、キャベツ、イチゴ、スイカなどは、冷蔵庫に入れておく方が良い」

 先生は、高校教師の言うことと異なり、記憶に頼ることの危険を力説する。判断に迷ったときは。テキストを読み、ノートを見返し、それでも分からない時は

「遠慮なく、わしに電話すれば良い」と、言いながら「忙しくて対応できないときは、無視することにしている」と、性悪なことを告げながらも、いかにも楽しそうに笑った。

「君たちは『宵越しのお茶は飲むな』という諺は知っているかな?」先生は、問いかけながら「諺の意味は、お茶を一晩置いておくと、水分を含んだ茶葉にバクテリアが繁殖し、風味が落ちるだけではなく、ヒスタミンなどの食中毒の原因物質ができるケースがある」と、続けた。

 先生は、テキストをパラパラとめくると顔を上げて、生徒たちの様子を窺うように目を走らせた。

「他にも『鯖の生腐れ』『麦の穂が出たらアサリは食うな』『牡蠣はrのつかない月には食べるな』という食中毒予防を呼び掛ける諺がある」と教えると、テキストの食中毒予防のページに目を通すように促した。

 食中毒の原因は、ウィルス、細菌、自然毒、寄生虫などのケースがある。厚生労働省の調べでは、ノロウイルスが原因の食中毒が全体の五割を超えている。

 食中毒の発生は、飲食店が最多で54.7%、家庭での発生は14.2%だ。

 食中毒予防は……。

一.細菌を食べ物につけない=調理前、生鮮品を扱う前後、トイレに行った後、食卓に着く前、残飯に触れた後などに、手洗いを欠かさない。

二.付着した細菌を増やさない=低温で保存する。ただし、冷蔵庫に入れても、細菌はゆっくりと増殖する。

三.付着した細菌を駆除する=大半のウィルスや細菌は加熱によって死滅する。食材だけではなく、まな板、包丁、布巾、他の調理器具も熱湯をかけて殺菌すると良い。

「要するに、普段の心がけが大事だ。買い物時は消費期限を確認し、生鮮品は最後に求め、寄り道しないで早く帰宅する。持ち帰ったら、すぐに冷蔵庫に入れる。手をよく洗い、調理器具も熱湯消毒する。食材は水道水で綺麗に洗う。そういう一つ一つの習慣が大事だね」

「カレーライスを一晩寝かせて食べるのも、夏場だと危険ではないでしょうか?」柿崎さんが、唐突に質問した。

「いや、夏冬を問わず、常温で一晩寝かすのは危険だね。カレーには、食中毒の原因になるウェルシュ菌が増殖しやすい。この菌は100℃で長時間加熱しても死滅しないから要注意だよ」

「先生、もう一つ良いですか? 実家の台所の周辺で、ゴキブリを見かけたことがあります。汚いイメージがありますが、食生活にどんな影響があるのですか?」

「柿崎さんは、家庭の主婦らしく、そういう点に気が付くね。実は、ゴキブリは食中毒につながるサルモネラ菌を保菌している。サルモネラ菌は、ゴキブリの糞の中で何年も生息できる。赤痢菌やチフス菌をゴキブリが持ち込むケースもある。ゴキブリは、見た目が汚いだけではない」

「私の母は、ホウ酸団子を作ったり、殺虫剤を床に撒いたり、色々な工夫をしていますが、ゴキブリは家からいなくならないようです」

「最近はドラッグストアーなどで、害虫駆除のプロが使うゴキブリ駆除薬を求めることができる。そういうものを試してみてはどうだろう?」

「ゴキブリの卵にも、効果はありそうですか?」

「残念ながら卵には効果がない。ゴキブリの卵が孵化するのに四十日かかる。駆除は一度でやめずに、根気よく実施すると、孵化したゴキブリ駆除もできるので効果が高くなる」

「実家の母にも、伝えておきます」

「ゴキブリは、日本人の人口の百八十五倍は、生息していると推計されている。一匹見つければ、家の中に百匹いるというのも、大げさな話ではないね、たかが虫一匹でも、侮らないことが大事だよ」

 正直言ってゴキブリの話題は、料理教室で聞くのは、興ざめの感じがした。食事の楽しさを不気味なものにする。先生の完全主義からすると、無視できない話題のようだ。先生も生徒たちの雰囲気を察したのか、話題を変えた。

「君たちの中で、家に小さい子供のいる人はいるかな?」先生が尋ねたところ、誰も手を上げなかった。

「柿崎さん、君は主婦だが……どうだろう?」

「まだ、新婚なので子供はいません」

 柿崎さんが言い終わると、荻久保さんがゆっくりと手を上げた。

「今は単身赴任中なので、一人暮らしですが、自宅に妻と二歳の息子が住んでいます」

「ああ、そうか。じゃあ、幼い子のいる家庭で注意するべき点を言っておきたい」

「お願いします」

「幼い子供は、喉に食べ物を詰めて窒息死するケースがある。餅、寒天、蒟蒻ゼリー、飴などで、実際に事故が発生しているので注意が必要だね」

「妻にも注意を促しておきます」

「それと、生ものは幼いうちは、避けた方が良い。蜂蜜や黒砂糖は、小さい子が食べるとボツリヌス菌による食中毒を起こすことがあるので、これも避けたいね」

 先生は、誰よりも完全主義者だ。生徒を傷つけたくない一心で、あらゆる事態を想定して言葉にする。僕は、この講義の最初は、眠気が差し――退屈な話だな――と、思っていたが……、今は、先生の心中の思いに気づき感動を覚えていた。

 先生の性格は、鈴奈とどこかしら似ていた。

「自宅で料理する時間がなくて、外食の機会が増える時は、なるべくカロリーの少ない料理を選ぶことだ。バランスの良い定食メニューや、幕の内弁当のようなものを選ぶと、栄養が偏らない」と、先生は注意を促した。

 先生の講義の方針は、詰込みではなく、経験的に覚えることと、記憶に頼らずに身体に浸透させることだという。講義の合間に「記憶したことを紙の上に再現したり、人前で上手く発言したりするのが、本来の目的ではない。人に喜ばれる料理を作り、生活を満ち足りたものにするのが目的だ」と、熱っぽく語ってくれた。

 最後に先生は、料理を作る者の心構えを示した。

「料理は、頭で覚えれば良いものではない。日本の料理人は、調理技術を先輩の料理人から『目で盗み』食べてみて『舌に記憶させろ』と、教えられている。四季折々の食材を活用し、気温や天候の変化に合わせて、火加減や味を調整する必要のある日本では、それが当然のことだった。どうか、君たちも先人に倣って、心で味わえる料理を提供してもらいたい」

 生徒たちは、講義の全日程を終えて、来週の修了証書授与を前に「先生、ありがとうございます」と、感謝の言葉を述べた。

 講義の終了の時に、生徒の誰からともなく拍手が起こった。拍手はすぐには鳴り止まず、十分近く続いた。正直なところ、僕は力強く拍手していたせいで、手の平が痛くなっていた。

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