第22話 第二十二講 食事のマナーとゲストのもてなし方
神戸市のような都会では、時間が経過するのが驚くほどスピーディーだ。僕が通う高校でも、地方出身の教師がいて、彼らは同様に「うちの田舎では、時間はゆっくりと進み、一日の中でも憩いの時間というものがあった」とか「三宮のセンター街を歩いていると、後ろから何人もの人に追い抜かれる。関西人はウインドウショッピングでも、足早に済ませる」との証言を言葉にした。
僕のイメージでは、他の関西エリアに比較しても、神戸市民は気遣いができるし、上品で問題のない人たちに見えていた。
僕の見方では、せっかちな神戸市民が必ずしもマナー違反しているわけではないのに、他地域から来た人は、異質なイメージで見る。それが、残念に思えて仕方がなかった。
いつものように、教室に向かう電車の中で鈴奈と隣り合わせに腰かけて、僕の考えを告げると――イソップ物語の「都会のネズミと田舎のネズミ」の二匹のネズミの違いに似ている――と、感想を言ってくれた。
イソップの「都会のネズミと田舎のネズミ」の物語では――都会のネズミは、パンやチーズや肉などの豊かな食生活に恵まれているが危険が一杯で、田舎のネズミは自然に恵まれた生活だが、質素な暮らしをしている。都会のネズミは、田舎暮らしの退屈を批判し、田舎のネズミは都会生活の危険を恐れる。お互いが相手の暮らしの難点を見つけ、自分の暮らす環境こそが、自分の性分に合っている――と、結論付けている。
「都会に住むと、都会の難点が見つかり、外延部に住むと、そこの良さも悪さも分かる。私は、住むのなら神戸市内で、遊びに行くのなら外延部が良いな」と、明るい声で言った。
今日の講義は、食事のマナーとゲストのもてなし方だ。僕は正直なところ、座学の堅苦しい話を聞かされるのは、気が重かった。
講義が始まると、先生は生徒に質問をした。
「小笠原流という言葉は、聞いたことがあるかな? どうだ、春野さん?」
「はい、小笠原流は、礼儀作法を教える流派として知られていますが、元々は武家社会で弓術、馬術、礼法のすべてを伝える由緒ある流派です」
「こりゃあ、驚いた。そこまでの答えを期待していなかった。君なら、日本で礼儀作法を伝える流派だと、知っているとは思ったが……。君は、やはり素晴らしい生徒だ」と、先生は鈴奈を持ち上げた。
僕は、自分のことのように嬉しくなり、家に帰ったら姉に自慢しようと考えていた。
「食事のマナーは、国によって違う。中国ではゲップは満足感を表しているので失礼に当たらないが、日本では明らかにマナー違反になる」
何を言いたいのかと、先生の次の言葉を待っていると
「マナーは、その国の歴史的背景や習慣によって形成される」と説明し、日本人の食生活に欠かせない箸の使い方から、教えてくれた。
「箸の使い方には、『嫌い箸』と呼ばれるNGがある」と、先生はテキストの該当するページを示した。
一.とき箸=箸先をこすり合わせる。割り箸で木屑が付いているとやりがち。
二.握り箸=箸を握るように持つ。食事しないで、脇に置こうとするときにやりがち。
三.指し箸=人を箸で指す。会話が弾んだときにやりがち。
四.迷い箸=料理の上であちこち箸を動かす。何を食べようかと迷う時にやりがち。
五.空箸=一旦、箸をつけた後で放す。一人分のお弁当を食べる時にやりがち。
六.移り箸=おかずばかり連続して食べる。和食ではご飯とおかずを交互に食べるのがマナー。
七.探り箸=料理を箸でかき分ける。好みの物を取る時にやりがち。
八.涙箸=箸先から汁をポタポタと垂らす。手皿で受けるのもNGなので、取り皿を効果的に使うと良い。
九.ねぶり箸=口の中で箸を舐める。箸先についた飯粒を取る時にやりがち。
十.渡し箸=箸を器などの上に置く。箸置きがある時は、そこに置くのがマナー。
「渡し箸というのは、箸から他の人が持つ箸に、料理を渡すことだと思っていました。親から火葬場のお骨治めを連想させるので良くないと教わりました」と、柿崎さんは質問した。
「ああ……、あれね。あれは、渡し箸ではなく、箸渡しだな」と、先生は言葉にするとニヤッと笑った。
生徒たちからも、笑い声が漏れ聞こえたが、柿崎さんは先生の次の言葉を待っている様子だ。
「箸渡しは、合わせ箸、拾い箸とも言ってね、柿崎さんが指摘したように、箸から箸に食べ物を受け渡すことだ。勿論、遺骨を拾う時と同じ動きなのでNGだよ。よく、気が付いてくれたね」と、先生は続けた。
生徒たちはテキストと、先生が板書したホワイトボードを見比べながら、余白に補足説明を熱心に書き込んでいる。
日本の食事作法では配膳は、箸は頭を右にして手前に置き、ご飯は左、汁物は右に置く。「日本ではテーブルではなく、畳の上に正座し、低いお膳や座卓を置いて食事をしていたので、茶碗を手に持って食べる。お椀を手に持つときは、親指を起こして椀の縁に引っ掛けて、残り四本の指で底を支える」と、先生は話しながら手の動きで示した。さらに、続けて
「君たちは、わしの見たところ正しい茶碗の持ち方をしている。こう見えて、ちゃんとチェックはしておいた」と、面白そうに笑った。
先生は、教室内の様子を見渡すと「古典落語の演目に『本膳』というものがある。落語の中では、村の庄屋の家で結婚式があり、村人たちが祝いの贈り物を届けたところ、お礼に食事に招待される。だが、招待を受けた村人三十六人が、誰も本膳の作法も礼式も知らない。そこで、付け焼刃の礼法を習うものの、勘違いが原因で、食事の時にうまくできず恥をかく噺が、面白おかしく、語られている」と、教えてくれた。
先生は、和食のマナーでは手に持って食べて良い器と良くない器があると指摘する。
「小学生の頃ですけど……、家でうどんを食べている時に丼鉢を手で持とうとしたら、母親に叱られた経験があります」と、僕は先生に打ち明けた。
「それは、幼い子供がうどんの丼を持つと、安定が悪いし危険だからだよ」と、先生はテキストの該当ページを見ておくように指示した。
テキストを開くと……。
手に持って良い器=お椀、小皿、小鉢、重箱、丼など。
手に持ってはいけない器=刺身の盛り皿、魚料理の器、天ぷら・フライなどの揚げ物の器、大鉢の器など。
「それから、食事中に空いた皿を重ねておくのもNGだ。器の蓋は最初にすべて取り、横に裏返して置く。食べ終わってから、蓋を元に戻すのがマナーに合っている」
「先生、何から食べて良いか迷ったときはどうでしょう?」と、柿崎さんが尋ねた。
柿崎さんの右横の長谷川さんは、何か言いたそうな表情をしている。
「食べる順番は、和食の場合は汁物、ご飯、おかずの順だ。和食に限らず、温かい物から冷たい物、味の薄い物から濃い物の順で食べる」先生が答えると、長谷川さんは
「ダイエットの説明の時に、サラダから食べると太りにくいと聞きました。ですが、サラダは冷たいので、矛盾しないですか?」と、疑問を呈した。
「今日の説明は、食べ順のマナーの話だよ。自宅で家族と食事をする時や、友人と楽しんで食事をする時は、そこまで神経質にならなくて良いよ。大事な会食の時には、覚えておいて損がない……、まあ、そんなところだ」
僕が――何だ、そんなことか、そんなに気にしなくても良いのか――と、ほっとしていると、先生は「ただしね」と、また口を開いた。
「ただし、親しき仲にも礼儀ありと言うだろ? 頬杖をついたり、猫背で足を組んだりは、勿論NGだ。クチャクチャと、音を立てて食べるのも礼儀知らず……だね。食べ物を頬張りながら話したり、スマホを見たり、新聞や本を片手に持ちながらの食事も良くない」と、生徒全員の様子を見回した。
フランス料理は宮廷料理を元にして発展したので、優雅なマナーが求められる。十二世紀頃までのフランス人は、野菜とローストビーフの煮込みを手づかみで食べ、シチューを貪るように喉の奥に流し込んでいた。彼らの質素な食習慣が変化したのは、十六世紀にフランスの王アンリ二世が、イタリアのメディチ家のカトリーヌと結婚したのが起源になる。
「何故だと思う?」と、先生は生徒を見て問いかけると「カトリーヌは、嫁入り道具としてイタリアから腕利きの料理人を連れてきていた。当時は、イタリア料理こそが最先端を行く、洗練された料理だった」と、続けて話した。
フランス料理で、ナイフやフォークなどのカトラリーは、外側から順に用いる。食事の時は、フォークは左手、ナイフは右手に持ち、人差し指を背に載せて、肩肘を張らずに使う。ナイフ、フォーク、ナプキンを床に落とした時は、自分で拾わずにウエイトレスやウエイターに任せる。
「日本人なら、落としたものを自分の手で拾いそうだが、この辺りが……、フランス料理が宮廷料理から発展したのを物語っているね」
食事が終わった時は、ナイフの刃を内側に、フォークの背をした側に向けて皿の上に置く。ナプキンは最初から広げず、水やドリンクをテーブルに置かれたタイミングで、二つ折りにして、折り目を自分の側に向けて太ももの上に置く。
「フィンガーボウルは、何に使うか知っているかな?」先生は問いながら、スクリーンに画像を映写した。
僕は頭の中で直訳し、指丼鉢の用途を想像していたが、結論にたどり着けそうもなかった。
「フィンガーボウルは……」声の出所は、僕のすぐそばの席だ。
「レストランで、素手で食べるエビやカニが出された時に、出てくる容器で中に水が入っています。フィンガーボウルを使うことで、指先に着いた汚れを落とすのに使います」と、荻久保さんが答えた。
「素晴らしい。特に、荻久保さんが説明したように、指先の……というのがポイントだね。フィンガーボウルを使う時は、片手ずつ第二関節まで入れて洗う。音を立てないように、汚れを落とすと、ナプキンで濡れた手を拭く……、そういう手順で使う」
マナーは随分、気遣いが必要なので――むしろ、食事が不味くならないか――と、僕が考えていると、先生は食事の時の心構えを説き始めた。
「道元禅師は『典座教訓』という書物の中で、人が忘れてはならない三つの心、即ち『三心』について述べている。道元によると、喜心……、作る喜び、もてなす喜びを忘れない心。老心……、食べる人の立場を考えて、懇切丁寧に作る心、大心……、偏見や我執を捨てて大きな気持ちで作る心……、この三つの心が何よりも大事と言っている」
続けて、先生はパーティーなどで、来客をもてなす心遣いを示した。
「上座、下座という言葉の意味は分かるかな? 分からない人?」と先生は、挙手を促した。
僕は「はいっ」と、声を出すと即座に手を上げた。他の生徒は、誰も手を上げなかったので、教室内は笑い声でしばらく、先生の声が聞きとれなくなった。
「うーん、そうだなあ……、春野さんに頼もうか……、永瀬君に、君から上座、下座の意味を悦明してくれないか」
鈴奈は、頬を少し赤らめると頷いた。
「上座と言うのは、ゲストや目上の人に座っていただく席のことで、下座は逆に、ホストや目下の人が座る席のことなの。お客様をもてなす時に、接待する側の気遣いを示す、大事なマナーなのよ」鈴奈は説明し終わると、僕を見て「ねっ」と声に出して微笑んだ。
先生は鈴奈の顔を見て「お見事」と一声発すると、上座下座の配置を教えてくれた。
「和室の場合は四人席では、上座は床の間側で出入り口から遠い席が最上位で、出入り口に近い席が最下位だ。六人席となると、床の間側の真ん中が最上位、次がその右隣、次の次が最上位の席の左隣となる。下座側の三人も同様の順位で座る」
僕は――面倒なマナーだな。自分の好きな席に座らせるのが、最高のマナーじゃないか――と、思いながらも、ノートをとり先生の話に耳を傾けた。
「永瀬君の年齢なら、あまり気にすることもないが、社会人になったときの重要なルールでもある」と、先生は強調した。
そんなものなのか――と、感心する反面で、僕は自分が座学派ではなく、実学派であることを思い知った。秀才には苦にならない講義も、僕には複雑怪奇に思える。先生は、僕の内心の退屈を見抜いたように、こちらを見て質問した。
「カレーライスを置くときに、ご飯は左手に置くべきか、右手側に置くべきかどちらだと思う?」
「当然、ご飯は左手側、カレーのルウが右手側です」僕は先々週の講義で、先生がご飯を左手側にしていたのを覚えていたので、すぐに手を上げて答えた。
「何故、そう思うのかな? そこが肝心だな」
「つまり、カレーのルウが右手側にある方が、ルウを掬ってから、ご飯にかけて食べやすいからです」
「なるほど……、わしも実はそうしている。が、新聞社のアンケートでは、ご飯を右手側にする人42%、左手側にする人58%の結果だ」
「正解がないということですか?」
「そうだ。わしは、永瀬君の指摘通り、ルウが掬えるようにご飯を左手側にするか、大手カレーチェーンのポスターみたいに、ご飯とルウ斜めに盛り付けて、ルウを手前に配置するのが気遣いだと考えている」
次は、盛り付け方だ。
「料理の盛り付け方の三ポイントは、一.彩りを考える、二.余白を活かしバランスをとる、三.高さを意識するという点だ」
一.彩り=赤、緑、黄、白、黒の五色を意識的にバランスよく配置する。中でも、赤や緑を生かして使うと、食欲をそそる。
二.バランス=お皿の余白部分を多くとると上品に見える。皿の表面積に対して、メインディッシュの割合は三割までとする。器に料理を盛りつけ過ぎない。無秩序に並べずに、規則的に食材を配置する。
三.高さ=盛り付けの高低差をつけることで、料理が豪華に見える。高く盛り付けるとボリューム感が出る。
配膳にも覚えて置く、ポイントがある。
「和食の配膳は、左手前に主食のご飯、右手前に味噌汁などの汁物を置く。おかずは焼き魚、刺身、肉料理などの主菜を主食の右奥に配置する。これが基本形だ。左奥から、煮物などの副菜、野菜サラダ、漬物、酢の物、和え物などの副々菜、そして右奥の主菜の並べ方だ」と、先生はホワイトボードに図示した。
ホワイトボードには、箸は一番手前に箸先を左向きに置き、飲み物は左端に描かれている。
「酒飲みのことを左党と言うが、左端は酒の定位置でもある」と、先生は笑いながら話した。
「和食と洋食では、当然ながら配膳が違いますよね」野島さんの指摘に、先生は
「洋食の配膳は、メインディッシュの皿を正面に置き、左側にフォーク、右側にナイフを配置する。ナイフの刃は内向きに置く。スプーンはナイフの右隣り。スープはメインディッシュの右側に、サラダはスープの奥に並べる」と答えた。
尾頭付きの魚を盛り付ける時は、頭が左、腹が手前になるように置く。サケなどの切り身の場合は、皮が上で左側が大きくなるように置く。開いた魚は、身が上になるようにする。食べる時は、魚の頭側から尾に向かって食べて行く。
マナーには、心が大事というのは、何度も聞かされたが……、おもてなしにも、心が肝要だと、先生は主張する。
「お客様のもてなし方にも、気を配る点はいくつもある」と、先生は教えた。
先生が言うおもてなしのポイントは……。
一.料理のメニューは、来客の時間帯、年齢、季節を考えたものを提供する。
二.お客様を待たせずに、玄関のチャイムが鳴ったらすぐに応答する。
三.料理を提供するだけではなく、自分も会話に参加する。
四.会話する時は、相手の目を見て話す。
五.アルコールや飲料などは、食事のペースを見ながら提供する量を調整する。
六.手土産を受け取った時は、放置せずに全員の前でお披露目する。
七.お開きを言い出しにくい時は、頃合いを見て記念写真などの撮影を提案し、お客様全員が気分を良くしてから告げる。
「どうだ? おもてなしの心は、基本的な事柄ばかりだが、意外に気づきにくい点もあっただろう?」先生は、全員の様子を見ながら確認した。
「おもてなしの心には、裏があってもいかん。真心が肝心だということだ」
生徒たちは、先生のダジャレに気づき笑っていたが、僕は意味が理解できなかった。
「おもてなし、つまり表もないけど、裏もない方が……良いという意味よ」鈴奈は、座席を僕の席に近づけて呟いた。
※
僕と鈴奈は、周囲には内緒で交際を続けている。――周りの目を欺いて、嘘で塗り固めるのは明らかなマナー違反ではないか――そう思うと、悲しい気分になった。
鈴奈にスマホで連絡し、苦しい胸の内を明かしても「大丈夫よ。私に任せてね」と気丈に振舞う。
鈴奈は、精神力に関しても、男の僕よりも強靭にできている。
周囲は、僕と鈴奈は別れたと思っていた。姉だけは鋭い勘で、僕らの交際を見抜いていて、リビングルームで、僕がテレビを見ていると
「恋愛中のIQは、チンパンジー並みになるから仕方ないけど、鈴奈ちゃんも物好きよね。相手があんただったら、私は親に反対されたタイミングで、すぐに別れるわ。健気よねえ。良い子よねえ」と、揶揄する。
「同じ女でも、鈴奈と姉ちゃんでは、全然違う。鈴奈が天使なら……」
「私が、悪魔だとでも言いたいの?」
――女性名でメールを送信しているのを背後から、姉に盗み見されたのかもしれない――と、僕は疑っている。
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