エピローグ

 気が付くと白い天井を見上げていた。

 朝…か……。わたし、眠ってたんだ。

 なかなか眠れない夜は、大抵そうやって朝を迎える。前触れもなく、気が付くと眠りに落ち、翌日の朝目覚める。まるでそれまでの時間が抜け落ちてしまったように記憶がない。

 かすみがかった意識の中、口もとに手を添えて小さな欠伸をする。

 布団に入ったまま入り口のドアへと視線を向けると視界の隅にスマホがあった。スマホを掴みロック画面を一筆書きで解除する。

 コミュニケーションアプリのアイコン右上に赤い丸が表示されていた。

 ともちゃんから新着メッセージが来ていた。

『明日は…って、もう今日か。えーと、この前伝えた通り、今日の10時に駅前公園ってことでよろしく! じゃ、おやすみ~』

「……」

 目を細め、文面をじっと見つめる。

「……」

 目を擦り、何度も黙読してみる。

「……?」

 首を傾げ、考え込む。

 えぇと…今日…10時…駅前公園……。

 しばし黙考したのち――がばりっ!  勢いよく半身を起き上がり、急激な体勢の変化にめまいがしてそのまま布団に突っ伏してしまう。 

 布団から僅かに顔を上げ、手もとのスマホ画面で現在の時刻を確認する。大丈夫、問題なく間に合う。

 慎重に上体を起こし、シーツから床のフローリングに足を降ろす。ひんやりとしたフローリングの感覚にわたしの意識がゆっくりと目覚めてゆく。

 カーテンを引くと、空には綿のような筋状の雲がぽっかりと浮かび、あたたかな日差しがアスファルトを包み込んでいた。

 昨日何度も確認した通り、本日は快晴で汗ばむ陽気になりそうだった。

 鳥たちのさえずりが、何かを祝福するように聞こえた。

 

 顔を洗ってから居間に入ると母親はコーヒーを片手に新聞の日曜版を読んでいた。

 わたしに気付くと新聞から顔を上げ、少し意外そうな顔をした。

「あら、おはよう日和。今日は早いのね」

「おはよ、お母さん。というか、わたし今日出かけるって行ってなかったっけ?」

 わたしの問いに母はふむ、と一言、考え込み……。

「あぁ、そういえば、そんなことを日和から昨日50回くらい聞いた気がしないでもないわね」

 けろりとした表情で言ってのけ、大きな欠伸をする。もはや怒る気にもなれない。

 相変わらずのマイペースぶりだった。

 いや、50回も言ってないでしょ、さすがに……さすがに。10回くらいだと思う。

 というか、回数を記憶するよりも内容を頭に記憶して欲しい。

 お母さんは新聞を四つ折りにし、ソファの隅にあるテーブルの上に放ると腕を真上に伸びをしてから言った。

「それじゃ、朝ご飯の用意するから日和も手伝いなさいね」

「うん」

「…と、その前に……」

 お母さんがちょいちょいと手招きする。

 な、何だろう。

 不審に思いながらも耳を寄せる。

「今日の相手って、ひょっとして、彼氏?」

「なっ……」

 一瞬で頬が熱くなるのがわかる。わたしのあまりに直球過ぎる反応に母親は目を丸くして、しかしすぐにわけ知り顔をした。

「そっかぁ、日和も一応、そんなお年頃かぁ……」

 などとさりげなく失敬なことを混ぜ込みながら感慨深そうに何度も頷く。

「ち、違うよっ!  ともちゃんは女の子だもんっ!」

「……え? 百合なの? ガチなの?」

 お母さんが頬に手を添えてキャーとか年甲斐もなく叫んでいる。

 娘にとって、一番見たくないリアクションだった。やめて! わたしのほうが恥ずかしくなってくるから。

「だーかーらー、ともちゃんはわたしの友達なのっ! そういう関係じゃないからっ!」

「あら、そういう関係ってどういう関係?」

 お母さんがにやにやしながら訊ねてくる。当人の娘が言うのもなんだけど、お母さんは優しくて。よくできた人だと思う。ただときどき、こうやってわたしのことをおもちゃにして遊ぶ悪癖あくへきがあった。黙って睨み付けるわたしの視線を余裕で受け流す母親。しばしの沈黙。

「あはは、ごめんごめん。冗談よ、冗談。ほら日和、早く朝ご飯の準備しないと待ち合わせに遅刻しちゃうわよ」

母親が笑いながらキッチンへと向かった。

 

 バターロール1つにツナサラダとベーコンエッグ、ホットミルクという朝食を済ませる。

 自室に戻ると前日に用意しておいた服に着替える。普段はあまり着ない、ちょっとおしゃれをしたいときに袖を通す、特別な洋服だ。

 普段着るものに比べ落ち着いた色合いの大人っぽいワンピース。

 着替えて姿見の前に立つ。

 姿見には淡く頬を染めた少女が立っている。

 うん、悪くない……よね。

 姿見の前で一度だけゆっくりと回ってみる。

ふわり…薄手の軽い生地が柔らかに舞った。

 時計を見ると、そろそろ家を出ないといけない時刻に迫っていた。わたしは両足のかかとを揃え、口を結び、真顔になると警察の敬礼のポーズをとる。

「それでは、行って参ります!」

 誰にともなく宣誓し、すぐに笑い出す。

 とんととん、ととんとん♪ 

  階段を下りる足音さえも楽しげだった。


 円形広場の外周にはベンチが一定の間隔で配置されている。ベンチの背後に植えられた常緑樹の淡い影がときおり吹く風に揺れていた。

 広場の入り口付近にあるベンチに、少女がひとり、腰をかけてイヤホンから流れる旋律を聴いていた。イヤホンから伸びた二本のラインはホットパンツの上に乗る、黒いバッグへと続いている。

 俯いているためその表情を窺い知ることはできない。 少しの逡巡しゅんじゅんの後、わたしは足音を立てないように少女の元へと向かう。あと数歩というところでベンチに座る少女がゆっくりと顔を上げ、わたしを見上げた。

「おはよ、日和」

「あ…うん……お、おはよ」

「そのワンピース、かわいいじゃん。似合ってるよ」

 わ……い、いきなり、ほ、誉められた……ど、どうしよう……。

 反応に困り、俯きながら、なんとか口を開いた。

「え、あ…そ、その……あ、あり、が…とう……」

 どもりながらぽつぽつと話す姿を見て、ともちゃんが微笑んだ。

 今日は彼女と都内に買い物に行くことになっている。

 一昨日の帰り道、ともちゃんがわたしに遊びに行こうと誘ってくれたのだ。


「明後日、どこか出かけない?」

 わたしは空を見上げたまま、小さく頷いた。

 特に驚きはしなかった。何となくだけど、薄々勘づいていた。

 相手の態度や仕草がどうとか、そういう具体的な何かではなくて、予感めいたものがわたしにそれを告げていた。

 本当はすごく嬉しかったけど、緊張のために小さく頷くのが精一杯だった。

 先週、わたしが風邪を治した日、一緒に虹のかかる空を見上げながら、今度一緒に出かけようと彼女は言ってくれた。

 その約束をちゃんと覚えていてくれた。

 それは小さな約束だけど、わたしにとってはとても大切な約束だった。


 駅のホームに立つとそこにはわたしたち以外に3人しかいなかった。

「人、少ないね」

「そう? いつもこんな感じだよ」

 そうなんだ。時刻表を見上げてわたしはぎょっとした。

「と、ともちゃん! じゅ、10時の電車、3本しかないよ!」

「うん、そうだね」

 ともちゃんはことも無げに応じる。

「ていうか、11時と12時も……うわ、夕方過ぎると1時間に2本しかない!」

「そうだね」

 やはり平然と応じるともちゃん。

 わたしが以前住んでいたところなら3分に1本の割合で電車が来ていたのに、大違いだ。

 ほうほう……声のした方を見上げると鉄筋のくぼみのところに1羽の鳩が腰を落ち着けてこちらを見下ろしている。

 ともちゃんがわたしを呼び、後ろを見るよう指で示す。木陰の下に、香箱座りをするまるまると太ったトラ猫がいた。

 風が吹きトラ猫が首をぶるんぶるんと振る。  

 ちりりんと涼しげな音がわたしたちのもとに聞こえてくる。太っていたため、鈴が見えなかったのだ。鈴の音の軽快さとトラ猫の肉の震えがあまりにも不釣り合いで、わたしたちはちょっと笑った。

「え~、間もなくぅ~、上り方面のホームにぃ〜、電車がぁまいります。白線の内側に下が

ってお待ちくださいぃ〜」

 間延びした男性のアナウンスの声がホームに響き渡り、ともちゃんとふたり、笑いあった。







 ……とん……。

 肩に何かが触れる感覚に目を覚ました。

 ゆっくりと目を開き、ぼうっとした意識のままに首だけそちらに向ける。

 ともちゃんがわたしの肩に頭を乗せ、寄りかかってきていた。

 瞳を閉じ、口を僅かに開けながら胸を小さく上下させるその表情は穏やかだ。

 眠っている彼女は起きているころよりも、少しだけ幼い感じがした。彼女の膝の上にある黒いバッグから覗くものが見えて、わたしの頬は自然、ほころんでいた。

 白猫カギしっぽのキーホルダー。

 タタン、タタン……電車が揺れる度、その猫は小さく震えていた。

 それを見つめながら、わたしはこれから彼女と共に学園生活を送るのだと、改めて思った。

 

 それはきっと、どこにでもあるありふれた日常風景だろう。でも同時に、それぞれひとりひとりにしか存在しない、特別な風景でもある。

 そんな特別な風景をわたしは彼女と共に歩んでゆきたい。そう、切に願った。

 

 ひとつ息を吐き、わたしはそっと手を伸ばす。座席の上にあるともちゃんの掌。その上に、そっと自らの掌を重ねた。

 正面から見える窓外には夕陽が山々の稜線に半分ほど隠れつつあった。東の空が夜の到来を告げている。

 畑も土手の草原もまばらな家々も、電車内の乗客もわたしもともちゃんも、すべてがすべて、等しく夕焼け色に染め上げられてゆく黄昏時――――その中でわたしの頬だけが、ほんのりと赤みを差していた……。











 太陽の匂いをかいだ気がして、少女はゆるゆると瞳を閉じました。

 掌から伝わる心地よい熱は、ゆっくりゆっくり、まゆのように少女を優しく包み込み――――しばしの休息を約束したのでした。











          完          

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ちいさなあかり 三毛猫マヤ @mikenekomaya

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