時代を超えて人を魅了する美というものがあるらしい
ハヤシダノリカズ
パーフェクトな美
「何も難しい要求をしてる訳じゃないんだ、奥さん。あんたの旦那についての雑談をしようってだけだ。ちょっとくらい声を聞かせてくれてもいいだろう?」
若い男が穏やかな口調で話しかけている。ただ、口調が穏やかとは言え、非合法な組織で非合法な稼ぎ方をしている人間特有の野卑な空気は暴力性を隠せていない。
そこは建設途中で放棄されたビル――マンションになるはずだった――の一室の中、男の口調の穏やかさが平和を演出する事はない。椅子に座らされている女は背もたれの後ろで腕を縛られている。差し込む方向にはスルスルと入るが逆方向には決して動かないナイロンの結束バンドで手首同士を、そして、足首をそれぞれ椅子の足に固定されている。女の正面の椅子に座る男は立ち上がり、女に近づきながら話を続ける。「人と馬のいろんな話をしましょうってんですよ。ねぇ、日本を代表するジョッキー、竹本豊の奥さま。竹本美咲さん」何度か殴られた頬を赤く腫らしながら、竹本美咲は男をじっと見つめている。だが、一切言葉を発しようとはしない。
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「僕と結婚するという事は、一生馬券を買えなくなるって事だよ。まぁ、美咲はギャンブルをしないから関係ないか」
「どれだけ些細な情報でも、その情報がレースの結果予想に繋がってはいけないんだ。例えば僕が下痢続きの体調のままにレースに臨む時があったとしても、そのことを誰かに言ったりしてはいけないよ。ジョッキーも馬も公平に真剣にやってるんだ。そして、馬券を買ってくれるお客さんもほとんどの人が公平に真剣に競馬を楽しんでくれてるんだ。公平さが失われてしまうような情報が僕自身や妻となる美咲から誰かに漏れてはいけない。僕はいつだって競馬に対して真摯でいたいし、美咲、そこは君にも協力して欲しい」
竹本美咲は結婚直前の竹本豊との会話を思い出していた。ゆっくりと目を瞑り、ゆっくりと目を開けるその間に。
手足を縛られ身動きは取れないでいるが、背筋をシャンと伸ばし、瞬きさえも優雅に、美咲は目の前の男を見つめている。言葉を発しようとはしないまま。
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「ねぇ、アニキ。もう、剥いちまってヤッちまいましょうや。こんな美人なんだ。ヤッてるのを動画に撮ってそれなりのサイトに放り込めば結構稼げますって!」美咲に話しかけていた男の脇でビデオカメラを操作していた小男が声を上げた。コンクリートがむき出しのままの壁、二つの椅子、二人の男に一人の女、三脚の上のビデオカメラ、安物のベッドが一つ……、これらがこの部屋を構成する物体の全てであり、この建物全体ががらんどうであるせいで、男たちの声は時折、どこまでも響いていく。
「バカ野郎、何を悠長な事を言ってやがる。それをやって、その結構な稼ぎとやらがオレの懐に入ってくるのはいつになるんだよ!今日だよ、今日! 今日中に使いこんじまった金をなんとかしなきゃなんねーんだよ。今日のダービーで手持ちの五十万を四百万にしなきゃなんねーんだよ! それが出来なきゃオレは辰ニィに殺されちまう!」
「アニキ、マジすか。使い込んだ金って、辰の大アニキの金っスか?」
「あぁ」
ビデオカメラの小男はゴクリを唾を飲み込んだ。額には汗が滲んでいる。
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「なぁ、美咲さんよぉ。なんでもいいから話してくれよ、なぁ。何かのとっかかりさえあれば、オレの予想は百発百中なんだよ。旦那が今日乗る馬をどんな風に言っていたかとかでもいいからさ」
美咲はまるで応じない。口を一文字に結んでいる。何もない部屋であるせいか、目線は目の前の男か、もしくは小男、ビデオカメラのレンズ辺りにしか止まる事がない。腫れた頬を意に介する事もなく、美咲は優雅に囚われの身であり続けている。
「何か言えよ!おらぁ!」業を煮やした男が振り上げた手は、美咲のブラウスを引きちぎる。美咲は「あっ」と声を上げたが、はだけた胸元を恥じらう事もなく、やはり凛と背筋を伸ばしている。
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タバコの煙が一筋天井に向かって伸びている。美咲の前の椅子にだらしなく座った男はタバコをくゆらせながら美咲をじっと見ている。
「おい、コーヒーを買ってこい」男は振り返りもせずに小男に命じた。が、返事はない。そして男は振り返る。そこに小男とビデオカメラはない。「……逃げやがったか……」
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時は進んで百年後。インターネット黎明期の多くのデータはいつの間にか失われる事が多かったが、どこかの誰かの閲覧履歴などから復元されたりもしながら、なるべく多くのデータが大切に保管され、そして誰にでも閲覧可能なデータとなった。
竹本美咲の動画はかくして、【美しい沈黙】と話題になり後世の人々を楽しませる事となった。【百年前のパーフェクトな美】と絶賛された。
逃げた小男がどんな目的でこの動画をインターネットに上げたのか、大アニキの金を使い込んだ男はどうなったのか、竹本美咲は無事に日常に戻れたのか。
それはまた、別の、お話。
時代を超えて人を魅了する美というものがあるらしい ハヤシダノリカズ @norikyo
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