雪山の青

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雪山の青

 風が吹き荒れていた。

 天候不順の影響なのか強風と横殴りの雪。

 さすがに登山客の姿はない。 

 たった2人を除いて。

 1人は、赤いアウターシェルを着込んだ男だ。

 背丈は180cmくらい。

  体格は良く引き締まっている。

 顔立ちは精巧な作り物のように整っていた。

 名前を後藤重信と言った。登山歴20年のベテランである。

 もう1人は、黒いアウターシェルを着た男だ。

 こちらも背が高い。170cm以上はあるだろう。

 名前は、仁見英一といった。

 重信と同い年で、元自衛官だ。

 大学時代に山岳部に所属して、その時に知り合った友人でもある。

 現在は、重信と共に山登りをしている。

 重信とは長い付き合いだった。

 大学生の時から意気投合し、こうして共に山に登る仲となったのだ。

 二人は吹雪始める前までは、黙々と登っていた。

 登山を決めた山は八ヶ岳。

 雪山は、夏山では体験できない魅力が詰まっている。

 美しい雪景色は、夏に登ったことのある山でも、まったく違う表情を見せてくれる。美しさに加えて神秘的な姿がそこにはある。

 だが、夏山と比較すると格段に危険度は高い。

 寒さや道迷い、天候急変や滑落などのリスクに対しては、夏山以上に慎重に行動し、的確な判断力が必要とされる。

 本格的な冬山の技術を磨いていくのに、八ヶ岳はオススメの山域と言われる。

 八ヶ岳は、諏訪湖の東方にあって長野県から山梨県へと南北に連なる火山。

 日本百名山の一つに数えられる。

 八ヶ岳は特定の一峰を指して呼ぶ名前ではなく、山梨・長野両県に跨る山々の総称であるが、その範囲は「夏沢峠以南のいわゆる南八ヶ岳のみ」「南八ヶ岳及び北八ヶ岳の領域(蓼科山を除いた領域)」「蓼科山まで含んだ八ヶ岳連峰全体」など様々な定義がある。

 重信は夏山に3度も登頂し、冬山には二度挑んでいる。

 冬山の一度目は5合目まで。

 二度目は7合目まで。

 そして、今回は山頂を目指しての登頂だ。

 全ては、重信がライブ配信で恋人・朝枝由加へのプロポーズをする為であった。

 朝枝由加は、重信の恋人で登山家でもあった。

 しかし、昨年の5月にケガが原因で現役を引退している。

 今は、リハビリを続けながら療養中なのだ。

 重信は今年の4月頃からずっと考えていたことがあった。

 それは、プロポーズについてだ。

 もちろん、以前から結婚を考えていたのだが、タイミングを見計らっていたのだ。

 登山ができない由加に代わって、美しい雪山の風景を彼女と共有し、届けたいと思っていた。

 この絶好の機会を逃すわけにはいかないと思ったのだ。

 その為に、どうしても山頂に立ちたかった。

 プロポーズの言葉は既に決めている。

 あとは実行するだけ。

 この日の為に入念な準備をして挑んだ。

 そして、今日は運命の決戦当日である。

 その日は朝から快晴だった。

「凄いな!」

 重信は、山肌を眺めながら感嘆の声を上げる。白い結晶に覆われた木々はまるで樹氷のように輝いていた。

 麓を見下ろすと、真っ白に染まっている。雲一つない青空の下に広がる純白の世界。

 それは、まさに絶景と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。

 重信の隣にいた英一は目を細める。

「こんなに綺麗だとは思わなかったよ……」

 英一も感動しているようだった。

 視界に入るものは、全てが白銀一色に染まっていた。

 二人とも言葉を失うほどに圧倒されていた。

 思えば、この時までは、最高の一日になると思っていた……。

 しかし、現実は非情なものとなる。

 昼過ぎになると雲行きが怪しくなり、山周辺では夕方頃から暴風雪になると言う予報が出始めた。

 ほんの僅かな時間で、吹雪は始まり、視界もかなり悪くなってきた。

「クソ。8合目まで来たのに。これじゃあ、頂上どころじゃないぞ」

 英一は悪態をつく。

 天気が崩れることを想定していなかった訳ではない。

 ただ、ここまで悪天候に見舞われるとは思っていなかったのだ。

 リーダーである重信は決断した。

「山小屋まで戻ろう」

 このまま進むよりは、多少なりとも安全を確保できる。

 それに、これ以上進んだところで何が変わる訳でもない。

 英一も同意して、2人は下山を始めた。

 その時だった。

 突風に煽られた雪が、2人の頭上に降り注いだ。

 2人は反射的に腕で顔を覆ったが、すぐに異変に気付いた。

 重信の目の前にいたはずの英一がいない。

 慌てて下を見ると、今まさに斜面を滑り落ちていく英一の背中が見えた。

「英一!」

 重信は叫びながら、駆け寄り英一の腕を掴む。

 なんとか引き留めたかに思えたが、今度は重信自身がバランスを崩す。

 そのまま二人揃って斜面を転げ落ちた。

 重信は、吸い込まれ小さくなっていくような感覚を覚える。

 何m転がり滑り続けただろうか。

 洗濯機に揉まれるようにして滑落し、麓までたどり着いたのかと思った時、二人は止まっていた。

 全身打撲による痛みはあったが、幸いにも骨折などはなかったようだ。

 英一は意識を失っているようだったが、命に関わるような怪我ではなさそうだ。

 ホッとしたのも束の間、次の危機が迫っているのを目撃する。

 気が付いた時、重信の目に飛び込んできたものは、真っ白に染まった景色だった。

 ホワイトアウト。

 気象学分野においては、雪や雲などによって視界が白一色となり、方向・高度・地形の起伏が識別不能となる現象、「白い闇」と呼ぶこともある。

 重信は起き上がると全身が激しく痛むのを感じた。

 幸いにも大きな怪我はないようだ。

 すぐ傍には英一がいた。

 英一も身を起こす。

「英一、無事か?」

 声をかけると英一は答えた。

「ああ。何とかな」

 返事があったということは大丈夫だろう。

 とりあえず安心したが、事態は何も解決していない。

 むしろ悪化したと言えるかもしれない。

 重信は周囲を見渡した。

 ここはどこだ?

 辺り一面が真っ白で何も見えない。

 少なくとも標高の高い場所にいることは間違いないはずだ。

 スマホを取り出して電源を入れる。

 激しく打ち付けていた為か、一切の反応がない。

 また、仮にできたとしても、この天候の中で正しい道を選ぶことができるかどうか怪しいところだ。

 遭難した時は動かず、救助を待つことが鉄則だ。

 幸いな事に、二人が辿り着いた場所は窪地になっており、風や雪をしのぐことはできそうだった。

 だが、運が悪い事もある。

 二人共、装備を失ってしまってもいた。

 寒さを凌ぐための防寒具や、食料や水の入ったバックパックもないのだ。

 重信は、英一の方を見て言った。

「どうやら、ここが俺の墓場になりそうだな」

 英一は苦笑する。

「重信。縁起でもないこと言うなよ。まだ死んだ訳じゃないだろ。助けが来るまで、どうにかやり過ごすしかないさ」

「しかし、この天候では救助隊が来てくれるかも分からないぞ。下手すれば、このまま死ぬ可能性だってあるんだ。いや、その確率の方が高いんじゃないか?」

 重信の言葉を聞いて、英一は黙り込んだ。

 確かにその通りだった。

 今はただ耐えるしか方法がない。

「仕方ねえな」

 英一はポケットに手を突っ込むと七輪を取り出す。

 ドンとその場に置くと、英一は手をかざして暖を取ろうとする。

「どうした? 早く暖まれよ」

 呆然と立ち尽くす重信に対し、英一は不思議そうな顔を向ける。

「いや。お前、何でそんなもの持っているんだ。そんなデカイ物、ポケットから出さなかったか?」

 重信の顔は、血の気が引いて青ざめていた。

「手品だよ手品。こんなこともあろうかと思ってね」

 英一は笑顔で言う。

 そう言えばと、重信は思い出した。

 学生時代の頃から英一は、手品が得意だったことを。

 確かトランプを使ったマジックをよく披露していた記憶がある。

 その技術の高さには定評があり、英一の手品のトリックを見破った者はいないとさえ言われている程であった。

 今の状況で役に立つとは思えないが、少しだけ気持ちが楽になったような気がする。

 ふと過る。

 山の麓に到着した自動車の裏で、英一が何かの準備をしていたことを。

 あれは、まさか……。

 重信は英一の顔をまじまじと見る。

 英一は重信の視線から逃れるように目を逸らす。

「ん~。温かいな。冬山寒いなって思ってよ。念の為に持ってきていたんだよ。俺、寒がりでよ。薄っすいカイロじゃ効かねえんだ」

 英一は平然と言い続ける。

「ほら。重信も、早く暖まれよ。寒いだろ」

 重信は英一の向かい側に座ると、震える手で青い炎を上げる七輪に手をかざして温め始めた。

「この七輪の炎って青いんだな。煉炭って赤じゃなかったか?」

 重信は呟く。

「しょうもないこと気にすんな」

 命の危機があるのに、英一は呆れる。

 英一が出した七輪は、かなり温かかった。

 いずれにしても助かった。

 これで凍死せずに済む。

 重信はホッとする。

 しかし、同時に疑問が湧いた。

 というか原因ではないのかと。

 七輪を少し持ち上げる。

 5kgと言ったところだ。

「ひょっとして、英一が脚を滑らせた原因って、これじゃなかったのか?」

 重信が訊くと英一は、そっぽを向いて口笛を吹いていた。

 重信は大きく溜息をつく。

 英一が何を考えているのか分からなかったが、とにかく今は、この状況を何とかしなければならない。

 まずは、現状を把握する必要がある。

 スマホは使えない。

 時計を見ると、午後4時を回ったところだ。

 日没まで時間があるとは言え、気温も下がってくるだろう。

 雪も激しくなってきた。

 暖は今の所取れるが、このままでは本当に死んでしまう。

 気がつけば喉の乾きを自覚していた。

 水は確保する必要がある。

 だが、雪を口にすることは悪循環を生む。

 雪山の行動中、水が飲みたくて雪を口に入れて誤魔化すという話がある。

 だが、これは逆に喉が乾く原因になり、身体の体温を下げることになる。あまり誉められた行動ではないのだ。雪を食べることによって身体の熱が奪われ、雪を食べて、口の中が荒れる原因ともなってしまう。

 雪を融かして水にするのにたくさんのエネルギーを消耗する。1gの水の温度を1℃上げるのに要するエネルギーは1calだが、1gの0℃の氷を0℃の水にするのには約80cal必要と言われる。雪を食べても思ったほどの水分摂取にはならず、身体の熱が奪われるだけで、体力が消耗するだけということなのだ。

 人間は、水と睡眠さえしっかりとっていれば、たとえ食べものがなかったとしても2〜3週間は生きていられると言われる。

 しかし、水を一滴も取らなければ、せいぜい4〜5日で命を落としてしまう。

 いつ救助が来るかも分からない状況で、飲まずに過ごす訳にもいかない。

 やはり、雪を口にするしかないようだ。

 問題は雪をどのようにして口にするかだ。

 重信が七輪をじっと見ているのを英一は気が付き、訊く。

「どうした?」

 重信は答えた。

「喉が乾いてきてな。何とか水を確保できないかと考えているんだ」

 英一の出した七輪のおかげで、かなり温かくなってきている。

 雪の降る中で、これだけ温かいというのは、非常にありがたい。

 重信の言葉を聞いた英一は、少し考え込んで言った。

「雪を溶かして飲めば良いだろ」

 英一は言った。

 重信の言葉を聞いて、重信は首を横に振る。

 理由を話す。

「大丈夫だよ。ほら、土鍋セット(9号)~♪ お玉とお箸付き~♪」

 英一は、ポケットから土鍋セットを取り出す。

 どこかの猫型ロボットの口真似をしながら土鍋を頭上に掲げる。

「凄い手品だな」

 重信は言うと英一は得意げにする。

 それから、七輪の上に置いた。

 英一は雪をかき集めると、鍋に入れて蓋をする。

 そして、そのまま火にかける。

 しばらくすると、湯気が出てきた。

 英一は満足げにうなずく。

 更に雪を集めて溶かし、一気に大量の水を確保することができた。

「ほれ。水の確保完了だ」

 その様子を見て、重信は助かったと思うと同時に呆れた。

「英一。これ何kg」

 重信が訊く。

「買った時、箱に2.5kgって書いてあったかな」

 重信は絶句した。

「ひょっとして、英一が脚を滑らせた原因って、これも原因じゃなかったのか?」

 重信が言うと、英一はそっぽを向いて口笛を吹いていた。

 重信は、大きく溜息をつく。

 英一が何を考えているのか分からなかったが、とにかく危機は去ったのは間違いなかった。

 解けた雪を土鍋の蓋をコップ代わりにし、水分補給を行う。

 喉が潤い、身体が温まると、かなり気分が良くなった。

 これで、もう少し頑張れる。

 重信はそう思う。

 横になる。

 少し休もうと思ったのだ。

 目が覚めると、翌朝になっていた。

 朝と言っても、すでに昼近い時刻だ。

 英一もイビキをかいて寝ている。昨晩は寒かったが、英一の出した七輪のおかげもあって、何とか乗り切れた。

 英一に感謝しなければ。

 感謝?

 そもそも、この状況に陥ったのは誰の装備のせいだと、重信は思った。

 重信は溜息をつく。

 ともあれ、英一を起こすことにした。

 声をかける。

 目をこすりながら、英一が起き上がる。

「おはよう」

 重信が挨拶する。

「おう。よく眠れたか?」

 英一は欠伸をして、伸びをした。

「ああ。英一のお陰でな。だが、腹が減った」

 重信が答える。

 それを聞いた英一が笑う。

「ははは。確かにそうだな。じゃ、いっちょ料理でもするか」

 重信は驚く。

「え? だって、俺達のリュックには……」

 重信が言いかけると、英一は手を振る。

「まあ、見ていれば分かるさ」

 英一は、重信に笑顔を向けると、ポケットに手を入れると巨大な紙袋を取り出し、ドンとその場に置いた。

 袋には業務用小麦25kg。

 と書いてあった。

「お前、何でそんなもの持っているんだ」

 重信が呆れて尋ねると、英一は言葉を濁す。

 持っている理由よりも、事実に着目する。

「ひょっとして、英一が脚を滑らせた最大の原因って、これが一番の要因だったんじゃないのか?」

 重信が言うと、英一はそっぽを向いて口笛を吹いていた。

 重信は、大きく溜息をつく。

「ま、いいだろ。美味いもの作ってやるからさ」

 英一は土鍋の蓋をボール代わりにし、小麦粉を練って団子にすると、湯を張った鍋の中に投じる。すいとん(水団)を作っているのが分かった。

 すいとん(水団)とは、小麦粉に水を加えて耳たぶくらいの固さに練りあげたものを適当な大きさにして汁に入れて煮たもの、または小麦粉でできた具のこと。

 すいとんを食べる習慣は、冷害やききんの多かった山間地など、米の収穫の少なかった地域に多く見られる。

 また、戦中戦後の食糧事情の悪い時期には、簡単で、体も温まり、空腹を満たしやすいことから、すいとんは米の代用食として広く食された。

 しかし、現在と違ってダシもとらず具もほとんど入らないすいとんは、あまりおいしくなかった。その時代のすいとんを知る方の中には、すいとんと聞くだけで拒絶する方もいると言う。

 すいとんが出来上がると、重信は食べてみる。

 小麦粉の素材の味しか無いが、空腹の胃袋には染み渡るような味わいがあった。

「美味いな」

 重信は感動した。

 英一は、重信の様子を見て満足げにうなずいた。

「空腹は最大のスパイスだからな。戦時中は塩味しかない汁に入れたそうだ。だがな、戦争も末期になると食料事情はどんどん悪化。それまでは配給されていた、小麦粉の配給すら無くなった。

 そのときに考えれたのが、大豆粉やトウモロコシ粉、昆布、わめ粉、もしくは糠などで作る、すいとんだ。ただ、本来のすいとんと呼べるものではなく、本当に不味かったそうだ。

 塩も買えなくなり、海水で代用したってよ」

 英一は、遠い目をしながら言う。

「今の時代も、辛いこと苦しいことがあるが、俺達って恵まれているんだな」

 重信が言うと、英一もうなずく。

 そして、2人は笑い合う。

 2人にとって、今の状況は、まさに地獄だったが、それでも生きている実感を感じていた。

 それから、英一は少し寂しそうにする。

「……知ってるか。ブラジルでは、誕生日を迎えた人を祝って、たまごと小麦粉まみれにするというユニークな風習があるんだ。意味合いとしては、誕生日ケーキを作るのが面倒だから、ケーキの材料をぶつけてすませるため。という解釈が主流だ。

 日本でも、節分の日に鬼に豆を投げるように、世界にも食材にまつわる変わった文化があるもんさ」

 重信は唖然としながらも、まさかと察する。

「ひょっとして、俺がプロポーズした時のためだったのか」

 重信が言うと、英一は微笑する。

「俺、お前の彼女の朝枝さんのこと好きだった。俺、自分に自信がなくてさ。それで、彼女が重信を選んだことが羨ましくて仕方がなかった。

 だけど、重信なら、俺の分まで幸せになって欲しいと思ったんだよ。

 プロポーズのライブ配信の時に、小麦粉をぶち撒けてやろうと思ったんだ。お前から、プロポーズのライブ配信の手伝いを頼まれた時は、俺は嬉しかったぜ」

 英一は照れ臭そうにしながら、言葉を紡ぐ。

 重信は胸が熱くなる。

 重信は涙がこぼれる。

「鍋にも意味があってさ、鍋を夢にみると、あなたが愛情豊かで幸せな環境にいるという暗示なんだと。

 本当はさ、プロポーズした後の小麦粉まみれの、お前と七輪で熱々にしたおでんを食べたかったんだ。お前と朝枝さんの前途を祝してな」

 英一の言葉に、重信は感極まる。

 バカバカしく物を取り出していたが、そんな意味が込められていたとは。

 重信の目からは、大粒の涙が溢れていた。

 英一は、重信の肩を叩く。

 そして、優しく言った。

「お前は絶対に生きて帰らなきゃいけないんだ。朝枝さんと幸せになれ。それが、俺の願いだ」

 重信は泣きながら、首を横に振る。

「違う。俺達二人で、生きて帰るんだ。英一も、一緒に来い!」

 重信は叫ぶ。

 しかし、英一は首を振る。

 悲しげに笑った。

 重信は悟る。

 これが最後の別れだと。

 重信は必死に手を伸ばし、英一の手を掴もうとする。

 しかし、手は届かなかった。

 重信の体は宙に浮かび、どんどんと遠ざかっていく。

 英一の名前を叫び続けた。

 重信は目を覚ます。

 誰かが、必死になって呼びかけているのが分かった。

 ヘリの爆音が耳に響いていた。

 重信は、自分の置かれている状況を理解するのに時間がかかった。

 ヘリの中だという事だけは分かる。

 自分は、ヘリに乗っている。

 その事実を認識すると、全身から汗が流れ出た。

 重信は周囲を見回す。

 隣には、心配そうな顔を浮かべる救助員の姿があった。

「良かった! 意識を取り戻したんですね!!」

 救助員は安心した様子で言う。

 そして、重信は生きていることを実感していた。


 ◆


 次に重信の意識がはっきりしたのは、病院のベッドの上だった。

 医者の話によれば、登山届はあったものの下山報告が無く、家族や恋人からの電話連絡にも応じないことから捜索隊が出されたそうだ。

 捜索開始から10日目に奇跡的に発見されたらしい。

 その後、病院での精密検査でも特に異常は無く、後遺症も残らないとのことだった。

 ベッドの傍らには、恋人の朝枝由加が付き添っていた。

 彼女は、重信の手を握ると涙を流した。

 重信も、ようやく助かったという安堵で涙が止まらなかった。

「英一に会ったよ」

 重信は、由加に告げた。

「何言ってるの。重信さんは単独登山だったんでしょ? あなたの親友は去年に亡くなってるじゃない」

 由加は重信が冗談を言っているのかと思った。

 だが、重信の表情から、どうやら本気で言っているようであった。

 由加は、親友の英一が亡くなったことでショックを受け、現実逃避しているのだと感じたのだろう。

 重信は、自分が見た光景について語った。

「こんなことを聞いたことがある。青い人魂は、亡くなった人のものだと。あいつが出してくれた七輪の炎は青かったんだ」

 朝枝由加は、信じられないという表情をする。

「俺は10日間も飲まず食わずだった。それなのに生きていた。」

 重信の言うことが本当ならば、英一は重信を助けてくれたことになる。

「あいつ言ってたよ。お前は絶対に生きて帰らなきゃいけないんだ。朝枝さんと幸せになれ。それが、俺の願いだって」

 由加は涙を零しながら黙って聞いていた。

 重信は思う。

 英一が助けてくれなかったら、今頃死んでいたかもしれないと。

 重信は、英一との約束を果たしたかった。

 由加と、必ず幸せになると。

 仁見英一の墓参りに向かった時、重信と由加の左薬指には結婚指輪が輝いていた。

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