最終話最高のクリスマス
どこかから規則正しい機械音。まだ疲労を残した体をなんとか動かして、その原因に手を伸ばす。寝惚け眼にそのアラームを止めて、一つ息を吐き出した。ひんやりと冷たい空気を感じて布団に顔を埋めると、すぐ近くからクスクスと笑う声。
「ん……?」
「あー……はは、おはよ?」
「……おはよう」
薄暗い視界、何度か瞬きを繰り返せば奏の顔がはっきりと見えてくる。それと同時に、ぼんやりと昨夜の記憶も取り戻してきた。思い出すのと同時に、体に溜まる疲労感も起き上がってくる。
昨日はイブにバイトが入った奏に我儘を言われて、この家で奏を待っていた。一日泊って翌日は丸々二人で過ごそうと奏に微笑まれてしまえば、もうそれ以外なんて選べそうになかったのだ。居酒屋で色々と貰ってきた奏と一緒に日付も変わる頃少しだけお酒を飲んでケーキを食べた。梨紗が家で待ってくれてるのが嬉しいと、奏は何度も言って笑った。
お酒と疲労で眠ってしまう前に奏をお風呂へ押し込んで、濡れた髪のまま抱き着かれて、その髪の冷たさを感じる暇もないままソファーの倒されて。それからは、ただひたすらに触れられて、少しだけ触れた。長く細い手や、すっと伸びる白く長い足は普段は服装もあってみれないけれど、ドールのように綺麗で、見て、触れるだけで楽しかった。もっと触れたかったけれど、今思えば奏に言いくるめられた気がする。今度は負けないようにしなければ。
「もうちょっと寝てる?」
優しい甘やかすような声色。その声を聞くと不思議とそうしたくなるような心地になる。けれど、今日はようやく一日空けることが出来た日でお互いやりたいことを既に出し合っている。私は緩慢に頭を振って、ゆっくりと体を起こした。
「……」
先ほどの疲労感とは別種のものが体を襲う。特に腰回りが酷くだるい。起き上がること一つ億劫なほど。私に合わせて起き上がった奏がそんな私の顔を覗き込む。本当は隠して、予定通りの一日を過ごしたい。朝ごはんを食べたら、二人で水族館に行って、ウィンドウショッピングをして、少しだけいいレストランに行って、それからまたお酒とケーキを買って夜を一緒に過ごす、そんな一日を。
「ごめん、昨日やりすぎた?」
「……」
「起き上がった瞬間顔が引きつったよ?」
「……動き回るのは……ちょっと辛いかも」
「うん。 それは私が悪いから……とりあえずお昼までゆっくりしよっか」
目の前で奏が微笑む。この関係が始まってからも奏はこうやって一つ一つ言葉を掬い上げてくれる。そんな奏に、私も少しでも素直になれればと思う。すんなりと出てくるとはまだいかないし、たどたどしいけれど、それでもちゃんと伝えたいと思う。
「ごめん」
「梨紗が謝ることないでしょ。 昨日我儘言って梨紗に来てもらったのは私だし、無理させたのも私だし」
「ん-、確かに」
「ふははっ」
否定しない私に奏は可笑しそうに笑う。互いに思ったことを素直に言えて、それでもなお居心地がいいと思えるのは、きっとそんなに簡単には出来ないことだ。釣られるようにクスクスと笑えば、奏の手のひらが頬を滑る。愛おしいものを見る目を、真っすぐにこちらに向ける。その熱を真っすぐに受け止められることは、やっぱりまだ恥ずかしくて、けれどそれ以上に幸せだと感じられる。
頬に触れるだけのキスをして奏が離れる。幸せが溢れるように声を揺らす。それだけで、どうしてこんなに愛おしいのだろう。どうしてこんなに幸せを感じるのだろう。
「もうちょっと横になってていいよ。 朝ごはん作るから」
「……少し手伝う」
「体痛くない?」
「痛いけど、動き回らなければ」
「甘えていいのに」
「んー……一緒にやる」
奏の目が細まる。立ち上がった奏がこちらに手を差し伸べて、私はそれを掴む。ゆっくりと力を入れて立ち上がれば、お腹と内股の筋肉に痛みが走る。もう少し筋肉をつけた方がいいのかもしれない。
手を繋いだまま洗面台へと連れられて、朝の支度を終えて部屋に戻ればまた奏が迎えに来てくれた。手を取られてキッチンに向かって、言われた通りに準備されたボールにホットケーキミックスと卵、牛乳を入れていく。入れ終わったら奏が混ぜるのを横で眺めて、奏が一枚一枚焼いていくのをまた隣で眺める。
「あんまり手伝ってない気がする」
「あ、バレた?」
「奏の分焼く」
「ふははっ」
上半身はそこまで酷くないしフライパン位なら普通に持てる。一枚一枚焼くのを、今度は隣で奏が見ている。少し大きさが不揃いだけれど、焼き加減も申し分なく出来た気がする。お皿に焼き上がったホットケーキを重ねて、二つとも奏が運んでくれる。奏がてきぱきと準備を進めていく中、ゆっくりとした動作でグラスを二つテーブルに運ぶ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
座るときの痛みに唸れば隣でクスクスと奏が笑う。また少し伸びてきた髪がさらりと肩を滑るのを見る。今年は寒いから少しだけ伸ばすのだというけれど、少しと言わずに伸ばしてみてほしい。だって絶対に可愛いし、似合うと思うから。そんな勝手な私の我儘も、いつか吐き出せるのだろうか。
「いただきます」
二人で手を合わせて、少し遅い朝ごはんを一緒に食べる。予定通りの今日だってきっと楽しかったに違いないだろう。それでも、こんな風に過ごすのだってそれに負けない位幸福で、満ち足りた時間になる。私が焼いたホットケーキを美味しいと言って食べてくれる、ただそれだけでいいのだ。
「なんかさ」
一口サイズにホットケーキを切りながら奏は話し始める。私は切り分けたホットケーキを口に運びながら耳を傾ける。
「丁度一年前に会ったんだなって思うと、やっぱり不思議な感じするなーって」
奏もそんな風に思うのか。私も最近はよく思い出していた気がする。奏と恋人になって、今までを振り返る度にその出合いの稀有さに少しだけ頬を緩ませている。遠い昔のようなまだ最近のような、そんな不思議な一年前の出来事。
「うん、まさかこんな風になるなんて思わなかった」
「……梨紗は、なんで私だったの?」
「え?」
私が驚くと、奏は眉を下げて笑う。本当はずっと気になっていたと白状するように言って、彼女はフォークをお皿に置いた。
「だって、あの日の私はなんとなく梨紗に声かけて、なんかそんな気分になって……梨紗は好きって気持ちが分からないって言ってたのさ。 なんか本当、浅はかというか、軽いというか、第一印象的には最悪だったでしょ?」
奏の言葉に咄嗟に口が開いたけれど、上手く否定する言葉は浮かんでは来なかった。だって、確かにそうだった。だから私は最初奏に会わないよう逃げたし、こんな風に関わるつもりなんて無かった。それが今では恋人になって、一緒にクリスマスを過ごしている。
どうして、奏だったのか。気持ちが引っ張られる度、どうしてと考えたことはたくさんある。過ごす時間が心地よかったこと、優しさの質が心地よかったこと、歌う姿が好きだったこと、言葉を掬ってくれるところだって好きだ。惹かれてしまった理由はたくさん思い当たる。でも、なぜ奏だったのかと聞かれたときに言うべき言葉はなんなのだろう。
「この答えが相応しい言葉なのか、分からないけど」
だって、なんでと言われたって私は奏しか知らないのだ。こんなにも惹かれたのは、人生で奏だけなのだ。
それでも、例え私の言葉が奏の求める答えじゃなかったとしても。奏はきっとそれでも聞きたいと言ってくれるのだろう。そう思って視線を上げれば、そこにはあまりにも優しい瞳があった。「聞きたい」と、そう言ってくれる声があった。拙くてもいい、たどたどしくてもいい。伝えたいと思うことを、伝えなければ。私は少しだけ震える喉に力を込めて、精いっぱい届ける。
「奏が……奏の、私が本当に嫌だと思うことはしないよう気をつけてくれるところとか、遠慮して吐き出せずにいる言葉を自分になら言っていいって言ってくれるところとか、音楽に真っすぐに向き合ってるところとか、大事なものを諦めずに手を伸ばせるところとか……奏が、そういう人だったから好きになったんだと思う……だから、奏がいいの」
答え、というよりはただの告白のような気もする。心臓は煩いし、喉だって干上がっている。去年の私だったら自分がこんなことを言うようになったなんてきっと信じないだろう。でも、言える自分でありたい。私も、奏にちゃんと伝えられる自分でありたい。
驚いたように固まっていた奏の表情がゆっくりと解けていく。どれだけ伝わったかなんて分かりようもないけれど、その表情を見れば伝えたことに後悔なんてない。奏の体をこちらに向き直って、ゆっくりと大切なものに触れるように私を抱きしめる。
「ありがとう、言葉を聴かせてくれて」
「……奏がいつもくれるから」
暖かい体温。苦しい位の腕の力。もちろん、言葉だけじゃないものもある。こうやって抱きしめられれば嬉しいし、微笑まれるだけでも心は安らぐ。背中に腕を回して抱きしめ返せば、きっと同じものを返せているだろう。
それでも、それだけではきっと不完全だ。それだけじゃ私たちはこの場所まで来れなかった。だから、少しでも取りこぼしてしまわないように。奏とずっと一緒にいられるように。
これからも、たくさん言葉を交わしていこう。
言葉を聴かせて 里王会 糸 @cam_amz_
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