第51話信じる(3)

 ぽろぽろと零れ落ちる涙の隙間で、梨紗は私に気持ちを聞かせてくれた。同じ気持ちだと泣きながら笑ってくれるその表情に、緊張した心と体が解けて安心するのと同時に愛おしさが湧き上がってきてゆっくりとその体を引き寄せる。手を伸ばすことに、もう遠慮なんてなくていいと思った。


 引き寄せた体は素直に胸の中に収まって、間もなく両腕が背中に回る。時折スン、と鼻をすする以外はただ煩い心臓の音だけが響いている。それでも、そんな時間がいくらでも続いたらいいのにと思う。嬉しくて泣いてくれるなんて、そんなに嬉しい事ってないよ。少なくとも私にとって、この時間はきっと人生でも忘れられない時間になるって分かるから。


「もう大丈夫」


 だからその言葉には少しだけ寂しい気持ちになったけれど、体を離したおかげで私を見上げる梨紗の顔が見れたからまあいいか。鼻先が少し赤くなっていて可愛い。


「ごめん、服」

「え?」


 視線を辿れば、そこには涙で濡れた私の服があった。私の服なんて、そんな大したことじゃないよ。そう言えばスン、と鼻を鳴らしながらも彼女は素直に頷く。その仕草がなんだか可愛らしくておでこを触れ合わせれば、彼女の顔が逃げるように俯く。また少し急いている自覚はある。臆病なくせに、我慢は効かない。とことんちぐはぐな性格をしていると自分でも思う。


「……ごめん、何もしないから。 ちょっとこうさせて」

「……別に、」


 してもいいけど。

 そう聞こえたのは空耳、もしくは私の脳が作り出した幻覚?梨紗の顔を覗き込んでみれば、そこには一向に視線を合わせないようにしている梨紗の目と、真っ赤な頬があった。そうだ、梨紗はいつだって私を受け入れるんだった。それがとても嬉しくて、だからいつも調子に乗って、どんどん我慢がきかなくなるんだ。犬が威嚇するような声が漏れて、梨紗が驚いたように視線を向ける。


「梨紗のそうやって甘やかしてくれるとこ好き」


 梨紗の肩口に顔を埋めながらそう言えば、次は梨紗が変な声を上げる番だった。甘やかしてる訳じゃない、そんなことを言いながら私の頭をぎこちなく撫でるからくすくすと肩を震わせる。甘やかしてるよ。今までだって、今だって。でも梨紗はそういうの無自覚というか、自然にやってるっていうのも肌で感じるからこれ以上追及するのはやめて、とことん甘えてしまおう。


「……奏は、」

「ん?」

「……」


 続く沈黙の意味を、私はもう知っている。この沈黙は梨紗の優しさから出来ている。


「いいよ、なんでも言って?」

「……なんで、私だったの」


 それが何のことを指しているのか数秒考えて、おそらくの目星をつける。その問いは、きっと正確にはどうして好きになったのが梨紗だったのかということ。そんなの、いつだって私に欲しいものをくれたその優しさが一番の理由なんだけど、さっきも感じたように梨紗はそれを全部無自覚にやってるんだもんね。顔を離して、目の前の彼女を見つめる。


「あの、信じてないとかじゃなくて……純粋な疑問というか、特別を作らないって聞いてたから」

「うん、気持ちが伝わってないなんて思ってないから大丈夫だよ。 でも、そうだなー」


 無自覚な彼女にどういえば伝わるんだろう。梨紗がどれだけ優しくて、それに私が救われてきたか。自分がすごく魅力的なこと、どうやったら少しでも伝えられるかな。それと同時に最後の言葉が少し引っかかる。特別を作らないなんて、恋愛を避けてたなんてどうして梨紗が知ってるんだろう。いや、まずは答えが先だよね。


「やっぱり、一番凹んでた時に隣にいてくれたのは起点というか、きっかけだったかもしれないかな」

「……ライブ終わりの?」

「そう。 私が打ち上げドタキャンした時。 あの時はるちゃんと会ってて、音楽の事色々言われて、全部正論だったからこそ悔しくてモヤモヤしてたんだよね。 それを気づいてくれたことが本当に嬉しかった。 気づいてくれて、隣にいてくれた温度が暖かくて、この人の隣に立てたら幸せだろうなって」


 踏み込み過ぎない適度な距離感を居心地の良いものだと割り切っていた私に、そうじゃない場所をくれたのが梨紗だった。他のどんな人も、私の優しいところだけが好きで、面倒臭い手間な部分になんて踏み込んでは来なかった。だから、梨紗のそれはきっと、心を揺らすに値するものだったんだと思う。


「後は、私の音楽を好きだって言ってくれるところとか。 ライブだって就活とかあって忙しいだろうに絶対に来てくれたじゃん。 そういうのも嬉しかったよ。 そしたらいつの間にか湊と仲良くしてる梨紗を見ると嫉妬するようになって、梨紗の隣に立つのが違う誰かだなんて嫌だなって思った」


 ちゃんと伝えられてるかな。梨紗がどれだけのものを私にくれているかちゃんと分かってくれてるかな。梨紗の顔を覗き込めば梨紗の瞳が柔らかく笑う。


「梨紗がいいの、ちゃんと伝わった?」

「……ん」


 照れくさそうにはにかむ顔も新鮮な気がする。その頬に手を添えてゆっくりと撫でる。隣にいてほしいって思った人が隣にいるんだなって改めて実感する。私たちは今日こうやって気持ちを通じ合わせることが出来たけれど、それはゴールじゃなくてスタートで、ようやく隣に立てる権利を得ただけで。これからは、この場所を大事に大事にしていかなきゃいけない。これからも、誠意と、言葉を尽くしていこう。


「だから、梨紗が私のことなんでも受け止めてくれるところは凄い好きなんだけど……本当に、甘えちゃうからさ」


 いいって言われたらキスしたくなるしそれ以上のことも我慢できなくなってしまう。だから、あんまり甘やかしすぎないでほしい。あの時乱暴に触れてしまった事だって決して忘れてはいない。大事にしたい。


「……過大評価」


 それだけをぽつりと吐き出した梨紗は、私の手を握り返した後に私の唇に触れた。柔らかい感触と、目の前にピントの合わない梨紗の顔。一つ、二つと瞬きをしていると、その唇がゆっくりと離れていく。梨紗からキスをしてくれたのは、あの誕生日の夜以来な気がする。

 過大評価、か。言葉が重たすぎたかな。もう少しさらっと答えるべきだったかもしれない。伝わらないよりはいい気がしたんだけれど、中々難しいね。


「受け止めてる、は少し違う気がする」

「え?」

「その……奏は甘やかしてくれるって言ってくれるけど、少し違くて……私が、そうしたいだけ」


 手のひらがぎゅっと握られて、その手の温度にあてられる。過大評価ってそういうことか。梨紗は、ただ梨紗がしたいことをしているだけだと、そういうことらしかった。

 そうしたい、の中に含まれるニュアンスに気づかない程鈍感じゃない。その瞳が抱える熱だって、これだけ近くで曝け出されれば分からない筈がない。せっかく大事にしようってなけなしの理性を総動員させて今日だけは我慢しなきゃって思っていたのに。

 私を止めないのは、受け入れるのは、梨紗だってしたいから?


 まだきっと話すことはたくさんあるよ。湊に何を吹き込まれたんだとかそういう話だって突っ込みたいし、梨紗は私のどういうところを好きになってくれたのかとか知りたいし、これからのことだって話したいことはまだまだたくさんあるのに。でも、私たちにはきっとこれからたくさん時間がある。だったら、今日くらい浮かれてしまってもいいんだろうか。頭の中の天秤がゆらゆらと大きく揺れて、一向にどちらかに傾かない。梨紗を目の前にして、喉の奥が熱くなっていく。

 あぁでも、これだけは。


「これだけ、ちゃんと言わせて」


 最後の最後に、これだけ。気にし過ぎとか、今更とかかもしれないけれど。今までと例え同じ行為だったとしても、そこに違う意味が欲しい。特別な意味が、繋がりが欲しいから。


「友達じゃなくて、恋人になってくれる?」

  

 瞳が揺れる。驚くように揺れて、その後にくしゃりと形を変える。私の気持ちが伝わったって、その目を見ていれば思えた。


 ねえ、梨紗。

 私たちの関係を、この場所からまたスタートさせていこうよ。


「はい」

「……ありがとう」


 これからは恋人として、どうかよろしくね。

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