第50話信じる(2)

 グラスには有無を言わさず水が注がれた。奏のお陰で酔いつぶれるほどは飲んでいないし、冷たい風ですっかりと酔いは醒めているというのに心配症だと思う。ついでにブランケットまで膝にかけられて、その少しやりすぎといえるほどの気遣いに小さく笑い声が漏れる。


「なに?」

「んー……」


 その優しさがくすぐったかったと言うには気恥ずかしく笑って誤魔化せば、彼女は隣に腰を下ろしながら不服そうに眉を潜めた。そんなありふれた、いつかは忘れてしまうであろうこの時間さえ私に幸福をくれる。そんな時間はきっと人生においてそうたくさんはないだろうと思う。


「そうやって隣で笑われると、困る」


 拗ねた声色の後、彼女は視線を逸らした。その婉曲な表現を読み解こうとしてみるけれど、結局掴み切れずに首を傾ける。察しが悪いとは今まで思ったことは無かったけれど、どうやら私は察しがいい方ではないらしい。私が誤魔化したことに拗ね、私の意図が分からないことに困っている、という解釈でいいのだろうか。笑われると困るとは、なんだか合致しない気がしてすっきりとしない。

 その時、彼女の体が遠慮がちにこちらに傾いて、肩に彼女の肩が触れた。隣を見ればすぐそこに彼女の耳が見えて、私は咄嗟に視線を落とす。猫柄の可愛らしいブランケットを見つめながら、彼女の名前を呼ぶ。


「奏……?」

「……嘘、困ってない。 ただ、心臓が早くなって頭がいっぱいいっぱいになる」


 すり寄るように彼女の頭が私のそれに触れる。ようやく奏の言葉を理解して、その瞬間に心臓がぎゅっと締め付けられた。奏の香水の匂いがする。心臓が煩い。体の全部が固まってしまったみたいで、ただブランケットの猫とにらめっこをしていることしか出来そうにない。しばらく彼女の重みと、彼女の呼吸のリズムを感じながら時間が過ぎていく。


「いや、ごめん……えっと、違くて」


 不意に彼女の体が離れて、ソファーの上で正座をしてこちらを見つめる。だめだ、頭がいっぱいいっぱいなのは私だって同じらしい。訳も分からないまま、私も同じように体を奏へと向ける。何がごめんで、何が違うのだろう、心臓が煩いばかりで、体が熱いばかりで、何一つ頭が回らない。


「ちゃんと向き合うって決めたから」


 真剣な目だった。それはライブのステージ上でみる視線とどこか似ているような、真っすぐに見据えるような目。困るとか、心臓がとか、そんな曖昧な言葉では違うのだと、ようやく分かった。


「……そうだね」


 私だってちゃんと奏と話がしたくて勇気を振り絞ったのだ。曖昧なまま時間を過ごすなんて、今日だけはしてはいけない。伝えたいと思うことを、今日だけはちゃんと言葉にしなければ、勇気を出した意味がない。私は奏の瞳をまっすぐに見つめ返す。踏み出そう、私も。


「「あの」」


 綺麗なハモリに二人して目を丸める。よくよく考えてみれば、今は奏が話すタイミングだったかもしれない。気が急いてしまったと思って譲れば、彼女の肩が少しだけ力を抜いたように下がって、表情が和らぐ。私が今日までたくさん考えてきたのと同じように、奏もあれからたくさんのことを考えて、話したいことがたくさんあるのかもしれない。

 大丈夫、焦らなくていい。私はちゃんと奏の話を聞くし、奏もちゃんと聞いてくれる。その為の時間は十分にある。


「ありがとう。 電話でも言ったけど、改めて私の素直な気持ちを伝えたくて。 勘違いしてよとかさ、己惚れてよとか、そんな言葉じゃダメだったなって……もっと真っすぐで、素直じゃなきゃダメだったって今ならちゃんと分かるから」  


 空気を吸い込む音。長く吸って、そうして時間をかけて吐き出す。不安げに表情が固くなって、膝の上でぎゅっと手が握られている。本当は、誰よりも言葉に敏感で、臆病な人。真っすぐに向き合うことの難しさを知っている人。それでも、きっと音楽という形で必死に向き合おうとしていたのだろう。

 その手に、今度は私から手を伸ばす。私よりも冷たい温度。細く長いこの指先は、去年も私より冷たかった気がする。確かに軽薄な言葉や行動はあって、でも真っすぐに音楽と向き合う姿もあって。どちらが本当の奏なんだろうなんて、考えた事もあった。

 けれど、正反対にも見えるその姿は、きっとどちらも奏なのだ。そのどちらも見てきて、それでも私は奏を信じると決めたのだ。


「私も私なりに考えてみた。 奏の色んな面を振り返ってみて、そのどれもやっぱり凄く嬉しかったって思う。 私の勝手でキャンセルしたのに、わざわざケーキを買って家まで来てくれた優しさが本当に嬉しかった。 私が我慢しようとする言葉を掬い上げてくれるのも、私の好きなものを知ろうとしてくれるのも、そのどれも本当に嬉しくて、大切にされてるって感じられたし、一つ一つを思い返した時にその優しさを信じたいって思えた」


 どれだけ伝わっているだろう。奏の優しさを、一度否定してしまった。それでも彼女はまだ向き合おうとしてくれている。そんな彼女に、私もちゃんと向き合えているだろうか。

 握った手が、強い力で握り返される。少しは、伝わっているだろうか。伏せていた目がゆっくりと持ち上がる。目が合えば、今まで見たことがないような泣き出しそうな顔で奏は笑う。


「梨紗は……私が本当に欲しい言葉を、いつも私にくれるね」


 そう、なのだろうか。そうなのだとしたら、それは奏が私の言葉を聞きたいと言ってくれるからに他ならない。私は、そう感じているのだけれど。

 震える手が、それでも私の手をぎゅっと握っている。不安げな顔もそのままだけれど、それでも奏はただまっすぐに私を見ている。


「ちゃんと、本気で、本当の気持ちです。 梨紗が好きです」


 己惚れてでも、勘違いしてでもない。これ以上ないまっすぐな言葉。私が知らなかった感情。奏のお陰で知った気持ち。


 あぁ、今なら。

 こんなにも嬉しい。


 そう実感してしまえば、目頭が熱くなって鼻の奥がツンと痛んだ。スン、と思わず鼻を鳴らせば彼女の目が丸く開かれる。はくはくと口を動かして、そうして遠慮がちに彼女の指が頬を触れる頃には、涙がぽたぽたと零れていた。恋愛映画で泣いたことなんて無かったのにな。


「ティッシュ持ってくる」

「待って」


 立ち上がった彼女を引き留める。彼女は相変わらず動揺を顔に出したまま、おずおずとまたソファーに座り直す。自分だけ言うのは、ずるいと思う。そこまで言うつもりなんてなかったけれど、奏がくれた言葉が私にとってこんなにも嬉しいのなら、どうか、私の言葉が彼女にとってもそうだったらいい。


「ごめんいきなり泣いて……なんか、本当に勝手に……。 すぐ止まるから大丈夫」

「いや、謝ることじゃないけど……ごめん、なんかまた私間違ったかな」

「え? いや、そういう涙じゃなくて……あの……嬉し涙だと思う」

「え? あ、え」


 いよいよまん丸に瞳を丸めるから、私は涙をこぼしながら笑ってしまう。なんで、変なところで察しが悪くなるのだろう。いや、違うか。それだけ、きっと余裕がないのだ。余裕がないから、奏の臆病な面が表に出ている。そう分かってしまえば、そんなところさえ愛おしいなんて思う。本当に、未知の感情だ。


「フフフ、奏って結構ビビりだよね」

「……今まで繕ってた分、これからもっとボロが出るよ」

「んー……まあ、別にいいよ」


 もっと奏のことを知れるのなら本望だ。肌を擦ってしまわないように、慎重に奏の指が涙を拭ってくれる。そんな優しさをもう疑ったりしない。


「ねえ奏」

「何?」

「……」


 言葉にしようとした瞬間、声が震えそうになる。こんなに緊張することが今までの人生にあっただろうか。

 それでも、大丈夫。受け止めてくれると信じられる。

 あぁそうか。信じてもらえることがこんなにも心強いのか。そう思うと、少しだけ自分もちゃんと頑張れていたのだと思える。私も精いっぱい出来ることはやれていたのだと。悩んで一つ一つ選んできたことは、意味があったのだ。


「奏が好き」


 それが、今この場所に連れて来てくれたのだ。

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