メープルセピア・ホットケーキ

@ramia294

第1話

 初恋。

 

 自分の心が、一途だったあの頃。

 テニス部のその娘は…。


 日に焼けた笑顔は、テニスコートに咲いたヒマワリの様に明るく。

 僕の心を捉えて離さなかった。



 日常というものは、あの頃考えていたよりも、単調なのかもしれない。

 それが実は、いちばんの平穏で心地良い日々なのだろう。

 僕は、新たな幸せを手に入れるため、花の舞い散る春風の中、平穏な生活を捨てる決意をした。

 どうしてだろう?

 メープルセピアのせい?

 それとも、

 春の魔法か?

 僕は、今。

 あの頃、手にする事が出来なかった初恋に向かって、歩き出す。



 真面目にコツコツと働く事しか知らない僕は、中年を過ぎても独り身だった。


 小さな職場が僕に支払う報酬は、高給とは程遠い額だったが、独り身の生活では、問題なかった。


 僕の場合、趣味と言っても、読書ぐらいだったので、それでも困らなかった。

 最近、自分のお腹を見ると、これではいけないと、感じ始めた。

 自宅に引きこもり、本ばかり読んでいた僕も、散歩を始めた。


 我ながら、ささやかな運動だ。


 三十分の散歩が、一時間になる頃、シャッターばかり目立つ商店街で、その喫茶店を見つけた。


 本の世界の喫茶店。


 慣れない運動に、筋肉と胃が悲鳴をあげ始めたので、入ってみる事にした。


 喫茶店の中は、壁一面の本棚。

 本の壁で囲まれ、本好きの僕には心地よい空間だった。

 薄暗い店内の手元の灯りは、蛍光灯だ。


 仲の良さそうな夫婦が営むその喫茶店も、ここ数年猛威をふるった感染症のおかげで、客の数が減ったとのこと。

 ニコニコと笑顔を絶やさない夫婦が営む喫茶店は、薄暗い水の中に潜っている様に、心が落ち着いた。


 季節外れの蚊の羽音を聞いた様な気がした。


 お腹の求めを満たしてやりたい僕は、何か食べようと黒い表紙のメニューを開いた。


 ホットケーキがあった。

 最近のパンケーキと呼ばれ、ゴテゴテクリームやフルーツで、飾られているものでは無いらしい。

 店主によると、昔ながらのバターとメイプルシロップだけのホットケーキとのこと。


 しかし、メニューには、メイプルセピア・ホットケーキとなっている。


「この、メイプルセピアとは、何ですか?」


 お店の方に、質問してみた。


「メイプルセピア・ホットケーキをひと口食べると、遠い昔に置き忘れてきた初恋が、もう一度あなたの前に姿を現します」


 メープルセピアは、もう一度初恋を体験させてくれる。


「初恋なんて、良い事ばかりでは無いでしょう。こんな僕でも大昔に、初恋は経験しましたよ」


 メープルセピアの説明は、もちろん信じられなかった。

 僕の初恋は、告白する事もなく過ぎていったという、よくある話だ。

 そんなものが、僕にもう一度訪れても…。


「今更、どうしようもないな」


 気にもしないでホットケーキを口に運んだ。

 とても懐かしい素朴な味は、子供の頃を思い出させてくれた。

 香り高いコーヒーは、あの頃には、無かったが…。


「では、これをどうぞ」


 食べ終わった僕に、店主が持って来てくれたのは本だった。

 表紙には、何も書かれていない真っ白なハードカバーの本。

 

 その本を開くと…。


 突然、あの頃の記憶が、大量に流れ込んできた。

 僕の脳の小さな許容範囲を超えてしまった様で、その場で意識を失った。

 僕の意識は、その本に吸い込まれた。


 その時代は、不思議な時代だ。

 春を思う季節。

 しかし、桜の花が愛おしいと感じたのは、若くなくなってからだ。


 その頃の僕は…、

 すでに中学生で運動部に入る事は、諦めていた。

 生まれつき身体が、弱かったのだ。


 放課後は、図書室で過ごす事が多かった。

 本好きな僕は、自然にそうなった。


 校舎の2階にあった図書室からは、テニスコートがよく見えた。

 走る姿。

 ボールを打つ音。

 明るい笑い声と

 おそらく胸の奥に、ひっそり抱えている悔しい涙。

 

 冷たい風に耐え、

 熱い陽射しに耐え、

 体育会系の理不尽に耐え、

 不運という巡り合わせにも耐え、

 ラケットだけを味方に、コートを駆け、ボールを追うその姿。


 羨ましいと思った。


 その中に、あの娘もいた。

 クラスメイトのその娘は、笑顔が印象的だった。

 テニス焼けの顔から溢れる白い歯が図書室の窓から見えた。

 おそらく、僕は、彼女の健康的な姿に憧れたのだろう。

 自身の弱い身体に対して、テニスコートを縦横に駆け回る彼女に憧れた。

 それだけだった様に思う。

 それが、僕の初恋だった。


 初恋なんて、そんな曖昧なものだ。

 大人へと、一歩踏み出しただけの子供が、初めて異性を意識するのに、そんな深い感情が発生するはずもない。

 初めてだから、印象深いだけだ。


 しかし…。


 その印象は、その後の人生を支配するほどの大きな影響を与える。

 残酷な…初恋。

 夕日の中の彼女を忘れられない僕。


 告白すら出来ずに終わった初恋。

 あの時の胸の中に生み出された熱を求めて、

 与えられず、この年齢になった。


 求めるものは、君の笑顔と胸の中のあの熱。


 この本が僕に見せる夢は、すでに、セピアに色褪せてしまったはずのあの時の初恋を鮮やかに再現させて見せた。

 今、僕は…。

 本の中の世界をあの時の瑞々しい心と今のあの頃への後悔の心を持ったまま、行動出来た。


 もちろん、本の中の初恋をその手に入れるために僕は、全力で行動した。

 教室で、

 通学路で、

 僕は積極的に、彼女に近づき、

 テニス部にも入部した。

 本の中でも虚弱体質だったから、何度も倒れたが、それでも彼女を求めた。


 夏の夕陽差し込む教室で、あの時出来なかった告白をした。


 そして、僕は目覚めた。

 涙で濡れたテーブルで、自身が泣いているのに気づいた。

 店主に差し出されたティシュを何枚も使って、止まらない涙。


 真っ白な本。

 それは、僕が本物の恋を手に入れると、色づくらしい。


 壁の棚にある様々な色の本は、全てメープルセピア・ホットケーキが作り出した恋の物語だということだ。


 メープルセピアは、あなたを初恋に導く。

 ホットケーキと是非どうぞ。


「メープルセピア。気に入ってくださいましたか?気に入ってくださったお客様には小瓶をサービスしております」


 店主には、恋する人とホットケーキを食べる時、お使い下さいと言われた。


「メープルセピアは、お客様を選びます。メープルセピアが認めたお客様にだけ、初恋をお届けします亅


 僕は、メープルセピアに認められたのだろうか?   

 この次は、夢の続きを見ることが、告白の結果を聞くことが、出来るのだろうか?


 お土産の小瓶のメープルセピア。

 この齢になるまで、恋を見つけられなかった僕には、使うチャンスが来ないかもしれないと思った。

 しかし、それから、いつも持ち歩いていた自分を笑っていいものか、憐れむべきなのか、迷う日々を過ごした。


 ある日の帰り道。

 夕日の中の川沿いの桜並木。

 春の花の散りゆく姿を見ている僕。

 小さな川の流れに吸い込まれてゆく花びらが、いたずらな春風に煽られ、君の元へ。

 あの頃の面影のまま、揺れる髪。

 溢れる笑顔から覗く白い歯。

 二人の顔には、あの頃には無かった時間が、刻まれ。

 それでもあの頃のときめきをそのままに、

 お互いの視線交わる春風の中。

 長い時を隔てた、

 初恋との再会。

 


 『メープルセピア。僕に勇気を』


 僕は、彼女に向かってまっすぐ歩いた。


 今度こそ、

 ヒマワリの様な笑顔を見失わないために。



 

   本の世界の喫茶店。

   一冊の本が色づきました。


           終わり



 


 




 

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