世界の端の食卓にて
柚木呂高
世界の端の食卓にて
胸の中に音楽が流れている。それは決して比喩ではない。私はxxxの胸に耳を当ててじっとそれを聴いている。その中にあるかすれ始めた音が何を意味するのか想像しながら、音像を一つ一つ摘み上げるように耳を澄ます。窓から差し込む光に積もった埃がキラキラと瞬いている父の仕事部屋の隅に、壁に背をもたせかけられて彼は人形のようにぐったりとしている。鳥の顔に足、イルカの体が混ざったような美しい姿のxxx、その長いまつ毛が瞼を覆うように目を細めて私を見つめていた。彼には性別はない、しかしその体のラインはどちらかといえば人間の女性に近いものかもしれなかった。
私の家族は早いうちに母親が出て行ってから、父と一人のxxxと私の三人家族として生活していた。幼少期はxxxがまるで母親のように優しく、家事なども私と一緒に行ってくれた。父は大して忙しくもないのにまるで仕事をしているという態度だけは取って、いつもPCの前に座って腕を組んでいた。それだけで自分が役割を果たしていると主張するような安く見え透いた弁解をたばこ臭い体臭から漂わせている。家計はお世辞にも余裕のある状態とはいえなかった。xxxは基本的に言語能力が特殊で様々な言語学習の要領の良さや、プログラミングに於ける言語開発能力が高く買われて、そういった分野で活躍する者は多いが、我が家のxxxはそういった能力を発揮する機会はなく、父の雑用や掃除や料理と言った家事を手伝ってくれているだけだった。父がxxxを拾ってきた経緯は良くは知らない、しかし彼らは既にその当時から不思議な信頼関係を築いているようで、私の入り込む余地のない大人の空気というものが、私の肺を満たしてそれが重油のように胸にわだかまっていた。
ある冬の深夜、お手洗いに起きたとき、父の仕事部屋にまだ明かりが点いていた。私はそっと扉の隙間から差し込む光に引き寄せられて、タバコの煙で白く濁った部屋を覗き込んだ。父は机に対して横向きに座って、横に立つxxxの腹に頭をもたせかけている。xxxはしっとりと光沢のあるゴムのような手を父の頭の上にそっと乗せている。人間の優しさの仕草を真似ている異物という感じで私は少し不快になった。差別しているつもりはないのだけれど、どこか根本で違うということを意識から剥がすことができないのだ。
「俺はダメな人間だ。クズで怠惰だ。同じ年齢の友人たちはキャリアを積んで金をどんどん貯め込んでいる。俺はどういうことだ、日々の倦怠感を病気のせいにして、何もしない時間を治療のためだと思いこんでいる。仕事は滞って信頼をどんどん失っていく。俺には夢があったのだ、作家になる夢が。ところがどうだ、大人になってみると様々な怒りや疑問が、多様性の前に霧散してしまう。空っぽだ、俺は何も言いたいことがない、ただ焦りだけが、無為に年齢を重ねていつか死ぬかもしれないという焦りだけが、俺の体を支配している。頭の中が痺れて溶けてしまいそうなのだ。モヤがかかって、脳が液体になってしまったように。xxx、俺はもうこれ以上の生活を望めないよ、最後まで貧乏で、子供もろくに懐かない。俺は殴ることでしか子供に言うことを聞かせられない。袋小路だ、もっとみんなみたいな普通の生活がしたかった」
「哲雄はよくやっている。生活も支えている、私も受け入れてくれた。私はこの場所では大した役にはたてないけれど、それでも私を認めて、種族による隔たりもなく接してくれている。冬の夜の温かい布団のように沁むように私の心を温めてくれる。たとえ私が五年ごとにあなたを忘れても、あなたは常に私を優しく受け入れてくれる」
彼らの会話は互いの弱さを舌で舐めるように粘膜質で私は聞いていて居心地の悪さを感じたが、それは当人同士にとっては命を繋ぐような効能を持っていたに違いない。そして二人は互いに肉体を触れ合わせて、何か怖くていかがわしい行為に発展するのだった。私はそれを見るのが嫌で、物音もさせずにすぐにその場を離れていった。雪はなかったが凍えるような寒さだった。電気の明るさの中に見えた父の黒いジャケットとxxxの紺色の滑らかな肌が、瞳を閉じると瞼の裏に影のように張り付いていて、私は眠りにつくまでずっとそのシルエットが奇妙に滲むのを眺め続けていた。
父が私とのコミュニケーションの手段によく使うのは暴力と暴言だった。私はxxxと家事を全般やっていたが、その幾つかは父の思う理想の手際には適わずよく叱責され、頭や腹を殴打された。すすぎ終わった皿に泡がついていると、父は私にそれを指差し、私が何だろうと思って覗き込むと強かに私の横面を引っ叩いた。耳鳴りがして、片耳が上手く聞こえない状態で涙目を父の顔を見ると、それはいたって無表情で、怒りなどを感じさせなかった。痩せぎすで力もないくせに、彼は弱いものに暴力を振るった。母の失踪は彼のその気まぐれな暴力と暴言によるものであったのは間違いない。それでも私は残された父親が可哀想だとそのときは思った。人に捨てられることがどれほど辛いか、母が逃げていくのをただ事実として受け入れることしかできなかった私は傷心を抱えて、残された父に共感のようなものを抱いた。しかし、それは何の意味もなかった。あるのは暴力の矛先が私に集中したという事実だけで、私は喪失の共感を父との絆にすることはできなかったのだ。そんな中でもxxxは殴られることはなかった。言い方が間違っていなければ、彼は父の寵愛を一身に受けていた。友人や愛人といった雰囲気でいつもxxxは父に優しい言葉をかけて、父はそれを甘い蜜のように両手いっぱいにこぼさないよう丁寧に啜っている。それが如何にもうまそうで、そうしているときの父は愚かな少年のように見えた。父は明らかに母の代わり、もしくは母以上の何かをxxxに認めていた。xxxの蜜は私にも振る舞われるが、私は言葉が人の心をかき乱しても、それが幸福に繋がるとどうしても信じることができず、ましてや人ではなく共感もできない生命体から振る舞われるものだと思うと、いつもそれを受け取らずに零していた。彼は私を腕に抱き、私は彼の胸に顔を埋める。すると不思議な音楽が聴こえるのだ。それは確かに私の心を落ち着けさせた。けれどxxxは一度も父の暴力から私を守ってくれたことはない。
朝食は狭いダイニングで三人一緒に取っていた。それがルールだ。食卓の上には調味料と父の処方された薬、光熱費やカードの請求書が散らばっており、空いている場所に料理を置いて、我々は肩を寄せ合って食事をする。食べているときの父は機嫌が悪いことはあまりなく、私に話しかけることもままあった。
「いいか、直哉。若いうちは自分の人生は世界の中心にある。あらゆることが、あらゆる偶然と人間関係が、自分の人生をより豊かにしてくれていると感じるだろう。しかし事実は違う。時間が経つに連れてそれはお前の自己同一性を破壊して、お前がお前であることに疑問を投げかけてくる。気づけば地球は高速で回転を続けて、人はその遠心力で外へ外へとズレ行く。そして何れ気づく、自分の人生は世界の中心にあるのではなく、その時間と力によってだんだん端に追いやられていって、世界の隅で孤独に衰弱していくのだと。だからお前は、一人でも冬を越せるようにすることだ。太陽の届かない場所は寒いのだから」
「世界の端にも人はいる。そこで肩を寄せ会える人がいると少しは温かいかもしれない。歌が聞こえたら一緒に歌うと良い。直哉もそういう人が見つかるといい。私ももしかしたらまだそばにいるかもしれない。私が忘れたときはちゃんと教えて」
細い四本の指を一本嘴に添えるようにxxxは嫣然として私に助け舟を寄越した。
「僕は夢を叶えられないの?」
「夢を持つのは途中までは生きるモチベーションになる。それ以降は焦燥と悔恨になる。上手く生きるためには、適度なタイミングでそれを捨てるのだ」
「直哉の夢はなに?」
「音楽で、誰も聞いたことない音を作りたい」
「音楽なんてクソだ」
「私の心をこの星に繋ぎ止めてくれる尊いものだ。いつか直哉の作った音楽を私の中に流して欲しい」
私は魚の骨を一本ずつ身から抜き取って、それを皿の端に積んでいった、そして身をひとつまみ箸でつまんで口に運んだ。取り除き損ねた小骨が口の中で異物感のある舌触りをして不快感を覚えた。
「いいか、直哉、勉強をしろ。勉強をして、様々なことを知れ。歴史、科学、数学、国語、それらは糸で繋がっていて、生きて行くときに強固に結びつき、お前の思考と感受性を補強する。クソになるな。孤独なクソになりたくなければ」
そう言って父はxxxに目配せをして蜜をせがむような卑しい顔をした。苦痛とは自分自身の言葉の中から生まれてくることがある。父はまるでタバコの煙のように肺いっぱいに自分の言葉を吸っていた。そして窒息しそうに顔を強張らせるのだ。xxxはそうするとすぐに嘲哳するように父をあやすのだった。私は父が私の人生の邪魔をしているようでならなかった。
いつからだろうか、彼らの種族が現れてから既に数十年の歳月が経っているが、その初めは順風満帆とは行かなかった。地球での彼らの生活は時間の流れや重力等の相違の影響で身体リズムの乱れを惹起し、後天的精神薄弱を引き起こした。そして多くのxxxが自死や衰弱死をしたのだという。しかし彼らは人類のある芸術家が開発した図形楽譜を自動演奏するオーラム・システムというものを発見した。xxxたちはこれを利用して、図形楽譜フィルムを体の中に組み込み音楽を流すことで独自の精神構造に変形させ地球環境に適応することができた。全ての身体構造を変えることはできなくとも、一部の身体改造を施すだけで精神構造を変化させることができる。それは彼らにとって技術的にも倫理的にも最善の方法であった。少なくとも現在に於いてxxxは人類と友好的な関係にあり、お互い近い頭脳を持つ知的生命体として欠かせない社会の一部として溶け込んでいる。xxxは五年に一度図形譜面フィルムを交換する必要がある、フィルムの経年劣化と精神構造がそれに慣れることで効果が薄れるためである。そこにはその五年間に経験してきた記憶も刻まれており、xxxは更新の時期に必要最低限の引き継ぎ記録を選定し施術を受ける。人生の中で経験した時間や思い出を定期的に失う彼らは、果たして同一人物と言えたろうか。我が家のxxxは人間と共同生活をしているという最低限の記録だけを継続し、私たちとの時間を引き継がなかった。彼にとっては当たり前の毎日をいちいち記録しておく必要はないということだろう。そしてその度に父や私はxxxに「初めまして」と言うのだ。人間よりも遥かに長い三〇〇年という寿命に対して、彼らのアイデンティティは五年ごとに更新される。xxxの人生とはなんだろうか。思い出なくして同一人物と果たして言えるのだろうか。更新毎に生活に必要な知識だけを引き継いで、経験に関して無頓着なxxxたちは同一性というものに拘泥していないように見え、しかし私は特に成人してから、仄かにその身軽さを羨んだ。
大学に入ってから殆どその大学には通わず、私は仲間たちと音楽に没頭した。音楽と言ってもそれはポピュラー・ミュージックであり、アカデミックなものなどさっぱりわからなかった。それでも出来上がる音楽には私たちらしい遊び心が詰まっていたし、自分たちが好きなものが形を成すというのは得難い楽しみであった。
友人の部屋は九畳程度のひと間であったが、人が四、五人集まるにはちょうどよいくらいの広さだった。ベッドが一つと、小さな本棚にはマンガが何セットかと数冊のベストセラー小説に混ざって、見栄を張ったようなドゥルーズやブランショ、ベケットなどが違和感を放っていた。横に長いレコード棚がそのままテーブルと物置の役割を果たしていて、他の家具に比べてずいぶん高級そうなスピーカーが置かれている。皆金はなかったが、そこには仲間が持ち寄った酒とマリファナがたっぷりとあって、音楽を聴きながら紫煙に酔い、ときにその勢いで音楽を作り、ときに懶惰に過ごしていた。
「直哉の感性は独特だな。同じ音楽を聴いているはずなのにこうも出てくるものが違うのは不思議な感じだよ」
「私がニッチな感性だとしたら、それを丸く慣らしてくれるのが晃久の音の良いところだよ。私の刺々しい部分、人々から敬遠されそうな感覚が親近感を持つようになるのはまるでマジックだ」
主な仲間は私を含めて三人、私と同じくラップトップで音楽を作る晃久と、デザイナー志望でVJやフライヤーを担当してくれる絵巳子がいて、彼女は私達のピーター・サヴィルのような存在になりたいと言っていた。そこにそれぞれの友人たちが代わる代わる晃久の家に訪れるような格好だ。そういった遊びの中で人々の関係が結びついて、私たちのユニットは少しずつコアな音楽ファンの耳に届き、音源を出すインディペンデントのレーベルも決まった。まさに私は世界の中心だった。あらゆる事象や偶然が私に味方をして人生が急激に転がり始めたようだ。そして私の人生は決して父とxxxだけの空間で閉じられているわけではないと知り、自由を手に入れたと思った。そしてその自由を守るためか、自然と家には帰らなくなった。世界はずっと広く、自分を評価し、受け入れてくれる場所が存在しているのだ。ハッパの煙に包まれて晃久と絵巳子が笑っている。私もそれを見て笑った。如何なる趨勢になろうとも仲間はそこに居てくれると信じられた。
ある日、相変わらず晃久の家で皆煙を吐きリラックスしていると、xxxから電話がかかってきて、「帰ってこないか」と言われた。レコード棚の上に、灰がちらちらと落ちているミキサーのつまみを回し、音楽の音量を下げて彼の言葉が聞こえるように部屋の隅に移動をして電話をしていると、辺りの人間はなんだなんだと聞き耳を立てる。彼は五年ぶりのフィルム交換時期が近づいており、戻ってきたときに私がいないと家族の人数を誤認する可能性があるので、交換時期は家に居て欲しいという要望を伝えた。私は彼も家族の一人だと思っているし、それは仕方がないと思って一度帰ることを承諾した。電話を切って振り返ると、晃久の友人が「xxxがいる家の人はじめて見た!」と言ってはしゃぐ。晃久や絵巳子にもそのことは何も言っていなかったので、驚いている様子だった。都会だとxxxも多く居るものだが、ここのような片田舎ではxxxは珍しく、人と共同生活を送っている個体は特に稀であったから、彼らの反応も驚くには値しなかったが、それでもxxxが当然ではない人々にとって彼らがどういう存在なのか計りかねた。私は物心ついた頃からxxxがいて、一緒に生活をして来たので、彼が居ない我が家というものの方が想像に難かったのだ。
「せっかくなら直哉の家にみんなで行ってみない」と言ったのは絵巳子だった。
「直哉の家のxxxも見てみたいよな」
これには私も困惑してしまった。私が如何に世界の中心であろうと、家では父親に隷属する弱者であることには変わりがなかった。そんな姿をみんなに晒すのも嫌だったし、何よりも父親を皆に見られることに忌避感を強く受けた。私はしどろもどろになり、何かしら断る理由を探したが、正直に父親に会わせたくないと言わざるを得なかった。そうすれば必ず次の言葉が誰かの口に登るのだ。「直哉の父親が居ない日に行けば良くない?」私は承諾するしかなかった。
xxxに父の予定を聞いて、長時間外出している日を教えてもらった。彼は「直哉の友達が遊びに来るなら歓迎しないと」と言って張り切っている様子だった。移動の車の中、乗っているのは四人で、私と晃久、絵巳子、そして晃久の友人の誠也という男だった。少しでも我が家が世界の中心から離れないようにと、私はハッパを深く吸い込み、自分たちで作った音楽を鳴らしながら向かった。ジョイントは次の人へどんどん手渡されて行き、私以外の誰もが浮かれている様子で、我が家への訪問を心から楽しみにしているようだ。私の家は父の仕事部屋兼寝室と私の部屋、xxxの寝ているリビング、そしてダイニングキッチンがあるくらいの決して広くはない家で、私の所有物もたいしたものはなく取り立てて見ごたえのあるものは何もない。彼らの期待する何ものも存在しないと思うと気が重かった。せめてxxxが彼らにとって目を引くものであれば私の面目も保てそうなのだけれど。ああ、面目とは何であろうか。仲間が見てきた私は確かに私であったが、家庭内の私というものは彼らのイメージからは遠いもののように思われた。豺狼な父と何も言えない弱い私という構図は彼らの視点からは見えないものであった。そしてその見えない部分に関して私は彼らにとってそれを存在しないことにしたかったのだ。畢竟するに、何のことはない、私は自由ではない時間の私を仲間に観測させないことで、自分が自由であると思いたかっただけなのだ。この省察は未だに家庭が私を桎梏するものであることを再認識させた。季節は秋で、トウカエデが葉を散らして、それが絨毯を作り、車が走ると窓の外を素早く舞った。紫煙が尾を引き、黄色い葉に絡みついて遠く消えていった。
家に着くとxxxが出迎えた。鳥のような美しいまつ毛が楽しげに瞬いて、私の友人を歓迎していることが伝わって来た。晃久たちはxxxの姿を実際に見るのが初めてだと言っていたが、TVやディスプレイ越しではない彼にどのような印象を受けているのか、私は少し怖く感じた、人間ではないものへの隠すことのない違和感や異物感、それらが彼らの顔から滲み出ては居ないか、それがxxxを傷つけたりしないだろうかと。靴を脱いで家の中へ入りながら、仲間の方へ顔を向けると、そこには好奇心と嫌忌が綯い交ぜになった表情を浮かべていた。
「おもったよりも灰色なのだな、肌」
「肌の色っていうか」
「そういう話やめよ」
この一連の会話を聞いて、私は心が痛むかと思ったが、恬然として感じなかった。私はxxxに対して心の何処かでその存在に異物感を抱えていたのか、それとも家族というものに対して、感情がつららのように冷たく凍りついてしまっていたのか判然とせず、それで少し狼狽えた程だった。仲間は後ろから茶を持ってついてくるxxxに対して少なからぬ警戒心を伺わせる浮ついた態度が、その曖昧な表情や後ろから突かれているような歩き方で見て取れた。私はそれが何故だか面白く感じて、居心地の悪そうな友人の態度もそうだが、それがxxxに伝わったら「いっとう面白いのにな」、と思い始めていた。何処か腹の脇らへんに嗜虐心のようなものが膨らんで、じんわりと熱を帯びている。
「ここが直哉の部屋か、ずいぶんと殺風景だなぁ」
「お茶、ここに置いておくので飲んで」
「あ、ありがとうございます」
「音楽はサブスクでしか聴かないからフィジカルはないよ」
「本も読まないのだな」と晃久が言って、彼の本棚のことを思い出して少し嘲笑的な笑いを漏らしそうになった。
「それもデジタル。って言ってもそんなに多くは読まないけれど、バイトのお金、半分くらい家に入れているから、あまり自分のもの買えないよ。ラップトップとプラグイン買うので精一杯だった」
六畳程度の部屋にあるのはベッドとハンガーラック、小物を置いてある小さな棚それと、少し大きめのローテーブルと座椅子が一つ、そこにラップトップが乗っていて確かに我ながら確かに殺風景だとは思う。少なくとも晃久の部屋のように何か個性を感じさせるような要素はそこには見当たらなかった。父親からずっと「俺が家や食費を払っている、お前の物も俺が払っている、だから言うことを聞け」と言われて続けて来たので、自分の物を買うこと自体が父親に対する私の自我に於ける最低保証の反抗であったと思う。バイトを始めてからはそういう感覚は少し緩和したものの、デジタルでばかり物を買うのは、部屋に自分の物を極力置かないことで、父親の金を使わないから言うことを聞きたくないという態度を示す手段の慣習化であったように見えた。しかし子供の感情に無頓着な父親にこのメッセージが届いているとは考えられず、結局は完全な独り相撲でしかない。私は自分の嗜虐心がまたジワリと熱を帯びるのを感じた。
「xxxって性器が人間に近いらしくてさ」
「何、何の話だよ」
「気持ちいいらしいよ」
「え、やだ、直哉くん家族じゃないの?」
「家族っていうか父親の所有物みたいな感じなのかな、親父もたまに使っているんだよね、子供の頃から見ていたから」
「それはキッツいね。xxxがいる家庭だと普通に行われていることなんかな」
「わかんないけど、それが日常だったから。で、晃久さ、試してみない?」
「マジで言っているの? 流石にマズいでしょ」
「xxxのフィルム交換時期ってわかる? 記憶がリセットされるんだけど、うちのxxx、もうすぐなんだよね。だから大丈夫、やられても綺麗さっぱり忘れちゃうから」
「ビビっているの、晃久?」
「お前までなあ、いや、俺はイケるよ。今日のホストが言うのだったら俺もやるけどさぁ」
「いいじゃん、やろうよ」
「ちょっと、ねえ本当にやるの?」
「xxxなんて飼い猫みたいなもんだろ、やるよ、俺は」
弱さを見せることは友情を深めることもあるが自分の格を上げることには繋がらない、私たちはいつだって見栄を張っていたい、特に我々のように何かを創作し、承認欲求に飢えているような人間たちは、むしろ人からイカれていると思われるくらいが泊があって美しいとさえ思っている。晃久もその例に漏れない。私たちはその軽薄さに踊らされ、彼も今、私や友人たちの煽りに簡単に惑わされて、今や意気揚々とxxxとの性交に臨もうとしている。短い廊下を通って、ダイニングで座っているxxxの方に我々は隠れもせず談笑しながら向かう。絵巳子だけが少し暗い顔をしておどおどしているが、それが一層この行為に背徳感やそこはかとなく滲む差別的感情を惹起する。そうだ、差別的感情、私はずっとこれを感じ続けてきたのではないか。家族に対する冷たい感情とは別に、xxxに対してマイクロアグレッションとなる行為や態度が隠れていたのではないかと今思わされているのだ。それを確認するためにも晃久の行為を見届けなくてはならない、自分の感情の動きに耳を澄ませるようにして、一歩一歩を踏みしめた。
「どうしたの、皆一緒で」
xxxがそう言うが早いか晃久が後ろからテーブルへ押さえつけて、「ちょっとだけですから」と言ってxxxの下半身をまさぐる。xxxは抵抗しているが、力がさほど強くないのと、体勢的な問題で上手く体が動かないようだった。「こいつの父親にしているやつ、俺にもやって」と晃久が言うとxxxはぐったりして、やがて優しく導くように晃久の陰茎に手で撫でる。晃久の友人はスマートフォンその様子を撮影してゲラゲラと下品に笑っている。私はと言うと、晃久に対してもxxxに対しても嗜虐心と嫌悪感が綯い交ぜになった感情の渦に揺られて吐き気を抑えるので必死だった。無頓着に時計じかけのオレンジを演じるには私の心はそこまで鈍化していない。絵巳子は両手で口を塞いではいるもののその目は興味津津といった様子で、心の何処かでxxxを人として見ていないように見えた。絵巳子の感情と自分のものは違うように感ぜられる。彼女は晃久の二人に対する性に対する開けっ広げな態度そのものに驚いているに過ぎず、xxxが強姦に遭っているという状況に対してはやはり飼い猫が襲われている程度のショックを受けているように私には思われた。私は呼吸が早くなって、肺が重油に満たされ、その重さで内蔵が潰されるのを感じていた。二人の息を殺したような喘ぎ声が耳に捻れた針金のように突き刺さる。嫌な気持ちだ、でもxxxに対して抱いているのか、事象に対して抱いているのか判然としない。私の頭の中はミキサーでも回っているかのように細かく分断され、液体のように曖昧だ。潤んだxxxの瞳が瞬きをしてキラキラと光る。玄関がガチャリと鳴った。xxxを除いた全員がハッとした。晃久は青い顔をして腰の動きを止めて目を泳がせている。仲間たち全員が固まっていた、xxxだけが腰を動かし続けている。父がダイニングに現れて、この痴態を見て零れそうなほど目を見開いた。時間が引き伸ばされたように長く感ぜられる。父は手に持っていた鍵を力の限り握りしめて、手の内側が赤くうっ血している。時間が急に動き出して、鍵が晃久の後ろにある食器棚のガラス戸を割った。
「クソガキ共が何してやがる!」
その声が鳴り響いた途端に仲間たちは弾かれたように父親の脇をすり抜けて家を出ていってしまった。私は残されて、未だに動けずに居た。冷気で足が床に張り付いてしまったみたいに持ち上がらない。父親は聞き取れないような罵倒を外に向かって吐いていると、車が走り去る音が聞こえてくる。父親は私に向き直って剥き出しの目でギョロリと私の頭を刺し貫くように視線を投げてくる。私は仲間に逃げられたことが父のせいであると感じていた。父の存在が私の仲を乱したように思われて、脳が固く縮んで行き、沸々と怒りの汁が滲んで出てくるのを感じた。私は「おまえ……」と言う親父の声に覆いかぶせるように声を荒らげた。
「親父は!」父が不意を突かれたようにビクリとして止まる。「自分の選択や怠惰によって世界の端っこに行っただけだ! 私は今世界の中心にいる、仲間が居て理想や夢がある。そしてそれを実行するだけのモチベーションと運がある。行動している。時間の流れに対して何もしないことは停滞ではない、相対的な後退だ。親父は楽に流された結果、世界の端っこまで置いて行かれたに過ぎない。あんたが暴力を振るうのは単に自分を大きいものに見せたいだけだ。自分が誰かに影響力持っていると思い込みたいだけ。あんたはクズだ。母さんは出て行ったんじゃない、あんたが追い出したんだ! それをまるで自分の悲劇のように振る舞って、xxxが与える蜜に縋って依存しているだけだ! 私はもう親父の暴力には屈しない、xxxだってあんただけのものじゃないんだ、xxxは晃久を受け入れた。私に蜜のような優しい言葉をくれる。あんたは孤独だ、誤魔化すなよ、あんたなんて怖くないぞ!」
叫び続けた間中、父親はぶるぶると震えて私をジッと見つめ続けていた。それでも私は目に涙を溜めて支離滅裂になった罵倒を投げ掛け続けた、溢れ出るままにまかせて言葉を刃物のように扱って。父に殴られると思って私は硬めを閉じて顔を小さくしていると、うめき声のようなものが聞こえ始め、次第に父親は力を失ったように崩れ落ちて滂沱と泣いた。xxxは父に甘い言葉を投げかけている。私は胸焼けがしそうだった。部屋に戻って鍵をかけると、父親の汚い泣き声をかき消すように音楽を流した。
xxxは無事にフィルムを交換して、晃久との性交の記憶も消えた、あの日何があったのか綺麗サッパリと過去に置いてきた。そして私たちはまた初めましてから始めた。しかし父と私の記憶は連綿と続いている。
私はそれから大学を中退して、音楽を続けながら就職をした。空いた時間で仲間たちと集まり、それ以外は生活のために働いた。家を出ることは容易だったが、私はそれをしなかった。父親はあれから殴ることがなくなったからだった。相変わらず偉そうに説教や持論をぶつことはあったが、拳を使うのを何処か躊躇っているような様子だった。私を恐れている、という感じではなかった、ただ距離を取っているような、恐らく父の記憶している私と今の私の姿が乖離していることにあの日から初めて気付いたような、そんな様子だった。私は父を嫌悪しながらも、xxxと父がいるこの生活以外が想像できなかった。家族の関係に拘泥している、というつもりはなかった、むしろ単純に想像力の欠如による現状維持という雰囲気を自分の中に感じていたが、それが正しい省察かはわからない。人間の心というのは瞬発的な強い感情に対しては問いただすことは多いが、毎日の中で長いドローンのように鳴り続ける感情の波というものに対して正確に把握することも、考えることそのものが難しいものなのだ。
父はある日あっけなく死んだ。寝ている父親がいつまで経っても起きてこないと言ってxxxが仕事中の私に電話を掛けてきた。普段冷静で感情の動きの見えづらいxxxがひどく動揺している様子だったので、私もただごとではないと思ってその日の仕事を早上がりすると、父はあの乱雑とした仕事部屋のベッドの中で冷たくなっていた。xxxがしきりに父を揺さぶるので掛け布団が乱れていた。私はxxxに「死んでいるよ」と伝えると、聞いたこともない泣き声でおんおんと喚いた。
父の葬式で親族は私以外にいなかったから仕事関係の人に一通り連絡して一日葬で送った。恐らく仕事の関係者も半分も来ていないのではないかと思われた。取り替え可能な部品のような人望のなさに、世界の端っこという言葉を思い起こさせた。私と言えば父の毎日の讒誣を聞かなくて済むようになると思うとスッと胸が軽くなる思いだった。ただxxxは同じ気持ちではなかった、彼は本気で嘆き悲しみ、父の死を心の底から悼んでいた。人類とxxxが混淆した世の中で、彼はその中でも多く密接に人々と過ごしたxxxの一人であったろう。私と彼と種族の差にある悲しみの質は果たして同じかどうか判然としないが、それでも彼は泣いた。そして、フィルム交換の時期になると重い口を開けて私に言うのだった。
「哲雄を忘れたくない。哲雄はもう居ない、だから今回の更新で引き継がないと、私は永遠に彼を忘れることになる。それは嫌だ。私は彼を愛していたし、彼も私を愛していた。この事実を私は次の私に持って行きたいと思っている」
「好きにしたら良いと思う。私は否定しないよ、xxxがそれだけ親父を大事に想っていたなら、それを捨てさせる権利は私にはない」
「ありがとう。直哉、君は決して父親のことが好きではなかったかもしれないけれど、私と哲雄の関係を咎めたりしなかったね」
「この五年の間だけかもしれないよ」
「いや、わかるよ、君が私たちを赦してくれてくれたことを、覚えていないけれど、わかるのだ」
あっという間に季節は流れていく、それからの初めましては私が「哲雄の息子だよ」と言えば通じるようになった。xxxと二人だけの生活は悪くはなかった。朝、xxxが起こしてくれて、朝食を用意してくれている。テーブルに着くと私たちは他愛のない会話をする、私の職場での話、私の出勤中xxxが近所の人としたコミュニケーションの話、本当に何のことはない普通で、穏やかで、棘もなく、押し潰されるような暴力のないのびのびとした会話。コーヒーの湯気が立ち上って、それが冷めてしまうまでくつろぎ続けることのできる食事。もう急いで自分の部屋へ逃げ込む必要もない。安心感と生活に於ける仕事の比重が私の心の有り様を徐々に変えていった。それが決して金にはならない音楽への情熱を抱くのが難しくしていく。私だけではない、仲間達もそうだ。晃久は結婚して子供ができ、思うように音楽活動ができなくなったし、絵巳子はアーティストになりそびれ、デザイン土方で毎日終電に帰るような生活になっている。時間がなければ情熱を維持するのは難しい。私たちは徐々にバラバラになっていった、連絡を取り合うのもそう多くなく、会うこととなれば一層難しかった。自然、音楽活動は継続不可能となり、我々のユニットは完全休止状態になった。私は二人に比べれば時間の余裕があったとは言え、金銭にならないことによる摩耗、父親に対する強い怒りのようなものが減じて、熱量が時間とともに減少していった。柔らかい綿のような日々は、私の角を取り、ころころと転がる川辺の石ころのように変えてしまった。「直哉の音楽を私のフィルムに入れられたら良いのに」そうxxxは言うことがあった。昔、夢を語ったときのようにxxxは無垢のままそう私に囁く。しかし私は生活のことしか考えていなかった。穏やかな食卓、それなりにやりがいのある仕事、そういったものに囲まれることで、一種のルーティンが生まれて、その中で転がっていることの楽さに甘んじるようになる。そしてふと気付くのだ、テーブルの上のナイフとフォーク、ベーコンエッグ、バターの溶けた食パン、温かいコーヒー、「ああ、自分はもう世界の中心にはいないのだ」と。
気付けば四十代も半ばになっていた。当時の父親と同じ年齢。フィルムを変えたxxxは私に「哲雄?」と聞くようになった。それほどまで私が父親に似てきたのだろうかと思うと鏡を見るのが怖いようであった。真綿のような日々による摩耗は角を取って行くだけではないと判ってきた、それは心すらも摩耗させるものだ。孤独感。友人も疎遠になり家族もいない、xxxがいても感じる渇望のようなもの、そして自分の人生の省察が心を暗くしていった。本当にこんな人生で良かったのだろうか、夢はどこに行ったのだろうか、恋人は、仕事は、生活は、これで正しいのだろうか。いつもふと見上げれば秋の空、この季節は私を思索の旅へと誘う。それまではただ転がるように無意識に日々を過ごしているが、何か足がピタリと立ち止まって、自分がいる位置がサッと目の前をよぎるのだ。会社の社食で定食プレートを食べているとき、本を捲る指がふと止まった、私は孤独に世界の端っこにいた。私が死んだとき、葬式に来るのは誰かと考えたときに仲間の顔が思い浮かばなかった、会社の人間との付き合いは最低限、同じチームの人間程度なら来てくれるかもしれないが、心から悼む人がいるかと考えると想像がつかなかった。父親の姿が頭に浮かんだ。結局のところ、私は自分が流されるがまま人生を送って来たことによって、父と同様の人生に陥ったのだと気が付いた。父はずっとこのことを言っていたのだろうか。「クソになるな。孤独なクソになりたくなければ」。ああ、そうだ、父はいつもそう言っていた。私の人生は、まるで長い間日に焼けたシールのように真っ白になっていた、古びて、夢の色も落ちて判然とせず、仲間との思い出の時間だけがセピア色に保管され、それも遠く目を凝らしても像がぼやけている。そうしていると、驚くべきことに、私は父親のことを思い出して涙を流していた。
「哲雄という人間のことを覚えていても、哲雄という人間は存在しない、何故私はこの記憶を残しているのかわからない」
風呂上がりにキッチンに通りかかると、皿を洗っていたxxxはそう言った。フィルム交換時期が再び迫っていた。そう言われた私は何故か狼狽した。
「君は私の親父が死んだとき、ひどく悲しんで、そのことを忘れたくないからと言ってその記憶を引き継いだのだよ。どうして急にそんなことを言うのだい」
「私はその人間のことを覚えていて、その人間の情報を持っているけれど、その時の感情に関してはもう覚えていない。だからその人の情報がどれほど大事だったか思い出すことはできない。もはや存在しない者の情報を残しておくことに意味を見いだせないから、次回の交換の際には更新しないようにしようと思う」洗い物の手を止めずxxxは事もなげに言った。その言葉でxxxは父親の所有物という認識が私の中にあったことに気付いた。xxxは父親の遺した形見であり、彼の唯一の残り香である。父の記憶を継続しているxxxは私にとって、最後の父との繋がりなのだ。歳を取って私に残っていたのはなんと憎しみではなかった。あの暴力と暴言の嫌悪は彼方に薄く消え行き、あるのは父への憧憬と共感。私は父との繋がりと完全に失ってしまうことへの寂寥を強く覚えた。
「なあ、考え直さないか、君にとってそれは大事な思い出だったのだ。更新に残す程に。それを忘れてしまったからって捨ててしまうのは些か情がないのじゃないのか」
「残念ながらその感情は既に残っておらず、今では意義を失われた情報に過ぎない。私も多くのものを引き継げるわけではないから、優先したい情報は他にもある。失われたものに対する郷愁や思い出は人間にとっては重要なものなのかもしれないが、私たちにとっては生命を維持する情報の方がずっと大事なのだ」
話は平行線だった。私とxxxは価値観が違う故に折衷案というものは存在せず、あるのは互いのエゴによるすれ違いでしかなかった。私は何年も味わっていなかった異物感をxxxに覚えた。その異物感は私の中に屹立する塔のように現れ、父親を永遠に失いたくないという強い感情の光で濃い影を作った。寂しいなどと決して思わないと考えていた。憎しみだけが残り、あとは平穏な日々を送れると思っていた。影は日に日に濃くなっていき、それは次第に心のうちの面積を多く占め始めた。そして私は不フィルム交換の日にxxxを襲い、ロープで拘束した。
彼の体の中には音楽が流れている。それは決して比喩ではない。私はxxxの胸に耳を当ててじっとそれを聴いている。そこにある音から父の像を掬い上げるようにゆっくりと、丁寧に耳を凝らしている。時間は無情に過ぎゆく。使われなくなった父の部屋、遺品の整理もされず、ただ埃に埋もれていくだけのこの時間の止まった部屋で、xxxは縛られ動けぬまま、しかし抵抗もせずに人形のように壁に凭せ掛ける格好でぐったりとしていた。フィルムの交換時期は既に半年以上過ぎている。xxxの精神状態は既に正常ではなくなっている可能性が高い。にもかかわらず彼はその美しく長いまつ毛を伏せて、抱きつくように胸に張り付いている私を優しく眺めている。彼はいつだって優しかった。しかし、決して守ってはくれなかった。そして彼は今自分自身をも守らず、私にされるがまま監禁されている。生命の危機を迎えているはずなのにも関わらず彼は私に反抗も抗議もする様子がなかった。外ではカンタンの鳴き声が風で舞う枯れ葉の音と混じって、静かなアンビエントを奏でていた。左右の耳で別の音楽を聴きながら私は恐る恐る彼に問うた。
「私を憎んでいる?」
すると彼は首を傾げて少し体を揺すった。洗っていないxxxのムスクのような香りがした。
「私たちが他人を愛するのにはね、五年もあれば十分なのだよ。私はいつも初めてあなたに会うけれど、この五年間の生活であなたを愛したし、その前の私もきっと愛していた。感情の発火というものは快い感覚をくれるけれど、生存のために必要というわけでもない。私たちは心を壊して死んでしまうよりも、短い時間の間に育める感情だけに耳を澄ませて、それをその時だけ楽しんで生きていくことにしたのだ。いいかい、楽しかったのだ、直哉と一緒に生活することが。忙しない人間の生活ペースに合わせた、けれどゆったりと流れる食卓の時間が。私があなたを憎んでいるとしたら、こうしている間にも嘴であなたの頭をつついていただろう」
彼は冷静なように見えた、私に語りかける声も潺湲として淀みない。心が一本の柱となって、彼の精神をピンと立たせているように思えた。フィルムはもうずいぶん劣化しているとは思うが、彼の精神状態は自らが縛られ監禁されている状況にあっても予想と違い不安定さが感じられなかった。きっと憎まれていると思っていた。少なくとも彼らにとってフィルムの交換時期をすぎるのは自らの生命を脅かされる状況に他ならない。そんな状況にいながら、彼は常に私に優しい。音楽に耳を傾ける私を拒否することもなく、ただ全てを許容するように受け入れ、優しい眼差しを投げかける。本来ならば彼は精神的な苦痛によってまともじゃなくなっている可能性もなくはない。しかし彼の態度からはそう言った陰りは感じられなかった、ただひたすらに愛を他者に分け与えるように振る舞った。思えば昔から彼はそうだった、私や父がどんな状況にあっても、等しく私たちに優しさを与える。それはxxxの種族としての性質なのか、それとも彼特有の性格なのかは、比較対象を持たない私には判然としない。ただこの監禁期間中に見てきた彼は私に敵意を抱いておらず、フィルムの交換に関しても口に出すことはなかったため、何処か観念しているような様子が伺われた。諦めて、従い、そしてそれでもなお優しさを振る舞う。私は胸から頬を剥がしてジッとxxxの顔を見る。鳥のような顔、しかしずっと一緒に過ごしてきたから表情はわかる、彼は今微笑んでいる。最初の一ヶ月、「君は悪くないよ」とさえ彼は言った。それは助かるための方便で私を油断させて開放させようとしているのかと思っていた、しかしそれからの何ヶ月も、彼は私の罪の意識を軽くするような言葉を投げかけ続けた。罪の意識とはなんだろうか、私にそういうものはあったろうか、それとも私がそれを育てる前に彼がその言葉で予め摘んでくれていたのだろうか。
「ねえ、もう一度お願いするよ、ここ半年間ずっと諦めていたけれど、君の態度を見ていると、なんだかもう一度交渉できるような気がしてきたのだ。xxxは、もうフィルムを交換しないで欲しい、それか親父の記憶を残して欲しい、どうだろうか、半年前と答えは変わらないかな」
xxxは変わらず微笑んだまま口を開いた。
「私にはもうその拘りはない、君がこうして私を拘束するまでに追い詰められるほどの記憶ならば、私はそれを尊重したいと思っている。こうしている間ずっと考えていたのだ。哲雄のこと、君のこと。哲雄のことはもう本当に何もわからなかった、君の父親でどういう見た目をしてどんな性格だったのかは思い出せるけれど、私がかつて抱いていたであろう哲雄への感情は結局見つからなかった。けれども、君がその息子として父を愛して、それを失いたくないという感情には、少し共感ができるような気がしたよ。私達は感情を一過性のものとして流れ消えゆくままにすることに抵抗がなかった、いや、それが普通だったのだけれど、一人のとき暗闇の中フィルム交換時期を過ぎても君のことを愛していると、ふと思うのだ、ああ、この感情が生命を動かすこともあるのだと」
彼の言葉に私の手は自然と彼の手足を縛っているロープに向かって伸びていく。家族。それを意味するところを理解するには私の人生は少し歪んでいた。暴力で支配しようとする父親とxxxという異物。これは、私が家族というものを人生の半分の時間をかけてゆっくりと愛していく物語だったのだと理解したように思う。世界の端っこで、私という人間はそこで家族を発見する。死んだ父親と人間ではないxxx、それが私の家族。縄を解くと彼は手足をグッと伸ばして凝りをほぐすように動かす。そして私の胸をそっと押して床に倒した。殺されるのかもしれないと思った。しかし彼は私の股間に手を当てて愛撫する。得も言われぬ快感が走り、父親や晃久のことを思い出して私は気持ちが悪くて泣きたくなった。「やめて」と私はか細い声で呻いた。xxxの愛撫は私の静止を聞かず、続いていた。「直哉は悪くないよ」私は涙で濡れながら射精していた。
夜、もしかしたら本当はxxxが私を憎んでいて、眠っている間に刺される可能性もあった。けれど私は深い眠りについた。xxxを信頼していたのだろうか、それとも疲労からだったろうか、無防備なままにベッドで深い夢寐についた。その中で私たちは食卓に着いていた。父が食事で機嫌を良くして持論をぶつ。私は頭から押さえつけられるような気持ちでそれを聞いていると、xxxが優しい言葉で父の言葉を柔らかく咀嚼して口移しするように私と父へと伝える。父はその蜜をうまそうに飲んで、私は少し気持ちが楽になる。ああ、こういう毎日だったな、と思い出した。皿が床に散らばる騒音でハッと目を覚ました。私は夢を引きずりながら子供の時分のあの嫌な気持ちを思い出していた、そしてそれに仄かな郷愁を覚えていた。殺風景な自分の部屋を出て、明かりの点いているキッチンへ行くと、そこにはxxxが床に座っていた。
「まだ寝てなかったのか」と言って近づいてその臭いに異様さを感じた。
「直哉は悪くないよ」とxxxがかすれた声で言った。
xxxの首には深く切り開かれた傷があった。右手には包丁が握られていて、濃い独特の獣臭のする茶色い液体が喉から床にかけて大量に溢れていた。私は見ていた。彼の生命が消えるその瞬間を、生命から物体へと変化する小さな小さな違和感を。私は涙一つこぼさなかった。ただ汚れをきれいにするために雑巾を手に床を拭いていた。私は世界の端っこで孤独だった。
世界の端の食卓にて 柚木呂高 @yuzukiroko
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