第7話 笑顔

「シーラ、水よ。飲んで……」


 水の入った瓶を持ってシーラの隣に座り差し出すが、またしても首を横に振る。

 拒絶を無視して、口元に瓶を近づけていく。

 だけど……私の行動は許されなかった。


「何をなされているのですか? これはお嬢様に用意された物であって、シーラの為ではありません」


 水が入った瓶は私の手から離れ、宙を舞い明かりの届かない暗闇に吸い込まれていた。


「あっ」


 メイドに邪魔をされ、私はその行動の意味が理解できなかった。彼女は無愛想でありながらも、シーラとは親しい間柄だと思っていた。

 そう、思っていた。


「なんで……どうして……」


「無礼な真似は……やめなさい」


 シーラの言葉に前と同じように言葉もなく私に向かってただ頭を下げている。

 スカートは力いっぱい握りしめられ、形だけの謝罪。

 私なんかの言葉より、シーラの言葉が彼女には大きいのだと伺える。だけど、私には理解できない。シーラはなぜ、どうしてそこまで……死のうとする私を構う必要がある。


「申し訳ございません、お嬢様」


 頭を下げる彼女から溢れるものに私は見ていられなかった。

 シーラの覚悟。彼女の覚悟。

 これ以上、そんなものは見たくないんだよ。


「私なら大丈夫です。夜も更けておりますので……お休みになられてください」


 ゆっくりと手を上げ……力なく、そのまま落ちる。まるで、あの時のように……喋るだけでも辛いはずなのに、私のためにメイドを叱り。私には必死で笑顔を向けてくる。

 どうしてなの?

 何でそこまでして私なんかを?


「シーラ……」


「はい。アストレイナ様」


「ごめんなさい……本当にごめんなさい」


 ここ数日一緒にいても本気じゃないと決めつけていた。

 何度も死のうとする人間に、こんな子供の戯言に本気で付き合おうとするなんて誰が考える?

 それに……あの言葉の意味。もし本気の意志がそこにあるのなら……シーラは自分の死と引き換えにとでも思っている。


 冗談じゃない。


 私が死ぬのはいいけど、シーラを死なせたくはない。シーラに限ったことじゃなくて、関係のない人を巻き込むつもりはない。

 今なら……私に残された道は用意されている。

 この世界を楽しむつもりはない、色々と面倒なこともあるかもしれない。

 その時を迎えるまで、私はもう少しだけ生きるしかない。


「今すぐに変わりの水を……持ってきて」


「かしこまりました」


 私は自分が心底嫌いだ。分かっていても何かにすがり、見ようとはしてこなかった。

 目標もなく、ただ流される毎日。月に一度だけ体を重ねてもそこに幸福の欠片すら存在しない。

 『いつか一緒に暮らせるといいな』そんな言葉を投げかけられ、偽りだと感じながらも今の生活を抜け出そうとはしなかった。


 本当は分かってた。

 現実を受け入れたくはなかった。

 自分の存在全てを、自分で否定したくなかった。


 職場ではいいように利用され、男には給料の半分を手渡すときだけ必要とされる。

 自分はちゃんとやれていないと認めたくなかった。せっかく託されたものがこんなものだったなんて、私は認めたくなかった。


 生きてきた時間の全て無駄だと認めきれず、生きていた。

 そんな生活はとても脆いもので、小さな亀裂は一瞬にして大きくなり全く何も残っていない事実だけ突きつけられた。


 選択肢は他にもあったのかもかしない。

 でも、最悪な選択を理解して……私は、全てから逃げ出した。



 飛び降りたあの時……落ちる感覚に思い出したのは、幼い頃の記憶。

 幸せだった時間が終りを迎えた日。


『ごめんなさい。ユキナを見てあげられなくて』


 それが母の最後の言葉。

 差し出されたあの手を私は握ることもできなかった。

 さっきのシーラの手があの時の記憶を呼び覚ます。


 私が死ぬのはどうでもいいこと。だけどシーラはそんな事を望んでいない。この子の両親だってそれを望んではいない。

 だから、見つけよう。




 シーラを助けるには、私が生きることを決意すれば今ならまだ間に合うかもしれない。

 アストレイナのために用意された水。これをシーラに水を飲ませるのなら……私が先に飲むしかない。

 もう一度差し出しても拒絶され、眼の前に居るメイドに奪われる。


「先程と同様に……」


「分かってる」


 コップに入った水を受け取り、躊躇うことなく飲み続ける。

 こんな状態でも久しぶりに飲む水が、とても美味しいと感じる。体の隅々へと広がる感覚が心地いい。

 空になったコップを手渡し、メイドに頭を下げた。


「飲みきったわ。シーラにもお願いします」


「は、はい。かしこまりました、お嬢様」


 扉の奥に用意されていた水差しを手に取り、シーラを抱きかかえ水を与える。

 ゆっくりだけど、水を飲み始めたシーラを見てこれで良かったんだと納得するしかない。

 私のためにしてくれたのだから、生きることをもう少し前向きに考えよう。

 それに、彼女の泣き顔を見れただけでも良しとするか。

 

「ありがとう……シーラ」


 そう言って、私は彼女の隣で横になって背を向け瞼を閉じる。

 頭の上に乗せられた手が、嬉しくて少し恥ずかしい。

 でも、寝るには心地よかった。




「おはようございます」


 その言葉に目を覚まし、隣りにいるシーラはまだ寝ているようだった。扉の前にあのメイドが立っていた。

 シーラの胸に耳を当てる。聞こえてくる心音に、涙が出そうになる。

 生きていることが、嬉しいと感じる。私は何度も首を振り、やるべきことを先にする必要があった。

 自分の頬を叩き、気合を入れる。


「起きなさい! シーラ、起きて! 目を開けなさい!」


 痛くない程度に軽く頬を、額を叩く。ほっぺをむにむにとつねっているとようやく目を開け始めた。


「アストレイナ……様。おはよう、ございます。それで……何を?」


「うん、まぁ、気にしないで。とにかくおはよう。さぁ、朝ご飯食べるわよ」


 私がそういうと、シーラは目を大きく見開いていた。

 そう言って、私はゆっくりと歩いていく。水を飲んだだけで回復するはずもない、それはシーラも同じ。

 食事を持ってきたのは、昨日私から水を取り上げたメイド。


「夜にもいいましたが、こちらはお嬢様のためにあるのです」


 泣き腫らした顔だけど昨日と変わらず愛想の欠片もない。

 それにしても、同じようなことをするとでも思っているの? 一つしか用意していないのが腹立たしい。

 小さな器にの中にはいろんな具材が細かく刻まれている。数日何も口にしていないことを考えられているようだった。これまでに何度も作っては、食べなかったのだから作ってくれた人にお詫びをしないといけないよね。


「お、お嬢様」


「大丈夫。同じことはしない」


 シーラに近づいたことで、私の前に立ちふさがる。

 だけど、私の行動に信用がないのも当然のこと。器の中に添えにれたスプーンを取りそのまま口の中に入れる。

 薄い味付けなのだろうけど、今は十分すぎるほど美味しく感じられた。


「これで分かったでしょ。いいからそこをどいて」


 たったこれだけのこと。

 それなのに、シーラはまた嬉しそうに涙を流しながら笑顔をみせていた。


「なかなか美味しいわよ。だから……」


 一口、二口と口に運び、飲み込んでいく。

 しかし、何故か照れくさい。

 頬が少しだけ上気しているのが分かってしまう。


「貴方も食べて……私も食べたから」


 シーラの口に少しだけ掬ったスープを近づける。


「それは、ダメです。アストレイナ様に用意されたものですから」


「この一口だけでいいから……お願い」


 ようやく頷きスープを口に運んだ。

 彼女のお陰で私はこれからを生きていくことになる。本当に命を賭けてまで、私……アストレイナに生きていて欲しかったのだと思う。

 あのまま私が死んでしまえば……シーラやアストレイナの両親を、あの頃の私にするところだった。

 過去の出来事が、転生したことでなくなったわけじゃない。


 挫けることもあるかもしれない。

 また閉じこもるかもしれない。

 今は、これで良かったと思うことにしよう。


「美味しいです」


「シーラ、ありがとう」


 器に口をつけ、飲み干していく。

 口から溢れたスープは首を伝っていくことも気にせず、スプーンで残った具材を口にかきこむ。

 きれいに食べ終えて袖で口元を拭う。


「私はこれを食べたのだからもう一つ用意しなさい」


「かしこまりました」


「あの……アストレイナ様。はしたないです」


 そんなシーラの言葉に、私はこの世界に来て……初めての笑顔を見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

転生しましたが、悪役令嬢の婚約破棄とかどうでもいいから、とりあえず殴ってもいいですか? 松原 透 @erensiawind

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ