想い出の彼女

鷺島 馨

想い出の彼女

「あの……、私のお父さんになってください」

 通り沿いの家の庭に咲く金木犀が香る深夜の路地を歩いている俺の背後で女性の告白?する声が聞こえてきた。緊張の余り震えているその声が今の時間とあまりにも不釣り合いに感じられる。

 そもそも、冷静に考えてみて欲しい。深夜の路地で援助交際の申込みって聞かされる方にとっちゃあ結構気まずい。

 聞く気がなくても周りは静寂に包まれていて、返事を盗み聞きしている様な気分になる。さっさとこの場を離れようと歩調を速める。

「あっ、あの……」

 背後から聞こえる女性の声は随分遠くなったけど、どうもその子の申込みは上手くいってないみたいだ。

「がんばれ」

 完全に他人事だからそう呟きを残して家路を急ぐ。

「あのっ!」

 深夜の住宅街という事で極力抑えていると思われる声量で女性が叫んでいる。

 くっそ、こちとら残業続きのせいで二時間前に振られたばかりなのに羨ましいこって。


「あ〜、早く帰って飲み直そう……」

 一方的に振られた事を思い出してむしゃくしゃする。


◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆


 次の日も俺は残業。

 夕方から降り始めた雨はその雨足を深夜に向けて強めていたが、駅を出た頃には随分弱くなっていて傘をさすか悩む程になっていた。

 面倒くささから傘をささずに歩く。うっすらとモヤがかかって街の明かりが滲む様はいつもの景色を幻想的に見せる。

 昨日ほど遅く無いとはいえ家に帰り着く頃には日付が変わるくらいの時間。

 いつもの通勤路をつかれた足取りで帰っていると街灯の明かりに照らされた人影が佇んでいた。シルエットからすると女性。こんな時間に女性が一人で街灯の下にいるのは軽くホラーだ。

「関わらない様に迂回するか」

 君子危うきに近寄らずって言うしな、何より深夜にややこしい事に関わりたくない。


 その次の日も帰り道の街灯の下で人影は確認された。

 普段この時間に人通りが無いだけに三日目となるとちょっと怖い。

「すいません、ちょっと良いですか?」

「えっ?」

 あ、職質されてる。

 警官もいるのなら気にせず脇を抜けて行こう。

「お勤めご苦労様です」

 警官の脇を通る時に声をかける。

 チラッと見えたのは制服姿の女性、この辺では見かけない制服。

「あっ、待って、お兄さん!」

「貴方の関係者ですか?」

 警官に呼び止められたから仕方なく立ち止まり振り返る事なく答える。

「いえ、知らない子です」

「「…………」」

「それではついて来て下さい」

「はい……」

「俺、帰って良いですか?」

「ご協力ありがとうございます。どうぞお帰りください」

「失礼します」

 警官と会話をしているとタッと駆け出す足音。

「あ、きみ、待ちなさい!」

 どうやら女学生は逃亡を図った様だ。まあ、俺には関係ないし帰ろう。


 四日目の晩、今日の帰宅時間は22時。ここ最近では早い方。

 昨晩、職質を受けた女学生も流石にいない。

「っていうか、ここの所の不審者はあの子だったのか?」

 深夜の告白を聞いてから四日。

 俺自身素行が良かった訳じゃないから、学生の頃、深夜に外出した事くらいある。まあ、一人でって訳じゃないけど。

「あの頃は楽しかったよなあ……」

 思い出されるのは先輩や仲の良いグループと連んで深夜の遊びに興じていた時の事、先輩の車にぎゅうぎゅうに乗り込んでバカな事を言い合って過ごす毎日は楽しかった。

「そういやあ、あの子に似てたなぁ」

 不審者の女の子、その雰囲気が昔連んでた仲間の一人に似ていた様に思う。

 ほんとの意味での俺の初恋の相手だったけど、ある時を境にその子は学校に来なくなったと聞いた。恋人でもない俺が彼女の家を聞いて訪ねて行く事も、連絡を取ることもできないまま卒業してそれっきり、同窓会でも話題になる事はなかった。

 まあ、悪い噂はいくらでも出てきたけど信じたくなくて無視してた。

 無視してそのまま忘れてた。いや、忘れようと努めて忘れた気になっていた。だからあの女学生を見てあの子の姿が思い浮かんだ。


◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆


 翌朝もいつもと変わらない時間に家を出る。

 午前6時前、父の転勤に母がついて行き実家の管理を言い渡されたのが一年前。それ以来俺は借りていた部屋を引き払い一時間以上かけて通勤している。

 そのうえどれだけ頑張っても上達しない料理の腕前に見切りをつけ、朝食は駅前のコンビニで済ます事にしているのでこんな時間に出勤している。職場の最寄りに部屋を借りていた頃はもっとのんびりできたのだが、それも今となっては懐かしい。

 新聞配達の学生と挨拶を交わし駅へと向かう。

 いつもの通勤路、特に変わった事も無く一日が始まる。そう思っていられたのは路地を曲がるところまで。出会い頭に女の子が俺の胸に飛び込んで来た。

「あ、ごめんなさい」

「いえ、こちらこそ。大丈夫ですか?」

「はい、受け止めていただいたので大丈夫です。あっ!」

 そう受け答えしてきたのは不審者。もとい、思い出のあの子に似た女学生だった。鼓動が高鳴ったのは不意に女子と接触した事だけが原因じゃ無いような気がした。

「あの、お話しを聞いてもらえませんか?」

 切羽詰まった表情を浮かべる女の子は思い出のあの子に似ている。とてもパパ活をする様には見えないけど、今時の子は見かけによらないって言うしなあ。

「あ、間に合ってます」

「えっ?」

「パパ活でしょ?」

「えっ!?ち、違います!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ女学生。その声は周囲に響く、幸いにも見える範囲に人影は無い。もし誰かいたら面倒な事になる所だった。

「俺は君の事を知らないと思うんだけど?」

「はい、でも私は知っています。加賀野井かがのい 雪弥ゆきやさん、12月12日生まれの33歳。竹村たけむら 亜香里あかりを覚えていますか?」

「あ、ああ……、覚えている……」

 不意に出てきたその名前に心臓が跳ねる。忘れる事ができない女性の名前。

「私は竹村 美雪みゆき、竹村 亜香里は私の母です」

 どことなく似ているとは思っていたが娘だったのか。でも、この子は何故、俺を訪ねてきた?

「お、お母さんは、元気にしているのか?」

 学校に来なくなって以来消息の途絶えた彼女の娘が俺を訪ねてきた事も気になるが、それよりも彼女の事が気になった。

 俺の質問に対して美雪ちゃんは表情を曇らせる。

「母は先月、亡くなりました……」

「そうか……」

「それで、あのっ」

「あっ、ごめん。電車に間に合わなくなるから」

 なおも話を続けようとする彼女の言葉を遮る。その表情は端的に言って絶望を浮かべていた。

「俺にどうしても告げたい事があるなら駅前のファミレスで待ってて。多分22時には帰れると思うから」

「はい、これ……、お母さんからの手紙です。読んでください……」

「わかった。じゃあ」

 俺は美雪ちゃんから手紙を受け取ると駅に向けて走った。今日は朝食抜きになりそうだ。


 昼休みにコンビニで買ったおにぎりを食べながら手紙を読む。そこには亜香里さんが学校に来なくなった理由、これまでの経緯、美雪ちゃんの面倒をみて欲しいというお願い、最後にあの頃、彼女も俺の事を想ってくれていた事が綴られていた。手紙と同封されていたのは少し色褪せた古い写真。わざわざ現像して持っているなんてな。

 そこに写っているのは学生時分の若い二人、俺と亜香里さんが照れくさそうな表情を浮かべている。裏を見ると二人の名前と相合傘が描かれていた。

 それを見ると懐かしい気持ちと、彼女への想いが蘇ってくる気がした。

「はあ、どうすっかなぁ……」

 亜香里さんに頼まれたとはいえ、俺が美雪ちゃんの面倒を見るいわれはない。しかし、事情を知るとどうにも捨て置けなくなっている自分がいる。

 美雪ちゃんの置かれている環境は切羽詰まっているのだと思う。

 冷静に考えれば施設に預けるのが最良の手段だと理解している。それでも、亜香里さんの願いを叶えてあげたいと思う自分がいる。

 終業までの間、俺は悶々とした気持ちで今後の事を考え続けた。


◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆


 予定した22時より少し早くファミレスに着いた。

 全国展開された有名なチェーン店で俺が学生の頃からあるお店。

 美雪ちゃんが来てなくても遅い夕飯にすれば良いかという思いもあってここを待ち合わせ場所に選んだ。

 店内に入ってすぐに「空いているお席にどうぞ」と案内された。入り口が確認しやすい席をと思って店内を見ていると彼女の姿を確認した。向こうも気がついた様でこっちに向かって手を挙げている。

「お待たせ」

「いえ、すみません。わざわざ……」

「いいよ、晩飯まだだったからさ」

 席についてメニューに目を通し、焼肉定食を注文する。

「手紙は読んだよ」

「はい……」

「美雪ちゃんは、その、知らないヤツのところで暮らせるのか?」

 単刀直入に聞く。これで無理だというのであれば施設に預けて後見人にでもなるくらいの事しかできない。

「それは……」

 彼女が口を開いたところで注文していた料理が届く。この店も例に漏れず配膳ロボットによって運ばれて来た。

「ごめん、話の前に食べさせてくれるか?」

「はい」

 特別美味い訳じゃないファミレスの食事。それを食べていると向かいからぐ〜という音が聞こえてきた。

「もしかして、お腹空いてる?」

「……はい」

「すいませ〜ん。メニュー持って来てもらえますか」

「あっ、そんな」

「良いって、奢るから好きなものを頼みな」

 恥ずかしげに俯いていた彼女はパッと顔をあげる。それに、腹を空かせた子を前に俺だけ飯を食うのも気まずい。

 彼女はオムライスを注文した。食べている仕草も亜香里さんによく似ている。

 そういやあ、俺達もよくファミレスに行ってたなあ。夜遅くにファミレスでご飯を食べている様子は昔の事を思い出す。

 微笑ましく眺めながらも食後のドリンクを注文する。俺はホットコーヒーを頼む。美雪ちゃんはドリンクバーを注文済みだった。

 彼女の食事が済んだところで本題に入る。

「それで、さっきの話だけど」

「はい、ご迷惑だとは思うのですけど私は雪弥さんのお世話になりたいです」

「ホントにそれで良いの?俺が悪いヤツかもしれないよ」

「本当に悪い人はそんな事を言わないと思うんですけど。それに、お母さんが好きだった人の事を信じたいと思います」

「美雪ちゃんの状況を聞いてもいいかい?」

「はい、聞いてください……、私は母が17歳の時に産まれました。私と母はこれまで二人で生活してきました。あ、離婚したという訳じゃなくてですね……、その、私は父親の事を何も知らないんです……。これを見てください」

 テーブルの上に出されたのは発行日付は去年のものだが戸籍謄本だった。母親の欄には亜香里さんの名前があるのだが父親の欄は空白。

「本籍は今暮らしているところになっていて母の親戚もどこに暮らしているか分かりません」

 ここまでの事で俺は確信してしまった。亜香里さんは望まぬうちに美雪ちゃんを孕ってしまったんだろう。それが理由で高校を辞めたんじゃないか。でも、それなら家族は彼女を助けなかったのか?そこが分からない。どういう形であれ、産まれてきた孫が可愛いんじゃないのか?

 俺の親戚にもデキ婚はいる。最初は色々言っていても実際に生まれてきた子供を見ればそれまでの事が嘘の様にデレていたがそういうものじゃないのか?

「母は私を女で一人で育ててくれました。高校に通えたのも色々手続きをしてくれたからです。でも……、今年の初めに仕事先から病院に運ばれた事がありました。その時は『年末年始が忙しくて疲れちゃった。ごめんね』と言っていたんですけど……、本当はその時には……、治療の施しようが無い程に病状が悪化していたんだと思います。時々、帰るのが遅くなる事もあって、それに薬も色々飲む様になっていました。私の前では心配をかけない様に無理をしていたんだと……、思います」

 言葉と共に涙が溢れついには嗚咽に変わる。俺は彼女が落ち着くのを待つ。

「すみませんでした」

「いや、大丈夫だ」

「えっと、それで春になって母にこれ(戸籍謄本)を見せられました。父親の欄が空白という事に驚く私に母は『あなたの父親はいません』と言いました。祖父母とも連絡をとっていない事は理解していました。『もしも私に何かがあった時はこの人を訪ねて、この手紙を渡しなさい』と言われました」

 そこにあったのは俺の顔写真、裏にはうちの近所の地図が描かれていた。

 これで美雪ちゃんがあそこにいた理由も俺の事がわかった理由も分かった。それにしても、俺あんまり変わってないなあ。

「雪弥さんに学生の頃の面影があって良かったです。でないときっと私は雪弥さんと出会えなかった。と、思います……」

 真剣な表情でじっと俺を見つめてくる彼女。うっすらと開いた唇から告げられた言葉に俺の思考はフリーズした。

「雪弥さんが私のお父さんなんですよね?」

 きっかり数分フリーズしていた様な気がする。目の前でヒラヒラと振られる彼女の掌にハッとした。

「あ、悪い……」

「いえ、それで雪弥さんがお父さんなんですよね?」

 ふぅ〜っと息を吐いて答える。

「残念だけど、俺と亜香里さんはそういう関係じゃないよ。彼女の事は好きだったけど、俺の片想いだと思っていたから告白もしてないんだ」

 昼間にあの写真を見るまでは彼女が俺の事を想っていてくれたなんて気づきもしていなかった。そのくらいあの頃の俺は周りが見えていなかったんだろう。

 だから、美雪ちゃんが思っている様な関係じゃない。

 そうだった方が彼女にとっては良かったのかもしれないが、父親と暮らすという意味でも、母親と自分を捨てた相手として恨んでいくにしてもだ。

「……そうなんですね。じゃあ、お母さんとは、ただの友人だったんですか?」

「そうだな、片想いだったとはいえ、連んでいた仲間であり、友人というのが一番しっくりくるかな」

 俯き、思案に耽る彼女を横目に緩くなったコーヒーを啜る。


 亜香里さんも時々こんな風に俯いて思案げにしている事があったな。

 俺が彼女について知っている事なんてそんなに多くない。

 亜香里さんとはバイト先で知り合った。

 近隣の女子校に通っている事。親に内緒でバイトをしている事。それと同い年だという事。趣味も知らなければ家族構成も知らない。そんな事を知らなくてもバカ言って一緒に騒いでいればそれだけでよかった。

 そのうちに連んでる女子の中から先輩と一夜を過ごした(男女の意味で)という子が出てきて少しギクシャクした関係になった奴もいた。

 まあ、単にその子の事が気になっていたヤツが僻んで妙な事を言い出しただけだったんだけど。同意の上でそういう関係になったんであれば周りがどうこう言う必要はないと思うんだけどな。

 でも、この一件の後からだったな俺が亜香里さんの事を異性として意識し始めたのは。ただ、どう思われているのか分からなくて告白する勇気が持てなかった。だからずっと片想いしてた。一緒にバカな話をして笑っていられる事が楽しかった。

「彼女と最後に会った時もそうやって憂い気に俯いていたな……」

「えっ……」

「ああ、昔の事を思い出してた。亜香里さんと最後に会った時も彼女は今の美雪さんの様な憂いを帯びた表情で俯いていたなと思ってね……、きっと何か思い悩んでいたんだと思う。誰にも頼れない、そんな悩みを抱えていたんだと今になって思うよ……」

「……私、お母さんに、似てますか?」

 どんな意図を持ってその言葉を俺に向けたのか、そんな事は俺には分からない。だからこそ思ったままの事を答える。

「そうだな……、雰囲気は、似てる。亜香里さんの方がもっと大人びた感じだったけどな」

「酷いです……、そこは似てるだけでいいです」

「そうか、悪いな」

 ここまで会話をしてふと時計に目を向けると23時前。流石にこれ以上はまずいな。美雪ちゃんがドリンクを飲み干すのを待ってから訊ねる。

「それで、美雪ちゃんはどうしたい?俺の事を父親かもしれないと思って頼ってきたんだろう?」

「そうですけど……」

 亜香里さんからは俺を頼れと言われているが赤の他人の世話になる事に不安もあるんだろう。ここは彼女に助け舟を出すべきか?

「まあ、俺としても好きだった亜香里さんに今も頼られるってのは悪い気がしないっていうか……」

 うわっ、自分で言っててキモイなこれ。

「判断がつかないなら、お試しで今日うちに泊まるか?」

「えっ!?…………はい」

「よし、なら行こうか?」

 伝票を持って先にレジへ向かう。その後をトトっという感じで彼女がついてくる。レジを打つ二十歳くらいの女性は美雪ちゃんを見て俺の顔を見て少しだけ唇の端をあげる。あえて注意しないが、お前が考えてる様な事は一切無いぞ。

 ファミレスの外に出るとふんわりと金木犀の香りが風に運ばれてくる。

「寒っ」

 隣を見ると美雪ちゃんも肩をブルっと震わせている。

 上着を脱いで彼女に差し出す。

「ちょっと寒くなってきたな、それだと風邪ひきそうだから羽織って」

「でも……」

「ああ、いいから。このくらいの格好はつけさせてくれ」

「……はい、ありがとうございます」

 この会話の間に俺はスマホでリビングのエアコンの電源を入れ、風呂の湯張りを指示しておく。帰ってすぐに風呂に入れるから便利なんだよなコレ。

 それに制服のままよりも上着を羽織っている方が学生っぽくなくて職質されるリスクが減るだろ。なんせ今職質されたら間違いなく援助交際を疑われる。それは避けたいという思惑もあっての行動だ。

「私、金木犀の香り好きなんです」

 家に向かって歩いていると後ろをついてきていた美雪ちゃんの呟きが聞こえてきた。

「俺も」

「お母さんも好きって言ってました」

「そうなんだ」

「はい……」

 あの頃は良い匂いだとは思っても好きだとは思っていなかった。いつ頃からだろうか金木犀の匂いを好きだと感じだしたのは……

「お母さんは好きな人との思い出の匂いだって言ってましたけど、雪弥さん、心当たりありますか?」

 そう言われて記憶を辿る。

 亜香里さんと一緒に金木犀の香る季節を過ごせたのは一度だけ。彼女と会えなくなる前の秋の事だろう。

 思い出したのは深夜の展望台に行った時の事。

 行き当たりばったりな思いつきで急遽決まった展望台行き。駐車場に車を停めたあと2キロくらいならと歩いて展望台に向かった。

 懐中電灯がなかったからと携帯電話の灯りを頼りに獣道の様な順路を歩いた。所々に根が張り出したところがあって躓いた彼女の肩を抱いた事があった。そこから展望台までの間は危ないからという理由をつけて彼女と手を繋いで歩いた。

 そういやあ、あの展望台に向かう途中でも金木犀が香っていたな。

 その事を美雪ちゃんに伝える。

「お母さんって意外と乙女だったんですね……」

「言い方よ……」

 一人で娘を育てるとなれば余程無理もしてきたんだろう。それこそ自分の具合が悪くなっても病院にかかることもして無かったんじゃないだろうか……

 一人で抱え込んで無理をして逝ったんだろう……

 それで頼るところが無くて俺に頼れって言い残したところを考えるとホントは亜香里さん自身が俺を頼ろうとした時期があったんじゃないだろうか。そうでなければ、俺が今実家にいる事を知っている筈がない。いや、これも俺の願望か。ただ昔の記憶を頼りにこの辺に住んでいる筈だからと希望的にそう残したのかもしれないしな。今となってはどっちでも変わらない。それなら前者だと思っておいた方が救われた気持ちになる。

「着いた。ここが俺ん家」

「あっ」

 ポケットから鍵を取り出して玄関を開ける。

「さ、入って」

「……お邪魔します」

 部屋の掃除の大半はお掃除ロボットに任せているので床にゴミが落ちているなんていう事も無い。ひとまずはリビングに通して飲み物の準備をしてから確認をとる。

「先に風呂入ってくる。寛いでて」

 テレビのリモコンくらいはテーブルの上に置いておく。

「好きなの見てて構わないからな」

「はい」


 湯船に浸かって今後のことを考える。

 うちの両親は年内に帰ってくる予定は年末だけだった筈。それまでは美雪ちゃんをこの家で住まわせても問題はな、いや、ない訳じゃないけど無い。はず……

 親戚付き合いどころか両親とも縁を切った様な生活をしていた亜香里さんの事を考えると俺は美雪ちゃんのことを放っておく事はできそうにない。

「この性格を見抜いて俺を頼ったのかなあ……」

 まあ、それは置いといてだ。美雪ちゃんに対して俺はどう接すればいいかだ。

 1)娘として。は、無理だな。一度も娘を持った事がない。結婚すらした事がないからな。

 2)妹として。これはまあどうにかなりそうだ。妹、いた事ないけど。

 3)親戚の子として。う〜ん、実感が無いなあ……。親戚の子って俺より上ばかりで最近になって下の子が増えてるけどまだ小学校くらいだもんな。

 4)彼女として。うん、無いな。年の差を考えろってもんだよな。何より亜香里さんの娘だぞ。亜香里さんの代わりなんて思われたら居心地悪いだろ。これは絶対に無し。

「とりあえず、妹というポジションで考えてみるか……」

 そう決意して風呂から出た。

 出たのは良いんだが……、リビングの入り口で俺は立ち止まる事となった。

 美雪ちゃんが見入っている番組に問題がある。別に俺が録画しておいたお色気番組が再生されている訳じゃ無いのだが、彼女が今見入っているのもそういったもの。男女が上半身裸でお互いの身体を触れているシーンから口づけを交わすところが流れていた。オトナ番組は契約してないからせいぜいR15指定の番組。多分年齢的にはセーフの筈。あれ、美雪ちゃんの歳聞いてないかも。

 どうしたもんかと思って一度リビングを離れようとして後ろに下がったところで床がギシっと軋んだ。

 ハッとしてこっちに視線を向けた美雪ちゃんの顔がみるみるうちに朱に染まっていく。

「あっ!?えっと!あの、コレは……」

 しどろもどろになってワタワタとしている。

 ああ、亜香里さんも不意に悪戯をするとこんな風にワタワタしてたなあ……

 微笑ましく思って見ているうちに美雪ちゃんは落ち着きを取り戻してくる。

「すいません……、タイトルが気になって、選局したらさっきのシーンで目が離せなくなって……って、そうじゃなくって!?別に、ああいう事に興味がある訳じゃ無いですからぁ!!」

 彼女は全然落ちついた訳じゃなくって余計にパニックになっている。

「ところで、大事な事を聞き忘れていたんだが」

「なんですか!?」

 おお、テンションが高めでまだ耳が赤いぞ。

「美雪ちゃん、今、幾つ?」

「はいっ!?あ、16です」

「ならセーフだな」

「何がですか!?」

「視聴年齢制限。その番組多分R15だから美雪ちゃんが見ても問題ないヤツ」

「あ、そうなんですか?」

「そそっ、気にせず見てていいよ」

 それだけ言い残して俺はキッチンに湯を沸かしに行く。彼女は見ていた番組の事を咎められなくて安心したのか落ち着きを取り戻す。その頃には画面の二人から視点が変わっていた。

 湯が沸くまでの間にコーヒーをドリップする用意をする。

「美雪ちゃん、コーヒー淹れるけど、砂糖とミルクはいるよね?」

「はい、無いと飲めません」

「ん、わかった」

 彼女が見ている番組は別にいかがわしいものでは無い。90年代のドラマってああいったシーンが結構挟まれているからな。今だとそれっぽくベッドに入ってキスをしているくらいで済むところを上半身露出しているのが多い。

 ナニがとは言わないが高校生は結構お世話になったんじゃ無いだろうか。

 おっと、いらん事を考えてたら湯が沸き過ぎた。

 少しだけ湯温が冷めるのを待ってからコーヒーを淹れた。

「お待たせ」

「あっ、ありがとうございます」

「ミルクと砂糖はお好みで」

「はい」

 コーヒーを飲む間だけの束の間、美雪ちゃんに亜香里さんの姿が重なり、想いを馳せる。ホントに色んな他愛の無い話で笑い合った。彼女のその笑顔を見ていると引き寄せられそうになって何度自制した事か。それをしなければ今も彼女は生きていたんだろうか……

 そこまで考えてハッとした。ギュッと胸を締め付けられる様な想い、亜香里さんと俺が付き合っていたとしたら美雪ちゃんは生まれていない事になる。それは彼女を否定した様な気持ちになって嫌だった。

 ふっと美雪ちゃんの表情を伺うと弛緩した様な表情を浮かべている。

「終わりましたね」

「あ、ああ、そうだな。風呂、入るか?」

「はい」

 風呂場に案内して混合線の使用方法、シャンプーなどのを説明する。

「バスタオルはそこのを使ってくれ、着替えは……、俺ので悪いけど後で持ってくる。あと、ドライヤー使うならそこにあるからな」

「はい。ありがとうございます」

「じゃあ、ゆっくり入って」

 気まずいものを感じながら最低限の説明をして脱衣所を出る。


「さて、次の問題は寝るとこか……」

 客間が使えれば一番いいのだが来客がないのを良い事に俺の私物が大半を占めている。捨てればいいのにという様な物が殆ど。学生時代の教科書や備品に課題。果ては学制服といった今では使わない物。俺の知る中で最古の物は小学校の夏休みの工作で作ったポスト。

「コレを機に断捨離するか……」

 残しておきたい物がないか物色する。意外と懐かしいと思える物は出てくるがそれだけの存在とも言える。

「昔を思い出すトリガーにはなるけど、どうしても残しておきたいかっていうとそうでもないよなぁ」

 存在すら忘れていた様な物が大半なだけに無理もない感想だと思う。

「まあ、断捨離するにしても明後日だな。それまでどうするかなぁ」

 定番は彼女にベッドを譲って俺がソファーだよな。他の案も思い浮かばんし、そうするか……


「お風呂頂きました」

 脱衣所から聞こえていたドライヤーの音が聞こえて少ししてから美雪ちゃんがリビングに入ってきた。

 もう随分と遅い時間、明日の事を考えると後は寝るだけなんだけど、これだけは伝えておこうと思ったから席に着いてもらう。

「俺は亜香里さんの願いを聞き入れようと思う」

「それって……」

「ああ、美雪ちゃんが希望するならうちに居ていい」

「あ、ありがとう、ございます」

「その代わりと言ってはなんだけど」

 ビクッと彼女の肩が跳ねる。

「料理、できる?」

「へっ?」

「俺、料理できなくてさ。二人で暮らすなら自炊した方が安く済むだろ」

「あ、ああ、そうですね」

 あからさまにホッとしてる。けど、まあそうだよな。今時の子なら交換条件に夜のお世話を思い浮かべてもおかしくないか。

「恥ずかしながら、うちの冷蔵庫の中はこんなもんだ」

 扉を開けたその中にあったのは主にビール。それ以外となるとマヨネーズやソース、砂糖、わさびにからしなどといった調味料。冷凍庫の中にはチンすればOKの冷凍チャーハンや粉物。野菜室に至っては日本酒が冷やされている。およそ自炊ができているとは言えない。

「なんていうか、凄いですね……」

 16歳の子に呆れられたよ。事実なだけに否定のしようもないが。

「掃除はその辺のお掃除ロボットがやってくれるから、それ以外のとこだけで良いし、洗濯は乾燥機能付きだからほぼ畳むだけ、食事だけはどうにもならんからコンビニとファミレスのお世話になる事が多いんだよなあ。で、美雪ちゃんが料理できるなら俺も助かる。Win-Winだろ?」

「お口に合うか分かりませんけど、料理はできます」

「じゃあ、それでいこう。でだ、はい、コレ」

 彼女に貰い物の財布とノート、家の合鍵を渡す。

「これは……」

「明日、食材買ってきてよ。朝食や昼食でお金使ってもいいけど何を買ったかわかる様にノートにつけていって」

「あ、家計簿ですね」

「そそ、財布の中にはとりあえず一万入れてる。明後日が休みだから、明後日の朝までの分を買ってきて欲しいんだ。すぐ使う日用品は家から持ってきてもらえれば助かる。部屋はいつまでに出ないといけない?」

「今月中には出ないといけません」

「そうか、なら明後日見に行ってもいいか?」

「えっ?」

「酷だけど、多分全部の荷物は持って来れないと思うんだ。必要な物を仕分けて欲しい。そのうえでどれくらいの荷物になるか確認させてくれ、あんまり荷物が多いと業者の手配も必要だしな」

「あ、そ、そうですね」

 思い出深い物もあるだろうけど全部持って来る事はできないと思っている。だから先に言って覚悟だけはしておいてもらわないとな。

「それじゃあ、寝室を案内するよ」

 彼女の先に立って自室に向かう。

「今日はこのベッドを使って」

「でも……」

「いいって。あと、俺明日も今日と同じくらいに家出るからもう寝るね。おやすみ」

「あ、おやすみなさい」

 これ以上話すつもりがない事を告げてリビングに降りる。

 ソファーに横になって毛布を被る。リモコンで明かりを消し今日の事を思い出す。まさか亜香里さんが亡くなっていてその娘を預かる事になるとは思ってもいなかった。

「うまくやっていけるかなあ……」

 そう呟いたのを最後に意識を手放した。


 翌朝俺が目を覚ました時にはキッチンの方からいい匂いが漂ってくる。

 身体を起こした拍子に毛布が床に落ちる。

「あ、おはようございます」

「おはよう、食材、買ってきたの?」

「はい、朝食の分だけですけど駅前のコンビニで……」

「そうだよな、こんな早朝に開いてるのってコンビニくらいだよな」

「はい、ですので今朝はベーコンエッグとトーストです」

「ありがとう、顔洗ってくるわ」

「はい」

 今朝の彼女は長い黒髪をお団子に纏めて、制服の上に俺が昨日渡した上着を羽織っている。

 早朝の室内は少し肌寒いから暖房をつけてからリビングを出る。

 洗面台の蛇口を捻って吐き出されてきた水は思ったより冷たくなかった。

「この前までは温かったのに随分秋めいてきたな」

 身支度を済ませリビングに戻ってテレビをつける。

 早朝のニュース番組によると今朝の気温は11月中旬くらいという事でひと月ぐらい先の気温らしい。それでも日中は20度を超えるという予想だから寒暖差が堪える。

「お待たせしました」

「ああ、ありがとう」

 ニュースを見ていると料理が運ばれてくる。

「目玉焼き、半熟ですけど大丈夫ですか?」

「ん?ああ、大丈夫だよ。それに俺も半熟の方が好きだから」

「よかった……、お母さんが焼いてくれたのも半熟だったんです。それで、ついいつもの様に焼いてしまいました。かた焼きの方が好きだったらと思って……」

「作ってもらって不平をこぼす様な事はしないよ。さあ、食べよう。いただきます」

「いただきます」

 亜香里さん、以前はかた焼きの方が好きって言ってたと思うんだけど好みが変わったのかな。

 ふと、思い出すのは深夜のファミレスでの目玉焼きは半熟かかた焼きか論争。俺を含めた三人が半熟で亜香里さんを含む二人がかた焼き、一人がほぼ生の自称焼き。味付けは塩胡椒を振りかけて焼く派と何も振らずに後からかける派に分かれた。

 今になって思うとよくそんな事で盛り上がったもんだ。ホント、懐かしい。

「お口に合いませんか?」

「ん?いや、ちょっと昔の事を思い出してな」

 コテンと首を傾げるその仕草も亜香里さんに似ているもんだからつい微笑が溢れる。

「亜香里さん、高校の頃はかた焼き派だったんだよ。深夜のファミレスでどっち派かって話で盛り上がったことがあってね」

「そうだったんですか。私、お母さんがかた焼きにしたのを見た事がないです」

「好みが変わったんだろうね」

「そう、かもしれませんね……」

 亜香里さんが俺の好みに合わせてくれたんじゃ無いかって自惚れそうになる。そんな事は無いだろうに……

「雪弥さん、お母さんの話、また聞かせてください」

 美雪ちゃんの声に思案から引き戻される。

「あ、ああ、そうだな。また今度な」

「はい」

 ニュースキャスターが6時を告げる。

「おっと、そろそろ行くか。火の元と戸締りだけはしっかりしておいてな」

 食器を流しに運んでから玄関に向かう。その間にあとの事を任せる。その俺の後に彼女はついてきて玄関で見送ってくれる。

「じゃあ、いってきます」

「はい、気をつけていってきてください」

 こうやって朝見送られるのも随分と無かったからちょっと照れくさい。けど、悪くないな。


 同居人ができたという事で今日の残業はなるべく早く終わらせようと頑張った。その甲斐あって20時には会社を出た。

「寒っ!天気予報通りだな……、ああ、帰るって連絡入れた方がいいよな」

 上着の前を押さえてからスマホを取り出す。

 連絡先を開いてから気がつく。

「あ、連絡先聞いてなかった……」

 街灯に照らされた道を駅に向かって歩く。いつもより早い時間帯の街には多くの人通りがあった。これが後一時間後ならもう少し人通りが少なくなっているんだがな。

 ふっと目に止まったのは人気の洋菓子店。

「お土産に買って帰ったら喜ぶかな?」

 洋菓子店の扉を開ける。からん♪とドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

 ショーケースの中を覗いてみる。

 定番の苺のショートケーキとチーズケーキその辺でいいかな。そういえば亜香里さんはチョコレートのケーキ好きだったな。確か、生チョコレートのやつが好きだったな。

「そのチョコレートのと苺のショートケーキ、あとシュークリーム2つください」

「お持ち帰りのお時間はどのくらいになりますか?」

 大体の帰宅に要する時間を告げ会計を済ませる。

「ありがとうございました」という店員さんの声を背に受けて洋菓子店から出る。そこからあとはいつもの帰宅路を帰るだけだったんだが、何故か心が弾んだ気がした。

「これからどうなるかは分からんけど、俺はこの生活を楽しみに思っているのかもな」


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タイトルの『想い出』は本当なら『思い出』の方が正しいんでしょうけどあえて『想い出』にしています。


数年ぶりに再会した同級生がシングルマザーになっていてその子の死という事から想起した話になります。

その子に対して恋愛的な感情を持った事はないですけどね。


想いを伝えられなかった人と再会したとしたら貴方はどういう関係になりたいですか?


この後二人の関係がどうなっていくのかはお読み頂いた方でご想像ください。

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想い出の彼女 鷺島 馨 @melshea

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