『旅は終わらない』

ライ麦畑の中を突っ切ると、暗い森にたどり着く「。どこにいきやがった」という怒号はだんだん小さくなり、ライ麦をかき分ける僕には気付かないようだ。そのうち車の発進音が聞こえ、辺りは静かになる。

一息つくと、丸い月がぽっかりと天高く昇っていることがわかる。すっかり夜だ。僕が相変わらず生きていられるのは、加護のおかげなのだろう。戦争が終わり、世の中が再び平和に戻ろうとしていても、日常の中には平和とは言えない場面もあるのだ。

どうやって帰ろうか。居地にしている家からはだいぶ遠い。気をもむ一方で、久しぶりの一人の夜にどことなく楽しさも覚えている。百何年は一人で過ごしてきたのに、思い返してもどんな風に過ごしていたか、覚えていない。

ひたすら絵画を描いていたような気もするし、酒におぼれてみたりしたこともあるかもしれない。つい、神様との時間が長いせいで、どうだったか鮮明に思い出せないでいる。このまま町へ戻っても、きっとさっきの怖い人たちが待っているだろう。

「どうしよっかなぁ」

「みゃぁ」

ふと言葉に反応するものがあった。森を見れば、暗がりから一匹の猫がふらりと現れて、僕をじっと見つめる。その白い体躯にはしっぽが二つ付いており、規則性をもってゆらり、ゆらりと揺れている。

「おーい」 さらに森の奥から人の声が聞こえてきた。それにこたえるように、猫が鳴く。しばらくすると、茂みが大きく揺れ、一人の少女が現れた。銀色の髪を腰まで伸ばし、それを頭の上でひとくくりにしている。黒いローブのようなものを着ていて、手には鍬が握られていた。

「うわ!」

彼女は目を見開くと、鍬を持っている手に力を込めた。加護があるとはいえ、恐怖がないわけではない。僕は急いで少し離れた。

「何? 人?」

「そうそう、僕は人!」

「なんでこんな夜更けにこんな所……」

自分のことは棚に上げて彼女はそういった。僕が怖い人に追われているあらましを伝えると、少女は目を細めた。小さく舌打ちも聞こえたようだ。

「あー、あいつらか。ギャングどもめ」

少女は一瞥をくれると、こっちへ来いと森の中に入っていく。ライ麦畑にいても仕方がないので、ついていくと、森というよりは林だったらしく、すぐに開けた。そこには一軒の小さな民家と畑があり、周囲は白い花が咲き乱れていた。

「私の家で一晩いなさい。そこの電話も使っていいから、頼れる人に連絡すればいいわ。朝になったら迎えに来てもらうのね」

「ありがとう。僕はエイジ。君は……」

「私はユリアよ」

彼女は再び鍬を持つと、外へ向かった。部屋の中には農作業で使う鋤や鎌も整頓されている。ポプリなど、乾燥ハーブなども目立つため、部屋の中は爽やかな香りに満ちている。そのわりには部屋はこざっぱりとしており、余計なものはない。

電話を借りて、神様に連絡をするとあきれたようにため息をつかれたが、朝には向かうと約束してくれた。部屋にいても何もすることがないのでユリアを追って外に出ると、彼女の姿はどこにもなかった。

代わりに猫が一匹、道を示すように林の淵に座っている。故郷には猫又という妖怪がいる。長生きした猫がなると言われているが、こんな西洋の田舎で出会うとは思わなかった。

「神様もいるなら、君みたいなのもいるよね」

頭をなでると、気持ちよさそうに目を細めた。妖怪というよりは飼い猫だ。

「神様って?」

林の先から何かを掘り出したユリアが出てきた。芋だろうか、こぶし大の塊をいくつも抱えている。しまったと思ったが、しっかり独り言を聞かれていたらしい。

「いや、まぁ比喩みたいなもんだよ」

「そう」

「そ、それは何?」

手に抱えていたものを近くの籠に入れると、彼女は何も言わずに林へと戻る。

「手伝おうか?」 返事はない。通せんぼをするように猫が佇んでいて、なんだか無理やり林の中に入っていく気にはなれなかった。おぼろげな記憶の中に、あの日を思い出す。森の中の古びた教会が懐かしいばかりだ。

「ユリアはなんでこんなところにいるんだろう」

「住めば都よ」

再び林の中から姿を現す。また抱えている何かを籠に入れると、十分集まったのか、猫の隣に腰を下ろした。服が汚れているが気にしていないのだろう。

「私はここで漢方薬を作っているの」

この辺ではあまり馴染みのない言葉だった。もちろん僕は知っている言葉ではあったが、深く知っているわけでもない。「漢方は東洋の薬のことよ。自然のものを使って作るの。だから私は魔女と呼ばれているわ」

さぁ次はあなたが喋る番よ、と言わんばかりに僕を見る。何をどこまで話せばよいのか迷って、思わず目が泳ぐ。

「えーと、僕は人。何の変哲もないけど、実はもう三百年くらい生きたかな」

突拍子もないことを話していることは実感している。三百年も生きればそれは人ではないだろう。でも、僕は確かに人から生まれて、人と同じように生きている。ただ、加護とやらが死ぬのを邪魔するのだ。などと言っても信じてはもらえないだろう、そう思って、瞼を伏せる。

「この猫はエリザベス。四百年は生きているわ」「僕より先輩じゃないか」

ユリアは一泊置くと大きくため息をついた。空を見上げて、その白い肌に月の光を浴びる。言葉すべてを信じたわけではないだろうが、すべてを疑っているわけでもないのだろう。警戒心の薄れた瞳がきらきらと星を塗したように輝く。

「この世界はすっかり科学で何でもできた気になっているけど、私はそうは思わないわ。まだまだ不思議がたくさんあるのよ」

「科学じゃ僕は殺せないしね。……神様は、僕と一緒に生きることができる唯一の生き物だったから、僕が勝手にそう呼んでいるんだ」

「なら、エリザベスも連れてってよ。私では寿命が短すぎるわ」

「ユリアは寂しくない?」 軍手を外しながら、彼女は小さく微笑んでいる。その笑みは少し寂しそうだ。彼女はここで人目を阻んで暮らしている。寂しくないわけがない。

「ユリアも一緒に行かない? もうすぐこの町を出るんだ」

小さく首を横に振ると、ゆっくりと立ち上がる。先ほど掘り返していたものの入っている籠を抱えると、家に向かって歩き出す。よたつく彼女の手から籠をとり、率先して家の中に入った。一人で生きていくには、寂しい家だ。

「あなたと行けたら、楽しかったのかもしれないわね。そろそろ、朝日が昇るわ。きっと神様も近くまで来ているから林を抜けて、ライ麦畑を行きなさい」

まだ夜のはずだ、そう思って外を見ればなぜか東の空が明るい。さっきまで確かに月明かりが彼女を照らしていた。

「行って」

小さな声が僕の背中を押すようだ。なぜか振り返ることはせず、ドアから外に出る。朝露に濡れた草がパンツズボンを濡らして、ずっしりと足元が重い。今まで見ていたものが夢だったような気がして、しかし林のへりにはエリザベスがいる。

振り返ると、そこには朽ちた廃墟があるばかりだ。

「みゃぁ」




一時間で戻ってくることもあれば、一週間も戻って来ないこともある。その間、誰かからご飯をもらっているのか、腹をすかせた様子はない。死なない男が、猫が帰ってこない、きっと攫われたのだ、と騒いでいるとふらりと戻ってくる。どこに行っていたんだ、と怒ってみても顔はふやけている。

エリザベスとともに越してきた場所は、それなりに栄えている。軍需産業で一花咲かせた成金都市だ。過去、この町を拠点にしていたことがあるらしく、死なない男はたまにふらりと出かけていく。もう二百年以上も前の話だから、誰も記憶にないだろうと、私もさして注意などしていない。

ザックは売れない画家だ。そういう体でいる。小さな個展を数年に一回開く程度で、知名度も低い。だが、知る人は知る、コアなファンが多いのも特徴だ。それはそう、ザックも死なない男の分身なのだ。ファンの中には大枚を使って競り落とそうという輩がいる。

今回のザックに関しては、うだつの上がらない、猫背の男、という注文が入った。毎回作品を持っていくと、画廊主やオークションマニアはお前が本当に描いたのか? という顔をする。もちろん、私が描いたわけではないので、彼らは正しいのだが、ふとした瞬間に、優越感のようなものを感じるようになった。

訝しみながらも作品の虜になっていく様に、喜びを見出しているのだ。悪い遊びを覚えてしまったようだ。

今日も、絵画を包んで表通りを歩いていた。寒い秋風がビルの谷間を縫って吹き付ける。街路樹は総じて秋色に染まっており、枯れ葉が地面を転がっていった。人々はコートの襟を立て、目深にかぶった帽子で耳を隠している。誰もが手をこすり合わせている中、ふと道端で一人の少年が絵を描いていた。

絵具でキャンバスに色を足している様子は、家でこもって作品を描いている死なない男のようだ。焼けつくような真剣なまなざしで真っ赤になった手を動かす。

しかし不意に、前から来た男が少年のキャンバスにわざと体当たりをした。イーゼルごと倒れたキャンバスを踏みつけ、悪態をついた男は何事もなかったかのように、雑踏へ消えた。

綺麗な色彩の中に、男の靴の痕がくっきりと残った。私は知らず少年のキャンバスを手に取っていた。どこかで見たことのあるタッチだな、とやにわに既視感を覚える。

「ごめんなさい」

「……ジニアが好きなのか?」

少年の金色の瞳がわずかに揺れる。今は亡きジニアの作品は戦争中の当時こそ、もてはやされていたが、終戦後にはあまり評価されていない。ワンダーのほうが長らく愛される作品となっている。ジニアの次のローウェルと今のザックは才能のまだ開花していない画家という設定だ。

ローウェルの死後、作品は見直されほどほどの価値がつくようになった。結局すべて、死なない男の作品なのだから、良いものには違いないのだろう。

そんな死なない男の画家遍歴の中でも、ひときわ明暗のわかれたジニアを少年がリスペクトしているのは、一目瞭然だった。私が描いたわけではないが、ずっと見てきたのだから、少しはわかる。

「おじさん、ジニアわかるの?」

「わかるというほどではないけどね。その色合いやタッチは彼のものだ」 イーゼルを立て直した少年は、たちまち蒸気が出そうなほど顔を紅潮させた。

「みんなジニアは俗物的だ、ていうけど、俺はそうは思わない。ジニアの表現したかったものは、希望とか幸せとかそういうものではなく、暗さだ。暗い時代に敢えて光を灯すことで、影をより強調したんだ」

確かあのときの死なない男は何と言っていたか。暗いから明るいもの描きたいね、と言っていたような気がする。残念だが、あの男に深い考えはないのかもしれない。

だが、絵画の読み手は死なない男や私ではない。少年がそう思ったのなら、そうなのだ。などと、博識ぶってみるが、その実、代理で絵画を売っているだけのただの人外だ。だが、どの時代の死なない男の作品も愛されているものだと思うと、むず痒くある。

「おじさんも、ジニアが好きなんだね。でももうみんな飽きちゃったみたいで、俺が描いても見向きもされない」

私はポケットの中の硬貨を彼の手に押し付けた。

「これで温かいものを買うといい」

「……ありがとう。おじさんの絵、売れるといいね」

小さくうなずいて、少年とはそれで別れた。灰を敷き詰めたようなどんよりとした空だ。雨が降るのかもしれない。さっさと行こうと、足を速めた瞬間、後ろから骨の折れるような音が響き渡った。歩みを止め、ゆっくりと背後を見ると、少年が複数人の男に囲まれ、その中心で蹲っていた。男たちは明らかに悪そうなやつらだ。少年の手のひらから私の渡した硬貨を奪うと、ぞろぞろと去っていく。

喉の奥がひりつくようだった。

すぐに、少年のそばによると、痛みからか気絶をしている。助けを求めるように視線をさまよわせても、通りゆく人たちは、見て見ぬふりをする。私は無力である。変身することができるだけで、暴力もふるえない、ただ少年を助けることもできないのだ。

神様、といつもすがってくるやつがいるから、ちょっとばかしすごいのだと思い込んでいた。

私はザックの絵を置いて、少年を担ぎ上げた。非力を演じることはあっても、非力ではないのだ。荒い呼吸が耳元で繰り返される。そして少年の絵画をもって、長い通りを歩きだした。



「おじさん、ごめんないさい」

「君が謝ることではない」

「でも、お金がかかったでしょ?」

私は曖昧に笑ってみせる。こういう時、どうしてあげるのがよいのか、私にはわからない。ずいぶんと、ぎこちない笑顔だったことだろう。小さな診療所の一室で、点滴を打っている。幸いにも骨には異常がなく、ただし、栄養失調を患っていたらしい。聞けば、家族はおらず、絵を描いて収入を得ていたらしいが、ジニアに似た絵はそれだけで正しく評価されないで、ほとんど金にならないようだ。

「……絵を習ってみるか?」

少年は小さくため息をつく。

「俺はジニアの絵をあきらめるつもりはないよ」

「この世にはジニア以外にも画家はいる。いろんなものを見ること、学ぶことは君にとって豊かな人生につながると私は思う」

我ながら説教臭いと思うが、このままこの少年を放っておくことは躊躇われた。とはいえ、あの男が了承するのかは、私のあずかり知らぬところだ。無責任なことをしているとわかっているが、かつてすべてを亡くした死なない男と、この少年を重ねているのかもしれない。

「まぁ、今日くらいはうちに来るといい」

少年は体が痛むのだろう、この申し出を拒否することはなかった。

アパートの一室に戻ると、すでに死なない男はいた。私の後ろについてきた少年をみて、驚いた顔をしたが、すぐに温かいコーヒーを用意してくれた。

「それは大変だったね」

ことのあらましを聞いた死なない男は、私の持ち帰った少年の絵画を見ながら、そう言った。汚れてしまっているが、綺麗な色使いはよく見て取れる。そして描いていた本人だからこそ、わかるのだろう、少し照れたように、鼻の下をこすった。

「この子に絵を教えてやれないか?」

「教えることなんてなさそうだけど、まぁ、いいよ」

少年の不思議そうな瞳の中に私が映る。彼はまだ私が画家だと思っているのだろう、嘘の種明かしをするのは気が引けた。私が言いよどんでいると、死なない男が話し始めた。

「僕はこの通り画家なんだけど、約三百年を生きているんだ。姿を残すわけにはいかない。だから彼に絵を売りに行ってもらっているんだよ」

どこからが冗談でどこからが本気なのか、わかりづらいだろうが、すべて事実である。少年の瞳が私を頼る。思わず大きなため息が出た。できれば、肝心なところは隠しておきたかった。

「私は人間ではない」

半身をどろりと溶かして見せる。体がすくんだのか動けはしないようだが、小さな悲鳴があがった。それと同時に後ろから一匹の猫が静かにやってきた。白い二又の猫はソファに飛び乗ると、丸くなる。

「俺をどうするつもり?」

「どうもしない」

半身を元に戻し、コーヒーをすする。リビングのテーブルをはさんで対面する少年は、逆らわないことを選んだのか、コーヒーカップを手に取った。よしんば彼が、私たちのことを言いふらしたとしても、誰も信じはしない。だから逃げられてもかまわなかった。死なない男は成り行きに任せるつもりなのか、猫のいるソファに座って、彼女の背を撫でている。

「……俺は衣食住が不安定だから、正直後ろ盾を得られるのはありがたいんだ」

一気にコーヒーを飲み干す。

「一人で野垂れ死ぬか、あんたの腹の中で死ぬかの違いだろ。じゃぁ、俺はあんたたちについていく」



車が揺れる。三人と一匹が車に乗り込むと、運転手の神様はエンジンをかけてゆっくりと道をたどり始めた。住み慣れた都会の街をあとに、これから向かうのは中核都市の農村部だった。例によって例のごとく、もろもろの手続きは神様がやってくれた。それに加えてリニアがその手伝いをしてくれた。

リニアはアーティストとしてめきめきと頭角を現し、今やザックよりも稼いでいる。僕のように家にこもって作品を描いているわけではなく、公園などで似顔絵を描いたり、聴衆を募って、大きなキャンバスに筆を走らせたりしている。

今アーティストとして人気が高いのは、もちろんリニアのやり方だ。一枚絵画を完成させて飾ってもらう時代は終わりつつある。だから最近絵画は描いていない。代わりに何をしているのかというと、農業だ。都会の中ではベランダでプランター農業をするしかなかったが、ミニトマトにキュウリ、ゴーヤなどを育てた。

もともと働かなくても食っていけるほどの財産は有るので、尽きるまではのんべんだらりと過ごしてもよいかなと思っていたのだが、庭付きの戸建てに引っ越すことになった。リニアとはお別れのつもりだったのだが、気付けばまだ一緒にいる。

初めましての頃は怯えている様子だったが、二十歳になった今はビビるどころか、僕らを尻に敷いているくらいだ。実際、家事をこなし、金を稼いでくるのだから、一番偉いだろう。

神様に関しては、家でもできることはあると、投資に手を出し始めた。今ではパソコンを導入し、それと睨みっこしている。うまくいっているのかは知らない。どうせ、大損をしても彼は人間ではないからいくらでも生きるすべはあるのだ。

カーラジオからは陽気なカントリー音楽が垂れ流れている。



俺の名前はリニア。リニア・ウッズ。得意でやっていることは絵描き。ライブドローイングを生業にしている。ジニアに憧れてこの世界に入ったんだ。

鏡の前の自分はどうにも、しまらない。自己紹介を考えてみても面白みに欠ける。俺にないものは技術でも、才能でも、努力でもなく、ユーモアというセンスなのかもしれないと、今初めて思い至った。隣町主催の絵画教室に講師として呼ばれたことは名誉なことだ。

田舎に移ってからは、インターネットを使ってドーイングの様子を配信していたが、それがたまたま市長の耳に届いたらしい。しかし、俺が教えられるのか、と思う次第だ。

リクがこういうとき講師としてはぴったりなのだろうが、ウィルもリクも口をそろえてダメだという。確かに正体に関することが誰かにバレてしまえば、彼らの安心安全は保てなくなるだろう。様々なことが考えられる。だからこそ、二人は人前に出たがらない。

俺を迎え入れ、素性を明かしてくれたのは、地球が割れるほどレアなことだったのかもしれない。あれから十年ほどたったが、リクの見た目は変わらないし、ウィルはときどき人を保てていない。エリザベスは突然変異の猫として振る舞っているが、こちらも衰えを感じないのだ。

風変り、と片付けるにはだいぶ癖の強いメンツの中で、俺は唯一ただの人間だ。彼らのことをパトロンだと説明しているが、いつか、きちんと、家族だと言いたい。

閑話休題。

軽くドアを叩く音がした。控室は小さな会議室のような場所で、長机がいくつも並んでいる。その割には椅子が一つしかない。

返事をすると、一人の女性が時間だと呼びに来た。オレンジ色の髪をポニーテールにしている若いこの人は、今日の世話役らしくことあるごとに控室にやってくる。名前は、アイビーだったか。「生徒さんたち、楽しみにしてらっしゃいますよ」「まったく前情報をいただいてないのですが……」

一瞬アイビーの表情が固まる。口ごもる様子に嫌な予感がした。

「……こちらです」

会場は市役所に隣接する市営の会館を使うと聞いていたのだが、どうみても市役所の中だし、中会議室、と表には書かれている。どうやら思ったより人が集まらなかったらしい。それならそう、と早めに教えてくれれば、準備できるものも違ったのに。心の中で文句を言いながら、ドアノブを回した。

そこに座っていたのは、ちょうど十年前の俺と同じくらいの少年少女だった。十五人しかいないのだが、一人ひとり相手にするにはちょうどよいのかもしれない。そう思うことにして、俺は教壇には立たなかった。あらかじめ用意してもらっていた巨大なキャンバスの一番目立つところに、リニア・ウッズと書き込む。

「みんなも名前をキャンバスにかいてくれ」 戸惑いの視線が突き刺さる。

「みんな、名前くらいはかけるだろう?」

すぐに絵具でその名前の周囲を彩り始める。俺はジニア譲りの極彩色でキャンバスを埋めるのが得意だ。俺が描き始めると、十五人はそれにならって名前をかき、彩り始める。

「好きなように描くんだ。花を描いてもいいし、車を描いてもいい。まずは自分自身を彩ってみせろ」 たまに生徒のキャンバスを覗きながら声をかければ、だんだんと心を開いてくれる。そういえばリクにも似たようなやり方で絵を教えてもらっていた。何を伝えたいか、何を描きたいか、あやふやなままでは筆が迷う。

彼らはとても胡散臭かったが、同時にとても紳士的であった。



「見てよ!」

そう言って見せてきたのは、足が二又に分かれたダイコンだった。その真ん中に小さな突起が伸びており、それが余計に艶めかしい脚を連想させる。収穫に出かけていた死なない男は、どうやらそれがおかしくて見せに来たらしい。そして、それに満足して畑へと戻っていった。

私はパソコンから目を離して、大きく伸びをした。最近投資からは手を引いて小説を書き始めた。出版社に持ち込んでは断られているが、趣味で作った本が本棚を埋め始めた。

「バートン」

名前を呼ばれたので振り返ると、筆を止めたリニアがあきれたように、窓の外を見ていた。あどけない少年が、おじさんになることの月日の速さに、驚いてしまう。彼が来るまで本当に時間はゆったりと過ぎていたのだ。

「あれは本当にもうすぐ三五〇歳なのか?」

「おそらく」

誕生日など遠に忘れた。リニアも出生に関して定かではない。だから毎年八月一日が私たちの誕生日だ。今年ももうすぐその日が来る。まったく、とため息をついてみるが、リニアは楽しそうな表情を隠さない。

空の雲が進みを速める。嵐が近いのかもしれない。珍しくエリザベスも家の中にいるから、天気は荒れるのだろう。

「本当に出かけるのか?」

「大丈夫だよ、天気が悪くなるころには街だから。今夜は一泊してくる」 四十を手前の男を子どもと同じように心配するのも良くないと思い、気をつけろよ、と言うにとどまった。街にいい感じの人がいると聞いてから、いつパートナーだ、同棲だ、結婚だと言い始めるのかと。もしそうなれば私たちは離れ離れになるだろう。喜ばしいことだが、寂しくもある。

祝儀はいくらか用意してある。あまり多く渡す必要もないとは思うが、気持ちは渡したい。まだそんな話も出ていないのに、気だけが急いている。死なない男にも笑われたばかりだ。

後ろでかたかたと音がする。そろそろ出発する準備を始めるのだろう。空模様はまだ雲が速いだけで穏やかともいえる。まだ死なない男も切り上げるつもりはないのか、戻ってくる気配はない。



近くの川が氾濫したという話が入ったのは、日が暮れる前のことだった。あんなに晴れていた空は今や淀んだ雲が垂れこめ、ひどい雨を降らせている。川上に家があることも、川べりに水田が広がっていることもあって、僕たちの家は被害を受けることはなかった。

長い夜が明けると、行方不明者の捜索が始まった。リニアとの連絡はとれず、街の宿でまだ寝こけているのだと、神様と一緒に心配を誤魔化した。 水が引くと、道路の一部が削り取られていた。まるで空間がぽっかりと穴をあけたような。もし崩落に巻き込まれたら、助かるすべはないことくらい、見たらわかった。

僕は恐ろしい妄想を振り払うように、首を横に振った。

嵐の夜には人食い悪魔が出る。

いつかの夜にも、悪魔がやってきた。日に数回言葉を交わす程度だったが、あの人はちゃんと誰かに見つけてもらったのだろうか。ふと、そんなことを思い出した。リニアも食べられたのだろうか。「もっと私が強く止めていれば……」

神様は震える声で言った。まだ、巻き込まれたとは決まっていない。だが、励ます言葉は見つからない。連絡がつかない、ということは何かしらに巻き込まれてはいるのだ。これが、恋人との一夜に夢中であっただけならば、と思いたい。

一度、家に帰ると室内には誰もいない。もしかしたら迂回路を通って先に家に帰っているのではないか、という希望もあったが、どうやらあてにはできないらしい。どちらからともなくため息が漏れる。

「たまに思うんだ」

神様はちらりとこちらを見た。その瞳は暗く光がない。

「僕たちが普通の人間だったら、と」

「……あぁ」

「そうしたらきっと、こんな悲しい現実も一生続くことはないのだろうね」 僕たちはきっと出会わなくても、生きていた。どんな人生だったとしても、こんな悲しみを共有しなくても、生きていた。

「リニアは確かに私たちの家族だった。だが、思うのだ。あのとき救うことが正解だったのか、それともあのとき見捨てることが正解だったのか」 僕たちはこれから正解のない正解を探しに旅に出なければならない。慰めるように、白猫が僕の足にすり寄ってきた。

リニアの遺作として公開された絵画は、僕と神様とエリザベスだけが描かれていた。優しい色遣いは、彼が得意としたジニア式の色使いとは真反対だ。それを公開することを彼が望んでいたのかは、知らない。名前しか残らなかった、僕たちと彼をつなげる絆。

僕たちは新天地を目指して車に乗り込んだ。

新しい町で何をしようか。人ごみの中を歩くのかどうかは、知らない。どうせ、生きなければならない。あの人の分も、その人の分も、生きなければならない。永遠という時間を与えられた僕と私の物語なのだから。




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Immortal いちみ @touhu-003

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