Immortal

いちみ

『死なないさんと人外さん』

「二百年生きた人がいないってことは、僕はもう人ではないのかもしれない」

大きなため息をつく姿さえも、様になる。すらっと長い脚がソファの上で組まれると、彫像のような美しさすらある。今風に言うと、イケメンというやつだろうか。いや、少しチープだろうか。この男が使徒に好かれたせいで死神に見放されたのは、この美しさのせいに違いない。

「もうこの際だから、千年でも生きてやろうと思うんだけど、そうするといよいよ人ではないね」

二百年を生きただけでも人ではないだろう。とはいえ、もう千年など昔に過ぎた私にとっては、二百年くらいは子どものようなものだ。人とも大差ない。そんなことを言っても大して慰めにはならないのかもしれない。

「でもやっと僕に付き合えるやつが現れたんだ」

そう言って彼は下から私をのぞき込む。暖炉の火が目の中にゆらゆらと揺らめいている。この辺りじゃ珍しい黒色の瞳に黒色の髪の毛。東洋の血が流れているのは間違いないだろう。

「僕を殺せなかった神様」

小さくつぶやいた言葉は何を言っているのか、私にはわからない。たまに知らない言葉を口に出す。それは、とても、人間らしい表情で。

「ずっとそばにいてね」

暖炉に薪をくべてソファに戻ると、彼は眠ってしまっていた。肌に火の影が揺れ動いている。それはとても、綺麗だった。


「おはよう、フレア!」

細い目がゆっくりと上を向く。皮膚が垂れて瞼がとても重そうだ。自宅の庭の手入れのついでに隣の庭の花にも水をやるのが日課だ。フレアは高齢で、水やりも一苦労。たまに作りすぎた晩ご飯を持ってきてもらうかわりに、庭の手入れを手伝っていた。

「腰の調子はどう?」

「いつもありがとう。今日はまぁまぁよ」

人里離れた場所にぽつんと二軒の家が建っている。他に民家はなく、森の入り口がすぐ近くにある。町は車で三十分ほどかかり、なかなかここまで来る人はいない。もうすぐ、フレアと出会って五十年が経つ。容姿が少しも変わらない僕だが、彼女は少しも怖がらない。

フレアは日差しにさらされるのが体に障るのか、一言声をかけると、家の中に入ってしまった。彼女のもとへ死神が来るのも時間の問題なのかもしれない。

神様曰く、僕は死神から避けられているらしい。強い加護を受けているから、だという。思えば、旅行先で家族だけ死んで僕だけが助かったのも、海水浴場で友人が死んで僕だけが助かったのも、加護とやらのおかげなのだろう。

おかげで天涯孤独だ。おまけに見た目も変わらないのだから、人と付き合うことは難しい。それこそ千年くらい簡単に生きることのできる人外でないと一緒にいられないだろう。

後ろでドアの開く音がした。振り返ると、初老の紳士然とした男が立っていた。背が高く、背筋も伸びている。鼻の下に蓄えた髭は綺麗にカットされ、灰色の髪は後ろになでつけられている。手にはステッキを持ち、これからどこかへ向かうようだ。

「どこ行くの?」

「町におりてくる」

「僕も久々に行ってみようかな」

じっと顔を見られた。最後に町におりたのは、二年前のはずだ。観光客気取りでぶらついていたので、誰にかに顔を覚えられていることはないと思われるが。紳士は首を横に振る。言葉を返そうとすると、小さくせき込んだ。

「危ないだけだ」

ガレージにある年代物の車へ一人で向かう。巷では戦争が話題になっている。海には軍艦が浮かび、人々は何かにおびえながら暮らしている。確かに危ないと言えば危ないのだが、加護のある僕なら平気だ。死なないのだから。

「土産を買ってくる」

音を立てて車のドアを閉めると、低い音を立ててエンジンがうなる。紳士はこちらをちらりとも見ずに車を発進させ、うねる道を進んでいった。その道の先に高い雲が立ち上る。青が濃い、夏の空だ。

そういえば、あの日もこんな日だった。ひどく鬱屈した気分であるのに、空は輝くような明るさだった。小さくため息をつくとあの日を思い出すようだ。

テーブルに置かれた紙袋を開くと、ホールのケーキだった。白い雪を思わせるようなクリームがたっぷりと乗っている。季節外れの苺が五つ。小さな蝋燭までそろっていて、まるで誰かの誕生日ケーキのようだ。ちなみに僕の誕生日は忘れてしまった。

「どうしたの、これ?」

「土産を買う約束をした」

帽子と上着をハンガーにかけると、紳士は小さく息を吐いた。その瞬間、顔半分が崩れる。彼は人間ではない。僕は神様と呼んでいるけど、本当は何さんなのか知らない。ただ、この家の中では、人を保たなくなる瞬間があるのだ。まるでヘドロのようになった顔半分をそのままにダイニングの椅子に座る。

「ウサギか」

「森を散歩してたら見つけたんだ」

綺麗な白い毛皮の赤目のウサギだった。こうして夜の食卓に並ぶとはウサギは思っていなかっただろう。死は身近だ。特別なことではない。でも、僕には遠い国のおとぎ話のように、実感がわかない。これから死ぬとも思えないからだ。

神様は顔をもとに戻して食事を始めた。ヘドロのままでは食べにくかったのもあるだろうが、僕の前では人であろうとしてくれる。理由は聞いたことがない。柔らかくソテーされた肉を口に運ぶと、小さく「うまい」と言う。口数は少ないが、僕の求めている言葉をくれる。心が読めるのか聞いたが、「わかりやすい」と言われてしまった。

「町の様子はどんな感じ?」

「……ついに若い者が戦争へ駆り出されるようになってしまった」

ということは、もし僕が町を歩いていたら、戦争に連れていかれたかもしれないということだ。

「またしばらく町はお預けか~」

ビーンズをころころとフォークで転がした。不老不死なんて怪物が気軽に町中におりていくことはできない。いくつもの町を転々とし、誰も僕を僕と認識できないようにしてきた。そんなときに出会ったのが神様だ。人食いの化け物がでると言われていた森に住んでいた。古びた教会を今も思い出すことができる。

「……明日、ここを出ようと思う」

神様は平たんな声音でそう言った。まるで明日雨が降るそうだ、と世間話をするような調子だ。いや、彼なら明日爆弾が降ってくるという話でも、同じように平たんなのかもしれない。

「いきなりだね」

青いビー玉のような瞳が僕を見る。どうするか尋ねている。

「もちろん僕も一緒に行くよ」

「……それがいい」 がたがたと窓に風が打ち付ける。雨が降るのかもしれない。フレアが言っていたことを思い出す。この町の古くからの言い伝えらしいが、嵐の前の晩には人食い悪魔”アジン”が出歩くのだそうだ。外に出ていた人間は食われて死んでしまう。極力明かりも小さくして、息をひそめているのがよいのだという。

「嵐か、ちょうどよい」

神様はウサギの骨まで口に含むと、がりがりと音を立てて飲み込んだ。

グラスの中のワインを空けると、ゆっくりと立ち上がった。

「未明にはここを出る」

「フレアに挨拶だけでもしたいなぁ」

静かな否定の視線がささる。わかっているつもりだが、やはり慣れ親しんだ人との別れは寂しいものがある。ウサギの最後の一欠けらを飲み下し、飲めないワインのボトルに手を伸ばした。神様がルンルン気取りで買ってきたワインだ。

「……」

じっと僕を見るだけで神様は何も言わない。

「いつ僕は人ではなくなるのだろうか」

テーブルの上に飾りで灯していた蝋燭の火に合わせて、神様の瞳が揺れた。僕の言葉がわからない彼は、やはり神様ではないのかもしれない。でも、僕の隣にいられるのは、きっと神様だけなのだ。

コルクを抜いて、瓶に口をつけると勢いよく飲み下す。渋いブドウの味がする。最後まで飲むと、神様も渋い顔をした。それを見て、なんだか楽しい気分になる。

「ケーキを食べよ」

「あとで食べる」

神様はふい、と横を向いてダイニングから出て行ってしまった。少し怒らせたかもしれない。けれども、僕だってフレアと最後に話したかったんだ。




「アジンの正体は熊か」

弾は外した。熊の下にはまだわずかに息をしているフレアが横たわっている。だがその目は何も映していないのだろう、虚ろである。苦しみすらもはや感じていないだろう。はらわたの悪臭がこちらまで漂っている。銃の音で熊はこちらに気付いた。ゆっくり凶暴な瞳をこちらに向ける。

「フレア……」

後ろで声がした。あれだけ車に行っていろ、と言ったのにこの死なない男は言うことを聞かない。加護があるからこいつは死なないかもしれないが、周りの者は巻き込まれてしまっているというのに。今も、フレアに最後の挨拶をしに行くと聞かなかったから行かせたのに、熊がでたときた。私は不老不死ではない。ヒトより長生きする怪物だ。熊にだって殺されるだろう。

「フレアはもうダメだ。車に行ってろ」

「神様は?」

「私は……当分の食料をとってくる」

背後から気配が消えた。車に向かったのだろう。ライフル銃を構えなおし、熊に向ける。猟師でもなければ、銃を普段から使い慣れているわけでもない。防御力は人と同じなのだ。私は何の加護もないただ長く生きているだけの怪物。

「貸して」

不意に銃を取り上げられる。突き飛ばされて前のめりに部屋の中へ倒れる。銃声と熊の雄たけびはほぼ同時だった。瞬きをした瞬間には、目の前に熊が倒れ込んだ。眉間に銃の痕が見える。

「大丈夫?」 肩を引っ張られてゆっくりと起き上がると、男はぎこちない笑みを浮かべた。

「神様は銃に慣れてなかったなって」

「お前こそ、ずいぶん慣れているな」

「うーん、厭世的な生き方をしてたことがあるから」

あと、と付け加えるように部屋の外を見やる。そちらに視線を向けると、階段の上で中型犬ほどの大きさの熊が横たわっていた。どうやら子連れだったらしい。

「食料増えたね」

「いくぞ」

血の匂いは雨に流れてしまうだろう。フレアが発見されるまでには時間がかかるかもしれない。さっきまであった息はもうない。ただの肉塊となった彼女に手向ける花など今はない。男は「さよなら、フレア」とつぶやくと、さっさと階下に降りて行った。彼は知っている。死神に避けられているせいで、二度とフレアに会えないことを。

車に乗り込むと、予定していたルート通りに町を出た。



新しい家は、農家だった。耕作地と農家のワンセットで売りに出されていたのだ。即日、家だけを買い取り、金を一括で振り込んだことで多少怪しまれたが、お得意の名前を出すと、すぐに納得した。

ワンダー・エリック。私が使っている偽名ではない。死なない男が使っているP.N だ。彼は画家として活躍している。時代にとらわれない様々な技法を巧みに使って描かれる絵画には、時価にして数億はくだらない。だが、男がそのまま世間に出れば、不老不死がバレてしまう。そこで、私が人間に擬態してワンダー・エリックを演じているのだ。

ほどよく町から離れており、農作地が周囲に広がっているおかげで、人の姿はない。農作地に買い手がついても、家の中にまで入っては来ないだろう。

「この町は戦争をしていないの?」

「この町は中立の立場をとっている」

二枚の絵画を布にくるんだ。行きたいなぁ、という男のつぶやきを無視する。比較的小さな町だ。ワンダー・エリックが若い綺麗な男を連れていれば悪い噂も立ちそうだ。前の町では、そうだった。

とはいえ、家に缶詰め、フレアのように話せる人もいないのだから、フラストレーションもたまるのだろう。最近彼は、不機嫌を隠さない。

「神様は写真撮るのへたくそだしなぁ……」

確かに私は機械を動かすのはへたくそだ。車も、どれだけ時間が経っても扱いが不慣れだ。死なない男は私の撮った風景や町並みを絵画におこしている。下手な写真より上手な写真のほうがよいのは決まっている。

「今度祭りがあるらしい」

私はそれだけ言うと包みをもって、家を出た。間際に男の表情を見れば、好奇心が抑えられないようだった。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中だ。



もし不老不死が見つかって組織に追われる身になったら、神様とはいられないだろう。僕は捕まらなくても、彼はわからない。僕は捕まっても平気かもしれないけど、彼は平気ではない。だから我儘なんて言いたくはなかった。それでも町に出たかったのは、この町が、僕が初めて家出をした町だからだ。適当に選んだ町だが、十年ほど住んだ。当時の知り合いはみんな死んでしまっただろうが、町を歩けばその当時の記憶もおぼろげに思い出すだろう。

ジニアは、この町一番の女性だった。お世辞にも美人ではなかったが、気立ての良い愛嬌のある人だった。その人に夢中になっていたことだけは、よく覚えている。歳をとらない僕を最初にいぶかしんだのも、彼女だった。

やだわ、皴が増えて、と呟いたあと、僕の顔を見て不思議そうな顔をした。 それがきっかけで僕は別の町に移った。彼女とはずっと一緒にはいられないのだと、そのときは絶望したはずだ。どの町に行っても、どんな人と一緒にいても、歳をとらない僕は不気味で浮いていた。

心が疲れてしまった、そんなときに出会ったのが、神様だった。彼は千年以上も生きているという。ならば、僕と一緒に生きるだろう。そんな希望をもって、今も一緒にいる。彼はとても律儀だから、僕を守ってくれようとする。嬉しいと素直に思う。

不意に、窓の外を見ると車が戻ってくる。さっき出かけたばかりなのに、と思いつつ、玄関に出ると、車は庭に乱暴に止められた。

「どうしたの?」

「先の崖が崩れていた」

「えー、祭りは?」

「三週間もすれば撤去されるだろう」

絵画の入った包みを車から出し、家の中に運び入れると、神様はどこかへ電話をかけた。崖崩れをなおしてくれ、という電話だろうと思っていたら、怒ったように電話を切った。彼が感情的になるのは珍しい。

「どうしたの?」

「絵画を届けられないと言ったら、取引をしないと言われた。なめられたもんだ」

「まぁ、まぁ。小さい町だし」

「そうだ。大きな町には行けない。だから取引場所は限られているんだ。前の町ではお前の存在に気付いていたようだったし、私がワンダーを演じ

るのは難しいのかもしれない」

上着と帽子をハンガーラックにかけ、近くの椅子にどかりと腰をかける。

途端に崩れだした顔だが、すぐに人の形に戻る。

「……ワンダー・エリックは死んだ」

ワンダー・エリックの前はシー・レンダ。その前は宗悠久。その前はエミリ・ジョンソン。最初の名前は忘れた。そうやって幾人もの名前を殺してきた。今回もワンダー・エリックには死んでもらえばいい。

重たい瞼をした神様は、小さくうなずく。納得したくはないらしいが、そうするしか方法がない、と言った感じか。

「名前はどうする?」

「ジニア・ウィンドゥ」

「決めていたのか?」「いや、なんとなく」

新進気鋭の若手作家がいい、と言うと、神様はその場で爽やかな青年に変化した。金色の髪に、青色の瞳。たくましい体躯の男は、甘いマスクで、人を魅了するのだろう。若い女性に人気が出そうだ。それに合わせて作風も変えなければならない。

「私の最期の仕事をしなければな」

再び初老の男になる。その姿を見るのがこれで最後かと思うと、なぜか寂しくなった。



ワンダー・エリックの死は戦争を一時的にでも止めるほどの衝撃を世界に与えた。遺作として、公表された絵画には初老の男と、小さな犬が描かれており、自画像だと世間に公表された。今までで一番の値段が付いたらしい。

代わりに台頭してきた若き才能はネットを中心に話題になっていた。主に若年層の女子を筆頭に人気になりつつある。ジニア・ウィンドゥの名前は、農家の一室にもテレビから響き渡っていた。

農家は、そのままジニアが引き継ぐ形になった。ワンダー・エリックの孫だと、偽装して相続したのだ。ワンダー・エリックの最期の絵画のお金はすべて町に寄贈したのも、印象をよくするためだ。おかげで、取引がスムーズになり、安定して再び稼ぐことができるようになった。

祭りに行くために車に乗り込むと、神様は浮かない顔をした。まだ、町にいくことを反対されている。若い男同士、良い組み合わせだと思っているのだが、神様は不安らしい。

「神様だなんて私を呼ばないでくれよ」

「わかってるよ、ジニア。ジニアも僕のことをあれとかそれ、と呼んではいけないよ」

「……何と呼べば」

「ユーリ」 今度こそ諦めたのか、神様は車のエンジンをかけた。形的には祖父の遺産を受け継いだことになるので、車は変えていない。がたがたと農道を進み始める。広大な農地にはトラクターが行き来している。カーラジオからはカントリーな音楽がひっきりなしに流れていき、心地よい。

「ユーリ、寝てていいぞ」

うん、と返事をしただろうか。それすらもわからず、気付けば眠っていた。



賑やかな町は、至る所にランタンや装飾品が散りばめられている。きらびやかに着飾った人たちがあちこちの屋台で買い食いをしたり、大道芸に投げ銭をしていたりする。死なない男は完全なお上りさん状態で、あちこちに視線を走らせていた。カメラのシャッターを切る気配がない。

「ユーリ」

「何?」

「はぐれるなよ」

子どもではないし、路地に入らなければ危ないことはないだろう。だが、目が離せない。幼い子どもを相手にしているような感覚に、車の中で覚えた不安が正しかったと思う。背格好が近いので、友人として振る舞うのがよいのだろうが。初老時代の名残が私たちの間にはある。

「ケバブ!」

「……そこで待っとけ。動くなよ」

「わかってるよ~」

確かにあいつはわかっているよ、と言った。その言葉を信じた私が悪いのだろうか。ケバブの屋台から戻ってみれば死なない男はいなかった。誘拐されるような通りではない。人ごみであるし、もしかしたら道案内に声をかけられたかもしれない。断れよ、と口の中で毒づく。近くの出店の椅子に座る二人の女子に近づいた。初老の男よりも警戒されそうだが、なるべく柔らかい雰囲気を出すように、声をかける。

「やぁ、すまないんだが」

目鼻立ちのはっきりした、女子が警戒するようにこちらを見る。もう一人はおっとりとしているのか、にこりと微笑んだ。

「人を見かけたか聞いていいかい?」

「人ならたくさんいるわよ」

つんけんとした声音に、手ごわさを感じる。それに対して、もう一人が、小さくたしなめる。

「背の高い東洋人を見なかったかい?黒い髪に黒い瞳をしている」

「それなら――」

「あ、こら!」

何かを隠しているのかもしれない。焦りが顔に出たのか、気の強そうな彼女はより一層眉間にしわを寄せた。彼女を攻略しなければ、聞き出せないだろう。他を当たろうにも誰に声をかけてよいのかわからない。一秒一秒が惜しいと感じられる。

「大事な人なんですの?」

大人しい彼女がそう声をかけた。もう一人は止めようと口を出そうとするが、逆ににこりと微笑まれて引き下がる。私にとって、彼の存在は厄介極まりないものだ。千年以上孤独に生きてきて、突如現れた死なない男だ。彼の話を聞くと、死なないどころか、周囲の人間を死に巻き込んでいる。

私もそのうちの一人になるのではないか、といつも怖く思う。

だが一方で、死ねるのではないかと期待している自分もいる。

千年近く生きてきた。もう死んでもよいのではないか。そう思う自分がいる。自死は選ぶことができない弱気な自分を、殺してくれるのではないか、と。 しかし同時に、この男を一人にしたくはない私も育ってきた。ただ愛しいだけなら、こんな複雑な思いなど抱かなかっただろう。それを彼女たちに簡単に説明できるほど、私は言葉を持っていない。

「もう、長いこと一緒にいる。それが私たちの関係だ」

誰の言葉にもできないのだ。私はその場に膝をつき、彼女たちと視線を合わせる。

「私の名前はジニア・ウィンドゥ。友人を探している」

「ジニア? もしかしてジニアって、あの」

私は曖昧に微笑む。すっと出された柔肌の手に手を重ねて握手をした。本来なら正体など明かさない。危険な真似をしてまでも死なない男の居場所を知りたかった。金も名誉も権力も私にとっては後付けでしかない。いや、それは私のものではない。でも、あの男を見捨てることはできなかった。

「ジニア?」

後ろから名前を呼ばれる。振り返るとその手には飲み物が握られている。

目の前の彼女たちはクスクスと笑っている。

「ナンパ?」

思わず出たため息についに彼女たちは大笑いを始めた。私はなるべく平然を装って、立ち上がった。死なない男は飲み物を買いに行っただけだった。それを彼女たちは見ていたのだ。意味深に言葉を並べて、私をおちょくっていた。怒りよりも恥ずかしさのほうが先に立つ。

「君は私を最も不幸な男にもする」

ヴェートーベンの言葉をもじった。

「照れるなぁ」

詰ったのに、だが元の言葉を知っていたのか、こいつは照れて笑う。

「ジニアはあなたのことが大好きみたいですわね」

彼女たちの笑い声が、洪水のように感情を押し流していく。持っていたケバブを無理やり押し付けると、私は死なない男が持っていたビールをひったくって、飲み下す。おそらく車の運転があるから、片方はノンアルコールだ。

「ユーリ」

「何?」

「はぐれるなと言っただろう」



安い宿の一室は埃っぽい匂いに満ちている。黄ばんだシーツに身を横たえると、まだ祭りの余韻に満ちた町の喧騒が耳に届く。神様が声をかけていた彼女たちは面白いものを見ることができたと、席を譲ってくれた。そのまま仲睦まじく祭りの中に消えていく姿は、泡沫のように儚く、しかしとても正しく見えた。

「ぐおっ」

すぐ隣には酔いつぶれた神様がいる。自棄になって強い酒をがぶ飲みにしていたから、ついには車にもたどり着けなかった。しかし広いキングサイズのベッドが一つしかない部屋も車も大して変わらないような気がする。

「神様」

僕は嬉しかった。彼女たちから聞いた言葉が本当ならば、僕は相当好かれていることになる。シーツに手を這わせ、彼の太い左腕に触れる。体温が異常に低く感じ、人間ではないことがうかがえる。寝息がなければ死んでいるのかと思うほどだ。

「僕は、あなたがいるのにもっと幸せになりたい」

明かりの届かない部屋の四隅を怖いと思ったことはない。僕は自分が幸せだと信じて疑ったことはなかった。事実、幸せな人生なのだろう。でも僕には明らかにないものがある。

寿命だ。

満ち足りたまま死ねたら、僕は最高に幸せなのだ。

町の明かりが、喧騒が、そっと死の気配をもたらす。今日もどこかで誰かが死んでいる。あぁ、フレアは見つかったのだろうか。あの一人の屋敷で。

「神様、僕は死にたい」

あのフレアのように、神様に食い殺されたかった。

森には人食いの悪魔が出ると言われていた。

よくあるおとぎ話だと人々は相手にしていない風を装って、実は、心の中では怖がっている。森に近づくと恐ろしい声が聞こえるだとか、怪物の姿を見たとか、そんな噂ばかりが絶えないからだ。

僕は夜になると、その森に入った。その人食いの悪魔に殺してもらおうと思ったのだ。黒い森は、一寸先も見えない。月明かりなんて木々に隠れて届くはずもない。至る所にある洞から風が漏れて、不気味な声にも聞こえる。大きなせり出した岩が、巨大な斧をふるう怪物にも見える。

それでも僕は森の中を歩き続けた。そして夜が明け始めたころ、ようやく開けた場所に出た。古びた、しかし廃れてはいない教会がぽつんと現れたのだ。すでに何かの気配を感じることはできた。教会の窓に何か蠢くものを見つけたのだ。

人食いの悪魔はいたのだと、安堵すら感じた僕は、ゆっくりと教会のドアに近づいた。夜露に濡れたドアノブはひんやりと冷たい。「どなたですか?」

不意に後ろから声がかかる。足音も、気配もなかった。僕の背筋が粟立つ。死にこんなにも歓喜する人はいるだろか。やにわに振り返ると、そこには神父と見られる男が立っていた。四十代くらいだろうか。表情は硬いが、敵意や殺意は見られない。

「あなたは……」

「迷子ですか?」

「私を殺せますか?」

神父はわずかに目を細めると、小さく首を横に振った。

「あなたが、人食い悪魔ですよね?」

「そう、言われていますね」

「なら、僕を殺してください!」

掴みかかるようにして縋り付くと、しかし神父は一歩も揺るがない。無表情のまま、僕の体をしっかりと支えた。

「加護を受けている。それも強い。死ねないだろう」

朝日を浴びだした草は露に濡れて冷たかった。男の体温は、それ以上に冷たかった。

目が覚めると、すでに神様は起きていた。あれだけ飲んだのに、二日酔いもないのか読書をしている。安宿の窓から朝日が入り込み、不意に夢の中のあの森を思い出す。あの森からはずいぶんと遠くへ来た。昨夜に感じた強烈な死へのあこがれは、いつの間にかなりを潜め、今は生きている喜びをかみしめている。

衣擦れの音で気付いたのか、神様は本にしおりを挟むと、わずかに笑んだような気がした。それは一瞬のことで、すでに仏頂面だ。シーツをたどって僕のもとまで来ると、見下ろされる。不思議に思っていると、分厚い手が僕の頬を撫でた。

「泣いている」

「……あ、本当だ」

悲しい夢だっただろうか。むしろ神様と出会えた最高の夢だったのではないか。いや、死にたかった僕には悲しい夢に違いないか。シーツで涙をぬぐうと、ひっきりなしにあふれてくるのか、あっという間に水の痕が広がる。

「悲しいのか?」

「違うと思う。体がバグったんだ。きっと。あんまりにも幸せだから」

神様は本を放りだして、僕の隣に身を横たえる。子どもをあやすように、背中を撫でられる。必然的に息が絡むほど近くなった。心臓の音も、体温もないのに、誰よりも僕に幸せをくれる。

「神様」

母国の言葉を口にするとき、神様は答えない。言葉を知らないからだろう。

「僕も同じ気持ちだよ」

幸福と共に不幸も背負って、神様と生きるのだ。

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