Hopelessness 絶望と君

村田翼

恋のきっかけ

「西園寺、この資料まとめておいてくれ」

5メートルほど先に座っている上司が少し張った声色で俺を呼んだ。

「わかりました。」

俺は自分のデスクを立ち、早歩きで上司の坂本さんのデスクへ紙の資料を取りに行った。このオフィスは40階建ての高層ビルの6階にあり、おおよそ30人ほどが仕事をしているそこそこ大きな一室にある。俺は東京の大学卒業後、一流とまではいかないが東京の上場企業に就職することができた。ここで働き始めて3年目。仕事も板につき始め、新人の手伝いなどもするようになった。

「坂本さん、この資料はいつまでにまとめればいいですか」

「来週までにはおねがいしたいな。今の仕事終わってからで大丈夫だぞ」

「了解です。」

おれは席に戻り、時刻を確認する。あと5分で定時の5時になる。周りも仕事を切り上げ始めた。俺もそれに合わせ、パソコンの電源を切り、荷物をまとめ始める。

すると俺の携帯の通知音が鳴る。

『りょうた、今日、飲みに行かねーか』

画面には友人の西沢滝からメッセージが届いていた。滝とは定期的に飲みに行く大学のころの友人だ。滝は俺と同い年で、大学一年からの仲だ。

『いいぞ。いつもの飲み屋で待ち合わせだ』

俺はメッセージを送り、オフィスのみんなに挨拶をし、会社を出た。11月下旬のそよ風を受け、俺はスーツだけではしのげないなと、白い息とともに小さく声を漏らした。


「遅いぞ。」

会社から数駅先にある喧騒としたいつもの居酒屋に入るとそこにはすでに酒を飲み始めている滝がいた。

「悪い。乗ろうとしてた電車が目の前で行っちまった。」

定期的に開かれるこの飲みではこいつの惚気話を聞かされる。他人の恋の話を聞くのは、俺自身嫌いじゃない。それは自分の恋愛観が他人とずれているからなのだろうか。俺は普通の恋をしたい。


いつものごとく、滝の惚気に付き合い、酒と時間だけが淡々と進んでゆく。

「りょうたはまだ彼女作らないのか?」

その問いに俺は口に触れかけたグラスを机に戻し、答える。

「俺は恋がしたい。けど恋ができない。」

酒が回っていたせいかいつもなら鼻で笑って、やり過ごす質問に俺は答えていた。ズボンのポケットに入っているたばこを取り出し、一本吸い始める。

「恋が出来ない?それはお前はきっかけに出会ってないからだよ。恋愛なんて初めは些細なきっかけから始まるんだよ」

滝が恋愛マスターを気取るような口振りで言う。そんな言葉を流して俺は続ける。

「俺は普通の女性にはときめかないんだ。俺は悲哀で、虚ろな表情をする女性にしかひかれないんだ」

半分嘘で、半分真実の、俺にとっては曖昧で、不明瞭な自分を隠した言葉を口に出した。酔っていても自分の異常性だけは隠し通す自分を鼻で笑った。

「少し分かるかもしれないな。俺も彼女が寂しそうな表情するとドキッとするからな」

違う。そうじゃないんだ。滝。友人にすら自分をさらけ出せない自分に腹が立つ。飲みかけたビールを自分へのいらだちとやり場のない感情と共に呑み下した。たばこの独特なにおいにその場は包まれていた。


その日は、9時ほどまで滝と呑み、居酒屋で解散した。帰り道、俺は過去の恋愛を想起していた。初めて異性を好きになったのは高校3年の頃、隣のクラスの女の子だった。ある日の放課後、忘れ物を取りに廊下を歩いていると、その女の子は泣いていた。今でも覚えている。あの悲愴な表情。この世界に一点の希望も見いだせていない表情。人生で初めて女性を美しいと、そう感じた。俺は泣いているその子の側により、ハンカチを渡した。涙を止めたかったんじゃない、もっと近くで見たかった。そんな邪な考えだった。彼女はクラスの女子から陰口を言われており、誰にも相談できずに泣いていたのだった。その日から、僕らは放課後、話すようになった。

その子への陰湿な嫌がらせは陰口では収まらなくなった。今までいじめの現場を見せてこなかったいじめっ子たちは、ある日、その女の子に放課後、花瓶の水をかけていた。その場を俺は目撃した。心の底から嫌悪感が沸き上がってきた。俺は携帯を取り出し、陰からいじめの動画を取り、それをいじめっ子らに見せつけた。この動画を学校に送られたくなかったら、今すぐにいじめをやめろを忠告した。彼女たちは、顔を曇らせ、放課後の教室から駆け足で出て行った。

俺はいじめられていた彼女のほうを見ると、泣きながらも、その表情は明るかった。俺の服の端を強く掴み、顔を俺の胸に埋め、何度もありがとうと言い、泣いていた。俺はそんな彼女の涙でくしゃくしゃになりながらも、希望を見つけたような表情を見て気づいた。あんなに好きで胸がいっぱいになっていた彼女に対しての想いが一切なくなっていることに。その時、自分の異常性を自覚した。俺はこの世界に絶望し、世界に見放されたと感じている女性にしか惹かれないことに気付いた。この世界は自分を受け入れてくれないと、心の奥底で感じた。その日以降、俺は放課後、彼女に会わなくなった。

その日はそんな昔話にふけて、帰路につき、家に帰った。いつもの夜道より、少しそっけない風が吹いていた。


朝の小うるさいアラームで目が覚める。テレビをつけ、朝食を作り始める。

『今日は、午後から夕方にかけて雨となるでしょう。お出かけの方は傘を忘れずに』

テレビからは紅葉色のワンピースに身を包み、さりげない銀のネックレスが様になるお天気お姉さんの耳障りの良い声が意識もせずとも耳に入る。

朝のたばこを一本吸い終えると、身支度を整え、今日はコートを着て、お天気お姉さんに忠実に傘を持ち、会社へ向かう。

均一性のない、乱雑な足音が駅の改札にこだまして、見知らぬ人の波に飲まれながら、ホームへと足を運ぶ。エスカレーターを登れば、皆が各々の向かうべき先を目指して同じ道を辿る。多種多様な表情を持つ少年少女、老若男女が一斉に同じ電車へと乗り込む光景は日常として存在しながらも、俺には異様な一コマとして映っていた。なんの変哲のないこの日常は、私の存在を否定しているように感じた。そんな物憂げな空気をまとった俺は会社へたどり着き、与えられた仕事を黙々とこなす。


定時の5時となり、代り映えのしない一日の終わりをオフィスの時計がコーンと鐘の音を鳴らし、我々に告げる。しかし、俺は自分のデスクに積まれたファイルの山をみて、今日は残業確定だと憂鬱な気分になり、椅子に背を預け、体を伸ばす。

「少し休むか」

俺は誰にも聞こえないほど小さな声でそう、つぶやいた。この会社の23階にはバルコニーがあり、そこで残業がある日は一人風に当てられて、たばこを吸うのが俺のルーティーンだ。今日は午後の3時ほどまで雨がビルのガラスにあたり、オフィス内はその不規則な雨音に響き渡っていたが、いつの間にかその音は弱まり、消えていた。

俺は周りの社員たちがオフィスを出るのに便乗し、その流れで廊下にある自動販売機で缶コーヒーを買った。カランと音を立てて落ちた缶コーヒーが、その熱さで両手の掌を踊るように行き来する。俺は缶コーヒーの熱さが掌に馴染ませながら、この会社の社員たちがある程度会社を出るのを廊下のベンチで一人待つ。10分ほどベンチでぼんやり、天井の換気扇を眺め、換気扇のファンの音に耳を澄ます。ある程度、人が帰ったであろう時にエレベーターに乗り、23階のボタンを押す。上がっていくエレベーターは、やけに長く感じる。俺は静寂なエレベーターの中でたばこを持ったかふと不安になり、スーツの胸ポケットに手を当てる。かたい箱状の感触とライターの感触がスーツの布越しに手に伝わり、安堵する。エレベーターの壁に寄りかかり、今何階にいるのかを2秒おきに確認する。やはり、この時間が一日で最も長く感じる時間だ。俺はコートを着忘れたことに気づき、取りに戻るか考えたときにチンとエレベーターが23階についたことを知らせ、扉が開いた。戻るか迷ったが、往復するのは面倒だと、そのままバルコニーへと足を運ばせた。


エレベーターを出て、廊下を左に直進するとバルコニーのガラス扉が現れる。ガラス扉の外側はまだ今日の雨でぬれているのが、内側からでも分かった。そのガラス扉のドアノブに手をかけ、奥に押す。扉の隙間から11月らしい冷たい風が俺の頬をひりひりと痛めつける。やはり、一度戻るべきかと考えながらも、ドアノブを押して、扉を開き、一歩進んだ。ドアの上には、バルコニーを黄色の照明が照らしている。するといつもの閑散としたバルコニーに人の後ろ姿が静寂の中、ポツリと立っていた。俺は一瞬、目を疑った。一人の女性がバルコニーの柵を超えて立っていたのだ。俺は驚き、歩きながらも掴んでいたドアノブから手を放し、声も出せないままそこに立ち尽くしていた。すると、開いたドアが風に押され、バンと音を立てて締まった。その音を聞き、俺は意識を取り戻したように、空想の世界から現実に戻される感覚を味わった。柵の向こうに立っている女性もドアの音を聞き、素早く踵を返した。そして俺は彼女と目が合った。俺と彼女の間の10メートルほどの距離を冬の風が空気をよんだかのように通りすぎる。

彼女の眼が俺の体内時計を狂わせる。その眼は俺をここではない、永遠の時の世界へと誘い、その眼は俺を放さなかった。照明に照らされる彼女の目は少し茶色気のあるきれいな目だったが、その目の奥では世界を拒絶したどこまでも黒く淀んだ色をしていた。そんなこの世界の光を拒み続けている瞳が高校時代の放課後に出会ったあの少女を想起させた。絶望はいつも突如として俺と出会う。俺の心が、その瞳に引き締められるを実感した。その瞳は俺の心を強く捉えて離さない。俺もその瞳から離れたくはないと感じていた。締め付けられる心が何よりも心地よかった。この時が永遠に続けばいいのにと懇願していた。

しかし、現実の時間は俺の感覚の時間を無視し、進み続ける。目が合い、1秒もしないうちに彼女はまた踵を返して、空気を読まずに輝き続ける東京の夜景のほうを向く。

彼女と目が離れた俺はやっとそこに立つ女性の全貌が思考へと流れ込んできた。160センチほどの背丈の彼女の後ろ髪は腰まですらりと流れるロングヘアーで、薄茶色のコートで身を包み、その後ろ姿は誰よりも哀愁漂う夜景に似合っていた。

「出て行って。一人にして」

彼女は顔を少し左のほうへに向けて、つぶやいた。きれいな線を描いた鼻筋が影となって露わになる。彼女は柵の向こうで立っていながらも、恐怖のあまりか、まだ雨でぬれた柵を強く握っている。

俺は濡れたタイルのバルコニーを一歩前に進み、彼女に無言で近づく。

「来ないで」

少し張った声色で彼女が言う。

彼女を止めなくては。なぜそう思ったのか、一瞬おれは戸惑う。目の前で人に死んでほしくないから?誰かが死ぬのを目撃したくないから?違う。そんな単純な理由ではこの気持ちは言い表せない。そんなことを思っていると、彼女の横顔に一滴の雫が冷たく滴り、頬を撫でた。ああ、俺はもっと見たいのだ。もっと彼女の表情を、彼女の瞳を、彼女の絶望をより近くで見たいのだ。だから彼女を止めなくてはならないのだと気が付いた。懐かしい感覚だった。随分と忘れていた感覚だった。放課後に出会ったあの少女の泣き顔を見たいがためにハンカチを渡したあの時の自分が今ここに現れた。

俺は一歩だけ進み、足を止めた。彼女にかける声を脳内を縦横無尽に駆け巡り探した。どんなに思考を巡らせても、正解の言葉は見つからず、俺は訳も分からず、ただ滑りそうになりながら濡れたバルコニーを走り、柵をつかんでいる彼女の手の首を握った。彼女の腕は震えていた。

急に手首を握られた彼女は、素早くこちらを振り返り、驚いた目が俺の目とまた合う。

「生きて」

とっさに俺の口から出た言葉はなんの重みもない、無責任で自己中心的な言葉だった。それでも俺は彼女の目から視線を放さなかった。至近距離で見た彼女の表情は、まだ世界をあきらめきれてないように俺には映った。それでもなお、その瞳には希望は感じられなかった。あるのは世界に対しての絶望の色。俺は彼女は彼女自身の中でまだ死に対して愚直になれていないことに気付いた。彼女はまだ生きたがっている。矛盾した二つの欲望に彼女は板挟みにされているのだと悟った。

「放して。死なせて」

さっきよりも震えた声で彼女は言う。この震えは死に対する恐怖からくるものなのだろうか。それとも生きたいと思っている自分の矛盾した発言に対するやり場のない感情からくる震えなのだろうか。俺はそんなことを思いながらも、彼女を死なせてはならないと必死に彼女の手首を握っていた。彼女が死んでしまえば、俺は彼女の絶望した表情を金輪際見れなくなってしまう。どうしようもなく邪で、自分の醜い欲求に正直な自分の愚かさに対し腹が立ったが、その自分勝手さこそが今は必要なのだと言い聞かせた。

「死んだら何も残らないぞ」

俺は必死に彼女を思い留まらせる言葉を模索して、思いついた先からその言葉を口に出す。

「何も残したくないから死にたいのよ」

彼女は声を振るわせ、張った声で俺に言う。

「そもそもあなたには関係ないでしょ。早くここから消えてよ。一人で死なせてよ」

震えた声で彼女は続ける。顔は見えないが、その目には確実に涙が今にも溢れそうに溜まっているのが分かった。

「関係なくない。俺は君のことが知りたい」

俺は静寂を切るように、彼女の後ろ姿に向けて声を上げる。その声は自分が思ってるより数倍、大きな声で口から発せられた。その言葉は嘘偽りない本心で、心の底からそう思った。俺は目の前にいる名前も知らない女性に心から惹かれ、既に俺の心はその人を求めていた。俺にとってこの出会いは、今までパズルのピースが欠けていた日常に、やっと見つけた最後のピースのような気がしていた。ここで彼女を失ったら、俺は今後の人生が一生不完全で、完成することのないジグソーパズルとなることを確信していた。だから、もう彼女は俺の人生において関係のない人物ではなくなっていた。

「知ってどうするんです?今から死ぬ女の名前なんて知ったって何にもならないですよ」

彼女は嘲笑した声で俺に言う。俺は何を言ったってこのままではこの人は死んでしまうと、そんな不安で心が押し潰されそうになった。

「何で死のうと思ったんですか?何で生きる事を諦めようとしてるんですか?」

「だから関係ないでしょ!」

彼女の怒鳴り声がビル群にこだまする。

「もう関係なくない。俺は出会ってしまったんだよ。自分が今まで探していた人に」

その声にあてられた俺は彼女の声に負けないくらいの声量で、今の気持ちの全てを込めて彼女にぶつけた。

「なに?死のうとしてる女に惚れたとでも言うの?」

彼女はこちらに目を向けずに、きらびやかな夜景に目をやりながら呟く。それは抑揚のない単調な声色だった。

「そうだ。君は僕が探していた人なんだ」

まるで運命論者のようなロマンスに溢れた臭いセリフがスラスラと口から溢れでた。

「よくもまぁ、何も知らない女性にそんな無責任で小っ恥ずかしいこと言えますね」

彼女は見下すでもなく、小馬鹿にするでもない、少し暖かさを感じさせる声で俺に言った。

俺はこの時、彼女を救える兆しがあることを確信した。彼女は救える。彼女の事をもっと知れる。掴んでいる彼女の手からはその脈がどくん、どくん、感じられた。それに合わせて俺の鼓動も同調していく。

「俺は西園寺って言うんだ。ここの会社で働いている。」

間を空けてはならないと咄嗟に俺は自己紹介を始める。こんな方法でしか間を埋め合わせる方法が思いつかなかった。

「聞いてもないのに、よく喋る人ですね」

彼女がまた起伏の乏しい口調で呟く。

「どんな事も自分を名乗る事から始めるべきだと思ったから」

そう、と彼女は上を向いて口籠もりながら言う。

「武田。私もここの会社で働いているの」

上を向いたまま彼女が俺の場繋ぎの自己紹介に合わせてくる。俺は少し前に進めた気がして、彼女の手首を少し強めに握る。

「何で私を止めたの?あなたは他人の自殺を止めるような人には見えないわ」

俺はぞっとした。この人はこの一瞬の出会いで俺のことをどこまで見透かしているのだろうか。事実、俺は彼女の絶望した表情を見て惚れたから、こんな突拍子もない行動に移っているが、もしも彼女が絶望もしてない、ただの悲しみの表情だったら、ここまで必死なって止めていないだろう。ここまで洞察力の高い人間には今まで会ったことがなかった。俺はいつも自分の本質を隠してきた。自分でも気づかないようにしてきた。自分の心の奥底にある淀んだ感情や人間としての欠陥。そんな部分を必死に隠して、偽って生きてきたのに、彼女はそれを見破ったのだ。今まで俺の異質性を見抜いた人は居なかった。あぁ、彼女に絶望を与えてくれてありがとうと私は運命に心から感謝した。俺を満たしてくれるのは彼女だけだと確信した。

「俺は人生で一度だけ、人に惚れたことがある。」

いつのまにか俺は自分語りを始めていた。

「その人は高校でいじめられていた女の子だった。その子の表情は言葉で言い表せないほど世界に対しての絶望で溢れていて、そんな表情に俺は惚れたんだ。」

「今の私はその子と同じ表情をしている?」

次の俺の言葉を読み取ったように彼女が被せてくる。

「あぁ、あの時の彼女よりも、先の君の絶望した表情は美しくて、失いたくないと思ったんだ。だから、俺はこうして君を止めている。」

「もしも私が世界に希望を見出したら、あなたはどう思うの?」

この人はどこまで俺を揺さぶってくるのだろうか。彼女はまだ夜景に顔を向けており、俺の方を見ようとしない。それでも俺の心は彼女の身も心も、この人の全てに惹かれていた。

「君が何で死にたがっているのかなんてどうでもいい。いまはただ君の事を知りたいんだ。」

自殺をしようとしている人にかけるような言葉ではない事は分かってきた。それでも彼女ならこの言葉を認めてくれると、この自己中心的な欲望を受け入れてくれると期待して、自己満に溢れたセリフを吐いた。すると彼女が振り返って僕を見つめてきた。彼女の涙袋は涙で赤く腫れていながらも、その表情は凛々しく、大人の顔立ちをしてきた。

「今の私は絶望した人の表情をしている?」

彼女が静かに問いかける。あぁ、してるとも。俺はそっと耳元で囁くように答える。

「じゃぁ、これならどう?」

彼女がそう言った瞬間、目に一点の光もなかった表情が一瞬にして、何処にでもいるOLの笑顔がそこに現れた。俺は不意に彼女を掴む手から力が抜ける。

「嘘で塗り固めた笑顔よ。それでも誰も嘘だって気づかない。本当の私は誰なのかすら、もう分からなくなっちゃった。この世界には本当の自分すら分からない私を受け入れてくれる場所がないように感じているの」

いつのまにか彼女の表情は元の暗い憂鬱な表情へと戻っていた。俺らは似ているんだ。そう思わざるを得なかった。この人も自分を隠し通して生きてきたんだ。世界に本当の自分を受け入れられるのか、その不安に苛まれてこれまで生きてきたんだろう。この短い会話で、俺は彼女の人生の一片を感じることができた。不意に彼女に対して親近感が湧いてきた。彼女がまた嘘で塗り固めた笑顔をこちらに向けてきた。

「これでもあなたは私に惚れたままでいる?」

試すような口調で俺を煽ってきた。俺は自分の鼓動が異常なほど上がっていくのを、心臓の鼓動が耳元まで届いていることで気がついた。

「あぁ、嘘で固めた君ですら、俺の心を惹きつけるんだ。」

つい言葉に出してしまった。自分でも信じられなかった。それは声に出した事じゃない。俺が普通の笑顔に惚れ惚れしていることにだ。いや、笑顔に惚れているのではない。目の前にいる底が見えない女性の全てに惚れているのだ。絶望した表情はただのきっかけに過ぎなかったんだ。俺は普通の恋が出来ていたことに気がついた。絶望した表情は滝が言っていたきっかけに過ぎなかった。恋とはその先にあるものだったんだと気が付いた。

「武田さん。俺も君と同じだったんだ。自分を隠して、友人にも嘘で塗り固めた言葉で会話して。それが日常だと、人生だと思ってた。そんな生き方しか出来ないんだって思い込んでた。でも君は俺に俺と同じ待遇の人がいる事を教えてくれたんだ。僕らは似ているんだ。もっと君のことが知りたい。理解したい。それが俺ら自身の理解にも繋がると思うんだ。」

濁流のように言葉が溢れてくる。ずっと、ずっと探してたんだ。独りよがりかも知れない。彼女は僕と同じだとは思ってないかも知れない。けど今はそんな事はどうだって良い。彼女の隣でもっと理解し合いたい。

「何よそれ。自分勝手な申し付けですね。今から死のうとしてる人と似ているって君、どっか狂っているよ」

彼女は、微笑しながらそう言った。その笑顔は多分、心から溢れたものだと思う。俺もつられて笑い出す。彼女は少し間を置いて俺に言う。

「こんなに人に自分のこと話したの初めて。どうしてだろうね。」

「死ぬの、お預けにしてくれるかな?」

俺は彼女にさりげなく問う。

「もうそんな気分じゃないわ。それに満月の日に死ぬのは少しロマンスに溢れてて嫌になっちゃった」

俺は上空を見上げて、雲の間から綺麗な円状の月が網膜に飛び込む。彼女はもう震えてはいなかった。俺は彼女と目を合わせ、握っていた彼女の手首から手を離す。もう必要のない支えだ。手を掴んでいたのは彼女を止めたかっただけじゃなくて、彼女に近づきたかったから掴んでいたのかも知れない。でももう、その必要はない。俺は肌が触れずとも、少し彼女に近づけたのだから。俺はここから本当の恋が始まるのだと、人生でやっと見つからなかったパズルのピースが手に入るのだと心は踊っていた。

「柵、乗り越えなきゃね」

彼女が優しい声でそう言うと濡れた柵に手をかけて右足を上げて柵を乗り越えようとする。

突如として強風が不意にビル群に吹き込む。絶望とは突然とやってくる。

濡れた柵。濡れた足場。空気を読んだかのように吹いた冬の風。

雨で濡れたタイルの床で彼女は強風に当てられて、重心がずれ、手が柵から滑り落ちる。彼女の愕然とした目と俺の視線が合う。俺はとっさに彼女の手を掴む。しかし、柵で濡れた手は俺の右手をすり抜ける。だめだ。掴めない。彼女は俺の視界から目を合わせたまま、ゆっくりとビルの下へと落ちてゆく。一瞬が永遠に感じるほどゆっくりと。

数秒した後、バンという生々しい音がビル街に響き渡り、ビルの下にいたであろう女性の悲鳴がここまで届いた。俺は咄嗟に踵を返し、濡れた床を滑りそうになりながらも走り、バルコニーの扉へ向かった。まずい。失ってしまう。やっと見つけた俺の恋が。俺のまともさが。俺の人間らしさが。

ドアにたどり着き、ドアノブに手を掛け、前のガラスに目を向ける。そこには雨で濡れたガラスに反射した俺の顔が写っていた。俺はそこに映る自分の顔を見て、体が硬直する。濡れたガラスに反射した自分と目が合う。この世界の何よりも黒く、どこまでも深いその瞳は世界のどれよりも絶望という言葉が似合っていた。俺は右手をガラスに写る自分の頬に当てる。そしてガラスに写った自分の目の周りにある水滴を親指で拭い取り、もっと鮮明に自分の目を見つめる。その瞳は今まで出会ってきたなによりも、深く絶望していて、どんなに高価な宝石とも比べ物にならないほど美しく奥深かった。もう、先ほど会った女性の名前も、顔も、瞳も、思い出せないほど、自分の瞳の甘美さに見惚れていた。

俺はバルコニーにきた目的をふと思い出したかのように、柵に手を掛け、胸ポケットからタバコを出し、ライターでタバコに火をつける。東京の夜景と欠けることを知らない満月が、俺と絶望との出会いを祝福してくれていた。

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