1-2 ざわめくもの




 月明かりが影を作っていた。

 足元へ落ちることのない影を。

 まるで描きかけの絵を隠すように、誰かが空間そのものに光も通さない重いクロスでもかけているようだ。足を付けていることすら忘れる一面の闇。その真中で、幕をつまみ上げて丸く切り取ったかのように冴やかに光を放つ天頂の円が、月の形を定義している。

 ――月のあかるい晩にはあの人が来てくれる!

 不可視の層の住人は鼻先を回らして心地の良い匂いを探した。眼窩には未だ必要な器官が収められていなかったが、視覚に頼らずとも光の差す方角も強さも知ることができるようだった。

 ――ママ、わたしにはもう鼻も、刃を握る手もあるわ!

 何もない闇に向かって白い二本の腕が動く。もし近付いて気の遠くなるほど長い間眺めることがあれば、その表面が液体のように静かに流れていることがわかるだろう。在り方はガラスに近いがそれより遥かに高い強度を持つ。望めば柔らかな粘土のように変化することもできたが、持ち主にその意思はないようだった。あくまでも幼い肢体のなめらかな手のひらの先、六つに分かれた指が空を彷徨っている。

 指はやがてシャツの裾を掴む。リネンの感触を認めた時、不可視の層の住人は顔を綻ばせた。

 ――ママ!

 白いシャツにゆったりとしたズボンを着けたエルフの"呼び手"が立っている。腰まで届く薄金色の長髪、上のエルフに多く見られる透き通るような青天の瞳……ヴェルザンが形ある世界において失った姿だった。

 この場所では、まだ彼女も自身の姿を再現することができた。しかしそれも今夜で終いだろう。


 <不可視の層>、それ以外に呼び名もないこの月下の世界は、目に映る現実と月を共有し、重なり合うように存在しながら形あるものとして実在することはない。ここにある全ては姿を持たず、闇と、世界が生まれて間もない頃と同様の泥濘が横たわるのみだ。その住人は時であり、流れであり、思念の状態で漂う精霊たちである。

 かれらは主に二種類の呼びかけに応じて働いた。一つは外、つまり形ある世界からの声。もう一つは不可視の層に現れる"呼び手"の声だ。

 呼び手の魂は二つの世界の境界を跨ぎ、不可視の層へ降り立つ。そして精霊の魂に言葉を与え、組織するイメージを与え編み上げさせる。光線は魂が記述する言葉に反射し、その束が存在を形作る。月が天頂に輝くとき、姿を与えられた精霊は境界を越え形ある世界に受肉する。


 ヴェルザンは彼女を母親と呼ぶそれを見やった。

 少女。柔らかなダークブロンドの毛髪。細い首、薄い胸、華奢なつくりの腕が、ヴェルザンの腰に縋り付いている。

「私の娘、」

 ヴェルザンが囁くと、少女のかたちをしたそれはじゃれるように身を捩った。声を聞き漏らすまいと頬を擦り寄せ、片耳をヴェルザンの顎先へ向ける。

「私の娘、贈り物がある」

 掠れた囁きは古いエルフのうたへと変わる。共通語の響きを失うにつれその声は透き通り、力強さを取り戻していく。呼び手の声は精霊に使命を与える。そして最後に、名前を。

 旋律は小川の流れ。冴え渡る水面に光の帯が翻る。時が岸を削り形を変えても、おまえの水は決して絶えることはない。おまえが地に伏すときまで。おまえが役目を終えるときまで。おまえがすべての――……



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魔法少女の生き残り 小出真利 @CrazyTikuwaGame

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