魔法少女の生き残り

小出真利

1-1 泥濘



 

 月明かりが影を作っていた。

 冬の国ヴァニリアの王城の庭を西へ四里程離れると、辺りは鬱蒼とした森になる。奥へ進んでいくと景色はより不気味に変わり、焦げ付いたような暗色の木々が捻れた幹で、枝々で、行く手を塞ぎはじめる。古い小径の跡を辿らなければすぐに方向感覚を失ってしまうだろう。

 掠れた石畳を上手く見失わずに歩けば、不意に森は途切れ、微かに草の生えるのみのひらけた空間に出ることができる。もっとも一年のうち多くは雪に覆われ地肌を見ることはないが、そこへたどり着けばその広場のおおよそ中心に建つ石造りの小さな塔が嫌でも目に入る。

 塔の周囲は黒々とした泥で満たされた堀に取り囲まれているが、それもみな降り続く雪で覆い隠されている。この泥深い沼も、かつては澄んだ泉として木立や花々と共に小さな塔を囲んでいた。

 塔はその昔、ヴァニリアに訪れたひとりの客人のために作られたものだった。昔日、森は美しく芝は青く、広場は光に満ち、立ち入った者はみなヴァニリアの短い夏の日が永遠に続くように思われたものだった。

 塔の客人は薄金色の髪を持つエルフであった。

 彼女は今でも塔の客人であり、また、囚人でもある。




 薄暗がりを塔へ向かって男が歩いている。

 ヴァニリア軍の白い軍服を着け、手には包みを持っている。つや消しの処理がされた下肢装具を右脚に装着しているが、雪の中を歩く姿に乱れた様子はない。

 夜は二十二時を過ぎようという頃だ。塔の見張りは苛立たしげに時計を睨んでいたが、森を抜けてきた人影を見つけると足元の荷物を引っつかみ大股歩きで近寄った。

「遅刻だぞ。

 下肢装具を見やりながら塔の見張りは毒づいた。

「この場で説教してやるつもりはない。俺はこれから休暇だ。お前が遅れてきたぶんだけ減ったがな」

「はあ、すみません」

 こんな愚図にかまけている暇はない。自分がびっこと呼んだ男が気のない謝罪をするのを聞き流し、見張りはさっさと家路につくことだけを考えることにした。

 下肢装具の男は見張りの背中越しに遠慮がちに呼びかけた。

「あの、書類は―― 」

 見張りは振り向きもせず怒鳴った。

「デスクだ! 見たことある内容でも全部に目を通して、それでも何かあったら上に聞け! 俺には聞くな! 良い休日を! 」

「わかりました! 良い休日を! 」

 男も怒鳴るように挨拶を返した。見張りの姿が既に森の入口に差し掛かるほど離れていたからである。ヴァニリアの深い雪は周囲の音を吸収する。この不気味な広場では特にその力が強く働いているようだった。

 見張りの後ろ姿が木々の間に消えるのを見届けて、男は塔へ歩き出した。これからふた月の間、塔の見張りは下肢装具の男の仕事になる。進んでこの仕事に就くような物好きは滅多におらず、大抵は左遷先か、新入りの度胸試しとして使われていた。いま去った見張りが前者で、下肢装具の男は後者だ。

 森から伸びる小径は塔の出入口にかかる橋に繋がっているが、どちらもいまは雪の下だ。代わりに見張りの残した足跡を辿っていくと、塔の玄関にあたる戸は施錠もされず開いていた。ドアストッパー代わりに酒瓶が挟んである。

(不用心だな。)

 男は先ほどの見張りの顔を思い出していた。ミカエル・バラキン、四十六歳。観測手だったがアルコール依存症の気があり職務中に度々問題を起こしていたことから数年前に塔の見張りへと配属を変えられた。以来誰か代わりが入ってこない限り月に一度の外出許可を除いて塔に縛り付けられている見張りの古株であり、今回のように長い休みを取ることができたのは約二年ぶりになる。今まで何度となく留守を任せたはずの新入りからの"急を要する通信"に邪魔されてきたが、今回こそは妻と二人の娘と家族水入らずで過ごせる休暇にすることを、おそらく禁酒の誓いよりも固く誓っている……。

 男は戸を押し開けて身体を滑り込ませると酒瓶を手に取った。中身は空だ。それと同時に戸が静かに閉まった。


 下肢装具の男は小包と酒瓶を長机に置き、上階への階段を封じている扉へと向かった。

 正面奥、装飾の施された木戸には人間がエルフを閉じ込めるために用意した無骨な施錠装置が取り付けられている。紋様の連続を断ち切って現れるそれは病んだ木の幹にできる薄気味悪いこぶのようにも見えた。錠は鍵と暗証による二重のロックであり、もちろん見張りの階級では解除することはできない。

 男は錠の前で片膝を付くと口の中でぶつぶつと何かを唱えた。

 なめらかな音を立てて扉が解錠される。

 戸を押し開くと目の前には暗がりが広がった。男は特に驚く様子もなく壁面を掌で確かめながら階上へと歩を進める。塔の部屋を囲むように作られた階段に灯りはなく、当然ながら気温も、石造りの外壁が風避けとなって幾分か和らぐ程度でヴァニリアの冬に変わりはない。

(それにしても)石段を上りながら、男は苛々と片手の親指で残りの指の腹を引っ掻いた。(幽閉されているのはエルフだぞ、こんな簡単な鍵開けの呪文で解ける錠だとは! )

 男の顔には先程バラキンが受け取ったようなのろまで遠慮がちな新兵の印象はなかった。かわりにそこには別種のやつれが見受けられる。魔術師であれば誰もが同様の面影を鏡に見るであろう、半生を修練に費やした者の顔付きだ。口元は固く結ばれ、瞳にはあらゆる深部を見澄まさんとする、刺すような光が宿っている。しかし奥には魔術師らしからぬ何かも潜んでいるように感じられた。その隠された本質こそがこの男の本来の姿なのだろう。

 階段を上りきった先の戸を同じ様に<解錠呪文>で開くと、男は身体を戸に沿わせ、注意深くノブを捻った。古びた見かけとは裏腹に、軋み一つ立てずに戸が開く。呼吸の音すら厭うように慎重に、足を踏み入れる。室内の、月光が縁取っている影にすばやく目を走らせる。

 天窓へ射し込む月の光のほかに照明の役割を果たすものはなかったが、ここへ来るまでの足元すら見えない階段の暗がりに慣らされた目にはそれでも随分と明るく感じるほどだ。それを踏まえてもなお、室内を支配するのはまぎれもなく闇だった。冷えて粘着く闇。冬の国の凍てつく夜のためではない。怨嗟であり、悩乱であり、塔の広場を犯す病によるものだ。

 その中心に蠢くものがあった。

「話がある」

 男は低く囁いた。返答を待つ。ややあって、暗闇の主が姿を現した。

(エルフだ! )

 エルフ​──老いを知らぬ民、最も美しい生き物、月に住まう人……。男は、その美しい種族に出会った者がみなするように、胸の内で溜息をついた。違いがあるとすれば、それが失望によるものであったという点だ。

(エルフだ。しかし、ああ、なんということだろう! )

 長身は古木のように痩せ衰え、薄金の髪は短く刈り上げられていた。双眸には深い影が落ちている。自身を腕で引きずり天窓の明かりの下へ這い寄る様子は、死にかけの羽虫のようだ。

 羽虫は来訪者をちらりと見上げた。雪によく馴染む白ベースの迷彩が視界に入る。

「なんだおまえたちか。てっきり​──」言葉を切り、エルフは身体を起こした。それから男を見据えた。「話すことはない」

 男は口を開いた。

「十の月の満月だ。美しいと思わないか? 」

 視線は天窓の外へ向いている。月は高く、じきに真上に見えるだろう。男は続ける。

「ヴァニリアで、月が天頂を通る夜は年に一度あればいい方だ。晴天で、満月に限れば、機会はより限られる」

「無駄口を叩きにきたのか、二等兵」

「いや」男はエルフを睨んだ。「私は"仕事"の話をしにきた」

 男が右手を軍用コートの内側に滑り込ませる。何かを掴み、取り出そうとしたとき、エルフの声がその動きを制した。

「"仕事"の話だと? 」

 エルフは半ば嘲るような調子で続ける。

「知らないのなら教えてやろう。私が"仕事"に取り掛かれるかは、おまえたちが決められるものではない。私にも決めることはできない。もちろん、おまえが右手に収めている、その、ブラスターによってもだ」

 沈黙。

 男が口をきった。

「耄碌したな、<おれの手にあるものがわからないのか? ウェルダの娘ヴェルザン>」

 エルフ、ヴェルザンと呼ばれた彼女の目に、強い驚きと恐怖の色が浮かび上がった。男が発したのは、紛れもなくエルフの言葉だったからだ。

 ヴェルザンは男を睨みかえした。

「<お前は誰だ>」

 視線は逸らさない。声は憎々しげな響きを伴っている。

「<上の会議の命であなたの最後の仕事の成果を徴収しに来た>」

「<お前は誰だ。西方の訛りがあるな。なぜ人間が会議の命を受けている>」

 男は内ポケットから小瓶を取り出すと片膝をついた。ヴェルザンは止めなかった。今では男の手の中にあるものがはっきりとわかっていた。長いこと忘れられていた感覚を取り戻しはじめている。


 刻限は近い。月明かりの作る影が、真下を指そうとしている。この男が信用するに足る人物なのかを測るだけの時間は残されていない。だが信じるのはモノだけで十分だろう。ヴェルザンにとってこの下肢装具をつけた魔術師が何を考えているのかはもはやどうでもよかった。小瓶の中身が本物であればそれでいい。少なくとも、今は。そして彼女には今より先の時間は残されていない。

 切子細工の小瓶はわずかな月の光を反射し、まるでガラス自体が柔らかな光を放っているかのようだった。瓶を満たしているのは澄んだ水だ。水面が揺れるたびに光の波が生まれる。

「これを」

 差し出された小瓶を受け取ると、ヴェルザンは少しの間それに見入っていた。

 かつては"呼び手"と呼ばれていた。純粋な血筋のエルフのうちに現れる生まれつき特異な魔法を扱う者。清らかな水を以て地を清め、大気に溢れるエーテルを触媒に不可視の層に眠る精霊へと呼びかける。彼女もまたそうであった。美しく、強く、ふたつとない作品を数多く作り出した――地に満ちるあらゆるものを代償に。

 ヴァニリアの闇の森の塔の最上階は束の間の光を得た。闇を振り払うにはあまりにも少ないが、昔日を思い出すには十分だった。

 遠き地の水、月下の地での新たな故郷を流れていたあの小川の、名は何といったか。

 ヴェルザンは小瓶の中身を飲み干した。


 

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