第16話 フリ妻はパンドラの箱を開ける

 日ましに春めくころ、紗英は繁華街にある小さなカフェにいた。

 煎れたてのコーヒーの香りと、子気味こぎみよくカチャカチャと鳴る皿の音が、逆立った心をなだめてくれる。

 いちばん奥の席を陣取って、ミルクたっぷりのラテでサンドイッチを流し込んだ。お腹が満たされてほっと息をつく。向かいの席に置かれた茶封筒が目に入った。


 落とし前をつける。

 そう決意して手に入れた書類。気合を入れるべく、新たな勝負下着も買ってあった。

 航太郎の浮気が、「佐藤あゆみ」という実体を伴ったことで、紗英のいつわらざる本心が苛烈かれつに暴れまわっていた。


 離婚する気がないなら目をつむる。いちどはそう思った。しかし、紗英はそんな聞き分けのいい性格ではなかった。ぎゃふんと言わせてやりたい気持ちのほうが、どうしても勝ってしまう。

 煮えたぎるマグマが、ふつふつと腹の底からせり上がってくるのだ。


 紗英は店を出ると、コンビニに寄って写しをとった。さらに、郵便局から荷物を送って家に帰った。

 スマートウォッチを充電器に乗せると、イタリア国旗のお守りが目に入った。


「リボンの折り方、教わりたかったな」


 どうするか迷ったあげく、隅から解いた。

 なるほど。折鶴の胴と羽のような造りになっているのか。丁寧に解いて、最後に半分に折られた箸袋を開くと、そこには林原の名前と電話番号が書かれていた。

 電話してこい、というメッセージだろう。


「分かりにくい……」


 紗英は、思わずツッコミを入れてしまった。

 もしも告白していたら――。

 もしもメッセージに気づいたら――。

 そんな「もしも」ばかりを頼るようでは、やはり彼とは縁がなかったのだ。


 それでも、紗英はふたたびリボンを折って、元通り棚の上に置いた。どんな形だろうと、彼が紗英を想ってくれる気持ちは素直に嬉しい。


 時計を見ると、そろそろ航太郎が会社を出たころだ。航太郎は今日、必ず早く帰ってくる。

 紗英はパソコンを起動させ、ファイルを開いた。七月にマンゴーが送られてきてから今までの記録だ。そのときどきの、紗英の気持ちが詰まっている。


「これを読んだときのコタの顔、見てみたい」


 夕方の風はまだ冷たい。それでも窓を開けているのは、駐車場に入ってきた車の音を聞き分けるためだ。

 やがて、ゴーという機械音のあとに、車をロックする音がピピッと聞こえた。航太郎の車だ。


 紗英の手が震えた。耳元で心臓の音が聞こえる。呼吸が荒くなって涙がじわりと浮かんでくる。

 ここを乗り越えなければ、先には進めない。

 紗英は覚悟を決めて目をつむり、指先に力をこめた――。



 *



『勘弁してくれ……』



 声が聞こえた気がして目を開けると、白い天井が見えた。頭に霧がかかったまま、ぼうっと眺めていると、航太郎の声がした。


「紗英、起きた?」


 声のしたほうへ目をやると、疲れた顔をした航太郎が、ベッドの脇で椅子に座っていた。あれからどれくらい時間が経ったのか、目の下にはくまができている。


 紗英が起きたことを看護師に知らせると、航太郎は意を決したように話しはじめた。


「何があったか、覚えてるか?」


 質問に答えることなく、紗英はまた天井を見やる。左手を布団から出すと、包帯が巻いてあった。


「幸い、傷は深くなくて、倒れたのは精神的なものだそうだ」


 そうだ。あのとき、航太郎が部屋に入ってきたのも、驚いて声を上げたのも、うっすらと覚えている。


「わたし、どれくらい寝てた?」

「丸一日かな。今日は三月七日。――ごめん。結婚記念日にあんなことさせて」


 航太郎は思いつめた顔をして、膝の上で手を固く握っている。

 紗英は黙って待っていた。これから、航太郎がどんな話をするのか、聞かせてくれるのか、興味があった。


「寝てるあいだに家へ帰って、パソコンの……あれ、読んだ。紗英から見たら、俺の言動がこううつるのかってはじめて知ったよ。……でも誤解だから」

「誤解?」


 最後の言葉に、紗英の体がぴくりと反応した。

 航太郎は神妙な面持ちで話しているが、紗英には分かっていた。航太郎は何も分かっていない。


「そう誤解。けど、紗英に言っていないことがあるのも本当。こんなことなら、ちゃんと話せばよかったな」

「何を隠してたの? ぜんぶ話して」

「うん……じつは、何年か前から投資をはじめたんだ」

「投資って、株とかそういう?」


 紗英は、目をすがめて航太郎を見た。


「俺がやってるのは株じゃなくて、FX。ドルや円を売買するやつ。だから為替の動きが気になって、ずっとスマホを持ち歩いてた」

「へえ……」

「それと佐藤さんは……たしかにご飯行った。ごめん、これは言い訳できない。でも、誓って何もないから。彼女もうすぐ結婚するんだ。それで相談に乗ってただけ。もう二度と連絡しないし、連絡先も消す」


 まさか、本当にそんな話を信じるとでも思っているのだろうか。紗英はすでに航太郎の「パンドラの箱」を開けて、中身を見てしまったというのに。

 それとも、そういう話にしておけ、ということだろうか。


 紗英は奥歯をぐっと噛みしめた。そうでもしないと、この場で航太郎を罵倒してしまいそうだった。

 右手を布団の中に入れ、ぎゅっと太ももを握りつぶした。必死に呼吸して、喉に込み上げるものを押し殺す。


「それがコタの結論なのね」

「結論というか、事実。俺には紗英だけだよ。だから紗英がこんなことする必要だってない」

「こんなこと?」

「……ごめん、俺が悪いのは分かってる」


 ドアが開いて担当医が入ってきた。いろいろと説明を受けて、検査が終わったら退院していいことになった。

 ふたたび二人きりになると、航太郎はあからさまにほっとした顔をした。


「今日は仕事休んだから、一緒に帰ってゆっくりしよう」

「会社……何て言って休んだの?」

「さすがに本当のことは言えないから、体調が悪いって言ったよ。紗英だって知られたくないだろう?」


 航太郎が知られたくないのは、自分が「いい旦那さん」ではないことだ。そのためなら「サト」とも別れるだろう。

 この先ずっと、浮気で妻を追い詰めた自分を悔いて生きればいい。


「もうひとつ、紗英に謝らないといけないことがある」

「何?」

「紗英のパソコン、慌てすぎて落とした。たぶんもう動かない……」

「パソコンなんて、べつにいいよ」

「また新しいの買うから。それと、お義母さんから紗英のスマホに連絡あったから、あとで返信しなよ」


 すっかり忘れていた自分のスマホを受け取った。確認すると、三件のメッセージのあと、不在着信が二件残っていた。



 *



 五日後、紗英は空港で母親と会っていた。


「いきなり連絡くれたと思ったら、音信不通になるんだもの。お母さん、心配したよ」

「ごめんなさい。ちょっと立て込んでて」

「それで、書類ってこれでいいの? 『明日届く書類を中身見ずに持って来い』なんて、ほんとに人使いの荒い子ねえ」


 そう言うと、母親は日付指定のシールの貼られた茶封筒を取り出した。

 紗英は裏返して封を確認する。お願いしたとおり、届いたまま持ってきたようだ。


「失礼ね、見てないわよ。そんなに大事な物だったの?」

「保険だよ。念のためのね」


 紗英があのまま目覚めず、航太郎がすべてをなかったことにしたときの、ね。


「そうかい。大事な物なら間違えなさんな。ちゃんと中身確認して送りなさいよ」

「ほんとだね。はいこれ、お母さんに渡そうと思ってた本命のチケット」

「やっだ、取ってくれたの! リュウ様のミュージカルなかなかチケット取れないのに」


 目がハートになっている。恥ずかしいくらい大きな声を出したので、思わず口に人差し指をあてた。

 母親は、大好きな俳優のミュージカルチケットを前に、すでに紗英の書類には興味をなくしたようだ。紗英はほっと胸を撫で下ろす。


 そのまま空港でランチを食べたあと、紗英はすぐにフライトの時間を確認した。今日、ここに来ることは航太郎に伝えていない。


「じゃあ、そろそろわたし行くね」

「とんぼ返りなんて、せわしいじゃない。泊って行かないの?」

「うん、本当に大事な書類なの。今度ゆっくり来るから、今日はありがとう」

「こっちこそ、チケットありがとうね。感想送るわ」


 母親はチケットが入った鞄をばんばん叩いてから、笑顔で手を振った。


 搭乗ゲートで待つあいだ、紗英は受け取った封筒を開けた。

 取り出したのは、浮気のやり取りの証拠と、パソコンのデータが入ったUSBメモリ。それと、探偵の調査報告書。


 航太郎が読んだパソコンのファイルには、これら「保険」のことは書かれていない。

 あのとき、航太郎が真実を明らかにしなかったことで、使い道が決まった。


 さて、お仕置きの時間だ。

 紗英の「パンドラの箱」を開けてしまった、あなたたちが代償を払うのはまだこれから――。




 Fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浮気のフリしてるだけの主婦ですが 木野結実 @KinoYumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ