第15話 フリ妻はしっぽをつかむ

 年が明けて一年で最も寒い季節になっても、紗英は昼間にジムに通い、夜にウォーキングという生活をつづけていた。


 太ももの隙間だけでなく、ウエストのくびれ、くっきりとした鎖骨と肩甲骨まで手に入れていた。

 あとは、上向きヒップが手に入れば、自分史上最高のボディである。結果が目に見えるようになると、俄然やる気も出るというものだ。


「紗英って、ほんとにオタクだよね。熱中すると極めるところとか」


 紗英は、ノンファットのカフェオレを口にする。もともと長身でスタイルのいい友里子には、紗英のこの喜びは分かるまい。

 猫舌の友里子は、ホットチョコレートにふうふう息を吹きながら舐めている。カップを持つ左手の薬指のダイヤモンドが眩しい。甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 

「そうかも。体鍛えたら、食事とか睡眠とか、他のことも気になりはじめちゃって。あれだけ夜型人間だったわたしが、十二時には寝てるのよ」

「すごい。健康的で何よりだわね」

「わたしはね。問題はコタなのよ。どんどんお腹周りがヤバいことになってて。だから今はダイエットレシピも研究中」

「あはは、さすが。で、コタさんのことはもう大丈夫なの?」


 浮気のフリも、ボイスレコーダーもつづけているが、証拠はまだ掴めていない。

 もしかしたら、浮気は紗英の思い込みで、あのメッセージは本当にただの業務連絡だったのでは、と思うこともある。


「大丈夫ではないけど、気持ちは落ち着いてるかな」

「良かった。私は、できれば二人に仲良くいて欲しいから」


 婚約したばかりの友里子に、あまりこの話題に触れさせたくない。


「進展があったら報告するから。それより今日はお祝いなんだから」

「紗英……ありがとう。彼から聞いたけど、いろいろ協力してくれたんだって?」

「そうだよ。彼、いきなりフラッシュモブやるとか言い出してさ、わたし必死で止めたわよ。友里子はそういうの嫌がるからって」

「うわ、出た。フラッシュモブ。あんな小恥ずかしいこと、ぜったいお断りよ。紗英、グッジョブ!」


 友里子は親指を立てた。笑顔からは幸せがにじみ出ている。

 今日の友里子を見ていると、フラッシュモブもいけたのではと思ってしまう。それくらい、笑顔が眩しい。


 自分のときはどうだったかな、と思い出してみる。

 ちょうど紗英に転勤の話が出ていた。それほど大きくない会社で、転勤を断ったら居づらくなって退職を申し出た。

 航太郎が会社の近くへ引っ越そうとしていたこともあって、それならと籍を入れてマンションを買った。

 思い出に残るようなサプライズも、プロポーズもない。


 それに不満があるわけじゃない。友里子同様、紗英も小恥ずかしいことは苦手だ。




「ちょっと忙しくなるかも」


 航太郎は、紗英が渡した棒付きチョコレートを、ホットミルクに浸して溶かしながら、申し訳なさそうに言った。

 バレンタインのチョコレートを食べながら、浮気の言い訳をするのか、と剣が立った。


「また出張?」

「違うよ。先輩の送迎会の幹事やることになったから。残業とかじゃなくて、いろいろ準備とか相談とか、休みの日に時間盗られるかもって話」

「……そう。先輩のためならがんばらないとね」


 航太郎がお世話になった先輩が、会社を辞めて自分で事業を立ち上げることになった。

 先日の食事会はその報告だった。わざわざ個別に話をしてくれるほど可愛がられている航太郎が、送別会の幹事をやるのは当然の流れだろう。


「でも、先輩と面識ある人って、コタの部署にいたっけ?」

「先輩は人望あるから、面識なくても参加したいやつはたくさんいるんだよ。うちだけじゃなくて、ほかの部署でも送別会やるらしい」


 紗英は人望という言葉を聞いて、そういえばと小さな紙袋を航太郎に渡した。中身を見た航太郎は怪訝そうな顔をする。


「なんで縁結びのお守り? 先輩彼女いるぞ」

「縁結びって男女だけじゃないでしょう。仕事に人脈は大事だし、独立するならなおさらじゃない。おかしいかな?」

「いや、分かんないけど……とりあえず先輩に渡しておく」

「コタも欲しかった? ごめんなさい、友達にあげちゃったの」

「いや、俺は大丈夫」


 二つ買ったうちのひとつは、真剣に婚活しているという友達に、クリスマス会の裏でこっそりと渡した。


 航太郎は「男が縁結びはちょっと」とか、「結婚してるのに」とかぶつぶつ呟いている。浮気に対する紗英の意趣返しには、気づいていないとみえる。


「ところで、ほかにチョコレートもらわなかったの?」


 たとえば、「サト」から。

 取引先も含めて、毎年いくつかはもらって帰ってくる。手ぶらなのが逆に怪しい。


「なんか去年、社長に宅配で送ってきた支社の子がいたらしくて。控えるように通達があったんだよ。だから、今年は大きい箱から一粒ずつもらって終わった。取引先も、最近はわざわざ会うこともないし」

「残念だな。けっこう高級なチョコもあったから、楽しみだったのに」

「そうなの? 俺そういうの分かんない。紗英にもらえればいいし。……なあ、今日は寒いしウォーキングはめるだろ?」




 先輩の送別会まで一週間と迫った休日。紗英が本を読んでいると、航太郎のスマホが震えた。

 珍しく、航太郎がスマホを置いたままにして、昼寝をしていた。画面はあいかわらず下を向いている。好奇心と、あまりに長く鳴りつづけたこともあって、紗英はスマホをつかんで画面を見た。


 男の名前だったが、見覚えはない。


「コタ、さっき長いことスマホが鳴ってたわよ」


 紗英は、航太郎が目覚めてから伝えた。


「あ、そう。誰だった?」

「知らない」


 なにそれ。

 紗英が見た前提で話をする航太郎にイラっとした。いや、見たんだけど。自分がしょうもないことを気にしているようで、八つ当たりしたくなってくる。

 紗英は無言で本に戻る。航太郎はスマホを確認すると、その場で電話をかけはじめた。

 男の声が、スピーカーから漏れてきた。


「悪い、寝てた。それで……うん、まじか……分かった。じゃあ先輩には俺から伝えとくから、お前はほかのメンバーに伝えてくれる? 彼女にも……そう佐藤さん。じゃあよろしく。はいお疲れさま」


 紗英はまっすぐに本を睨みつけながら、身じろぎもせず座っていた。心臓がどくどくと音を立てている。意識しないと呼吸が乱れてしまいそうになる。


 今、確かに見た。

 通話の途中で「佐藤さん」と告げる前、航太郎がちらりと紗英をうかがったのを、視界の隅ではっきりととらえた。


 これが「女の勘」というやつか。

 紗英には確信があった。あのメッセージの相手は彼女だと。サトコでもサトミでもない、「サトウ」だったのだ。


 翌日、航太郎が仕事に出かけたあと、棚の奥から年賀状を引っぱり出した。佐藤という名前には聞き覚えがあった。

 何年か前、航太郎の部署に配属された新入社員で、「天然で手がかかる」と毎日のようにぼやいていた。いつの間にか話題に出ることもなくなって、すっかり忘れていた。


 一枚ずつ宛名を確認していくと、「佐藤あゆみ」という名前を発見した。はがきを裏返すと、ビジネス用の既製品で、写真はない。が、空白に手書きのメッセージが添えられている。



『いつも相談に乗っていただきありがとうございます』



 それだけで、すべてが理解できた気がした。

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