第三十話
「……めて!……なして!」
喚き声が聞こえる。遠くの方だろうか。何故だか、そちらへ向かわなければならない気がした。
指先が、ピクリと動く感覚がある。そのまま、手、腕、と段々と動かす部位を大きくして行く。身体を起こそうと腕に力を入れるが、彼女の体重を持ち上げる程の力はまだ出ない。
「悪いが、君を生かしておくわけにはいかない」
クロウの声だ。彼は、あかりを始末しようとしているのだろう。
重い瞼を持ち上げる。上げた側から閉じて行こうとするそれを開き続けるのに、かなりの集中力が要った。
掌で地面を押し、上体を持ち上げようとする。ゆっくりと、岩のように重い体が浮き上がる。
「刹那! 助けて!」
あかりの声が聞こえる。その直後、銃の遊底を引く金属音。ヴァイパー自身が使っていたUSP拳銃だ。
気絶したヴァイパーの腕から、クロウが奪い取ったのだろう。どうやら、ヴァイパーがあかりを殺した、という筋書きにするつもりらしい。
させるものか。
刹那は舌先を思い切り噛み、意識に掛かる靄を吹き飛ばした。小さく抉れた舌から血が噴き出し、口の中に鉄の味が広がる。脳が危険信号を発し、アドレナリンが過剰に分泌されるのを体内で感じた。
体が辛うじて動く。だが、チャンスは一度きりだ。
一瞬にして起き上がり、身体が倒れ込もうとする勢いすら利用して、脚を前に出す。体重を前に乗せ、地面を蹴る。
獲物に飛び掛かる大蛇の如く、ヴァイパーはクロウに襲い掛かった。
彼が目を剝き、ヴァイパーの方に銃口を向ける。が、完全に不意を突いた彼女の方が速かった。
右の腕を後ろに引く。僧帽筋が収縮し、僧帽筋が回転し、上腕三頭筋が隆起する。この瞬間、ヴァイパーには、パンチ、と言う腕を突き出す動きに使用される筋肉がどのようにして動いているのか、頭の中で完全に理解することが出来た。
焦ったクロウが、照準を合わせきっていないにもかかわらず、USPの引き金を引く。
迸るアドレナリンがそれを可能にしたのだろう。ヴァイパーはそれを感覚で察知し、顔を数センチ右へずらす。弾丸が左の耳の側を掠め、風を切る音が鼓膜を揺らした。
銃を構え、伸ばされたクロウの右腕の懐に入り込む。こちらの腕の射程圏内。かつ、相手の防御態勢は整っていない。
ビンゴだ。
僧帽筋を伸ばし、三角筋を逆回転、上腕三頭筋を伸ばす。一瞬にして、彼女の右の拳が、抉る様な軌道を描いてクロウの鳩尾に炸裂した。
予想以上のダメージだったのだろう。彼は苦痛の雄叫びを上げ、開いた口元から反吐が溢れた。その一撃で出来た隙を逃さず、ヴァイパーはクロウが握るUSPを左手で取り、そのまま彼の手首を捻り上げて、拳銃を奪い取った。
後ろによろめきながら、クロウは腰のバックサイドホルスターからリボルバーを引き抜く。ぶれる腕を伸ばして、ヴァイパーの方へ銃口を向ける。
ヴァイパーは左手で奪い取ったUSPを右手に持ち直し、胸の前に引き寄せるような態勢で構えた。
二人が引き金を引いたのは、ほぼ同時だった。九ミリ弾と三五七マグナム弾、それぞれが轟かせた銃声が重なり、耳を劈くような騒音が廃工場の中に響き渡る。
勝負を分けたのは、最初の一撃。ヴァイパーがクロウに叩き込んだ、鳩尾への一撃だ。
クロウから教わった、「波」を意味する武術。長く習得できなかったそれを、ヴァイパーは遂にモノにしたのだった。背中から拳へ。それぞれの筋肉が出せる破壊力を重ね合わせ、相手の内臓に直接ダメージを与える一撃。
それは、クロウ自身が一番得意とする技だった。
諸にそれを受けた彼は、内臓が暴れ、いつも通りの射撃が出来なかった。それでも、彼の狙った一発は、ヴァイパーの首元をすり抜け、彼女の長い髪を一部切り取ったのだが。
しかし、それは偶然では無かった。弾道を呼んだヴァイパーが、わずかに顔をずらし、飛んで来る三五七マグナム弾を寸での所で回避したのだった。
そして、ヴァイパーは胸のすぐ前で構えたUSPの引き金を引き、その弾丸は、クロウの胸元へ吸い込まれるように飛翔した。一発。そして、駄目押しにもう二発。
なされるがまま、撃たれるがままにクロウはその弾丸を受け、彼はそのまま後ろへ倒れ込む。背中と後頭部を地面に打ち付け、少し痙攣するような動きを見せた後、コンクリートの地面の上で動かなくなった。
終わった。これで、全部終わり。
ヴァイパーは腕を垂らし、力なくその場に膝を付いた。過剰分泌されたアドレナリンが引いて行くのが分かる。身体がどっと重たくなった。何故先程まで、あれ程素早く動けたのか、分からないほどだった。
体の至る所から、血が流れている。服がべたついて気持ちが悪い。血を落とすためにシャワーを浴びたいが、この状態では傷に染みる。
第一、自分で出来る応急処置でどうにかなる程度の負傷だとは思えない。今すぐ病院に行った方がいいが、救急車を呼ぶわけにはいかない。そして、クロウに銃を向けた以上、もう結社の支援は受けられ無い。
それに、と刹那は思った。
今は、とても眠い。
瞼が重い。まるで、重りをぶら下げられたかのようだった。目を開けていられない。彼女の意志に反し、目がだんだんと閉じていく。
このまま、眠ってしまうのもいいか。
そうやって、彼女が死神に屈服しかけた時だった。
「刹那! 起きて!」
自身の名を呼ぶその声に、刹那は瞼を見開いた。ひどく重いそれを、無理やり引き上げる時、乾いて間もないかさぶたを引き剥がすような気色の悪さを覚えた。
そうだ。まだ死ねないのだ。
痛む身体を無理やり引き立たせ、刹那は左、声のした方へ顔を向ける。
「……刹那」
目を伏せながら、あかりがそう言うのを、刹那は血で滲む視界で見届けた。
「……全部、終わったんだよね?」
目にうっすらと涙を浮かべながら、あかりは刹那の方へ身体を寄せる。
刹那は、弱弱しく笑みを浮かべながら、血まみれの手でそれを拒んだ。
「そう、終わったの。何もかもね」
あかりに背を向け、彼女は一人で廃工場の外へ向かう。遠くで、パトカーのサイレンが響いていた。人気のない場所だが、あれ程派手に暴れれば、誰かが通報してもおかしくない。
「刹那? どこに――」
「警察があかりを助けてくれるはず。彼等に送って貰ってね」
振り向きもせず、刹那はそう言った。
「刹那はどうするの?」
「逃げるの」
「……逃げるって、どこに?」
「……何処だろうね」
歩きながら、彼女は天井を仰ぎ見て、諦め混じりの嘲笑と同時にそう言った。
「でも、心配しないで」
そう続け、刹那はチラリとだけあかりの方へ目を向ける。
「あの約束、あかりの演奏を聞きに行く約束だけは、絶対果たすから」
鼻を啜り、涙を呑む仕草の後、あかりは震える声で言った。
「分かった」
それを聞くと、刹那は笑みを浮かべ、彼女を残して廃工場を後にする。乗って来たSR400に跨り、エンジンを掛けた。上手く足に力が入らず、キックが三回も必要だった。
サイレンの音が近い。登り始めた太陽が、空をうっすらと青く滲ませている。
その太陽に背を向け、彼女は全てから逃げ出すように、バイクを発進させた。
もう、彼女には何もない。組織も、学校も、好きな人も、全てが過去のモノに成り果てた。
未練と後悔、有り余っているのはそれだけだった。
風を切りながら山道を走っているうち、彼女は自分の立場を呪い、そして、顔を上げて思い切り笑った。
ヴァイパー。毒蛇が持つ猛毒。それが、世を直すための劇薬となると、彼女は信じてここまで進んで来た。
そして、最後の最後で気づいたのだ。
その毒は、見事に自分自身を蝕んでいったのだという事に。
毒蛇は夜に這う 車田 豪 @omoti2934
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