第二十九話

「よう」


 彼は顔を少し上げ、広い帽子の鍔から目を覗かせて言う。いつも通り、彼がをする前に発する声だった。


 ヴァイパーが築き上げた死体の山。そこから流れ出た血だまりの中に、躊躇無く本の足で立ち、ブーツが汚れるのもお構いなしと言った様子だ。


「ヴァイパー」


 見知らぬ声の方へ、顔を向けようとするあかりを見て、警告するように、彼は刹那のもう一つの名を呼んだ。


「あかり、彼の方を向かないで」


 声を荒げず、だが確実に警告する意図を含ませた声色でヴァイパーは言った。あかりはビクリと反応して顔を止める。


「……そこにいるの、誰?」


 怯えた声であかりは言う。こちらを向きかけたその頬には、彼女の父親の物である血液がベッタリと張り付いていた。


 は痛ましい物を見る様に、歯を食いしばりながら彼女から目を逸らした。本当は彼女に答えたいのだが、その質問にだけは答えられない。


 それをすれば、クロウは即座にあかりの頭を撃ち抜くからだ。普段の彼なら、無関係な人間を巻き込もうとはしない。が、必要とあれば、それを眉一つ動かさずにやれるだけの冷徹な一面がある事を、ヴァイパーはよく知っている。


 そして、彼がここに来た理由も、彼女には良く分かっていた。


「あかり。そこから立って、工場の隅へ移動して」

「……え?」

「早く」


 涙を堪えながら、はあかりに冷たく言った。これから何が始まるのか。何が起こり、どうなるのか。


 それは、火を見るより明らかだ。


 だったら、これ以上彼女を巻き込むわけにはいかない。怖い出来事に顔を歪めるあかりの姿など、もう見たくない。


 とても酷い事が起こる。文字通りの、死闘だ。


「あかり、お願い」


 懇願するように、は言う。ポケットから取り出したナイフを地面に落とし、足で蹴ってあかりの方へ滑らせた。


 足元に当たって来たそれを手に取って、あかりは器用に後ろ手の拘束を解く。それからゆっくりと立ち上がり、彼女に背を向けたまま、冷たく言った。


「……絶対、生きて迎えに来て」


 何時か聞いたような声色。


 福岡で聞いた、あの声色だ。


「……えぇ」


 はそう答え、あかりが廃工場の奥へ進んでいく。


 恐らく、もう彼女と元の関係に戻る事は出来ないのだろう。頬を伝った涙を手の甲で拭い、ヴァイパーはサングラスを外して遠くへ放り投げた。


 バックサイドホルスターにリボルバー拳銃を収め、血だまりの中を仁王立ちするクロウに相対する。


 中折れ帽の鍔の下から覗く彼の視線が、露わになったヴァイパーの目線と交わった。


「余計な事はするな、と言っておいたはずだ」


 クロウが淡々と言う。相変わらず、声に何の感情も見えないのが、ひどく不気味だった。


「えぇ、言われたのを憶えてる」


 ヴァイパーが毅然とした態度で答えると、クロウは周りに視線を巡らし、溜息を付いて言った。


「それで、これか」


 呆れた様子で肩を竦め、その鋭い目でヴァイパーの方を睨みつける。彼女は目を逸らそうともしなかった。


 私の意志で、私の決断でこれをやったのだ、と、その目で訴える。


 その意図が伝わったのか、クロウはゆっくりと一度瞬きをし、全身から力を抜いた。肩、胸、肘。身体の関節をほぐすように軽く動かし、肩甲骨を大きくぐるりと回す。


 ヴァイパーは深呼吸し、地面に落としたライフルに視線を落とした。足で蹴り上げて構え直せば、拳銃を抜くより早く戦闘態勢に移行できる。


「これは裏切りだ」


 クロウの声が響く。威圧感も、怒鳴り散らすような乱暴な感じも無い。


 彼がをする時に発する声だ。


 今回の標的は、自分自身。クロウを前にし、その気迫に曝された今になって、彼が今まで味方でよかったと、心の底からそんな気持ちが湧いてくるのが不思議だった。


「覚悟はいいか?」


 クロウが短く言う。答える代わりに、ヴァイパーはライフルから目を上げ、彼と視線を交える。


 一瞬の間。お互いプロだ。相手がいつ動くかは、肌で感じられる。


 ヴァイパーがライフルを蹴り上げるのと、クロウがVZ61を引き抜くのは、ほぼ同時だった。


 銃把と先台を保持し、セレクターをフルオートの位置に動かす。引き金を引く。


 それと同時に、クロウのVZ61が火を噴いた。そこから発射された七・六二ミリの拳銃弾が、ヴァイパーのライフルの機関部に着弾する。


 ライフルが五・五六ミリ弾を三発だけ吐き出した時点で御釈迦になり、ヴァイパーは鉄屑と化したそれを放り捨てる。流れる様に身を低く下げ、そのまま右へ駆けた。


 クロウの握るVZ61の銃口が、彼女を追う。フルオートで追いかけて来る弾丸がヴァイパーの背中を裂き、血がコートの繊維と共に細かく舞った。


 彼の銃口から逃れながら、ヴァイパーは右手でUSPを引き抜く。右手で握るその銃口をクロウの方へ向け、目で狙いを付けて、牽制弾を何発か撃った。あらぬ方向へ飛んで行くそれらの内の一発が、運よくクロウの方へ吸い寄せられるように飛翔した。


 が、彼はそれを予測していたかのように、スッと身体を逸らし、流れる様な動きで弾丸を躱した。弾を見て避けたのではない。銃口の向きから弾道を予測し、ヴァイパーが撃つ一瞬前に、身体を射線上から外したのだ。


 VZ61の弾が切れ、撃針が空を叩く。ヴァイパーは地面に倒れ込み、右半身を下に、寝そべった状態でクロウの方へ拳銃の狙いを付けた。


 彼女が発砲する直前で、彼は横へ転がり、また射線から逃れる様にして弾丸を回避する。その地面を転がった一瞬で、クロウはVZ61の再装填を完了し、片膝立ちの状態で身を起こすと同時に、反撃を開始した。


 ヴァイパーは咄嗟に地面を転がり、クロウから離れる方向へ回避行動を取る。が、彼の狙いは恐ろしく正確で、三発の弾丸が彼女の身体の背中、腰、耳を撃ち抜いた。


 叫び声を上げながら、彼女は力を振り絞って、前に捨て置かれていたコンテナの裏に身を隠す。痛む身体を無理やり起こし、拳銃を両手で構える。


「残念だ、ヴァイパー」


 クロウの声が響いた。コンバットブーツの靴音がこちらへ近づいて来る。彼は抜け目なく、銃をこちらに向けているはずだ。奇襲は通用しない。

 

 コンテナに背中を預けた際、撃たれた箇所に奔った痛みの大きさから、怪我がどんな具合か大方の予想が付いた。恐らく、背中はの傷は浅い。腰の傷はかすっただけ。


 左耳は恐らく無くなっている。そこから流れて出た血が、頬をベッタリと濡らしていた。


「容赦無いのね、クロウ」


 から元気を振り絞り、ヴァイパーは無理やり笑顔を作るが、拳銃を握る両手が小刻みに震えている。


「あぁ、お前は既に裏切り者だ」


 靴音に混じり、鉄と鉄が擦り合う音が聞こえた。直後に響くカチャリと小気味よい機械音。VZ61の再装填だ。空マガジンを投げ捨てた音が聞こえない辺り、弾倉にまだ弾が残っている状態で行うタクティカルリロードだ。


 装填完了後の一瞬の油断を狙い、ヴァイパーは素早くコンテナから身を出し、クロウに向けて二発撃った。


 銃を構え直す前に仕掛けた攻撃だったが、クロウはそれに難なく対処した。上体を下げ、二発の弾丸が彼の頭上スレスレを掠めていく。身を低く保ったまま、彼はヴァイパーへ突進し、彼女の懐へ飛び込んだ。


 右手のVZ61をヴァイパーの腹に向けて突き出す。接射で彼女の腹部をハチの巣に変えるつもりだ。


 ヴァイパーは銃から手を放し、左手でVZ61を自身の右側へ流す。自身の右手に持った拳銃の銃口を、頭部へ突き出す。


 クロウはその右手を左腕で逸らし、くねらせた手で彼女の右手首を取った。


 お互いが反射的に引き金を引いたのは、ほぼ同時のタイミングだった。USPから弾丸が一発発射され、VZ61は連続する銃声と共に、コンクリートの地面の穴を増やした。


 最初に次の手を繰り出したのは、ヴァイパーの方だった。片手を取られ、もう片方の手で相手の得物を押さえつけている状況。


 手は使えない。


 ならば、頭だ。


 少し頭を引いて勢いをつけ、額をクロウの鼻先へ叩きつける。その瞬間、自身の額に、固い物が叩きつけられたような鋭い痛みを覚えた。


 頭部への衝撃で、意識が一瞬朦朧となる。


 ヴァイパーの額が捉えたのは、クロウの側頭部だった。彼は頭突き攻撃を予測し、頭を傾け、固い位置で彼女の攻撃に対処したのだ。


 そして、ヴァイパーの意識が朦朧となった、その一瞬の隙を見逃す彼では無かった。


 敵に奪われる事を躊躇する様子も無く、クロウはVZ61の銃把を離す。ヴァイパーは驚きを覚えた次の瞬間には、彼の右の拳が彼女の鳩尾にめり込んでいた。


 臓物を搾り上げられるような衝撃と共に、心臓が縮み上がる感覚を覚えた。口から逆流する吐瀉物を止める術など無く、ヴァイパーは、濁流の様にこみあげて来たそれをクロウの右前腕に吐き溢す。


 彼が習得している、『波』を意味する武術。渾身の力で放たれたそれを、ヴァイパーは諸に食らったのだ。彼との鍛錬で何度も受けたことがあるが、それらの比にならないほどの痛み、苦しみが、彼女の身に一瞬にして襲い掛かった。


 厳しい鍛錬に耐え抜いてきたつもりだったが、それでも彼は少しばかり加減してくれていたのだ。その事実を、何という形で告げて来るのだろうか。


 クロウは左半身を少し後ろへ引き、左腕を曲げる。左肘を振り上げる攻撃の予備動作。ヴァイパーの顎を叩き割るつもりだ。


 満身創痍の身体に鞭打って、顎を後ろへ引いた。瞬間、鼻先をクロウの左肘が通過していく。あと少し反応が遅れていれば、その一撃で勝負は決していただろう。


 ヴァイパーは歯を食いしばり、脚を踏ん張った。腰を落として、拳を真っ直ぐ前に着き出す正拳突きを、がら空きになったクロウの脇腹に炸裂させる。


 彼の筋肉の揺れが、拳を通してヴァイパーに伝わった。かなり深く利く一撃だったと思う。実際、クロウが呻き声を漏らし、彼の態勢が小さく崩れた。


 だが、それだけだった。


 ふらりと彼の身体が揺れたと思うと、すぐさま体勢を立て直し、クロウは身体を右へ回す。


 あまりのスピードに、消耗したヴァイパーでは反応できなかった。


 彼の背中が一瞬見えたかと思うと、顔の右側にとてつもない衝撃が襲った。痛みすら吹き飛ばすような、凄まじい衝撃だった。


 それに突き飛ばされるがまま、ヴァイパーは地面に頭から倒れ込む。


 次の攻撃が来る。それに対処するため、彼女は身を起こそうとするが、全身から力が抜けていく。


 クロウ渾身の後ろ回し蹴りを食らったのだ、という事にやっと気が付いたが、だからと言って、彼女の身体が動いてくれるわけでは無かった。


 段々を視界が暗くなっていく。


 あかり。


 彼女の顔が、浮かんで、消えた。

 




  

 

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