エピローグ

エピローグ


鎌田かまた先生、顔が緩んでますよ」


 生徒に指摘されて、我に返る。


 中学三年生の、因数分解の授業中のことだった。


「ん。ごめんごめん。で、どう? 終わった?」


「ここだけわかんないです」


「あー、このタイプか。たしかにちょっと難しいかもしれないね。でも、形を変えてみるとわかりやすくなるはず。この部分を一つの塊として見てごらん」


 私はプリントを引き寄せて、二つの項をペンで囲む。


「んー……あ、わかったかも!」


 女子生徒はそう言ってシャーペンを走らせる。


「うん。オッケー。じゃあ他の問題も見ておくから、次はこっち、やっといてね」


「えー、疲れましたー。もう一文字たりとも書けません」


 椅子の背にだらっともたれかかり、だるそうな声で言った。全身で脱力を表している。とても表現力が豊かだ。


「じゃあ、ちょっと休憩する?」


「します! ちょっとなんて言わず、いくらでも休憩できます!」


 元気じゃねえか!


 まあ、授業もあと半分くらいだし、そろそろ休みを挟もうかと思っていたのでちょうどよかったけど。


「はいはい。五分だけね」


「やったー」


 とても素直な生徒で、わからないところははっきりわからないと言ってくれるので、こちらも教えやすい。それに、教えたことをグングン吸収していってくれる。


 三年前まで塾にいた坂本さかもとめあを思い出す。


 私は彼女が解き終わったプリントの採点に移ろうとするが、


「ところで、鎌田先生」


 と、声をかけられる。


「ん?」


「さっきはどうしてニヤニヤしてたんですか?」


「ニヤニヤ⁉ 私、そんなニヤニヤしてた?」


「してましたよ。なんなら顔にニヤニヤって書いてありました」


「ひぇっ!」


 無意識って恐ろしい……。


「彼氏ですか?」


 女の子がそういうことに鋭いのは、いつの時代も変わらない。


「かっ彼氏とかじゃ…………なくもないけど……」


 そして、私が隠し事が下手だということもまた、変わっていなかった。


「えーっ! どんな人? 格好いい? 年収は? 芸能人で言うと誰に似てる?」


「一気に聞かれても答えられないでしょ」


 そんなことより、人の彼氏の年収を聞くな。誰に習ったんだ。


「じゃあ、写真見せて」


 なにが〝じゃあ〟なのだろう。


「見せません」


「えー。先生のケチ」


「ケチで結構です」




 松崎まつざきしゅうが大宮大学に合格してから、約四年の月日が流れた。


 生徒としてではなく、一人の人間として彼と関わるようになってから数ヶ月後、私たちは恋人となった。


 はっきりと、彼のことが好きだと心から言えるようになり、私が交際を申し込んだ形になる。人生で一番緊張した。


 松崎は今、大学院の修士課程一年だ。


 大阪で行われる学会に出席しているため、三日ほど向こうに泊まっている。その前もプレゼンの準備などで忙しく、私たちは二週間ほど会えていなかった。


 そして今日、ついに松崎がこちらに帰ってくる。明日はちょうど私も休みで、二人で一日過ごすことになっていた。そんなの、ニヤニヤしてしまうに決まっているではないか。


「あれ、鎌田先生。今日は早いっすね。愛しのダーリンと久々に会えるんでしたっけ」


 などと、笹垣ささがきに茶化される。相変わらずジャージで、生徒からも人気だ。同棲していた恋人と結婚して苗字は変わったものの、塾では笹垣の姓で通している。


「そうでーす。ダーリンに会うので私はもう帰りまーす」


 私は軽口を叩き返して塾を後にした。この四年で、私は少し強くなったような気がする。




 自宅に帰り、彼の好物であるシチューを作っていると、鍵の開く音がした。


 火を止めて、玄関まで向かう。


 緩む頬が抑えられない。


「ただいま。玲央れおさん」


 四年前まで生徒だった男の子が、愛おしい笑顔で告げた。

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私の苦手科目は恋愛です! 蒼山皆水 @aoyama

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