最終話 ナースチェンカ
ノックの音が聞こえると、至がドアを開けに向かった。この日は汀はコタツ机で本を読んでいた。
至がドアを開けると、「おうっ」なんて軽い挨拶が聞こえ豊が入ってくる。豊は汀に気がついて挨拶をする。
「汀ちゃん、お邪魔します」
「こんにちは」
汀は少しはにかんで挨拶をした。一昨日の深夜、外に出て豊に送ってきてもらったことは至には報告していない。豊はそのままパソコンの方へとすたすた歩いていく。
至は、いいから入れ、なんて言いながらまだドアの外とやり取りをしていた。すぐに向井さん――向井なゆたが姿を現す。薄いピンクのダッフルコート、向井さんの私服はかわいいのだがすこしイメージと違った。
向井さんは靴を脱いで、照れくさそうだが勝手知った様子で上がって、汀の向かいに座った。そして挨拶ににこっと笑いかけて、すぐにまた目をそらした。
「それ、コートかわいいね」
汀が言うと、向井さんはばつが悪そうにする。
「お兄ちゃんが、これ着ろって……。あの、もらったんだって」
自分の趣味ではないとでも言いたそうだ。たしかに靴は履きふるされたスニーカーで、ジーンズもセーターも地味なのだが、コートはかわいい。それに髪の毛も、ちょっと前髪が長いが丁寧にセットしているみたいだ。
「向井さん、お兄さんと仲良いんだね」
至はファッションに無頓着だが、豊はわりとおしゃれに着こなしている。大学にもおしゃれな女友達がいて、その友達のお古なんかが向井さんに回ってきたのかもしれない。汀がふとパソコンの方を見ると、至が何かを説明しながら豊がマウスを操作していた。
豊は今日はヘルメットは持っていない。妹が一緒だったために歩いてきたのだろう。
一通り説明を終えたらしい至は今度はコタツ机の方へやってきて座った。向井さんはなんだか恐縮しているように見える。汀を見た向井さんは、何か言おうとするように口を開けたけど、何も言わなかった。
「なゆた、またなにか仕込んだね?」至はまるで詰問するような口調だ。
「たぶん宇宙人のせい」
「冗談で言ってるんじゃないんだよ」
至が声を荒げると汀はそれを制止する。
「ちょっと、至さん。怒鳴らないでください」
すると今度は、向井さんが二人の気をひこうとでもするように両手をばたばたと動かした。
「け、けんかしないで」
「なゆた、冗談のつもりだって言うのは分かってるよ。この前のときもね。たしかに、前のときは俺もそんなに怒らなかったよ。むしろ、なゆたこんな技術持ってるんだって感心したくらいだよ。でも今回は冗談にならない。だってね、ナースチェンカにはカメラもマイクもついてるんだからね。これじゃ盗聴、盗撮と一緒じゃないか」
「ちょっと、一方的に責め立てるのはやめてください。なんの事で怒ってるのかは知りませんが、ちゃんと向井さんにもしゃべらせてあげてください」
「言い分も何も無いよ。あのね、汀、分かってないみたいだから説明するとね。なゆたはこっそりうちのコンピューターに侵入していたんだよ。たしかに、破壊的な悪さをしてるわけじゃない。だけどおれが何やってるかを見て楽しんでるんだよ。以前にもやったことがある。そのときはナースチェンカが完成する前だったし、こんなには怒らなかったよ。でも今回は話がちがう。ナースチェンカのカメラの映像もマイクで集めた音もみんな筒抜けだったってわけだからね」
「つまりハッキングってこと? 向井さん、そんなことできるの?」
向井さんはきょろきょろと目を泳がせていた。後ろめたさは感じているようだが怯えている様子はない。なるほど向井さん、たしかに至さんのことは信頼してるのかもしれない。
向井さんは、汀にむかってぼそぼそと口を動かした。――宇宙人がやったの、宇宙人がやったの。そう繰り返しているようだった。人見知りが激しいが案外お調子者だ。
「技術を覚えると腕試ししてみたくなるんだよ。ゲーム感覚でね」至は汀に話す。「だけど、なゆたが作ったソフトをおれの友達の豊が持って来るんだぜ。こんなのセキュリティ破ったとはいえないよ。中学生の女の子としては大したハッカーなのかもしれないけどさ」
すると向井さんは不満そうに口をつぐんだ。うつむいて、右手の親指のつめをカリカリと左手で擦った。向井さんは、緊張したり不満を抱えたりするとちまちまと指先を動かしたくなるみたいだ。教科書の角の部分をぱらぱらとめくったり、机についた傷の溝をつめできれいに掃除したり、消しゴムをちぎったり。
「至さん、もしかしてセキュリティ破られたのが悔しいだけなんじゃないんですか?」
「ばか言うなよ。被害を受けたから怒ってるんだよ。だいたい汀だって被害者なのになんでなゆたの肩を持つんだ。ナースチェンカの視点で監視されていたかも知れないんだぞ?」
「なんでって、友達だからです。そもそもわたしは、実際にナンシーに見られていると思って生活していましたし……」
ナンシーにというわけではない。生活の中でずっと気を張っていたのだ。家族だなんて言いつつ、友達だなんて言いつつ、誰の侵入も許さなかった。汀はそう自覚した。
「汀ちゃん、怒ってない?」向井さんが汀に尋ねる。
「うん……。そういえば向井さん、だったらさ、わたしが転校してきたとき、もうわたしのこと知ってたの?」
すると向井さんは両手で口を押さえて至の方を見た。
「転校して来たとき?」至がつぶやく。「この前豊が持ってきた実行ファイルじゃないのか?」
ちょうどそこで豊が至を呼んだ。
「至くん、至くん」
「ひと月以上も前ってこと?」至はぶつぶつとつぶやきながら記憶を辿ったが、思い出せない様子だ。
「ねえ、至くん」
「ああ、いま行くよ」
そう言って至は立ち上がり豊のもとへと向かっていった。豊は至のパソコンで天体観測ソフトをいじっている。こっちのことには全く興味を示さず、ガレージに入ってくるやそれが楽しみで仕方がないという様子だった。本当に宇宙が好きなのだろう。ここに集まる人たちはみんな、趣味に異常なほどの情熱を傾けている。
至は向井さんが凄い技術をもったハッカーだなんて言うけれども、汀にはとても信じられなかった。むしろ向井さんこそ宇宙が好きで、夜空なんか見せれば片っ端から星の名前を挙げていってくれるんじゃないかと思っていたくらいだ。
「ねえ、向井さん。ハッキングってどうやってやるの?」汀がそう尋ねると、向井さんは戸惑いの表情をする。「まあ……、わたしは聞いてもわかんないけどさ」
向井さんが何に興味を持っているかなんてクラスのみんなは知らないんだ。向井さんのノートの意味は至さんとか、豊さんなんかにしか理解できないんだ。至さんも高校は休み勝ちだったと言う。やはり周りに理解してくれる友達は居なかったのだろうか。
「んー、あのね。例えばね、わたしが手上げると、至くんの運転手さんが車で迎えに来てくれるのね。だけど、ほんとは、わたし入れて四人までしか乗れないんだけど、わたしが友達四人連れて行くと、至くんの運転手さんを追い出せるのね」
「わぁ、乱暴だね。逃走中の銀行強盗みたい」
「そうするとね、至くんのパソコンの中を自由に走り回って、好き勝手できるようになるの。見つかるまで」
「ふふっ。よくわからないけど痛快だね」
向井さんは頷いて嬉しそうににやにやと笑ったが、すぐに真剣な顔になり、不安そうに尋ねた。
「ねえ、本間さん。転校するの?」
「え、しないよ。これからもよろしくね」
汀がそういうと、向井さんもうれしそうに笑った。
アンドロイドに必要な物、またはプリンは飲み物であるという自己正当化 秋山黒羊 @blacksheep1375
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