天翔る

【ある実験の記録】

 一目見た時から「美しい」と思っていた。


 眼鏡を押し上げて、アクリル板越しに彼をみる。

 白い服を身にまとい、虚な瞳で何も描かれていないような天井を見上げている。実験台でもあり寝台でもあるそこに座りながら、ゆらゆらと足を揺らしていた。癖のある黒髪と、天井のLEDライトだけをただ映し出す瞳、陶器のように白い肌、そのどれもが人形のように美しく……そして私はいつのまにか手を伸ばしていた。

 しかし、それは一枚の透明に阻まれる。うっすらと自分の姿を写すそれを少しばかり恨めしく思った。

 私は静かに近くの、いわゆる観察官用の椅子に座りスケッチブックを開いてその少年の姿を映し出した。一寸の狂いもないように、黒子の一つも見失わぬように、丁寧に、正確に、忠実に。

 白黒でしか描けないことを恨めしく思いながらも、白黒で十分なのかもしれないと納得し、私は彼の姿を描いた。


 私の仕事は、観察官。被験者の彼の変化を日々観察し記録すると言う仕事だ。本職は、美術系大学の学生なのだが、短期間のアルバイトに誘われ実験施設に来ている。何をしているのかは、教えてもらえなかった。

「君にやっていただきたいのはただ一つ。実験体の姿を観察し続けることだ。できれば絵を描いてほしい。より正確に精密に忠実に丁寧に。あの物の姿を描いてくれ」

 怪しい仮面をつけて白衣を着た男は、私にそう言った。何故仮面をつけているのかと問えば、死んだ時に身元が割れないようにだそうだ。すなわち、この研究所内の人間に個性はなく、みな「研究者」なのだそう。

 私は、この研究所内でたった一人の人格を持つことが許されている「観察官」。わたしの仕事は、彼の姿を描くこと。


 それだけだ。


 私は、描いた。


 二日目。

 薬を投与されてもがき苦しみ首を掻きむしる彼を描いた。


 三日目。

 実験から逃げようとするが、捕まり戻される彼を描いた。


 四日目

 私を見つめて微動だにせず、透明の前に立つ彼を描いた。


 五日目……六日目……七日目……八日目……九日目……。

 十日目……百日目……千日目…………………………………………。


 n日目。


 私は、この研究所の責任者に呼び出された。

 不気味な仮面はつけたまま、責任者はため息をついた。その声も相変わらずの機械音声で、みんな一様。私以外は、だが。

「ご苦労。四年もの間本当に頑張ってくれた」

「いえ……たった一時間であんなに報酬をくださったのですし……」

 短期バイトのはずがいつの間にか長期で雇ってもらえたことを本当に嬉しく思う。でも、仕事に見合わぬほどの大金の給料だ。私はバツが悪くなって、思わずその仮面から目を離す。だって、趣味であんな趣味程度のクオリティで! お金を稼いだなんて大声で言えるわけがない。

 私がそう葛藤していると、仮面の男は今までつけていたその面を外す。

「君のおかげで我々はまもなく『神』の誕生を見届けられる」

 額に冷たい金属が当たる。

 銃口だ。これは銃口だ。


「ありがとう。さようなら」


 私は、咄嗟に、目を、瞑った。


【EDーA】救済の手


 ザクリッ、グジャ、ポタ……。

 耳障りで気持ち悪い音が、聞こえる。ゆっくりと瞼を持ち上げると、目の前には、銃口は無く、肉塊がただそこにあった。足元を埋め尽くしていくこの赤は……血?

 これまで私が積み重ねていた白黒のクロッキー用紙が、赤色の絵具で塗られてしまう。でもそれは、神の鉄槌のようなものだ。あの人は殺されて当然だった。だって、彼にあんなにもひどいことをしたのだからと私は一人静かに納得した、そうしなければとてもじゃないが正気でいられなかった。恐る恐る後ろを見れば、そこには大きな黒い翼をもちながら、右腕は猿の手のように体毛に覆われているものの赤い血でその柔らかさはなくなり、ひたひたと液体を滴らせている。

 喉の奥が、きゅう、と閉まった。

 息が出来ない、肺が動かない。

 足元も覚束なくなって私は赤い海にへたり込んでしまった。


 彼だ。彼だった。柔らかい黒髪と、全てを飲み込んでしまいそうな漆黒の目は、その視線で私を射抜く。

 彼は、口を開いた。しかし、その言葉は何を紡いでいるのかわからない。

「な、なにを、いってるの……? それとも、私を食べる……?」

 彼は不思議そうに首を傾げたかと思えば、あの獣の手を人間らしい手へと変化させた。そしてそっと私に差し出した。


 瞬間、電流のように頭の中を何かが駆け巡る。

 手を取れ、という言葉だ。取らなければ殺される。それはわかっている。否、分かっているつもりで会っただけかもしれない。

 気が付いたときには、私は彼の手を取っていた。拒めなかった。いつの間にか、意識が彼の……ちがう、神の意志とリンクしてしまっていたのだ。これはお願いなどではない、主従の契約の結ばれた両者の間で起きた命令でしかないのだ。


   ***


 私は、身をすっぽりとくるむような灰色のローブを身にまとい、暗い暗い路地裏で、白い紙と黒い鉛筆を持ちながらゆっくりと目を閉じる。

 脳裏に浮かんだ、神の願いを、叶えるために。

 わずかに残っている理性が、ほろほろと崩れゆくのを感じながらふと、白かった紙を見る。


 そこには、ただただ混沌が黒く描かれているのみであった。


【EDーB】神となるは


 しかし、その引き金は引かれることはなかった。なにか、生暖かい温度が私を抱擁する。これは……人間の手なのか、はたまた悪魔の手なのか……。私はそっとその手に重ね合わせて温もりに身を委ねてみた。


 一目見て思った。

 美しい、と。


 体から力が抜けていくのを感じる。

 魂の共鳴を感じる。

 目の前の人間を殺せという意志を感じる。


 目をゆっくりと細めた翼の生えたその人は、口をパクパクと開いたのちにゆっくりと口角を上げた。そして部屋中に、紅が舞う。目の前の仮面を外した男は倒れた。頬にかかったその液体が気持ち悪い。


 彼は、銃をその手で捻った。人間の作った人を簡単に殺せる武器すら彼にとっては赤子も同然だった。優しさが怖いと思った事はこれ以上にないだろう。神頼みなんて通じない。なぜなら、彼が神だからだ。


 神が私を掴んだ。瞬間何かを失うのを感じる。


 私は誰だ?

 私は誰だ?

 わからない。脳がどろりと、あたかも直射日光があたったちょこれえとのようにとろけていく。きみのそのひとみには、ぼくが、いる……?


 どうして、どうして、わたしにやさしく……。


 ねえ、どうして、わらいかけるの?


    ***


 気がつくと私の眼前には真白の世界が広がっていた。

 起きあがろうと力を入れたが、何故か力が入らない。視界の端に点滴やら注射器やらが見える。あれらは一体何のために……? いや、私に使ったのだ。

 瞼を開くことすら怠さを感じる。

「神に適性を認められた。彼女も神とする」

 そんな声が聞こえてくる。

 ねぇ、その彼女って、私のこと? 私に何をするの?

「被験体No.002、これより神格生成計画を始める」

 やめて、やめて、やめて!

 強く目を瞑ると、何かが目から零れ落ちた。それは、恐怖によるものか、悲しみによるものか、それ以外の何かか、私にはもうわからない。

 透明の先には、彼がいる。美しい彼がいる。彼は満足そうに笑顔を浮かべていた。

 眩しいライトに照らされ、たくさんのチューブを繋げられ、呼吸すらままならず、脳みそが蕩けてゆく。わたしは、なにになる?


 真っ白に染まっていく意識の中で、私は彼を眺める。

 そんな彼の隣に、私は長らく会っていなかった後輩の姿を見た。


【EDーC】白黒のあかね

 何かが破裂したかのように意識が覚醒した。

 気が付くと、私は観察官の椅子に座ったまま、机の上に伏していた。日付を見れば、この仕事についてからたったの十日後である。私は、仕事を終えて眠り込んでしまったらしい。額にわずかながら銃口の冷たさが残っているのは、この事務机の冷たさなのだろう。彼を見るのも慣れたなあ、と顔をそちらに向ける。ゆっくりと体を起こす。


 いつもは、何もしゃべろうとしない彼が、何かを伝えたそうにこちらに向かっていた。それは恨みを持った目でもなく、苦しそうな目でもなく、ただ安らかに優しさを浮かべている目だった。

 吸い込まれるようにそちらに歩いていくと、彼もまた、私たちを隔ている透明な壁に近づいてくる。

「……ごめんね。何もできなくて。あたしがもし力のある人間だったらよかったのに」

 うっすらと私の声が反響する。無機質な音が響く。何もできない私がただただ情けない。

 でも、思った。

 私の本当の使命は、彼を描くことではなく、彼を救うことではないか、なんて。


   ***


 ナイフを、手に取った。

 仮面を奪った。

 ローブを着た。

 観察官の仕事を早めに切り上げた。

 実験に対してもはや反抗する意思なくただ従っている彼に向き直った。

 彼は私をじっと見つめる。その暗い闇に私を誘おうとする。生唾を飲んだ。

「い、一緒に。来て。……お願い。他の人が来る前に」

 薬液を投与する振りがわかるように監視カメラに姿を映しながら私は彼にそう言った。彼は、一度たりとも瞬きはせず、静かに目を細めた。

「自己満足だってわかってる。でも、あなたには自由を選ぶ権利だってあってもいいと思うのよ。……時間が無いわ」

 彼は何も言わなかった。しばらくの間、沈黙が訪れる。

 私が不正を行ったことを暴くための警報音がけたたましく鳴いて、視界が赤く照らされた。

 もう、どのみち駄目なんだろう……。私はこれほどのことをしてただで済むとは思えない。右手を失うことを考えなければならないかもしれない。透明な壁の向こうにある私の荷物とは、もう一生巡り合うことがないかもしれない。

「ねえ……?」

 私が、もう手を止めてじっと彼を見る。


 彼はほほ笑んだ。

 あたかも、全ての終わりを告げるように。


 そして次の瞬間、私は変化しきった彼の毛むくじゃらの右腕、その先の爪で腹を射抜かれた。

「な、んで……?」

 最後に見たのは、彼が静かに「     」というところであった。意識はずっとずっと遠くの方へと放りこまれてしまうのを感じる。


   ***

 

 徐々に鮮やかになっていく意識に、ゆらゆらと揺られながら身をゆだねていると、空間を切り裂いてしまうほど美しい声が聞こえてきた。

「……きが、つきましたか?」

 黒い目には、薄っすら光が差し込み、これまでの虚ろな姿が嘘のように綺麗なオニキスのような眼がこちらを覗いていた。

「あれ……?」

「あなたのおかげで、ぼくはじゆうになれました」

 赤い太陽を背に、静かで済んだ風にあたり続けている彼は、赤い衣を身にまといながらふわふわとした黒髪を漂わせている。たどたどしい言葉で紡がれる言葉が、ただ心地よくて思わず耳を傾けてしまった。

 ここは、研究所があった場所だろうか……? 非常に山奥だが、ここ一体だけ平地になってしまっている。私は、残された松の木に寄りかかるように座らせてくれていたみたいだった。

「自由を、選んでくれたのね」

 彼は、優しくにこりとほほえんで、そっと私の頬に手を添えた。そしてゆっくりと輪郭をなぞるようになんども私の頬の上を滑らせていた。

「ひどいことを、しました」

「大丈夫、私はほら、生きているでしょう?」

 そっと、私の頬の上にある手に自分の右手を重ねた。いまだに得物を握っていた感覚の残るその手を重ねるというのは、少し申し訳なさを感じる。でも、全く持ってそのようなことを気にせずに、私の手が引っ張られたかと思うと、指先にそっと口をつけた。

「…あなたは、ぼくのかみさまです。だからぼくはあなたのかみになりましょう」

「私は、ただの臆病者だよ。貴方がそうなるまで何もできなかった人間だよ」

「それでも、たすけてくれました。……ぼくは、うれしかったです」

 すくり、と立ち上がると彼は夕日の方を見る。

 体に力が入らず、私は、彼の隣に立つことすら許されていないことだけが実感として残る。

「あなたには、ひどいことをしたかわりに、すこしのろいをかけました」

 日差しがあまりにも強くて、もうその顔を見ることはかなわない。

「でも、きっとそののろいが、ぼくたちをつないでくれるはずです」

 彼は、その手を灰色の翼に変える。そして空に向かって大きく広げたかと思うと最後にゆっくり、言葉を放った。

「またあいましょうね……! かみさま!」

 そういうと、彼はゆっくりと平原をかけ、気が付いたときには全身を灰色のグラデーションのかかった鳥の姿になりゆっくりと西へ西へと向かっていった。


   ***

 

 私の中には、ずっと私の神様がいた。

「素晴らしい絵だ……。こんなにも白黒であるのに、どうして夕日の茜色がわかるのだろうか」

「神が、夕日などに負けますか……? 私の神様のあの白黒の姿は、何色にも染まり、何色にも染まらない、完璧な御姿なのですから」

 私は、彼を描き続けた。

 右手に何かがやどったかのように、インスピレーションは無限に沸き、いまや私は若いながらにこれだけで飯が食えるほどの稼ぎを手にしていた。いつか、彼と会える日を信じて、もうあれから十年か……。私が、白と黒しか使えなくなってからもうそんなになる。

 ながかったような、短かったような。画廊のエントランスから差し込む夕日に導かれるように、ゆったりと歩み進める。夕焼けを見ていると、不思議と彼を感じることが出来たからだ。おもむろに目を閉じてそしてまた開く。涼しい風が画廊の中へと通っていくのがわかった。


 途端、私のすぐ横を、ふわりとした黒髪の男が、風のごとく静かに通ったような気がした。


【あとがき】

 ここまでお読みくださり、誠にありがとうございます。

 どのエンディングを選ぶかは、神の目を持つ貴方様自身が決めてください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すゞろ歩き 夜明朝子 @yoake-1201

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ