第11話

いよいよ旅立ちの三日前になった夜、滝沢はやっと芙蓉を訪ねてきた。今夜が最後のチャンスになると覚悟していた。芙蓉は実家に帰って家を継ぐ決心をしていた。許嫁の寿美子が現れていなかったら、芙蓉はまだ東京で働いて、休みになるとミュンヘンに飛んで行ったことだろう。しかし、寿美子の自殺するという脅しは芙蓉の心を震撼させた。寿美子の様子からしてしかねないと思った。滝沢はまだあきらめきれないのか、寿美子が落ち着いたら結婚しようと言っていた。

 

「私、寿美子さんを犠牲にしては幸福になれないの。半年だったけど、あなたが教えてくださった歓びは何ものにも代えられないわ。滝沢さん以上にわたしを歓ばせてくださる人はいないと思う。あなたのことはこれから先どんな方に巡り合っても忘れられないと思う。好きよ。大好きよ」と言って滝沢の胸の中に飛び込んでいった。滝沢はしっかりと受け止めてくれ、長ーく虹色の雲の上を泳がせてくれた。芙蓉は離れがたくしっかりと滝沢にしがみつき頬を胸にくっつけていた。

 やがて滝沢はミュンヘンに去った。芙蓉の体は抜け殻のようだった。芙蓉はまるで実体のない肉体を抱いて動いているように感じながら、最後の勤務に励んだ。


 芙蓉は勤務先のみんなに惜しまれながら故郷に帰った。父母はようやく都会に見切りをつけて帰ってきてくれたと大喜びだった。

「あなたのいなかった四年間、火が消えたように寂しかったわ。お父さんも帰ってきてからレコードをかけて寂しそうだった。帰る決心をしてくれてありがとう」と母は言った。

そしてお茶とお花の先生の所に習いにやらせた。

「紺野病院のお嬢ちゃんなのね。東京から帰ってらっしゃったのね」とどこに行っても可愛がられた。愛欲におぼれていた東京の生活は誰にも感づかれなかった。

 葵は卒業して、市の小学校の先生になっていた。着々と自分の思い描いた道をそれず、努力して、なりたい学校の先生になっていた。それは見事な生き方だった。せんせとの仲はずっと切れ目なく続いていて、とても幸せだわと言う。せんせが自分の欲望を満たしてくれる時の行為の優しさを親しい芙蓉にだけのろけた。それを聞く度に、古傷が痛んだ。あの時の花瓶に挿した水仙の清楚な姿が目に浮かぶ。十八の誕生日を祝ったばかりだった。せんせに犯されていなかったら、柳原君に接近できたかもわからない。響子の行為に興奮してトムや修太朗との愛欲の道にそれたりはせず、ひたすら清らかな体と心のまま、柳原君に対して自分を貶めることなく、あこがれを清らかに抱き続けることができただろう。柳原君が才女と仲良くなっていて、自分の入りこむ余地がないとしても、清い体で思い続けることと、処女をなくした肉体で思い続けることとはわけがちがうと、悔やんでいた。でも、それはもう忘れなければならないことなのだ。せんせと自分だけしか知らず、母も葵もそんなことはつゆ思わないことだったのだ。それをないことに出来たらどんなにか安楽だろう。でも、せんせは知っている。

 芙蓉は間違った道に足を踏み入れてしまったと思った。その道は極彩色の豊かな道だったけれど、これからは間違わずに正しく暮らそうと思った。

 そんな時、父が芙蓉に縁談を持ってきた。同じ医大で学んだ人の甥で、家業のパン屋は兄が継ぐので、弟の医者の方は、婿養子に行ってもいいと言っている人だった。

「もう三十七歳でお前と一回りも違うのが気にかかるがどんなものだろう」と父は言う。母は養子に来てくれるというだけで気に入って、

「それぐらいの年の離れた夫婦は沢山いますよ。お父さんと私だって九つ違っているけど、うまくいってますもの」と言って、急いで芙蓉の見合い写真を撮らせた。

 お相手の方の小さいスナップ写真を見せてもらい、芙蓉はそれでいいと思った。

 双方が気に入って、話が決まると噂は町中に広がった。その時葵が飛んできて、

「芙蓉ちゃんその方の噂知ってる?何人も看護婦さんに手を付けている人らしいよ。噂では子供までおろさせたと言うわよ」と忠言してくれた。

「へえ!そんな噂知らなかった。本当だろうか?」

「火のない所に煙は立たないって言うじゃない。よく考えた方がいいわよ」

芙蓉は葵の言葉にうなずきつつ、自分の過去を思うと引け目を感じ、遊んでいてくれた方の方がいいと思うのだった。

 

芙蓉は、ともかく夫を助けていい妻になり、父のため先祖のため病院を大きくさせようと思った。

加賀富雄さんという方と、芙蓉は数回デートした。さっぱりした気性の人だった。芙蓉は一も二もなくお話をお受けした。相手の方も芙蓉を気に入っていた。

 結婚式は新郎の少しでも早くという希望で、暑い盛りではあるけれど、八月十日になった。富雄のお誕生日が八月二十日なので、一つでも若いうちに式を挙げたいと言った。芙蓉は自分の友達の手前、一歳でも若くと気づかってくれてたのだと思った。

 父は芙蓉のためにマンションを借りてくれた。下見に行ってインテリアをあれこれ考えていた時に、ふっとせんせとのことが目に浮かんで消えた。一瞬痛みが走った。芙蓉は大きく首を振って、その影を振り払った。

 花嫁支度は着々と進んでいた。そんな時葵が芙蓉を海に行こうと誘ってきた。とても嬉しいことがあるので、聞いてほしいと言う。芙蓉には大体想像がついたが、葵の希望を断れなかった。

 葵と芙蓉は麦藁帽をかぶって砂浜に座っていた。打ち寄せる波が心地よい音を立てていた。

「ねえ芙蓉ちゃん、私もね、せんせが結婚してくださることになったのよ、お式の日も決めてくださったからもう安心だわ」

「まあ、よかったわね。あなたは本当に幸せは人だわ」

「そうよね。ずっと思い詰めていて、せんせがなかなか私を認めてくださらなくって、つらかったけど、せんせがようやく私の方を向いて下さってからは、ずっと優しくしてくださるのよ。ほんとに途切れることなく愛してくださるの」

「幸せね」と芙蓉はかみしめるように言った。

芙蓉は葵のことを本当に幸せと思っていた。好きな人を待って待って、その好きな人に清らかな体をささげ、ほかの誰をも知らず好きな人から手ほどきを受けて開花していってる。やがて赤子が生まれても、葵の愛はせんせから離れることはないだろう。赤子を抱きながら、葵の目はいつもせんせに注がれている。そんな幸せがあるだろうか。

 せんせとのことに一生こだわり、誰にも言えず、せんせがどうしてあの時そんなことをしたのか、本当の心を言ってくれることもなく、「申し訳ない」と土下座したのをどう考えたらいいのかも分からない。自分にも非があったと思うこともあるので、せんせを恨む気はなかった。ただせんせの気持ちがわからずに知りたいと思うだけだった。芙蓉はあの時もただ柳原君に心身とらわれていただけだった。もしせんせのことが自分も好きだったら、葵の話を聞いて葵を嫉妬しただろう。けれども芙蓉には、葵に対して秘密を持っているうしろめたさはあったけれども、嫉妬することはなかった。

「それからねえ、びっくりしないでよ。せんせはこの夏に東京の教員試験を受けて東京に出ていくんだって。私にも東京の小学校の教員試験を受けるように言うの。秋に結婚式をして、せんせのマンションで暮らして、来年の春には東京へって」

「まあ」

「でしょ。どうして?ここで今まで通りに教員していてもいけるのに、なんで東京に移住するのかさっぱりわからないのよ。聞いてもあいまいなの。東京で一段上の教員を目指すっていうけれど、高校のせんせでいいと思うのよ、私はね。でもねえ、せんせがそういうのであれば、せんせの希望をかなえてあげなければね。私はどんなことでもせんせについて行くの」

「いいわねえ」と芙蓉は本心から葵の気持ちを讃えた。

一方せんせが東京に行くのは、自分がせんせの近くに帰ってきたからかもしれないと思った。せんせも決してあのことを忘れていないのだ。

 芙蓉はもうこだわることはやめようと思った。

 打ち寄せる波のざあーという音に混じって、貝を拾う子供たちのざわめきが聞こえた。葵の麦藁帽の水色のリボンが浜から吹く風に揺れていた。

 家に帰ると、母は結婚式に招待する名簿づくりに一生懸命だった。

「あら、芙蓉、いいところに帰ってきてくれたわ。芙蓉のお友達は誰々よぶの?」

「葵ちゃんと今井君でいいわ」

「杉野先生は?」

「せんせはいいわ」

「先生もお呼びしたら?先生のおかげで大学にいけて、加賀さんもいい大学だって認めてくださったのよ」

「どうしようかなあ」

 芙蓉は今聞いたせんせと葵の結婚を考えた。葵だけ呼んでせんせを呼ばないのは葵にとって不自然かなあと思った。

「お母さんが呼んだ方がいいと思ったら、入れておいて」

「呼んだ方がいいと思うの、入れておくわね」

「そうしておいてね」

 芙蓉も母の名簿づくりの手伝いをした。

 結婚式の日が来た。

 結婚式は町で一番の由緒あるホテルで行われた。そのホテルは昭和天皇が戦後全国を回られたとき、お泊りになったホテルだった。

 芙蓉の結婚式の招待客は五十人を超えていた。

 葵も今井君もせんせもいた。

 町の名士の居並ぶ前で、芙蓉は新郎と壇上に座っていた。

 芙蓉は、紺野病院を盛り上げていくことを一心に考えていた。この人の、いい妻になり、いい助手になって先祖代々の紺野家を盛り立てていくのが使命だと思った。芙蓉は隣にいる富男の横顔を見上げ、決心を新たにしていた。

 華やかな打掛をまとった芙蓉から、もうすでに堂々とした若奥様の風格がにじみ出ていた。

 芙蓉から立ち昇るオーラは、会場をうめつくし、名士たちは我を忘れて箸の手を止めて芙蓉に見とれていた。

 芙蓉は遠くの方で豆粒のように小さいせんせを見つけた。

 式が終わると、芙蓉と富男は皆に見送らて、二人にとって未知の世界、新婚旅行へと旅立っていった。(完了)

 

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秘められた青春 昭和の少女 芙蓉と葵 葉っぱちゃん @bluebird114

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