第10話
次の日の朝、店に出て広告の棚を外に出して整えていると、女の人が近づいてきた。その人は「紺野」と書かれた名札をじろっと見て、
「芙蓉さんですね」と言った。
芙蓉が怪訝な顔をして、
「はい」と答えると、
「滝沢について話があります」と言って、
「今夜は何時に上がりですか?」と聞いてきた。
「六時です」
「では、その時あそこで待っていますから」と通路の隅の方を指さした。
芙蓉はあっけにとられ、滝沢に連絡も取れず、ずるずると退社時になり、待ち構えていた見知らぬ女に捕らえられえて喫茶店に連れて行かれた。
席に着くと、
「私は滝沢の許嫁です」とその女は言った。
センスのいい眼鏡をかけている美しい人だった。芙蓉はびっくりして、声も出なかった。
「私は生まれ落ちた時から、滝沢の許嫁なのよ。私の母と修ちゃんのお父さんが同じ村の幼馴染で、同じ年に相前後して私と修ちゃんが生まれたから、親同士二人が相談して許嫁と決めたのです。私は小さい時から、あんたは修太朗さんのお嫁さんになるのよと言われて育った。だから修太朗さんの所に遊びに行っても、誰も止めないの。高校を卒業して修ちゃんが大学に行くために上京する前日、私はいつものように修ちゃんの勉強部屋でお話していました。その時私は生まれて初めて、男女のことを知ったのです。ショックでした。それ以来私は大学の休みに修太朗さんが帰省してくるのを心待ちにしていたんです」
そこまで言って、息が続かないかのように、オレンジジュースを飲んだ。
「学生の時はまだ時々帰ってきてたけど、勤めだしてからは盆暮れに一、二日帰るだけ。そして、今度、修太朗さんのお父様からお詫びが来たの。婚約解消してくれと。私ももう三十よ。煮え切らない修太朗さんを待って待ってしてこの年になったのよ。訳を聞いたら、あなたと結婚してミュンヘンに行くというじゃないの。許せない。そんなことしたら、私は自殺してやる」
自殺と聞いて芙蓉に震えが来た。
「そんなことなさらないで下さい。ミュンヘンの話昨日聞いたばかりです。行くとも行かないともまだ分からないのです」
「威張ってるのね、勝ち誇っているのね。修太朗さんに求婚してもらって、行かないってことはないでしょう。あなたはおごってるわ。私はどうなるの?もう結婚なんてできないわ。三十よ。修太朗さんとこんなことになってなければ、まだ結婚できるかもしれない、この年でも。諦めもついたかもしれない。でももう私は修太朗さんのものになってしまったの」
そう言って相手は芙蓉をきっとにらんだ。芙蓉は震えた。
「あなたとミュンヘンにいったら、私は自殺してやるからね」
芙蓉はますます恐ろしくなった。
「私、くにに帰りますので、自殺なんて言わないで下さい」
「本当なんですね。一時逃れを言っているのではないですね」
「ええ、私は医者の婿を迎えて病院を継がなければならない運命ですから」
とっさに言葉がすらすらと出ていた。
「お約束します。どうか。自殺だけは思いとどまってください」
「本当ですね。今の言葉は修ちゃんに伝えますからね」
「はい」と言って芙蓉は席を立った。
滝沢さんにも暴かれる過去があったのだ。過去というより現在進行中の。芙蓉は嫉妬にさいなまれた。あんな美しい人なのになぜ私を選んだのだろう。
その夜遅く何も知らない滝沢が芙蓉のマンションに来た。いつもと違う芙蓉の態度に滝沢は芙蓉を問い詰めた。
芙蓉は、許嫁が来たことと、自分は病院の後継ぎとして婿を迎えなければならないことを打ち明けた。滝沢は、芙蓉の親を説得に行きたいと熱心に芙蓉を口説いた。芙蓉は自分のふしだらを親に知られたくなかった。滝沢は、許嫁の寿美子が上京してきているのも知らなかった。親父が、問い詰められて芙蓉のことをしゃべったに違いないと、芙蓉にわびた。寿美子のことはちゃんと解決するし、芙蓉の両親にも許可をいただくから、何が何でも、自分と結婚してほしいと言った。芙蓉は嬉しかった。
滝沢が何も心配しなくていいと芙蓉を抱きしめた時、芙蓉はぐったりとなって抱きしめられていた。頭は何も考えられなくなって、ただ滝沢の激しい動きにつれて極楽で揺蕩っていた。その時またもやインターホンが鳴った。芙蓉が我に返って起き上がろうとすると、また、滝沢が芙蓉を押さえて制止した。まだ四、五回インターホーンが鳴ったが、その後鳴らなくなった。滝沢も芙蓉もすっかり興をそがれていた。
寿美子を説得して函館に帰らせたと言っていたのに、四月の半ばになると、またインターホーンが鳴った。修太朗は連休明けにミュンヘンに発つので引き継ぎに忙しく、芙蓉の所に訪ねて来るのも難しくなっていた。
芙蓉はドアを開けて外に出た。寿美子が立っていた。
「ちょっと、お話したいんで、出てきてくれませんか」と寿美子は言った。芙蓉はコートを着て寿美子の後に従った。寿美子は近くの喫茶店に入った。
「修太朗はあなたをミュンヘンに連れて行かないし、あなたとも結婚しないと約束してくれました。そのことをあなたに伝えるとも約束してくれました。あなたはそのことを修太朗から聞きましたか?」
「は、はい」
芙蓉は聞いていなかった。でも、勢いに押されてはいと答えていた。
「私は修太朗に呼ばれなくても、あとから行きます。その時あなたがいたら私はその場で死にますからね」
「わかりました。どうか死ぬのはやめて」
「修太朗とあなた次第です」
「はい」
芙蓉はそれだけ聞いて逃げるように帰ってきた。
翌日出社してすぐ店長に五月いっぱいで退職を願い出た。
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