第9話
会ってみると滝沢さんはスマートな人だった。銀座の一流のフランス料理店に案内してくれた。
「紺野さんが返事をくれないので僕はがっかりしていたよ。もう一度、誘ってダメだったらあきらめようと思っていたんだ」と滝沢は言った。
芙蓉は食事をいただきながら、上目使いに滝沢を見上げながら、
「ごめんなさい。誘っていただいて嬉しかったのですけど、私みたいなもの、会ってみてがっかりされるんじゃないかと思って、お返事ができなかったのですわ」
「こっちは恋人がもういるのかと思ったよ」
「いいえ、そんなもの、私みたいなものにいませんわ」
「それは僕にとっては有難いことだなあ」
そう言って滝沢はワインを勧めた。
芙蓉は勧められるままに飲んだ。
少し酔が回ってきた。
「ねえ、滝沢さんは函館出身なのね。私まだ行ったことがないの。函館ってどんな所?」
「いい所だよ。魚介類がおいしいし、町はエキゾチックな感じが何となくするし、函館山の夜景ね。きれいだよ。世界三大夜景って言われるほどだもの。今度連れて行ってあげる」
「ほんと?ありがとう。嬉しいわ」
芙蓉は上気したまなざしで滝沢を見つめた。滝沢の顔を正面からまじまじと見つめたのは初めてだった。色が白く眉毛は濃く、若さが内面からあふれ出ていて、普段の印象よりずっとハンサムだった。その時ふと滝沢の顔に、トムが重なった。一瞬、トムが教えてくれた恍惚がよみがえり、芙蓉の内部が震えた。
「銀座をぶらぶらしてみようか」と滝沢が誘った。
「ええ、いいわねえ」と芙蓉は応じて二人は肩を並べて銀座を歩いた。
「あら、滝沢さん、今日は満月よ。見て!」と言って芙蓉は空を指さした。
「ほんとだ、綺麗だね。いい夜だ」と言って滝沢は風に向かって面を上げ、悠々と歩いた。
十一月初旬の暖かい夜だった。柳は揺れていた。芙蓉の長い髪も揺れている。滝沢がそれとなく手をつないできた。芙蓉の気持ちは最高潮に高まってきた。
「マンションまで送っていくよ」と言って、滝沢はタクシーに向かって手を挙げた。
タクシーを降りると部屋まで送っていくと滝沢が言った。芙蓉は軽く頷き狭い部屋に案内した。
二人は何も言わなかった。コートを着たまま長い間抱き合っていた。芙蓉の頭の中に柳原君が現れた。柳原君も才女ときっとこうしているんだわ。柳原君に操をたてて身動きの取れなかった長い時間を、もう捨てよう。すべてを忘れて自分の欲望のまま生きよう。響子のように!葵のように!
芙蓉はコートを脱いだ。滝沢もコートを脱いだ。芙蓉はセーターを脱いだ。滝沢もジャケットを脱いだ、そうして芙蓉が最後にためらったとき、滝沢が待ちきれないように、芙蓉を脱がせた。
嵐のような揺らめきだった。その間も柳原君の面が頭をよぎった。この時柳原君は芙蓉にとって天上の神と変わった。神聖そのものだった。芙蓉の手には届かない神になった。
芙蓉は神聖な神を胸に抱きつつ、滝沢の動きにつれて、響子のように甘いあえぎ声をあげていた。
それから三日にあげず柳沢はたずねてき、芙蓉の夜は果てのない歓びにしびれ、放心してベッドの上に横たわることが多くなった。一人っきりの夜夜の寂しさから逃れることができた。
やがてお正月になり、お正月休みは二人ともそれぞれの実家に帰った。芙蓉は滝沢のことは母にも父にも言わなかった。芙蓉が婿を取って病院を継がなければならないことを、芙蓉は忘れてはいなかった。
再び桜の季節が巡ってきた。滝沢と芙蓉は新郎と新婦のように手を取り合って上野の公園に花見に行った。桜の下は立錐の余地もないくらい花見客で埋まっていた。滝沢は端の方にちょっとした空き地を見つけて、お花見シートを広げた。二人は芙蓉が作ってきたサンドイッチを食べた。桜の花びらが二人の頭上に落ちてきた。二人は笑いあいながらお互いに花びらを取り合った。二人がビールを開けて飲み始めた時、
「ねえ、芙蓉さん」と滝沢が切り出した。
「重大な話があるんだけど、僕、5月にミュンヘンの支社に転勤するんです。結婚して一緒に行ってもらえませんか」
「ええっ!突然な!」
「桜の花の下で言いたくて、もうちょっと前に言われていたんだけど、今日まで待っていたんだよ」
「まあ!ミュンヘン!そんな遠い所、父と母にも相談しないと」
「勿論そうですとも。了解を得ておいてくださいね」
「ええ」
芙蓉は婿を迎えて先祖代々の病院を継がなければならない。婿を迎えて病院を大きくしたいという父の念願をかなえてあげたい。柳原君と才女の噂を聞いて落胆し、破れかぶれの気持ちになって滝沢に近づき、滝沢によって夢の世界を体験させてもらった芙蓉は、もう滝沢から離れなくなっていた。しかし、ミュンヘンと言われたとき、はっと自分の立ち位置に気づいた。ついて行きたい、けれど、一人娘を可愛がって育ててくれた父に申し訳ない。
上野のお花見から帰る道中ずっと悩んでいた。
滝沢は、芙蓉が一緒に来てくれるものだと思っている。気持ちが高揚しているようだった。
「さっ、こっちへおいで。後片付けなんか置いて」
風呂上がりの滝沢は、ベッドに横たわって芙蓉を呼んだ。
芙蓉は魔法にかかったように滝沢の言うままに滝沢のそばに横たわった。
「一緒に来てくれな」と滝沢は耳元でささやいた。
「うーん」とあいまいに言って芙蓉はいつもの甘いあえぎ声を上げた。
滝沢は脱力して満足していた。腕枕をしている芙蓉に、ミュンヘンの新生活についての抱負を語っていた。
その時、インターホーンが鳴った。芙蓉が慌ててガウンを着ようと起き上がると、滝沢は出なくていいとささやいて、芙蓉を引き止めた。二人が布団の中でじっとしていると、執拗にインターホーンが鳴った。たまりかねて出ようとする芙蓉を、滝沢がしっかりと抱きとめ制止していると、あきらめたのか鳴らなくなった。
芙蓉はこんな夜に今まで訪ねてきた人もいなかったので、気味が悪かったが、滝沢が
「大丈夫だ、僕がいるから」と頼もしく言うので、ほっとした。
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