第8話
年を越し春が来た。響子は結婚して出て行った。美鈴もアイルランドに行く準備で、長岡の実家に帰った。学生生活の延長だった女の園の下宿は解体した。
芙蓉はまだ結婚できず、一DKのマンションに移った。これからは一人でしっかりと生きていかなければならないと決心していた。会社の窓口業務には慣れ、芙蓉を名指して来るお客さんも出てきた。芙蓉にこっそりと外国土産を渡してくれる人もあった。芙蓉はどのお客さんにも愛想よくにっこりと笑って接した。
勤務を終えて夜マンションで一人でいると、寂しさがこみあげてくる。どうしても忘れられない柳原君。柳原君は殿上人で、才能のない自分は自分を卑下していて、決して自分から自分の気持ちを打ち明ける勇気はなかった。心は枯れ木のようだったのに、体は柳原君に向かって、自分では気づかないうちに、全開していたのだ。せんせは私の自覚のない欲望する姿に気づいて、せんせ自身も欲望の極に達してしまったのだ。それにしてもせんせは厳しすぎる。ただ一度で、あとは取り付く島もなく何もなかったように振舞うのだから。葵が私の親友であったのを知っているはずなのに、葵には繰り返し優しくしてあげて、結婚まで約束している。せんせの気持ちが分からい。私が家の医院を受け継がなければならない運命にある人だからか。親戚一同が町の名士と言われるからか。
柳原君が才女と恋に落ちているという噂を聞いて、気持ちが折れてしまった。そして、葵が言ってくる長ーく天上をさ迷う有頂天の喜びも知りたくて、また響子の毎夜のあえぎにも好奇心いっぱいで、自分の方からトムに身をまかせてしまった。こんなことを経験してしまった自分は、柳原君にはふさわしくないと思い続けた。
芙蓉には、柳原君が自分のことを何とも思っていないということもわかっていた。それでもなお、柳原君のことを想い続けた。
その柳原君が才女と一緒にアメリカの大学に留学するらしいという噂が、葵を通して聞こえてきた。芙蓉は目の前が真っ暗になった。
葵は芙蓉が柳原君を好きだということを知らなかった。高校でも数年に一度排出するかしないかの秀才と言われている柳原君については、誰もが彼の一挙手一投足を注目して噂にした。芙蓉は過去に起きた二度の過ちで、柳原君にはどうあがいても近づけないと思っていたのに、才女とのアメリカ留学の話を聞いて心がくず折れてしまった。
しかし、芙蓉は職場では明るくふるまった。男性の上司には気に入られ、女性の同僚にも仕事をどんどんこなすので重宝がられた。お客さんも気軽さから芙蓉のいる窓口に寄ってきた。
芙蓉が短大を卒業して勤め始めた時から、月に一度芙蓉の窓口にきて函館行きの航空券を買っていくサラリーマンがいた。丸の内のオフィスに勤めている人らしかった。滝沢さんという人だった。上司は前からチケットをよく買いに来ている滝沢さんと顔馴染みだった。
ちょうど芙蓉が下宿を出てマンションに越したころ、滝沢さんがチケット代を払うお札の上に、そっと一枚の白い紙を置いた。それでニコッと笑って、白い紙を見て目で合図してきた。芙蓉は慌てて目を落とした。紙に「読んでね」とだけ書いてあった。芙蓉は慌てて事務服のポケットに紙を隠した。
マンションに帰って急いで読むと、食事にお誘いしますと書かれていた。来週の金曜日の七時に銀座でお待ちしていますと書いて、待ち合わせ場所を詳しく地図入りで書いていた。そして、自分は大手の商事会社に勤めていること、大学はK大を出て年齢は三十歳、函館の出身と書いてあった。
芙蓉はいつも清潔感があっていい人だと思っていたけど、過去のことがわだかまっていて返事ができなかった。柳原君にまだとらわれていて、心が動かなかった。滝沢さんは、それからも何度か白い紙をお札の上に置いていた。芙蓉は滝沢さんを振り続けていたが、柳原君が才女と一緒にアメリカに留学すると聞いて、わずかな期待も失ってしまい、心が真っ暗な闇に閉ざされた。その時、微かな光が滝沢さんからさすような気がして、芙蓉は返事をずっとしなかったのに、「お誘いありがとうございます」と小さい白い紙に書いて、お釣りのお札の上に置いた。
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