第7話
「寂しい寂しい」と言っていた響子は、その年の暮れには寂しいと言わなくなった。同じ百貨店でバイヤーをしている男性と、来春に結婚することになっていた。
下宿の台所でたまたま響子と芙蓉と美鈴が一緒になった時、
「私ここを来年の三月に出るのよ。結婚することになったの」と響子が言った。
芙蓉は驚いて、
「ええっ、どんな方と?」と聞いた。
「同じデパートに努めている人よ。彼は江戸っ子でね。何代か前までは、自分の家から駅まで全部自分の土地を踏んで行けたという地主だったらしいわ。土地はだいぶ手放して駅前にマンションを建てているの。そこの一室を私たちの新居にしようとちょうど改装が終わったところなの。彼は慶応出ててね。すてきな人よ」
「もしや北海道に行かれた方?」
「ヤダ、芙蓉ちゃん、あの人じゃないわ。もしやもしや、興信所の人がここに来たりしても、そのこと口外しないでね。美鈴ちゃんもお願いいたします」
「勿論です。そんなこと言いませんよ」
二人は固く約束した。
「私もね」と美鈴が切り出した。
「私も実は三月でここを出て、アイルランドに行くの。まだ誰にも言ってなかったけど」
「ええっ!美鈴ちゃんも!」
「私イギリスに行きたいと思っていたけど、両親がどうしても結婚して夫婦で行ってくれたら安心だと、一人は許してくれなかったの。仕方なく結婚することにしました」
「まあ、男性にはあまり興味ないと言っていたのに?」と芙蓉は聞いていた。
「それは今も同じだけど、外国に行くチャンスだもの。同じ長岡の人で、製薬会社に勤めていて、一月からアイルランドに転勤なの。実家に仲人さんが持ってきた話なんだけど、両親が家柄がいいと大乗り気でね。お見合いしたの、外国に行けるから結婚を受け入れたわ」
「まあ」と言って芙蓉は絶句した。二人が結婚していく。美鈴は誰の手にも触れられてない清らかな身体を持って。響子は絶えず男に抱かれていないと寂しいと言いつつ、そしていつも男性から満足な愛撫を受けつつ、それを隠し持っていても尚且つ幸せな結婚を勝ち取っている。
自分はいったい何なのだろうか?せんせとのことを、不運にも交通事故にあったようなものだ、自分は潔癖なのだ、とも居直れず、傷を抱えたまま、それでもなおあきらめきれず、柳原君を思い続けている。心は無垢でも、自分は処女を失った体なのだから絶対に彼とは結ばれることができないとあきらめようとしつつ、なお彼をあきらめきれない。そしておそらく自覚のないまま性に目覚めた肉体が、目の前のトムを呼び込んだに違いない。そして甘い快楽の極地に長い時間漂わせてもらった。こんなことをトムのような行きずりの人によって知った自分が、まともな幸せな結婚を手に入れることは出来ないだろう。
芙蓉は響子や美鈴が羨ましかった。
響子や美鈴の幸せそうな話に、芙蓉も表面上乗って、きゃっきゃっと盛り上がっていた。その時、玄関の戸が開いて、大家さんが入ってきた。
「あら、あばちゃま、綺麗だわ。何かいい所に行ってらしたの?」と響子が聞いた。
「ちょっとね」と言っておばちゃまは上気したような顔になった。
「おばちゃま、高英男?」
「今日は違うの」と言ってますますぽっとほほを赤らめて、
「彫刻展に行ってきたのよ」と言った。
「ロダン?」
「いいえ、そんな巨匠じゃない。百貨店の中の小さい展覧会よ」
「よかった?」
「ええ」
そういいながら、何か奥歯にものの挟まったような言いにくそうな雰囲気を醸していた。よく気のつく美鈴がミルクティを四人分入れてきた。
「おばちゃま、このコート素敵ねえ」と響子が着ているコートの袖に触って言った。
「そおお?」とおばちゃまは、顔を赤らめながら、
「ありがとう」と言って紅茶を飲みつつ、
「実はねえ」と切り出した。
「息子の圭太がねえ、結婚するの」
「まあ、おめでとうございます」
「それでねえ、離れを若い者たちに明け渡したいの。結婚は来年の六月なんだけど。June bride とか言っちゃってね。そんなで、私の住むところがなくなってね。この母屋を私で住もうと思うのよ」
「まあ、おばちゃま、ちょうどいいところだったわ。私もね、三月に結婚します。おばちゃまに言いに行こうと思っていたところよ」
「まあ、それはおめでとうございます。どんなかた?」
「同じ百貨店に勤めている方です」
「私あそこのデパートに知り合いの息子さんが勤めているの。まさか芹沢さんって方ではないでしょうね」
「あれ、おばちゃま芹沢さんです」
「まあ、その方の縁談もお母様に頼まれていたのよ。最近決まったって言ってたから。ひょっとしてと思ったの。やっぱりそうだったのね。芹沢さんは立派なおうちよ。代々の資産家だわ。お母さんもいい人だし、あなたいい人を捉まえたわね」
「そこまでは知らなかったのですけど・・・」
「おばさま、私も来年の三月で子供英会話の仕事辞めて結婚してアイルランドに行くので、三月末か四月にはここを出ることになりました」
「まあ、お二人とも、おめでたいわねえ。四月ごろまで居ててくださっても大丈夫よ。芙蓉さんは?」
「私はまだ結婚の話はないんです。でも下宿は早い目に探します」
「すみません。無理言って」
「おばちゃま、ここで一人でお住みになったら、広すぎて鼠にひかれそうですね」
「それがねえ」とおばちゃまは言いにくそうにしながら、
「実はねえ、彼氏が来るの」
「ええっ!彼氏って、おばちゃまの?」
「ええ、言いにくいんだけど、彫刻している人なの。それで見に行って来たのよ」
「まあ、素晴らしい!芸術家なのね!」
おばちゃまを冷やかしつつ、芙蓉は楽しさを装いつつ、四人の明るく賑やかな会話が夕暮れまで続いた。
芙蓉はおばちゃまの年を考えていた。四十半ばかも知れない。あばちゃまはきっと二十年近く男性と交わることなく過ぎてきたのだろう。あばちゃまをお婆さんのように思っていたけれど、そうではないのだ。おばちゃまのあのてれようや、のぼせた顔つきは少女のようだ。同棲したらおばちゃまはどんなに光り輝いていくのだろう。男性の愛を肉体にいただいて女性はいきいきと美しくなっていくのだと思った。
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