第6話
ゴールデンウィークは忙しくて、休日出勤だった。代休をとった芙蓉は誰もいない台所で夕食の支度をしていた。その日は五月だというのに朝から曇っていた。ご飯が炊きあがったころ急に雷が鳴ってものすごい雨が降り出した。芙蓉は恐ろしい怪物を見るように台所の縁側に出てガラス越しに空を見上げた。稲光と同時に雷鳴がなった。芙蓉は慌てて台所に隠れた。それと同時にビシャッと音がして、芙蓉は近くに雷が落ちたなっと思った。耳を抑えて頭を抱えしゃがみこんだとたん、またビシャっという雷鳴がした。それと同時に玄関の引き戸をがたがたといわせる音がした。恐怖におののきながらも、いつまでも音はやまないので、玄関に出て、「どなたですか?」と大声で言った。
「トムです」という声が雷鳴に混じって聞こえた。
「トム?」
「はい、トムです」
「今錠を開けます」
戸を開けると、トムがずぶ濡れの姿で頭から水を垂らしながら入ってきた。
トムが戸を閉めるとまた雷が鳴った。
「ちょっとお待ちになって、今タオルとってきます」
芙蓉は階段を駆け上がり、バスタオルを取ってきてトムに渡した。トムはぼとぼと水滴の落ちる髪の毛を拭き、濡れた体を洋服の上から拭き、短パンから出た脛をふいた。
「それでは寒いわねえ。お上がりになって」
と言って芙蓉はトムを部屋に導いた。
「すみません」とトムは言いながら、芙蓉についてきた。
芙蓉は、濡れた洋服をそのままにしておくわけにもいかず、どうしようと思った。ふとバスローブがあることに気づいた。芙蓉はタンスから洗いあがったばかりの真っ白のバスローブを出し、
「これに着替えてください。濡れたお洋服は下の浴室で乾燥機にかけますから。着替え終わったら、声をかけてくださいね。私は廊下に出ますから」と言った。
トムは頷き、
「サンキュー」と言ってバスローブを受け取った。
廊下に出ると芙蓉は急に正気になり自分のしていることに震えた。
「着替えました、これ」と言ってトムが戸を開けて濡れた洋服を突き出した。
「はい」と震え声でいい、芙蓉は濡れたものを受け取って階段を下りた。
芙蓉は、洗面台でぐしょ濡れの洋服を絞った。長袖Tシャツと短パンとブリーフの三枚だった。芙蓉は男性のパンツにさわるのは初めてだった。父のは母が洗っていた。芙蓉は違和感を覚えながら、固く固くしぼって、乾燥機に入れた。
芙蓉が部屋に帰ると、トムは窓ガラスから庭の木に降りしきる雨を見ていた。女物のサイズの小さいバスローブから、にょきっと出たトムの脛や腕が見えた。肩幅の広いがっしりした後ろ姿が芙蓉の目には新鮮に見えた。芙蓉は、トムのわきに立って同じように窓の外の雨を見た。
「通り雨だったのね。もうすぐ止みそうね」と芙蓉は言った。
「そうですね、雨宿りすればよかった」
「響子さんは?」
「響子さん、今日はデパート早く上がれるから食事しようと言ってたのに、デパートに迎えに行くと、急に閉店まで居ることになったので、部屋で待っててと言います」
「そうだったの」
「途中で雨に降られて、走ってきたのですが、来てみると合い鍵を持っていないことに気が付きました」
それで玄関をどんどん鳴らしたのだなと思った。
「でも、大丈夫です。洋服は一時間もあれば乾きますわ」
「すみません」
「私ちょっと下でコーヒー作ってきます」
芙蓉は雨に濡れた体は寒かろうと気づき、熱いコーヒーを作って持って上がった。
トムはまだ外を見ていた。芙蓉はさっきと同じように、がっしりした大きな後ろ姿に魅入られた。
「どうぞコーヒー」と言って芙蓉は勉強机の上にお盆を置いた。
勉強机の椅子にトムを座らせ、自分も折り畳みの椅子を広げて座った。
壁にくっつけた勉強机に直角に向き合って座ると、本当にトムとの距離が近かった。ちんちくりんのバスローブを着ているトムは、ともするとはだけそうになるバスローブを掻き合わせ掻き合わせしていた。どう掻き合わせても、トムの胸毛が見える。芙蓉はドキドキし自然に目をそらせた。
「トムさんはいつ日本に来たの?」
「およそ一年半前です」
「日本に知り合いがいたの?」
「叔父が仕事で会社から派遣されて日本にいたので、それで来たのです」
「日本は好きですか?」
「好きです好きです」
「どして?」
「僕は、小さいとき日本の絵本『桃太郎』見たのですよ。桃太郎が好きで日本も好きになりました」
「うそ、うそ、桃太郎だって?」
芙蓉は笑い転げた。
「うそでありません。ほんとうです」
「本当?本当なの?」と言ってまた一層芙蓉は笑い転げた。
芙蓉は気持ちがおかしくなっていた。力強い後ろ姿に魅了されていた。サイズの合わない小さすぎる衣服からにょきっと出た筋肉質の脛や腕。そして生まれて初めて見た胸毛。その上にトムはまだ若くてハンサムだった。
余りにも笑い転げたので、簡易な椅子が安定を失ってグラッとなった。
「危ないですよ」と言ってトムがとっさに立ち上がり、芙蓉を抱き止めた。芙蓉の頬にトムの胸毛が当たった。芙蓉は動けなくなりトムの胸にじっと頬を当てていた。するとトムが急に強く芙蓉を抱きしめて来た。はっと我に返った芙蓉はトムから離れようとしたが、トムは芙蓉を軽々と抱き上げるとベッドまで運んだ。
響子のことが頭をよぎった。でも、トムを強く拒絶もしなかった。
芙蓉の心も体も魔法に掛かったようだった。
芙蓉はワンピースを脱いでいた。
バスローブのまま寄り添ったトムは、芙蓉の心により添いながら、高価な宝物を壊してはならないといったような丁寧な扱いで、芙蓉の心も体も開いていった。芙蓉はじっと目を閉じたままトムのなすがままに身を預けていた。
やがてトムが起き上がり、芙蓉に気づかれないようにちらと腕時計を見た。
芙蓉は急に現実に戻り、響子の帰ってくる時間を計った。
急いで衣服を身に着けた芙蓉は、乾燥機から衣服を取りだしてきた。
普段の姿に戻ったトムを台所に導き、自分は部屋に戻って鍵をかけた。
しばらくすると、響子のにぎやかな声がして、二人が階段を上がってきた。
芙蓉はなにも手が付かず、ぼんやりとベッドに腰かけていた。
響子の部屋から漏れ聞こえてくる声は、いつもと変わらないのであった。
芙蓉はふっと柳原君のことを思った。
忘れられない初恋の人柳原君からますます遠く、自分は罪深い人になったのだ。自分は柳原君に匹敵できる知能も容姿もない人間で、自信が持てなくて、片思いのまま自分から好きだと打ち明けることは出来なかったかもしれないけれど、せんせのことがなかったら、まだ、自分は生まれたままの清らかな体で、柳原君に打ち明ける資格だけはあったかもしれない。けれど、あのことが自分を打ちのめした。そしてトムへと、純潔を守らなかった私は、ますます柳原君から遠くなった。柳原君が京大の才女と恋愛関係にあると聞いて、自分の事は棚に上げてがっかりしたけれど、それがトムへと走る言い逃れにはならない。
芙蓉は、いつまでもベッドに腰かけてぼんやりと考えていた。
それ以来トムは下宿に来なくなった。響子の方が外泊するようになっていた。響子は、トムと部屋をシェアしていた友達が、彼女ができて出て行ったので、自分の方がトムの部屋で泊まることが多くなったと説明した。
芙蓉は、トムがあの時の自分とのことを一時の迷いと思っているのだと考えざるを得なかった。
響子を裏切れなかったのだ。芙蓉も響子に隠れて響子を裏切るようなことを重ねられなかった。トムがきっぱりと下宿に来なくなったから、もうチャンスはなかった。芙蓉はトムのことは念頭から振り払い、ツアーの申し込みに来る人や、チケットを取りに来る人に、必要以上の誠意を尽くして接し、トムのことを忘れようとした。
それから間もなくトムはアメリカに帰ったらしい。響子は寂しい寂しいと芙蓉に訴えた。
芙蓉も口には出せないけれど寂しい。けれど響子とは絶対に寂しさを分かち合えない、芙蓉が一生背負っていかなければならない秘密であった。
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