第5話

芙蓉は歯を食いしばって、卒業論文を書き上げた。

 四月から駅ビルにある旅行会社に就職が決まっていた。両親は、早く帰ってきて医者の結婚相手が見つかりそうなので、お茶やお花を習い花嫁修業をしてもらいたいと望んでいた。

芙蓉はせんせのことが割り切れず、事情を知らない葵がせんせとの情交を、多分楽しそうに打ち明けてくれるだろうと思うと、まだ故郷に帰る気になれないのだった。

 響子は4月からデパートに就職することに決まっていた。

 槿は短大卒業後、もう子供英会話教室で働いていた。

 三人がお休みで階下の台所にいて、久々にしゃべっていると、大家さんが現れて、お茶にいらっしゃいと誘ってくれた。

「今日はたまの日曜なのに、圭太はお仕事よ。手持無沙汰なの。お二人とも卒業おめでとう。お祝いにケーキ買ってきたのよ。召し上がって」

「おばちゃま、ありがとうございます。どうかこうか卒業できましたのよ」と響子が愛想よく言った。

「芙蓉さんも、いいところに就職出来てよかったわね」

「はい、おばちゃまの薫陶のおかげです」

「いやあだ、薫陶なんて。冷やかさないでよ。恥ずかしいわ」

「すみません」と芙蓉が頭を下げると、みんなは笑った。

 ショートケーキを4人の女性でいただいた。

 響子はふと、リビングにパープル色の綺麗なワンピースが掛かっているの見て、

「おばちゃま、きれいなワンピース、どこかお出かけ?」と尋ねた。

「おばちゃまは、高英男のコンサートに行くの。今度の日曜にね」と言って、頬を赤らめた。芙蓉から見ると、大家さんはすごく年で、もう女として感じなく、「おばちゃま、おばちゃま」と言っておばあちゃまのように感じていたが、頬を赤らめる大家さんに初めて女を感じた。

 響子はボ-イフレンドに会いに行く時間が気になったのか、二人を促して母屋に引き上げた。

 その夜、ふと目が覚めると、響子の部屋から英語混じりに話す男の声が聞こえてきた。響子も英語でしゃっべったりしていた。三十分もすると、まったく声が聞こえなくなった。

 翌朝芙蓉がミルクを温めてミルクパンを持って台所を出てくると、響子と外人の若者が二階から降りてきた。

 正面からばったり会ったので、響子はうろたえた様子で、「トムです」と紹介した。芙蓉はその容姿の美しさに打たれて、しどろもどろに「紺野芙蓉です。よろしくお願いいたします」と片言の英語で言った。

 二階に戻ってきた響子は、芙蓉の部屋をノックした。

「芙蓉さん、ちょっと入っていい?」

「はいどうぞ」と言って芙蓉は響子を迎え入れた。

「さっきの子はね、英会話学校の講師なのよ。あと六か月で契約が終わってアメリカに帰っちゃうの」

「響子さん、今までの方は?どうなさったの?」

「辞令が下りて、北海道に行ってしまったのよ。寂しいの、私」

「まあ、響子さんはついて行かないの?」

「せっかく就職が決まったし、北海道のような寒いところは嫌だわ。もう少し都会生活を満喫したいの」

「私は、あの方と結婚するとばかり思っていたのよ」

「結婚はもう少し先でいいわ」

「響子さんて進んでる。うらやましいわ」

「そうかしら。私はその時その時の自分の気持ちに忠実に生きているだけよ」

「そういう風に言い切れる響子さんは素晴らしいわ」

「ねえ、これからトムがちょくちょく来ると思うけど、よろしくね」

「はい」

 響子は安心したように自室に帰って行った。

 芙蓉は響子の割り切った生き方を見て影響を受け始めていた。もともとかけ離れて優秀な柳原君に自分から好きだと言えなくて、何とか私というものの存在だけでも気づいてほしいと、先生の所に行っていたのだけど、先生に奪われてしまって、ますます柳原君は彼方の人になってしまった。柳原君が好きだという気持ちは変わりなく、苦しいぐらいに燃えさかっているのだけれど、もうどうすることもできないのだと観念するのだった。

 幸い裕福な山の手のお嬢さんたちと、屈託のない遊びをしていると、その時だけでもせんせとのことを忘れられた。

 いよいよ、四月一日になり、社会人となって入社式があった。旅行会社の中ではトップクラスの一流会社に入社したのは、晴れがましいことだった。本社で十日間の研修を終えてから、店に出た。

 店にいるのは、男性が三人、女性も芙蓉を含めて三人だった。新人の芙蓉は、朝一番にパンフレットの詰まったキャスター付きの棚を外に運び出した。開店と同時に航空チケットを買いに来る人や、ツアーを申し込む人で忙しかった。店の男性はみんな既婚者だった。新入社員の芙蓉に優しい人ばかりだった。分からないことが生じたときには、手取り足取り教えてくれた。芙蓉は安心しきっていきいきと働いた。

 ある日勤めから帰ってくると葵から手紙が届いていた。芙蓉は思い切って封を開けた。


 芙蓉ちゃん、勤めはどんな?卒業おめでとうね。私の方はまだ相変わらずゼミやら講義やら、小学校の先生になるために必要でピアノを習ったり、忙しくしています。

 この間久しぶりで今井君にあったら、柳原君の話が出て、柳原君が京大の同じ工学部の才媛と付き合ってるって聞きました。あのシャイな柳原君がねえ、びっくりよね。これは想像だけど、彼女の方から接近されたのじゃない?でもいい話よね。応援するわ。

 聞いて!私ね、せんせとずっといい関係が続いているのよ。長い間私のこと気づいてくれなかって、自分から先生を誘ってようやく深い関係になったでしょう。だから、嫌われないように毎日でも会いたいのだけど、気持ちを抑えて一週間に一度だけたずねていくことにしているの。せんせの都合のいい時聞いてね。

 せんせは優しいわ。せんせの手にかかると、私の体がとろけ出してしまいそうなのよ。私、せんせ大好き。長ーく、恍惚の空を泳がせてくださるもの。芙蓉ちゃんも早く恋人見つけてね。芙蓉ちゃんは堅物だから、好きな人の話も聞いたことがないし、ちょっと心配。芙蓉ちゃんもこんなことを知ったら、人生がばら色に変わるわよ。


 芙蓉はまた手紙を放り出した。せんせはあの時はそんなじゃなかった。突然だった。無理やりだった。何の前触れもなく痛みが走った。あとは優しく介抱して私が困らないように元の通りに整えてくれたけど、虹色の夢の世界をさ迷わせてはくれなかった。

 私が紺野医院の一人娘で跡を継ぐものと運命づけられているから?


 芙蓉は響子とボーイフレンドが長い間睦言を交わしていることを考えた。

 響子もきっとその時、極楽を見ているのに違いないと思った。

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