最近祈ることが多くなった。
若いころは、今から思えば傲慢だったのか、祈ることをしなかった。
最近になってようやく、祈るということは、人の力でどうすることもできなくなくなった時、人は祈るよりほかに方法がなく祈るのだと思うようになった。
昔、大阪文学学校で知り合た親しい仲間5人のうちに、俳句の上手な方がいた。
その方を師匠として、5人で句会のまねごとをして楽しんでいたところ、師匠が胃癌になられた。その方は「石切さんにお参りにいきたい」と言われた。
私は阿波出身で石切さんのことは知らなかったけれど、大阪や尼崎では「でんぼ(腫れ物)」の神様として、おできや、ニキビ、はたまた、癌を治してくれる神様として有名だった。
私たちは、師匠に代わってお札をいただきに行った。
その時見たものは熱心にお百度を踏んでいる人達の姿だった。
その頃の私はそんなことで治るのだろうかという冷めた考えだった。
だが今にして思うと、熱心にお百度を踏めば治ると信じている人が大半だろうが、そのほかに、もうてだてがなくて、ただただ祈るよりほかに仕方なくお百度を踏んでいる人もいると思うようになった。
それは、祈りだ。と思うようになった。
お友達はなくなり、石切さんに一緒に行った仲間もみな亡くなった。
私が食料品を買いに行くスーパーマーケットの道に、たまたま小さい30センチほどの地蔵がある。そんなのにも私は足を止めるようになった。
藤沢市の教育委員会によると、
「おしゃれ地蔵」というそうだ。
「女性の願いなら何でもかなえてくれる」のだって。
「満願の暁には、おしろいを塗って御礼をするから、『おしゃれ地蔵』という」そうです。
色っぽいお地蔵さんだ。
もうすぐ85歳になる私には、色っぽい女の願い事はない。
お地蔵さんを覗き込んで笑いながら写真を撮る。そして申し訳のように手を合わせて拝んでいる。
何かばらばらのことを書いてしまった。