第10話
「なあ、ずっと守っていてくれたんだろう?」
鳥居の下に犬太郎が好きだったペレットを置きながら、智之は言った。隣では由奈が手を合わせている。
「ケンちゃんは番犬にならないね」近所の人たちからはよくそう言われていた、他所の人には尻尾を振るくせに家族にだけ強気だった犬太郎は、時々智之や姉よりもずっと大人びたしぐさを見せた。
一週間前のあの日、犬太郎はここから智之に向かって牙をむいた。智之にあの道を通らせたくなかったのだ。智之があの道を通れば必ず老婆が現れる、犬太郎にはそれが分かっていた。
老婆は言っていた、「悪い狐だ。オレのやる事をなんでも邪魔しやがる」と。あれは君の事だろう、犬太郎。君はあの日からずっと、ここで老婆の呪いの邪魔をしていた。たった一人生かされた、砂浜を走るとノロマな、手のかかる兄貴のために。
「長い間ありがとう。でももういいよ、僕は大丈夫だから」
龍神様はきっと、子供を失った老婆を哀れんだのだろう。
”一人だけ残してやるから、お前が恨みを晴らせ”
もし犬太郎がここにいてくれなかったら、僕はとっくにこの世にいなかったのかもしれない――。
智之は「美嬢怨」の栓を抜いた、神様と犬太郎、そしてきょうだいと老婆の分、由奈と自分の分は一つの盃にそそいだ。
「本当にいいの? 由奈」
「うん、いいの」
昨日の晩、愛し合いながら何度も話し合った。智之は一人で行くと言ったが、由奈は最後にこう言った。
「智之、あなたと初めて愛し合った時ね、私『これが私の運命だったんだ』って思ったの、そんなの初めてだった。あなたが私にね、初めて告白してくれた頃、私あなたの愛を誤解してた、ぱっと盛り上がってすぐに醒めるような、子供の恋愛だと思ってた。あのとき私には好きな人がいたから、それを知ったらきっと私の事なんてすぐに忘れるって。でも違った、あの後もその前も智之はずっと私を好きでいてくれて、私の事を考えてくれていた……ごめん、ごめんね、遅れてごめん。私あなたと一緒にいたい、ずっと一緒にいたいの。だからあなただけでなんて、私絶対に、絶対に行かせない!」
先に智之が盃を半分空けた、残りを由奈が飲み干して、二人は手を合わせた。
「あなたたちの未来を奪っておいて、虫が良すぎるとお思いかもしれません。でも僕は由奈が好きだ、初めてなんです、こんなに生きていたいって思うのは。僕は由奈がどうしても、どうしようもなく好きで、ずっと一緒にいたい。そのためなら僕は何でもする覚悟があります。ごめんなさい、お願いです、僕に時間をください、僕と由奈をもっと一緒にいさせてください。お願いです、お願いします」
崩れかけた小屋を過ぎて、バイクは黄色い帯を乗り越えた。そのまましばらく進むと、ガードレールが途切れた道端に黄緑色のフキノトウがいくつも顔を出していた。バイクを停めて、二人は切れ落ちた路肩に酒と花をそなえて手を合わせた。
峠を越えて緩い下りを降りると、脇から川が合流した。坂が終わり道が平坦になると左に脇道が現れた。場所は合っている、だが先週のあの分岐とは思えない、路肩の草がやけに長く、あの木の柵が見当たらないのだ。智之はバイクを降りてそれらしい辺りの草を適当に分けてみた、すると草の間に朽ちかけた木の板が何本か落ちていた。板をたどっていくと錆びて茶色くなった郵便受けが転がっていた。
森の方に進むと蔦が絡まった大きな塊があった、蔦を払って分け入ると、家が丸ごと一軒、中に包まれていた。玄関には木の格子で出来た見覚えのある引き戸があり、音をさせないように気を使ったガラスは殆どが割れていた。あれから一週間しか経っていないのに、これは……。
小松菜畑があったはずの場所も雑草に覆われていた、軒下のコンクリートをへつるようにたどり裏にまわると、風呂場の窓が開きっぱなしだった。
由奈を捕まらせた柵は赤く錆びていて、握れば手を切りそうだった。風呂場には枯葉が吹き込んで、唯一水色だった浴槽のタイルも周りと変わらず茶色く汚れていた。
風呂場の戸にガラスは無く、奥には傾いた二層式の洗濯機が見えた。どちらも見覚えがある、なのに一週間前とはまるで様子が違っている。
僕らは、確かにここで……。
振り返ると森の中に鳥居が見えた、記憶にある鮮やかな朱色ではなくくすんだ色で、それすら所々が剥げかけていた。向うの神社の鳥居を直した人たちも、ここの事は忘れているのか、それとも怖くて近づけないのか。
智之が盃に美嬢怨を注いだ、老婆ときょうだいの分は鳥居の脇にある先が尖った岩の前に置いた。それがさっきあの店の男から聞いた、この家の墓だ。
最後に自分たちの分を飲み干すと、由奈が言った。
「お婆さん、見てたのね」
「ああ」
「だから私たちを帰してくれたのかも」
「え?」
「子供たちを思い出したから」
「由奈、もしかして風呂で何か見えた?」
「うん。私たちと同じ格好の二人が見えた、だから私もその通りにしたの」
「そうか、僕も見たんだ、だから同じようにした」
「愛し合ってたんだ、あの二人」
「ああ、ここで、誰にも邪魔されずに」
由奈の顔の前で合わされていた指先が、急に眩しい光を放った。海を駆けあがり山を越えた太陽が、気まぐれに寄り道をしたらしい。
何もない、静かだと思っていた森に鳥の鳴き声が聞こえた。カワセミだろうか、小さな青い鳥が現れて、沢の上を低く飛んでいくのが見えた。
二人は河原で遊びながら酔いが醒めるのを待った、由奈が水を蹴り上げる様子は、智之に子供の頃体育でやったフットベースボールを思い起こさせた。大勢がボールを蹴っているのに、由奈だけは蹴り上げた膝が真っすぐに伸びていた。その姿がたまらなく美しくて、智之は自分の中にある特別な感情に気が付いた。
あの時から智之の人生は始まった、目の前の由奈は間違いなくあの時の由奈だ、最初に好きになった頃の、勝気なくせに優しいところもあって、意外と面倒見がいい由奈。
その笑顔が欲しくて、僕はずっと君を追いかけていた。
僕らは変った、大人になった。でも変わらない、変わっていないものだってある――。
バイクが峠に戻った頃には日が赤く染まり始めていた、なのに風は相変わらず暖かくて、山の間から見える海も穏やかに凪いでいた。
途中にお供えしていた盃を回収して、もうすぐ麓に戻ると言うとき、由奈が後ろから智之のヘルメットを叩いた。
「ねえ、帰ったらお酒飲みに行こうよ」
「いいね、いいけど……」
歯切れの悪い答えが気になったのだろう、由奈が言った。
「あの店は嫌?」
「いや、そんな事は……んんっ」
唐突に咳払いをする智之。ヘルメットが当たるまで顔を寄せて由奈が言う。
「ねえ智之、もしかしてだけどあの人と私のこと疑ってない? あの店員さん」
「そ、そんな事はない、そんな事は」
ひどく慌てる智之を見ても、由奈は笑顔のまま手を緩めない。
「あれっきりあのお店、行って無いでしょ」
「え? え? いや、行ったよ、行った」
「嘘、行って無い」
何で知ってるんだよ――。
「あのね智之、わたしあの人とは……」
「あーあー知らない、知らない! 昔の事なんか聞きたくない、聞きたくなぁい!」
ヘルメットの上から両手で耳の辺りをふさぐ智之。だが由奈はかまわずこう言った。
「一緒にお風呂しか入ってないもん!」
「ジ、ジューブンだろ、それで!」
「なんだ、やっぱり聞いてるじゃん……」
由奈が智之のヘルメットを覗き込む。智之の目に涙が浮いている事に気が付いて、今度は由奈が慌てた。
「ちょ、ちょちょちょ、勘違いしないで、子供の頃よ、子供の頃。あの人、私の親戚」
「は?」
「私にとっては、きょうだいか従妹みたいな人」
「はい?」
「あそこの店員ね、友達とか親戚には勘定を一割引いていいの。あの娘たちも私と行くと友達割が効くからあそこに誘ったのよ。ちゃっかりしてるのよ、女の子は」
「友達割? あ!」
”Tワリ”
「へ、へえ、そ、そうなんだ、そうかあ、そうかそうか……はあ」
智之が大きく息を吐く。笑顔に戻った由奈が言う。
「疑ってたでしょ?」
「そ、そんな事はない」
「嘘だぁ、疑ってたぁ」
「違います」
「嘘つき!」
「違うってば!」
◇◇
あれから二十年以上の月日が過ぎました。
東北地方でも暖かい土地、太平洋からほど近い林道をテントと寝袋を積んだバイクで走っていた時の事です。一日中走って疲れていた私は、日暮れを迎えてもテントが張れる場所を見つけられずに、酷く焦っていました。
辺りが真っ暗になった頃、まっすぐに伸びる道とは別に、ヘッドライトが左に伸びる道を照らしだしました。道幅は同じ程度、草の生え方も変わらない。
そもそもそこまでだって地図にはない林道でしたから、こうなるとどちらに行けばいいのかさっぱり分かりません。林道の多くは林業のために作られた道ですから、深い山の中で突然行き止まりになる事がよくあります。当て推量で走ったら、どんな山奥に連れていかれるか見当もつきません。
手書きの小さな道標でもいいから何か無いかと、私はバイクを降りて分岐の辺りを探しまわりました。何も見つからずにバイクに戻ろうと振り返った時、私は森の中に一つ、小さな灯りを見つけました。
ライトとエンジンを切って目を凝らしました、闇に目が慣れてくると、手前に申し訳程度の木の柵と錆びた郵便受けが見えました。もうしばらく待つと奥にぼんやりと建物も見えてきました。
峠を越えて散々山の中を走った森の奥、鬱蒼とした樹々と沢以外には何もない山の中です。そこに木の板で囲まれた、その当時でも十分珍しいぐらい古い造りの平屋が建っていた……。
「おかしいな」とは思ったのです、だって道の方向を考えれば、その灯りは分岐に着く前に見えていなければいけないはずでしたからね。なのに通り過ぎて振り返るまで、気づかなかった。
疑問はありました、でもその時の私は知らない場所でキャンプ地を探すような気力がもう無く、なんとか林道を通り抜けて、最初の砂防ダムの河原にテントを張りたかった。
ここで間違った道を行ってもし行き止まりだったら、戻る気力が湧かないと思った私は、思い切ってその家の人に道を訊くことにしました。
玄関に呼び鈴は見当たりませんでした、こんな夜に人が来たら怖がらせるかもしれないと思いながら戸を叩くと、痩せた木の枠が薄いガラスを揺らして、「バンバン」という思いもしなかった騒々しい音をたてました。
二度目に叩いたとき、廊下の奥に動く影が見えました。そのとき玄関に出てきたのが、この物語に出て来るお婆さんです。私は分岐の方を指さして訊きました。
「夜分に申し訳ありません、バイクで来たんですが道がわからなくなってしまって。そのどちらに行けば町に出られるでしょうか?」
老婆は左の方を指さしました。
後日、何かお礼が出来ないかと思ってその辺りに行った事があります。
林道は黄色い帯があった辺りから草木が生い茂って通れなくなっていました。あの家に近い反対側の入口を探して、たぶんこの辺りと思う場所にも行きましたが、それらしい脇道はまったく見つからず、結局お婆さんの家も見つける事は出来ませんでした。
あの晩、私はあの家には泊まりませんでした。
でも、
――あそこを通った他のライダーはどうだったのだろう?――
そう考えると、二十年以上経った今でも時々こうして気になってしまうのです。
誰か他に、あの道を通った方はいらっしゃいませんか?
2022年、著者
美嬢苑 ーびじょうえんー 岩と氷 @iwatokori
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